ジャイナ教の昔話その8:Uである私たち(まつい ちえこ)

インドの神話では空(くう)の世界に最初の揺らぎ=バイブレーションOMが現れ、すかさず「それで?」を表す音(振動)が生まれたと言います。

聖なる振動OMは永遠に止むことなく「それで?」が永遠に続き、繰り返されます。

何かが終わっても、それは違うものの始まりであり、常に「それで?」あるいは「それから?」が続くのです。

最初の揺らぎ、バイブレーションは超微細次元の粒子U=無数の煌めきの素となり広がっていきます。

揺らぎは膨張を生み、無数の粒子Uはその一つ一つの内に宇宙(空)を含んだまま集まり、粗雑な世界の構成単位になっていきます。

Uの集合体がさらに集まり、物質世界が生まれました。

Uが宇宙のバイブレーションから発し、宇宙を含んでいるとすれば「全てがUでできていて、全てが宇宙そのものである」ということになります。

もちろん私たちもUの集合体で、なおかつ宇宙に満ちているUに囲まれています。

Uは純粋なものですが、各集合体(個我)は重ねた経験により性格を帯びてきます。

「水が砂糖で甘くなっても、苦いお茶になっても、コーヒーとして香りや色がついても水は水。

同じ水が違ってくるのは加えられたものの違いだけ。

純粋な魂は同じだが、様々なものが付いて個性別になった」とプレクシャ瞑想の坂本知忠先生は例をあげてジャイナ教で[ドラビア・アートマン]と呼ばれる純粋な魂、それに汚れが付いて個性別になった[パーバ・アートマン]の違いを説明されています。

元は同じU であっても、個別の性格を帯びた私たち(Uの集合体)は自分の波動に似たUの粒を空中からひきつけています。

元気な人がより元気になり、そうでない人がより消極的になっていくことが多い理由の一つがここにあります。

確かに「類は友を呼ぶ」のです。

Uを直接語っているわけではありませんが「思い」が経験を引き寄せたお話をおひとつどうぞ。

****お話・その8・学者僧 (ジャイナ教の絵本から)****

あるところに賢い兄と愚鈍な弟がいました。 

二人はアチャリアのもとで出家しました。

兄は立派な学者僧になり、沢山の弟子に囲まれました。

弟子の教育の他、次から次へと訪問者が来るので休む暇もありません。

一方、弟のところには訪れる人もありません。

昼寝をしている弟を見て、兄は思いました。

「のんびり暮らせる弟は幸せだ。私はこんなに忙しくて幸せだと言えるのだろうか。勉学に励んだことは良かったのだろうか」。

ふと起こったこの気持ちは、繰り返し彼の心に湧きました。

その思いを重ねることで兄にカルマができていきました。

兄は学者僧としての人生を終えると天上界に転生しました。

天上界の後は人間に生まれ、再び出家して新しいアチャリアから聖典を教わるようになりました。

アチャリアは三つの聖典を覚えるように言いましたが、三つ目がどうしても覚えられません。

知識を阻害するカルマが働いていたのです。

彼は断食を始めました。

真摯な長い断食によってカルマが浄化されただけでなく、彼の内なる知識の力も表に出てきました。

覚えられなかった第三聖典だけでなく、他の多くの聖典を学ぶことができるようになりました。

単に学び、教えるだけでは、自尊心のもとになってしまう、悟りに向かうために学ぶのだと真から理解しました。

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(思っていることがそれに「ふさわしいもの」を引き付けている、とこのお話は伝えているのだと思います。沖ヨガ行持集にも後天的な業とは「習慣、癖、記憶の内容」であると書かれています。胃袋の話でも出ましたが、他を羨む傾向のある私たちへの警鐘も含んでいるように思います。

ジャイナ教の昔話その7:包まれている本当の自分・輪廻するのはだれ?(まつい ちえこ)

「肉体を自分だと感じ、大切にすること」は生物として命を守るために必要でありましょう。 
その肉体に包まれているものがいわゆる魂で、肉体は儚いが魂は死なないというのが輪廻転生観のもとになっています。
肉体は食物鞘と呼ばれたりしますが、肉体と魂は鞘と刀身のようにスッパっと別れているわけではないといいます。

前世の身体的特徴が転生後に表れている例をエドガー・ケ-シーも報告しています。
肉体的意識の強さ、潜在意識まで染めた愛憎、強烈な体験の印象などは、転生後の身体&精神的傾向にも影響するようです。

肉体から魂に戻る為には人生を生き切らなくてはいけません。

「心が自分だと思うこと」も自然なことで精神的成長に役立つ概念です。
しかし、魂は転生の度に違う感性を味わったことも知っています。
一生においても心はコロコロ変わります。
どれが私の心なのでしょう。

ともかく、私の、とついたモノは私ではないのです。
私の家族も私の友も私ではありません。
私の体も私の心すら私ではないのです。

私たちは肉体を脱いだ時に自分は魂であったこと、肉体は本当の自分では無かった事を知り、肉体に縛られている間には味わえなかった自由を満喫します。
そして心ですら本当の自分ではないことを理解した魂は、その魂を超えた大きな自由があることを知り、本当の自分=真我に戻りたいと願います。

真我に戻る為には魂として生き切らなくてはなりません。

魂は自らを成熟させて真我に戻りたいのです。
そのために転生していくのです。
自分を個我とならしめている迷いから抜け出す道を魂は歩んでいきます。

地球は宇宙の中では小学校だという例えもあります。
卒業したら中学星に進学するのでしょうか。
その見方で行くと、大学院星を卒業して、地球に教師として赴任されたのが聖人なのかもしれません。

地球は他の星の天国(地獄)だと観るのも面白いです。
「昇天(昇地球)したい」と徳を積む下位星人にとって地球は天上界です。
「悪いことをすると地球に落ちますよ」と諭される上位星人がいるかもしれません。
多次元世界に全てがパラレルで存在するとしたら可能性はありそうです。

地球上に天国と地獄が既にあるとみることもできます。
豊かで安楽に暮らしながら疑獄の苦しみを味わう方、地獄のような環境で天国の愛を体現する方もいます。

今ここ、この一瞬に全てがあるとも言えます。

そして小学生の命と大学生のそれが同等なように、熟成度が違っても夫々が大切な命なのです。

私たちはどの段階にいるのかわかりませんが、全ての魂は卒業して宇宙に還るのです。
何時どのようにしてかの説明は多種にわたりますが「人は悟り(真我)に戻る」と多くの聖典にあります。

「神のもとに集う」「人は神(仏)の似姿である」を意味する表現も多くの聖典に共通してみられます。
「何かを知るということは、思い出すということなのだ」とプラトンも言っていますが、
真我に戻ったとき自分は宇宙と一体であることを思い出すのでしょう。

ここで一休み。短いお話です


****お話・その7・誰かがズルしている?(出典不明)****

ある日、目が言いました「私が見つけた食べ物を手が取ってしまうのはずるいのではないか?」。
手が言いました「私が運んだものを、口が取ってしまうのはずるいのではないか?」。
口が言いました「私が噛んだものを胃が取ってしまう。一番ずるいのは胃だ」。
皆は、食べ物を独り占めしている胃のために働くのをやめようと決めました。

暫くのんびりと過ごしていましたが、目がしょぼしょぼしてきました。
手にも力が入りません。口もおしゃべりが面倒です。
それまで黙っていた胃が言いました「断食してくれてありがとう。
皆さんの栄養のためにずっと働いてきたので、良いお休みをいただきました」と。

色々な解釈ができるお話ではあります。

ジャイナ教の昔話その6:人間の輪廻(まつい ちえこ)

3次元で一つの命が終わると、粗雑な塊・肉体を構成していたUは結合を解き、新しい集合体の素になっていきます。
本能のみで生きた生物や目覚めていなかった意識は直に、あるいは時間をかけて自然界に戻ります。

人間の意識(微細な活動領域のU集合体)は、それを包んでいた肉体が消えた後もそのまま留まります。
魂と呼ばれるその集合体は内に真我(宇宙)を包んだまま、自分に近いエネルギーに引きつけられていきます。
その行先は『自業自得』の法則により自動的に決定されます。

地獄・極楽と言いますが、与えられた賞罰ではなく、自分にあったところに自ら引きつけられていくのです。
因果応報は『類は友を呼ぶ』という法則にもつながります。
スエーデンボルグが「好んで地獄に行く魂がある」と言っているのは「同じ業の仲間のいる処にひかれる」ということでしょう。
業の重いものが集まったところが地獄になっていくようです。

転生は時代など3次元世界の流れに影響される事もありますが自分で選ぶのが基本だと思っています。
「それなら楽な方が良いに決まっている。厳しい人生など選ぶはずが無い」
と思うのは、肉体を持っているからです。

微細なエネルギーだけになった魂は、粗雑な肉体が要求する条件には無頓着で、
純粋に自分が体験したいことだけを求めて転生します。

現世でも、怠け心を律して勉学に励むこともあるし、自ら厳しいトレーニングをすることもあります。
自分の為です。
努力は喜びでもあります。

本当の喜びは何なのかを知っている魂は、高みを目指し、肉体や精神の苦痛に頓着せず次に進もうとします。
前世を償う一生も有るかも知れませんが、それも自分の選択です。罰ではありません。

カルマには利子が付くといいます。
重くなった業・カルマは大きな荷物を担いでいるのと一緒です。
自由な動きを妨げる業を早く返済するために、難しい人生にチャレンジすることも有るでしょう。
自らの進歩のためだけでなく、人間全体の為に、あえて辛い体験を選ぶ勇敢な魂もあるようです。

また『強く願ったことは実現する』という法則も働きます。

愛した芸術や身に着けた能力をもっと味わいたいと願えば、それを深める転生となります。
それを繰り返すと天才として産まれるでしょう。

今生で花開いても開かなくても体験や努力は貯蓄となり、次生での個性や境遇に影響します。
踊れないまま舞踏への愛を忘れず生き抜いた人がダンサーの家系に転生する、ということもありそうです。
 
蓄積を増やして好きな事を伸ばすのは、得意科目を追求して完成を目指す転生です。

逆に自分に足りない事を学ぶ転生や、未体験ゾーンを選ぶ魂も有りましょう。
「不得意科目の習得」が成長のチャンスになるからです。
人種、健弱、性別など肉体的なことから
貧富、身分、文化、体制など社会的な環境、その他、違う立場を生きる事で幅広く学ぶのです。

肉体として生きる悲痛もあり、輪廻は苦しみが強調されがちですがワクワクする冒険でもあります。

「私たちはこの世を観に、聞きに生まれてきました」は小説「あん」、
「この世に遠足に来ている」の一行は桜沢如一氏の著作にありました。

メーテルリンクの「青い鳥」では、これから生まれる子どもたちが、
次の人生の計画を病気や悲劇的な事まで楽しげに、誇らしげに語り合っています。

どれも様々な体験をしたいという魂の願いを直観的に表現しているように思います。

良し悪しを判じる向きもありますが「業」に区別はありません。
蒔いた種の芽が出るのです。
どう育てるかは今生の自分次第です。

他の生き物は本能に従って生きていきますが、人間だけは自分の生き方を自分で決められるのだといいます。
「自己責任」という立場は、前世の負債だと今の状態をあきらめることでも、
来世へ繋ぐために今生の喜びを享受しないことでもなく、
精いっぱい生きて命を使い切ることだと思います。

ジャイナ教の絵本には戒律を守るために死んでしまうお坊さんの話がいくつもあります。
命の使い方の一つなのかもしれませんが、私にはまだ理解できません。
そんなお話をひとつ。

****お話6・戒律(ジャイナ教の絵本より編集)****

2500年ほど前のお話です。
 
ラジェグリハという街でチャトラマス・雨季の滞在をしていたアチャリアのもとに、仲の良い四人の若者が使徒になりたいとやってきました。
四人は僧になり、そろって戒律を授かりました。

ある寒い日のことです。
第三時間になってから、四人はそれぞれ別の方向へ托鉢に出かけました。

ジャイナ教の僧は一日を4つの時間帯に分けて、
それぞれの間にしなくてはいけないこと、
してはいけないことが決められていました。

四人は施しを受けることができないまま、さまよっているうちに、
動き回ってはいけない第四時間になってしまいました。

若い僧たちは戒律通り動くことをやめ、
一人は洞窟の入り口で、二人目は公園の中で、
三人目は公園の外で、四人目は街の外側で、
それぞれカヨーサグに入りました。

仲間と離れている寂しさも空腹も彼らの邪魔をすることはありませんでした。

その日は本当に冷え込み、凍るような風も吹きました。
僧たちは一人、また一人とその命を失っていきました。

翌日、四人の訃報が伝えられました。

「彼らは避難所へ移動して、自分たちの命を守ることもできたのではないでしょうか? 
なぜ戻ろうともしなかったのでしょうか?」と、ある人がアチャリアに聞きました。

「ジャイナ教の正聖典であるアガムスの教えには
『どのような状態においても、結果がどのようであっても、
心穏やかに耐えること』と最初にあります。
僧侶の一番の目的は命をかけてでも解脱することにあるので、
彼らは戒律を守ったのです」とアチャリアは答えました。

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キリスト教でも聖人と呼ばれる殉教者が多数います。
このお話は死ぬことを肯定しているようにも読めますが
今生以上に大切なモノがあるとする世界観で見ると別の味わいがあるかもしれません。

ジャイナ教の昔話その5:トリビア&疑心暗鬼(まつい ちえこ)

人間以外が教えてくれるトリビア

広い海で自然生活をしている海洋生物にもそれなりに悩みはあるのでしょうか。

蛸はストレスが高じると自分の脚を齧ってしまうことがあるそうです。

タコの脚は敵に襲われるなどして失っても、再生するそうですが、自分で食べた脚は生えてこないそうです。

外部からの傷は癒されても、自ら作った損傷は残る・・・何かを教えてくれているように思います。

人間は他から受けた小さな傷を自分で大きくしてしまうことすらあります。

楽しくない気持ちを反芻している時は、自分で脚をかじっているのかもしれません。

酢蛸を食べながら自省しました・・・(美味しかったです)

 

****お話・5・疑心暗鬼 (ジャイナ教の絵本より編集) ****

藩王ウダアイはシンデユ(SindhuSauveer)を治めていました。

妃のプラブハヴァティは亡くなりましたが、生前の深い信仰のおかげで女神に転生していました。 

女神は、王がジャイナ教の学びを深めるように見守っていました。

王の最大の願いはマハビーラ様の説法にあずかることでしたが、その願いが叶いました。

尊師がシンデユを訪れ、教えを説いて下さったのです。

深く心を動かされた王は出家することに決めました。

ウダアイの出家に当たり、王子・アブヒッチが王位を継ぐと思われていました。

ところが「王権のような世俗的力を持つことは地獄への入り口だ」とウダアイは思っていました。

王妃の忘れ形見である王子を地獄に送り込むに忍びないと考えた王は、甥のケシを跡継ぎに指名しました。

それに納得のいかない者たちが、王子をけしかけて反旗を翻すように勧めました。

お家騒動?も危ぶまれましたが、アブヒッチは、父王の決定に納得しないまでも争う気持ちを持ちませんでした。

彼はケシの臣下になることも嫌だったので、シンデユを去り、遠くの街チャムパプリに家族と共に移り住みました。

一方、僧になったウダアイは瞑想と平安の日々を過ごし、修行も深まっていきました。

そして彼の心に、精神世界の喜びを故郷の人々にも伝えたいという願いが生まれました。

ウダアイは尊師の許しを受けて、一人旅を始め、シンデユにたどり着くと、郊外の公園に滞在しはじめました。

すると、その徳を慕って沢山の人が公園に集まりました。

その僧がウダアイだと知ったケシは、彼が王位を取り戻しに来たのではないかと疑いを持ちました。

王の権力に酔いしれたケシは宗教心を忘れてしまったのです。

彼は

「ウダアイを公園に滞在させてはいけない」

「ウダアイに食事を施してはいけない」

「ウダアイに宿を提供してはいけない。」とお触れを出し、

「違反した者は財産没収の上、追放する」と付け加えました。

ウダアイは公園を出て街を彷徨いましたが、ケシ王を恐れた人々は布施をしません。

疲れきった僧が街はずれの陶工の家の前に立っていると、女が出てきて

「ここで待っていてください。夫に頼んできますから」と言いました。

女は仕事場に走っていき、夫に僧を供養したいと頼みました。

彼はケシ王を恐ろしく思いましたが、妻の願いを無下にはしませんでした。

陶工夫妻はウダアイに宿と食事を捧げました。

それを知ったケシ王は、もはやウダアイを殺す以外にないと考えました。

ケシは策を練り、供養を装って毒入りの食事を施しました。

ウダアイはそれが毒であると知っていましたが、平常心をもって僧として戒律通りに食し、肉体を去ると同時に永遠の存在になりました。

その出来事は女神プラブハヴァティの知るところとなり、女神の怒りは炎となって、ケシの城下に下りました。

火は大いなる猛火となり、街中が崩れ落ちる勢いとなりました。

その中で、ウダアイを滞在させた家だけは少しの被害を受けることなく陶工夫妻は無事でありました。

***************

王の猜疑心が国に壊滅的なダメージを与えたお話です。

ケシ王は実際には無いことへのストレスに押しつぶされてしまったのです。

妄想に負けて自分の脚を食べつくしたと言えるでしょう。

ジャイナ教の昔話ではやたら詳しく地名が出てきたり、お話の流れに関係ない登場人物の出自まで説明されたりしています。

昔話というより実際に有った出来事や、実在人物の伝記と捉えられているのかも知れません。

地名や人名を全てご紹介してはいませんし、表記に誤りがあったとしたら私の責任です。

ちなみに、タコが自分をかじるのは空腹からだけではないようです。

水槽が狭かったり不快刺激を与えられたりしたタコは、十分な餌を貰っていても齧るといいます。

人間も不安感が多い時には注意が必要でしょう。

ウイルスという見えないモノに不安を掻き立てられながらの巣ごもり生活は動く物としての命、社会性を持つという人間としての自然の制限とも見えます。

それが漠然としたストレスとなっている時こそ

「外に行けないときは、自分の内を観るチャンス」という「瞑想の勧め」が光ります。

お話の紹介が、拙いながら何かのお役に立つことを願っています。

ジャイナ教の昔話その4:祈りについて(まつい ちえこ)

宇宙素粒子Uを引き付ける力は繰り返される想念で強められていきます。

意識する、しない、にかかわらず、集まってくるUの数や種類を決めているのは自分自身の生き方です
 
「自業自得」といえますが、人々や場所に影響を受けることもありましょう。

「朱に交われば赤くなる」というのも自然の理です。
 
聖地巡礼や徳人との交流を願う人が多いのは自然なことです。

古より人は土地のバイブレ-ションを感じ、Uの力が強い場所を選んで祈りや祭りを捧げてきました。

神社仏閣も気の良い場所が選ばれ、そこに祈りの力が加わったことで聖地となりました。
 
聖人の足に触れるインドの挨拶は尊敬を表すだけでなく、良いUをいただくという意味もあるように思えます。
 
マントラや祈りは繊細な力ですから、Uを集める方法として有効であり、想念を引き上げるだけでなく肉体にも影響を与えます。

祈ったことが成就したり、しなかったりするように思えても結果的には(真我にとって)良い結果が引き寄せられます。
 
気を付けたいのは自分以外の自然をゆがめる願いです。

具体的な目標を持つことは成功の秘訣でありますが自分の都合や欲望によって他者の自由を脅かすものだとしたら、それは祈りとは呼べないでしょう。
 
祈りの逆などはもってのほかです。

「他人を呪えば穴二つ」と言いますが、相手と自分に二つの穴(災い)を掘ることになり、その業・カルマは自分が引き受けるのです。
 
他者への祈りは「往復切符付き」なので、良いこともそうでないことも自分に戻ってくるのです。
 
そうは言っても、祈りは人の理解を超えたところにあります。

真摯な祈りで重篤者が回復した奇跡も多々あるというのに、届かぬ祈りに悲嘆する方もいます。

自分の願いと反することや突然の災いに「なぜ?」と嘆くのは万人共通でありましょう。

また、同じ出来事でまるっきり違う体験があるのはどうしてでしょう。

九死に一生を得た方や成功者は単にラッキーだったのでしょうか。

善人が苦しむ理不尽があるのはなぜなのでしょう。
 
偶然に振り回されるなら、人の思いには意味がないのでしょうか。

そのような人生の悲哀を受け入れ、疑問に答えようと信仰や哲学が出番を待っています。
 
すべて神仏の御心であると達観し、慈悲に自分をゆだねる他力と、自らの努力で道を究めていく自力のゴールはきっと同じでありましょう。

全ての中に救いがあるのだと達観した方には平安が訪れ、出来事を真に理解した方には悟りへの道が開かれる、どちらも最終的には至福に包まれる、とえられています。
 
そこへ至る道はいくつもあり、宗派によって違うマントラや祈りの儀式もあります。

優劣を論ずるより、自分に縁のあったものを正しく理解し、実践していくことが大切ではないかと思います。
 
「神の愛という海にたどり着く川はたくさんある」というスワミ・ヴィベカナンダの言葉は、宗的な諍いへの戒めになりましょう。
 
祈りでは義も形式もない素朴なものが成就し、貧者の一燈が輝くことがあります。

一方、者の儀式や真言に祖師の真や伝承の時間で熟成された力があることも確かです。
 
どちらにしても、宇宙の力と繋がったときに特別な力が働くのでしょう。

インドの神話には、ダルマ・法に則ることで力を得ている魔族までいます。

人間の善悪判断では理解できない宇宙の理があるようです。

それは法則的なもので、祈りは起動スイッチの一つであるのだと思っています。

今日は「祈り」が中心になった説話を紹介させていただきます。

インドで聞いた話ですが特定の宗にだけでなく、いくつかのバリエーションがありそうです。
 
*お話・その4ー幸せな男(語り部:サマニ・ジャイアットさん)
 
海辺に幸せな男が引っ越してきました。
夕刻が近づいたころ、男は一人で浜辺を歩きました。
振り返ると無人の砂浜に二人分の足跡がありました。
 
片方は自分の足跡。
もう一人分は神様のものだと気付いた男は、共に歩いてくださる至高の存在への感謝で心がいっぱいになりました。
その日から浜辺の祈りが彼の日課になりました。
砂浜にはいつも二人分の足跡がありました。
 
ある時、大きな問題がおこり、男は海辺で神の助けを求めました。
振り返っても足跡は一人分しかありませんでした。
神の不在に落胆した男は、家族を残して街へ働きに出ました。
 
孤独で苦しい日々を過ごし、やっと問題を解決した男は海辺の家に戻ってきました。
 
昔を思い出して一人、砂浜を歩くと二人分の足跡が残りました。
 
今になって存在を示した神への不信が湧きました。
「あなたは、なぜ苦しい時に、私の傍にいてくださらなかったのですか?」
 
本音を吐露する男の眼に、突然、数年前の自分の姿が映りました。
白く輝く存在が、ぼろぼろになった彼を背負っていたのです。
 
「砂浜にあったのは私の足跡ではなく、あなたのものだったのですね!」
男は感涙と共に叫びました。
 
順調な時は共に歩き、苦難の時は背負って進ませてくださるのが神だということ。
今までずっと神の愛に包まれていたこと、そして今も包まれていることを幸せな男は知りました。
 
********
(自然は何も隠していない…神を知る者はどこにでも愛を見ると言われています。同行二人…頭ではわかっていても…自分の幸福を本当に知っている人は少ないのかもしれませんね)

ジャイナ教の昔話その3:不安な時(まつい ちえこ)

昨年2020年。コロナウイルス。見えないものが世界を牛耳っているように思えます。

私たちはウイルスだけでなく目視できないモノの中で生きてきましたし、これからも囲まれて生きていきます。

人類はウイルスから害も受けましたが、進化に刺激も受け、何億年も共に生きてきました。

微細なモノは粗雑なモノより強いと言います。

身体の健弱より心が人生に大きな影響を与え、心より微細な魂はさらに大きな力を持ちます。

スピリチュアルな世界は㎚(ナノ)より微細なのですから、精神はウイルスより強いと言えませんか。

良いバイブレーションで自分を包むことが強さの秘訣でありましょう。

強い信念、繰り返された祈りは深層心理にまで染み入り、魂の世界に繋がり、一層強い力となっていきます。

本当の強さを持つものにとって敵はいません。

すべてを倒せるというのではなく、全てを友としてしまうのです。

毒蛇まで従者にしているインドの神は全てのモノを生かしている象徴でありましょう。

そこまで強くはない私たちでも、毒蛇に近づかない注意、近づかれないバイブレーションを持つことはできます。

真我はいくつかの層に包まれ、目に見える肉体は外側の粗雑なものであるという見方は良く知られています。

その肉体自体も、微細なエネルギーに取り囲まれています。

オーラや電磁気的な力が見える方にとっては当たり前かもしれませんが、良いUを引き付ければ、

自分の周りに防御シールドを張っているようなものです。

外側だけではありません。

「祈り、マントラ、瞑想は微細な体にまで浸透する」と知られています。

単純な「にこやかに」という教えは心を落ち着け、免疫力UPの力を与えてくれます。 

アニメのトトロでも隣のおばあちゃんが言っています。

「煤渡りはニコニコしていると逃げて行ってしまう」と。

***お話・その3 /前アチャリア・マハプラギャも良く語られたというお話***

荒野を馬で疾走している者がいました。 

それを見かけた男が声をかけました。

「あなたは誰ですか?どこへ何をしに行くのですか?」

「私は疫病さ。隣の国に、千人殺しに行くのさ」

疫病は馬上から答えると、振り返りもしないで走り去りました。

それから数ヶ月後、同じ出会いが起こりました。

男が疫病に話しかけました。

「あなたは嘘つきですね。あなたは千人殺すと言っていたのに、隣国では五千人が死んだと聞いています」。

「私が殺したのは千人だけだ。他の者は私が居ることへの恐れで、勝手に死んだのだ。私は嘘つきではない」

それだけ言うと、馬上の主はどこかへ走り去っていきました。

***このお話では「恐怖が人々を殺した」と擬人化した疫病に語らせています。

「恐怖に限らず不安、怒りなどネガティブな思いが、実際より大きな問題を心身に引き起こす」

ユングやフロイトなどの深層心理学などなかった時代から、心の力は知られていたのだと思います。

不安な時こそ「にこやかに」。

瞑想は力強い助けになるはずです。

ジャイナ教の昔話その2:宇宙に満ちている神様?

多くの宗教で「世界は神の愛に満ちている」と説いています。
ジャイナ教のサマニ(準尼僧)は宇宙には小さな粒子が漂っていて、私たちもその粒に囲まれている。
そして自分が引きつけてしまう粒子の性質は人生に影響を与える・・と語りました。
その粒子(仮にUと呼びます)と神の愛が共に「宇宙に満ちている」としたら何か関係があるのでしょうか。
 
サマニはUを物質だといいますが、私たちを包んでいる空気のように分析できるのでしょうか? 
電子顕微鏡の世界すらUの次元から見れば粗雑なのだと言います。
魂にまで係わっている超微細物質は空論になりやすく検証は難しいでしょうが、
量子物理学などが宗教的宇宙観と近づいてきている昨今、サイエンスでUを語る日が来るかもしれません。
(ヒッグス素粒子を「神の粒子」と呼んだりしている科学者もいますね)。

さて、古から聖人たちは深い瞑想で宇宙に溶け込みました。
その体験で出会ったものは神、仏、Something Great,宇宙エネルギ―、他さまざまな名で伝えられました。
林檎をAPPLEと呼んでもその果実に変わりはありませんが、林檎を知らない人に説明する方法は多岐にわたります。
形、手触り、色や大きさ等を伝えるだけでも表現は千差万別。
食べれば瞬時にわかる味も説明することは至難です。
種類や個体差まで考えたら手に負えません。

林檎のように物質的なものすら言葉での表現には限界があるのです。
聖典には象徴やたとえ話が多く、分かり辛さのもとになっていますが
リシ(聖者)達がもったいぶっているのではありません。
体験を通してしか理解できないものを何とか伝えようとしているのです。
惜しげもなく提供されている林檎を食べようとしていない、
隠すことなく開示されている真理を観ず、宇宙中に響いている創造の聖音を聞けていない。
それが私たちだとしたら井戸に住む蛙のようです。 

しかし私たちは井戸底から見える天空への探究心を持っています。
宇宙とつながった方々が伝えたことを紐解いていくことはできます。
今の時点での私の理解で、U粒子を中心に話を進めてまいります。
筆者の疎さゆえの拙さをお許し願いつつ、スピリチャルなことを言葉に置き換える冒険に出かけます。

その前に、言葉で伝える難しさと、知らないことを自分の大きさに閉じ込めようとした・・
蛙にちなんだお話をどうぞ。

*お話(その2)井の中の蛙(語り部:スワミ・プレマナンダ・ジ)*
 村はずれの井戸に蛙たちが住んでいました。
その中に飛び切り元気の良い、やんちゃな子蛙がいました。
彼は井戸から見える空が不思議でたまりません。
明るい光が入ってきたり、暗い中にピカピカ光るものが見えたりする丸い枠の外には
「世界」というものがあると伝えられていました。
でも、世界がどんなものであるのか誰も教えてくれません。
 
子蛙は自分で観に行くことにして、壁に飛びつく練習を始めました。
少しずつ高いところまで行けるようになりましたが
井戸は深く、彼が上まで行けるとは思えません。

ところがある日、彼は鍛えたジャンプ力を生かして釣瓶に飛びついたのです。
「こりゃ、いいや~っ! エレベーターみたいだ!」
と言ったかどうかは知りませんが、
桶は引き上げられ、子蛙は外の世界につきました。

釣瓶桶からピョンと離れて、辺りを見渡した子蛙の驚きはどんなものだったでしょう。
世界は何と大きいのでしょう!
腰を抜かさんばかりの子蛙でしたが、天性の好奇心から飛び回割っているうちに、トカゲと親しくなりました。
トカゲは世界のことを得意げに教えてくれました。

そんな二匹の近くに大きな生き物がやってきました。
世界のすごさに慣れはじめていた子蛙も、その大きさには驚きました。
「この動物のことを、みんなに教えてあげたい」
そう思った子蛙はトカゲと別れて井戸端に戻り、村人が水汲みに来るのを待ちました。

井戸の底ではお母さんが心配していました。
そこに釣瓶桶に乗って子蛙が戻ってきました。
「お前は本当に困った子だよ!」
お母さんのお説教が始まる前に、子蛙は外のすばらしさを話し始めました。

井戸中の蛙たちが聞きにやってきました。
トカゲがイモリに似ていると聞いた他の子蛙たちは、自分もそんな友達が欲しいと思いました。
小さな蟻の話を聞いて「それはおいしいのかしら」と娘さんは考えました。
空というものはどこまでも広がっているのだと聞いた青年は、首をかしげました。
子蛙は続けます。
「僕ね、すご~く大きい生き物も見たよ」。

「大きいってこれくらい?」お母さん蛙が腹に空気を入れて膨らませました。
「違うよ。もっと、もっと大きいんだ」。
「じゃ、これくらい?」お母さんは胸まで空気を吸い込みました。
「違うよ、もっと、もっとだよ」。
「これくらい?」「もっと」「これくらい?」「もっと」
・・繰り返しているうちにお母さんの体は風船のように膨らみました。
「私は井戸の中でも一番大きい蛙だよ。
私より大きい者なんているわけ無いよ」お母さんは息も絶え絶えになりながら言いました。

「トカゲはその動物のことを象と呼んでいたよ」子蛙が言ったその時です、

パンッ!!!・
お母さんの体が・・・破裂してしまいました。

(子供の頃、母から同じ話を聞きました。その時には象ではなく牛を見たことになっており、弾けてしまったのもお父さん蛙でした。
お話として楽しく、広く知られているのでしょう。「固定観念にしがみつくとお腹が弾けてしまうよ」と言っているのかもしれません。)

ジャイナ教の昔話①あの世のお話

「この世」に確かなことなど何もないといいますが、一つあるとしたらそれは、誰もがいつかは「あの世」に行くということです。誰もが体験するのに、誰も確かなことを知らない。それでも「あの世」という表現には単に「死」と言うのとは違う、どこか楽しみな面すらありませんか?そこには今生を終えてもまだ何かありそうだ、という視点があります。
 
さて、輪廻転生を何となく信じている方でも、今の人生以外のことを考えている日本人は少ないでしょう。昔は聞かれた「来世のために徳を積む」とか「前世の因縁」などの言い回しも影を潜めました。西洋のおとぎ話でもヒロインは最初から美しく、活躍する王子はたまたま勇敢に生まれついています。
 
ところがジャイナ教の昔話には、誕生前から始まるものが多くあります。今日はその中から一つお届けします。
 


*お話(その1)-ミルク・マン*
 昔、男がおりました。親友と共にミルク・マンだったと言いますから、乳しぼりか配達の貧しい暮らしだったようです。二人とも心正しく、一生懸命に生きたので、死後は天界に生まれました。天界の後は人間界の立派な家に生まれ、再び親友同士になりました。その人生では新たに4人の善い友を得ました。6人とも在家ながら宗教心篤く、まっとうに生きて死んだので、そろって天界に転生しました。

 天人として生きた後、4人は人間界に戻り、ある国の王とその妃、その国の裕福な商人とその妻になりました。4人は平和に暮らしていましたが、商人夫妻は子供が無いことを残念に思っていました。一方、天界に残っていた元ミルク・マンたちも人間界で修行をしたくなってきたので、旧友たちの子に生まれることにしました。

 天人2人は巡礼僧の姿で商人の前に現れ、男の子を二人授かるだろうと告げました。やがて、その言葉どおり夫婦は双子の男子を授かりました。喜びに包まれながらも、商人には心配事がありました。誕生を予言した僧たちが「子供は僧侶にさせてあげてください」と言っていたことでした。子供たちには家業を継がせ、普通の幸せをつかませたかったのです。

 夫婦は托鉢僧に出会うことの多い街から離れ、郊外に引っ越しました。そのうえ子供たちには「お坊さんを見かけたらすぐ逃げなさい。彼らは子供を誘拐する恐ろしい人たちなのですよ」と言いきかせていました。

 ある日、双子が外で遊んでいると僧が歩いて来るのが見えました。両親の言いつけを思い出した二人は木に上って隠れました。ところが、僧はその木の下で清楚な食事を始めたのです。枝に?まって震えていた双子ですが、僧の戒律的な振る舞いを見ているうちに、前世の記憶がよみがえりました。人間界で修行をする、という目的も思い出しました。

 二人は木から降りて僧に挨拶をすると、その足で両親のもとに駆け戻り、出家したいと願い出ました。父母は、僧の生活の厳しさ、俗世の楽しさを伝えて説得を試みましたが、子供たちの心は変えられません。「この世の喜びは儚いものです。僕たちは永遠の至福を求めたいのです」という双子の言葉に心を打たれた両親は、自分たちも出家することにしました。

 さて、その国には家長も後継者もいない家の財産は、王様が没収するという決まりがありました。王は自分のものになる商人の家を見にやってきました。

 王に同行していたお妃が元商人家族に問いかけました。「あなたたちは本当に、この豊かな暮らしを捨てるのですか?どうして貧しい僧になりたいのですか?」。新出家者たちは、声をそろえて俗世に勝る修行の喜びを語りました。

 お妃と4人の会話を聞いていた王様が叫びました。「わしも僧侶になるぞ!」心からの言葉でした。それを聞いたお妃も喜びの声を上げました「私も尼僧になります」。ここに立派な出家者が6人生まれました。

(めでたし、めでたし・・・?お話はここで終わっています。…王国はどうなったのでしょうね?)