ご案内「インドツアー報告会&忘年会」

皆さま

今年も早いもので、師走も目の前に迫ってまいりました。

プレクシャ・インドツアーは大変充実した旅だったようです。

今年最後の西池袋のプレクシャクラスでは、坂本先生の瞑想クラス、合宿、インドツアーでご縁のあった方々と合同で忘年会をおこないます。

瞑想クラスとインドツアー報告会&忘年会の2部制とし、いつもより早めに瞑想クラスを行いますが、報告会と忘年会だけのご参加もOKですので、お時間にご都合のつくほうをお選びください。

なお、2部の会場はそのまま瞑想会場のHiraya・平舎で行います。

日程:12月20日(木)

時間:
18:00~19:00 瞑想 特別講座 参加費1000円
19:00~21:00 インドツアー報告会&忘年会

(インド・ベジお弁当 1000円~1500円程度、飲み物は各自持ち寄りでご持参ください。ソフトドリンクorアルコールなんでもOK)

1年を振り返りつつ、インドツアーのお話を伺ったり、親交を深めましょう。

ご参加をご希望の方は、担当:伊東真知子(machiko@kej.biglobe.ne.j)へ12月15日(土)までにご連絡をください。

皆様のご参加をお待ちしております。

コラム:虫たちのこと

プレクシャ・メディテーションの終わりに、「自分の内側に真実を探しましょう。そして全ての生きもの達と仲良くしましょう。」と毎回唱えている。全ての生きものには当然害虫も含まれる。果たして私は害虫と仲良く出来るのか考えてみた。

家内も子供たちもあまり虫が好きでない。嫌いなので見ることも触ることも嫌がる。私の家族は、子供が好きなカブトムシやトンボもあまり好きではないらしい。私は子供のころから虫に親しんでいるのでどんな虫でも特に嫌いではない。ヤンマやカブトムシ、玉虫、カミキリムシ、トノサマバッタなどは子供のころ良く捕まえて遊んだので好きな虫である。子供のころ稲田でイナゴの大群をみた思い出がある。沢山捕まえたイナゴをどうしたか覚えていないが佃煮にして食べたのかもしれない。

小学生のころ夏の終わりに、ある日突然、家の周りに無数の赤とんぼが飛び回っていた。母親に針に糸を通してもらって虫網で捕まえた赤とんぼを針糸に刺して、赤とんぼのレイを作ったことがある。なんて残酷なと今の若者は思うだろう。私が子供だった頃はおもちゃがない時代だったから、遊びも自分で工夫しなければならなかった、虫たちは良い遊び相手だったのである。虫にしてみれば人間の子供は天敵だっただろう。

昆虫と虫は厳密には違う。昆虫の定義は動物界に属し節足動物門、昆虫網に分類される。節足動物門とは外骨格、つまり鎧のような固い外皮でその中に筋肉が詰まっているものをいう。エビやカニやダンゴ虫のようなものを思い浮かべればよい。それに対し、脊椎動物は部分部分の中心に骨が通っていて、その周りに筋肉がついているので、体のつくりが全く違う。昆虫は大まかに頭部と胸部と腹部で
体が出来ている。頭部は食べ物をとるための機能が集まっている。そこには目(複眼と単眼)があり、触覚があり、咀嚼のための口や吸引器が付いている。胸部は三節になっていて、そこに1対ずつ計6本の脚がある。腹部は10節に分かれていて、消化器や生殖、産卵、排泄の機能が詰まっている。昆虫の胸部には2対の翅があって99パーセントの昆虫は飛ぶことができる。飛べない昆虫は少数派である。また、昆虫の80パーセント以上が変態する。変態とは幼虫から繭の時期を経て全く異なる成虫となる。完全変態(卵・幼虫・繭・成虫)繭(蛹)にならずに成虫になるものを不完全変態という。蝉やトンボ、カメムシなどは不完全変態である。蜘蛛は脚が8本で頭部と胸部が一体化しているので昆虫ではない。ムカデは各節に1対ずつ数十の足があるので昆虫ではない。その他にダンゴ虫、ヤスデ、ダニ、サソリが昆虫でない虫である。

私も昆虫に含まれない虫はあまり好きではない。昆虫も2、3匹と少なければ不快ではないけど大群になるととても不快感が起こる。季節感がはっきりしていて、自然環境が豊かな只見は当然昆虫が多い。只見で毎年、大量発生して暮らしに影響を与えているものにメジロアブとカメムシがいる。カメムシは卵から幼虫になり蛹や繭にならずにそのまま成虫になる。カメムシは夏に成虫になり、秋の晴れた日に越冬のために大挙して人家に入ってくる。壁や網戸の隙間から侵入して、さらに押入れの中、布団や毛布などの隙間に潜り込む。本を取り出そうとすると本棚の奥に数十匹のカメムシが身を寄せ合って潜んでいることもある。そのままにしておいても害を及ぼすことはないのだけれど、触ると臭いので、許せなくてつい外へ掃きだしてしまう。カメムシは10月中旬ごろ人家に入り、越冬して5月の中旬温かく晴れた日に戸外に飛び出していく生態をもっている。体力を使い切って越冬できなかったものはカラカラに乾燥してミイラになって、ちょっと触れるだけで粉々になる。カメムシは危険を感じるととても臭い体液を放出する。カメムシの体液がちょっとでもかかると食べ物はまずくなってとても食べられたものではない。メジロアブは8月の中旬に水のきれいな渓流に大量に出現して、人間をこまらせる。里にも出てきて噛みつかれるととても痛い。昆虫にたいして完全なる非暴力を実践するなら、やはり、人間生活に多大な影響を及ぼす昆虫の生息域に居住しないことである。また、害虫被害で困る農業にも従事しないことが良いこととなる。魂の輪廻転生を信じるジャイナ教徒は何が何でも絶対に非暴力を貫くことを義務づけられている。非暴力は不合理でも絶対的なものであり妥協は全く許されず完全に履行されなければならないのである。昆虫を殺すことなどもってのほか、いじめることすらしない。鳥インフルエンザに罹った鳥を全て殺処分することなどジャイナ教徒には考えられないことなのだ。

昆虫は子孫を残すことだけが生きる目的である。そのために生まれて死ぬ。人間のように脳が発達していないので、考えることなく、刺激と反応系が直接つながって行動している。体が小さいので重力の影響が少ないから、ハエなど敏捷なものや蚤などは跳躍能力に優れている。昆虫は生きている機械と言ってもよい存在に思える。これから人間はさまざまな用途で昆虫型ロボットを作るに違いない。

カメムシを愛することが出来るようにと、いろいろ観察しているうちに、ふとあることに気づいた。カメムシを上からよく見ると6角形の形に見える。そして昆虫の脚が6脚だということが、バクテリア・ファージと呼ばれる細菌ウイルスの姿に共通性があるのではないかと思った。

ウイルスは鉱物特有の結晶の側面があり、細胞がないので生物とはいいがたいが、自己増殖するので一応生物としてみなされている。ウイルスの一種、バクテリア・ファージは細菌に感染し菌体を溶かして増殖する。バクテリア・ファージは機械的な6角形構造をしていて6脚の足がある。カメムシに良く似ている。カメムシは植物の栄養素をストローのような口で吸引しているが、バクテリア・ファージは脚のような尾部からRNAを細胞に注入する。侵入したRNA(リボ核酸)は細胞内で自分のコピーをどんどん作り出す。作り出されたウイルスの構造物は外に飛び出し、また別の細胞に侵入する。細菌ウイルスの6角形構造物は昆虫の外骨格に極めて構造が似ているようにおもう。

ウイルスも昆虫も生きる目的は自分の遺伝子を存続させることだけである。ホモサピエンス・人類の歴史は16万年前からであるといわれる。人類は地上に栄し大都会を築き、今では地球は人類の惑星といった位置を占めているけれど、地球が人類の惑星となったのはたかだか近、数百年に過ぎない。昆虫の出現は4億年以上前のことである。植物が地上に進出した初期段階で昆虫が登場したのだと思う。その時、宇宙空間から生命と鉱物の中間であるウイルスが胞子のように地上に降り注ぎ昆虫誕生に影響を及ぼしたのではないかと私は考えている。鳥や翼竜よりもずっと以前、昆虫が地上の生き物として最初に空を飛行したのである。その飛行能力によって、広く生育域を拡大し、環境に適応して生き残るために様々に工夫、進化した結果、今では1000万種以上に分化している。たった一つの種である人類が滅亡しても地球はさまざまな昆虫の惑星であり続けるだろう。

日本のカメムシだけで55科に分類され1000種以上に上る。我々の遺伝子をさかのぼれば昆虫からさらに先まで、魂の輪廻転生を遡れば昆虫として過ごした時もあったのかもしれない。昆虫の生態を観察すれば、昆虫もかくありたいと意志をもって生きていることは間違いない。カメムシの身になっていろいろ考えれば、仲間のような親しい感情が起こってくるのである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/1月第68号からの転載です)

コラム:皮膚と触覚と意識について

人間は他から侵害されたくない境界を持っている。集団としての国は国境を設け、小集団では砦や城に堀をめぐらし、町村境を設けて自らの権益を守ってきた。家族として家を構え塀や外壁で外と内を区別している。生物の個体である自己と世界の境界は樹皮や皮膚である。皮膚の内側が自己で外側が他物すなわち世界である。人間は触覚、味覚、視覚、聴覚、嗅覚の五感によって外側の世界を探っている。味覚、視覚、聴覚、嗅覚は特別につくられた特殊感覚器官と呼ぶべきもので、舌、目、耳、鼻がその役割を担っている。触覚は皮膚表面だけでなく内臓諸器官にもそのセンサー機能がある基本的な感覚神経である。舌、目、耳、鼻の感覚受容器にも触覚が備わっていることに注目したい。

植物は舌、目、耳、鼻を持っていないが、触られたことがわかる触覚を持っている。根や樹皮、葉に存在する特殊な感知器で光や温度、水の存在を感じることができる。植物は一感しか持っていないが、その一感が触覚であることは注目すべきところである。地球上に生息する全ての生き物(植物を含めて)には触覚が備わっている。触覚が受け取っている感覚こそ自己が外界を知り、自己を守り、生存し、子孫を残すための根源的な感覚なのだ。生まれて間もないころの人間の子供を観察してみると、主に触覚で環境や世界を把握しようとしていることがわかる。

人間でいえば、自己と世界の境界は皮膚である。皮膚の表面には外界(自己以外のもの)を探るセンサー機能が備えられている。皮膚は触覚の感覚器の役割を担っている。皮膚が感じることが出来る刺激は、触られている(触覚)、押される(圧覚)、痛み(痛覚)、かゆみ(痒覚)、温かさ(温覚)、冷たさ(冷覚)の6種の刺激である。それぞれを圧点、痛点、温点、冷点が対応している。皮膚表面の触覚は重さ軽さ、温かさ冷たさ、固さ柔らかさ、ザラザラ・つるつるなどであり、これらの感覚は好き嫌いの感情を招来し、心に影響を与えている。例えば、初対面の人を堅い椅子に座らせると相手は座らせた人を固い奴だとおもう。自動車の販売デーラーは顧客を固い椅子に座らせると値引きされないで済む。

PRESSURE(圧)、TOUCH(触)、VIBRATION(振動)、TICKLE(くすぐったさ)などの感覚を生理学用語で機械的感覚という。機械的感覚の受容器は指先と口唇に多数分布していて、上腕、大腿上部、背部には少ない。肌があう肌が合わないなどというように、触覚は人間にとって究極のコミュニケーションの手段でもあり、触ってみなければ解らないというように、美術品や骨董品など見た目の印象と実際触れて感じたものでは違うことが多い。インターネットで画像だけ見て商品を購入して失敗するのも実際手に取って触らなかったからだ。

人間の皮膚の総面積は約1.6平方メートルでおおよそ畳一畳分に相当する。皮膚の表面には1平方センチメートルあたり触点が25個、痛点が100~200個、温点が0~3個、冷点が6~23個分布している。全皮膚表面には200~300万の痛点があり、侵略刺激を受けて反応する。皮膚や粘膜に分布する3万点の温点が温度に反応している。触点や痛点などの下には各種の感覚受容器があって、それら受容器はそれぞれ固有の刺激に反応するようになっている。受容器が受けた反応・興奮は1次知覚神経によって伝達され脊髄を上行して視床で中継され頭頂葉の体性感覚野に到達する。体性感覚野には体の各部についての情報を取り扱うもののほかに触れる対象の特徴を取り出せるようなニューロンがある。それらは、硬いものに触れたときのみ反応したり、ザラザラしたものに触れたときのみ反応するもの、角のあるものに触れたときのみ反応するものがある。体性感覚野でこれらの情報が統合されて能動的に獲得する感覚をもっている。

意識とは考えることであり感じることも含んでいる。心を意識と言い換えてもよい。知覚とは考えることではなく感じることである。感覚と知覚の違いは感覚が観られる対象であり、知覚は観る主体者の意識的な心である。熱いものに触れたとき皮膚の温度受容体が作動し、電気信号として神経を通じて脊髄に到達する。その時パッと手を離す行為が脊髄反射として起こる。これが感覚である。このとき脳によって知覚されたわけではない。知覚とは情報が大脳皮質の皮膚の感覚に対応する場所にとどいて「熱いと」感じることをいう。知覚には脳による意識が必要である。脳のない生物は植物であれ、ゾウリムシやクラゲ、ウニなどは感覚機能は持っているが知覚機能をもっていない。熟睡しているときに、誰かに触られても感覚機能は作動しているが知覚されているわけではない。知覚には脳による意識の働きが必要である。睡眠は脳の働きの休眠状態なので、知覚することができなくなる。より良い瞑想は意識がはっきりしていなければならない。脳が感じようとして鋭敏に働いていなければならない。

人間には特殊感覚器官である舌、目、耳、鼻の他に触覚として身体の内側と外側からの刺激信号をとらえて、中枢神経系に伝える働きをもった受容器(感覚器)が皮膚の表面だけでなく、身体の全ての組織に存在している。これらの感覚系を生理学で体性・内臓感覚という。体性感覚は皮膚の表面で感じる感覚の他、皮下の筋肉や腱、関節などの受容器が内部感覚(深部感覚)としても感じている。それから胃、腸、肝臓、肺、心臓などの内臓は内臓感覚をもっている。

人間が生きているとは、「生体を成長させ維持し動かすために外部からエネルギーを取り込み、呼吸が継続し血液が流れ、神経系を電磁気的な信号が途切れなく伝わっていき、その流れによってさまざまな身体組織と臓器に感覚が起こっていて、生起している感覚の粗雑なものから精妙なものまで、意識的なレヴェルから無意識レヴェルまで」、中枢神経系がさまざまな身体感覚を感じとって、それに対応して命を守るために、身体が健全に動くように、適切な指令を身体各部に発信していることをいう。

粗雑な感覚から精妙な感覚まで、我々は瞬間瞬間に生起する全触覚情報の数千万分の一しか知覚できていない。知覚できない情報は全て無意識情報になっている。その無意識情報が潜在意識化して我々の思考や行動に莫大な影響を及ぼしているのである。プレクシャ・メディテーションは知覚することが難しいレヴェルの精妙な感覚を、訓練によって知覚できるようになることを目指している。その達成によって我々は深いレヴェルの自己認識に到達する。

皮膚の表面は自己と世界の境界になっているので、自己防衛のための兵士がたくさん存在する場所である。その兵士が触覚器である。皮膚はアンテナのようにセンサーとして働き、とても鋭敏である。そのような鋭敏な皮膚表面に感じようとする心を向けるとき、高い集中力によって見逃していた精妙な感覚を知覚することができる。最も高度なダラーナ(集中のテクニック)は身体内部の精妙な感覚の知覚である。これをヴィパッサナーといい、プレクシャという。好き嫌い、良い悪いの判断を手放してありのままに感じ観察することを意味する。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2016/12月第67号からの転載です)

コラム:カルマヨギ・二宮金次郎

自己探求に偏りしすぎると宗教は理想主義の傾向が強くなり、社会救済を重視すると宗教は現実主義、実用主義化する。宗教の理想は理想主義と現実主義がフィフティ、フィフティに調和されたものが私は望ましい宗教だと考えている。自己探求とは皮膚の内側に深く潜っていって真実の自己を見つけることである。それがメディテーション(瞑想)である。瞑想によって「自分だと思っていたことが自分ではないとわかる」。真実の自己は神であるとの悟りを得ることができる。社会救済は愛、慈悲、菩薩行の実践である。社会救済は皮膚の外側に自己を拡大していく行為であるということができる。社会救済、菩薩行、奉仕行によって「自分ではないと思っていたことが全て自分だとわかる」。菩薩行の実践によって、全てのものとの融合、宇宙との合一、神との合一が達成される。 沖正弘先生はそのことを真智聖愛と言った。真智が自己探求、聖愛が菩薩行、二つ合わせたものが沖ヨガ行法でそれを冥想行法と呼んだ。自己探求だけの意味の瞑想でなく、沖ヨガは社会救済を含む意味の冥想行法と表現して両者を区別したのである。

2600年前のインドは多くの出家僧が瞑想と苦行に取り組んでいた。当時のシュラマナ系宗教は自己探求とカルマの解消、輪廻からの離脱にばかり目が向いて理想主義、厳格主義に傾いていた。そのシュラマナ系宗教に対し、実用主義、現実主義をとってシュラマナ系宗教を改革したのが仏陀だと私は考えている。仏陀が現実主義(中道の教え)をとったため、厳しかった戒律が、後に仏教徒によってだんだん戒律の数が増えていったのに反比例して安易なものになってしまった。古代のシュラマナ系宗教の姿を今にとどめるジャイナ教は、魂の存在を認め、非暴力、不殺生、無所有、無執着の戒律を、不合理でも現実離れしていても何が何でも変更せずに堅持した。ジャイナ教が理想主義で仏教が現実主義といってもよい。どちらが優れているかという問題ではなく、どちらをより重視しているかの違いなのだ。

ヨガの部門は72部門あると言われている。その中で主要なものはバガバッドギータに説かれているジュニヤーナヨガ、カルマヨガ、バクティヨガである。バクティヨガは信仰のヨガで全てに神を見ることで救い、救われを目指している。ジュニヤーナヨガは自己探求の瞑想ヨガであり、カルマヨガが生活や仕事を通じて社会救済をする菩薩行ヨガである。

カルマヨガとは何か、カルマとは日本語で業という意味である。業とは因縁果のことであり因果律のことをいう。全てのものごとには起こってくる原因があり、原因と縁なくして結果はおこらないという考え方のことをいう。幸せになりたかったら幸せになるための行為をしなさいという実践である。それが社会奉仕行、社会救済行である。仕事を通じ生活を通じて世のため人のためになる奉仕行の実践がカルマヨガである。カルマヨガを実践したカルマヨギを思うとき、私の頭に真っ先に思い浮かぶのは日本の偉大なるカルマヨギ・二宮金次郎である。江戸時代後期から幕末にかけて日本はキラ星のごとく幾多の精神性の高い人々を輩出した。武士階級だけでなく庶民階級からも優れた人物が現れた。心学という道徳を教えた石田梅岩であり、船乗りの高田屋嘉兵衛や百姓出の二宮金次郎もその一人である。

キリストや仏陀、親鸞、道元などすぐれた宗教的指導者になった人は、子供のころ父や母を亡くした例が多い。江戸時代後期小田原藩の百姓として生まれた二宮金次郎も14歳で父を亡くし、16歳で母を亡くし、貧困という苦難に直面している。そうした困難の中から世のため人のためになるという覚悟が生じてきたのだから菩薩の出現と言ってもよい。金次郎は一般的に思想家、道徳家、農村指導者というイメージで見られているが、大実業家であり現実的な商人、大政治家、社会革命家などの側面をもっていて、一言では表現できない偉大な人物である。身分制度が厳しかった江戸時代、百姓から武士に取り立てられ、財政難に窮した各藩の改革を任せられ、それを見事にやり遂げていることに驚き
を禁じ得ない。

私が小学生だった時代、浦安小学校にも薪を背負って読書しながら歩く二宮金次郎の石像が校庭の片隅にあった。努力と勤勉という道徳を教えていたのである。二宮金次郎は理屈でなく実践で社会を向上させ多くの人々を幸せにした。金次郎は徹底的な現実主義者、実用主義者だった。自然を良く観察し自然から学び自分の体験を通して自分の思想を作り上げた人だった。私が金次郎を偉大なるカルマヨギであるとする根拠は、日々の生活と実践を通じて無私の立場で社会貢献をなした点を評価している。彼が亡くなった時、家も土地もお金も残さなかった。すべてを他に捧げたのである。他に譲ることを金次郎は推譲(スイジョウ)といった。金次郎の教えを要約すると、天地自然の恵み、社会の恩恵、父母祖先のおかげに報いるために徳行、報恩、感謝、積善をもってする実践の道であるといえる。人間が働くのは、ただ自分の為に働くのではなく、他の命のために働かねばならぬということであり、これを金次郎は「報徳」といった。私が金次郎を素晴らしいと思うのは、人間の道と天の道は違うと説いていることにある。「天の道は自然法則だから稲や雑草に善悪はない。自然法則だけに任せると荒地になってしまう。人の道は自然法則に従うけれども雑草を悪とし、稲や麦を善とする。人間にとって便利なものが善、不便なものが悪と考える。この点で天の道(自然法則)と人間の正しい生き方は少し違う。人の道は天の道に任せておくとたちまち廃れてしまう、行われなくなってしまう。」自然法則に従うだけの理想主義ではなく、あくまで人間の生き方を現実主義、実用主義としてとらえているのである。

金次郎は小さなことをこつこつ積み上げることを大事にした「積小為大の理法」。金次郎は善悪、強弱、遠近、貧富、苦楽、禍福、寒暑など互いに対立しているものを一つの円の中に入れ、常に総合的に物事を判断していた。因果律を重視して積善を唱えた。万物は一つも同じところに止まっておらず、四季が循環するのと同じで陰極まれば一陽来復、厳冬だからこそもうすぐ春がそこに来ているのだと苦難に悩んでいる人を鼓舞した。天地の間で万物の道理は皆同じである。善の種を撒いて悪の実がなることはない。悪の実がなったのは悪の種を撒いたからである。困窮はその人自身の因果の上に成り立っている。他から救助の手をさしのべる方法はない。本人の気づきが大事といった。本人がそのことに気づくようにして、それに気づけば惜しげもなく援助の手をさしのべたのである。

日本が生んだ偉大なるカルマヨギ・二宮金次郎のことをもう少し知りたい人は、三戸岡道夫著『二宮金次郎の一生』(平成14年6月、栄光出版社刊)、及び現代語抄訳『二宮翁夜話』(2005年2月、PHP研究所刊)を読まれることを勧めます。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/11月第66号からの転載です)