コラム[自分の生活と幸福感を何と比較するのか]

人は皆不幸を厭い幸福を求めている。

そして、私達は自分が他と比べて幸福なのか不幸なのかをいつも気にしている。私は多くの人が比べている対象が間違っているので、自分を不幸な存在に感じてしまうのではないかと思っている。比べる対象を現代の身近なところを対象にするのではなく、もっと時間も空間も広げて対象を探して今の自分と比べたら、いかに自分が物質的に恵まれて幸せかが解る。物質に恵まれた分だけ、逆に精神的に脆弱になり、心が不幸になっていることも解る。

日常的に感じて捉えている自分を取り巻く世界を瞑想的に広く深い視点で見てみよう。視点を替えて自分が江戸時代の人間で時空を超えて現代に迷い込んだと仮定してみる。

場所は只見の叶津番所

叶津番所の外観を見るとほとんど江戸時代と変わっていない。建物内に入ってまずびっくりしたのは、電気という仕組みだ。指で押すだけで行灯やロウソクの100倍も明るい光が天井から吊り下げられたギヤマンの玉から発せられることだ。又、この電気は目で見る事が出来ないが、紐のような中を通って炬燵の中の箱型の装置の中で炭の代わりに熱を出して暖かくしている。この便利な装置は温度を自在に調整できるので暖かく大変気持ち良い。テレビという驚くべき箱芝居があった。これも電気によって情景が映し出されるのだという。世の中で起こっていることの全ての瓦版が廻り灯篭のように紙芝居のように映し出されるのだ。テレビという装置はとても面白く、あたかもその場所にいるように事件や芝居や祭りが見れるし旅行まで出来る。だから何時間見ていても飽きない。この家には水屋(台所)があるが、とても便利に出来ている。水が水道という金属で出来た筒を通って来て簡単に出したり止めたりすることが出来るし、大雨の後でもとても水が綺麗なのには驚いた。

この家には竈がなく、不思議なガスというものを使って煮炊きしている。ガスは煙もでず、火加減も調整出来るようになっている。点火には付木を使わず、火花を散らすことで一瞬のうちに火が付いてしまう。風呂場に行ってみると、水道とガスをうまく組み合わせて簡単に風呂が沸かせるようになっている。厠に行って驚いた。全然臭くない、便槽がなくて、出した便が全部水で流されてしまう。驚くべきことに便を出すための腰掛けから水鉄砲のように水が出て紙を使うことなく尻を洗うようになっている。

石油ストーブというものがあって油を燃やして暖を取るようになっている。どこにでも簡単に持ち運べるので、暖かくしたい部屋に持っていけば良い。着物は我々の時代と全く違う形で動きやすいし丈夫で暖かい。糸は砿油から作るらしい。それにとても安く手に入る。一日か二日働いた給金で一揃いの衣服が手に入る。草鞋を履いている人は誰もいない。ゴム長靴という便利な履物があった、外から水が染み込まないので、雪の中を歩いても冷たくない。布団はとても軽くて暖かい、綿でなく砿油から作られた軽い糸が中綿の代わりになっている。中綿が軽い羽毛で作られた布団も多く出回っているらしい。羽毛が中綿になった袢纏のような衣類があったが、暖かく軽く水も通さない驚くべきものだ。遠くの人と話す事ができる手のひらに乗る程の大きさの道具は本当に不思議なものだ。どうなっているのかさっぱり見当もつかない。この小さな道具で手紙のやり取りもできるとのことだ。江戸や京、長州で起こっていることが遠く離れていても互いに話すことができるし、驚くべきことに手のひらの大きさなのにテレビのように実際にそこにいるように見ることが出来る。

建物の中で驚いたが外にはもっと驚くべきものがあった。道が3倍も広いのだ。そして、石と油を固めたようなアスファルトというもので敷き詰めてあって、凸凹がなく真平なのだ。その道を鉄で出来た篭のような物が勝手に動いていく。車が前後に四つ付いていて、篭のような中には人が腰掛けられるようになっているのだ。鉄篭を動かす人が一人中にいてこの人が巧みに鉄篭を動かしている。鉄篭は4人乗りが多く中には50人も乗れる家ぐらい大きい鉄篭まである。鉄篭は砿油を燃やして動かしているらしくとても巧妙に緻密に出来ている。只見から江戸まで平らな道は繋がっていて、僅か4時間で江戸に行けるとは本当に驚きだ。鉄篭は殿様の乗り物ではなく百姓、町人、下々の者誰もが普通に持っている。叶津村のどの家にも鉄篭があって、冬雪が降っても、とんでもない形の鉄篭が雪を吹き飛ばし道を除雪して、冬でも江戸まで出かけることが出来る。家々の屋根は茅葺きではなく、只見のような雪の降るところでは薄い鉄の板で葺かれている。鉄板の表面は錆びないように加工されていて滑らかである。雪が降っても屋根から簡単に落ちるように工夫されている。村人は落ちた雪だけ片付ければ良いのでとても楽だ。

役所や寺子屋のような多勢人が集まる大きな建物は、漆喰のようなセメントという石の粉を砂利と水で混ぜ合わせて作られている。石で出来た粉(セメント)を水と砂や小石で混ぜ合わせると、最初は田んぼの泥のようだが数日で固まって叩いても引いても壊れないコンクリートという大変丈夫な物が出来上がる。地震でもビクともしないこの石の建物はとても多く作られている。今や江戸の町ではほとんどがこのコンクリートと鉄の組合せで出来ていて、お城の天守閣よりはるかに高く大きい建物が隙間なくぎっしり建っている。高さは70階建て80階建てなのでびっくりだ。

百姓が米を作りたがらない。米は異国から安く買えるし、油で動かす鉄製の巧みな道具で田植えしたり刈り取りするので、楽に沢山できて国じゅうで余って処理に困っている。貧しい百姓には年貢がないので暮らしは楽だ。稼ぎが少ない人や体の不自由な人、年寄りには年貢免除だけでなく、お上からお助け金が貰える。誠に羨ましい。

食べ物は不思議なものが沢山ありどう説明したらいいのか解らない。酒の種類も豊富でどこでどう作られているのかさっぱりわからない。私が神隠しにあって迷い込んだ世の中は孫の孫が暮らしている世界だったらしいが年号で言うと平成26年ということだった。元の時代に戻っても誰も私のいう事を信じないので、神様から許可をもらってひとつだけ宝物を未来から持ち帰って来た。これがほらゴム長靴だよ。

叶津番所の役人だった保左衛門は、村人から夢物語を語るホラ役人、ホラ役と呼ばれて当時の人々に愛され親しまれた。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[食の非暴力 俗なる立場から]

台湾の友人、王さんから私のフェイス・ブックを見て、瞑想合宿最終日に熊肉を食べたこと、お酒を飲んだことに対して質問が来た。坂本がいつも提唱している非暴力・不殺生と矛盾しないかとの質問だった。

ちょうど良い機会なので食べ物の非暴力について私の考え方をまとめてみたいと思った。

人間の生き方は聖の立場と俗の立場があると思います。聖なる生き方は出家の生き方です。私たちがイメージする日本の宗教家や普通のお坊さんは出家であって出家ではないと思います。出家の顔をした俗人です。出家といわれる人が王様のような暮らしをして、企業経営者のような金儲けをしています。私はジャイナ教の出家僧に出会ったとき初めて本物の出家のことが解りました。彼らは本当に無所有を実践し、本物の非暴力を実践していました。

私達の生き方は俗の生き方です。結婚し家族がいて家族を養う為に仕事をしなくてはなりません。様々なしがらみに縛られているので完全なる聖の生き方は出来ません。世俗的生活では完全なる無所有も完全なる非暴力も実践出来ません。企業経営者であればライバルとの競争に勝ち抜かなくては企業を存続出来ません。競争に負ければ業績不振となり従業員に給料も出せなくなり倒産もありえます。倒産した会社の社員は失業し苦しむこととなります。スポーツ選手も勝ち抜かなければ栄光は得られません。俗世界は一にぎりの勝者と多くの敗者があって、良く考えれば競争と暴力うずまく社会といえます。

聖なる出家の世界には他との競争がありません。闘いは自分自身との闘いだけです。自分をいかに清らかにするかという実践が自分自身との闘いだから、他に対する完全なる非暴力が実践できるのです。仏陀もジナも出家しない世俗的生き方では解脱出来ないとして出家を勧めました。

出家の教えである完全なる非暴力は世俗的生活では困難です。そこで厳しい出家の戒律と緩やかな世俗の戒律が出来たのです。世俗の人間に対して出家の戒律をあてはめても無理があります。

私は世俗の立場の生活者なので、私に聖人に対するような要求をしても私には実践できません。沖ヨガの沖正弘先生は生前、弟子たちに「お前たちには俺のような聖なる生き方は無理だから、半俗半聖で行けよ」とよく言われていました。私の生き方は俗なる生き方の中に、聖なる生き方を取り入れて、バランスよく人間的に生きるというのが今生のテーマです。

私は俗人の立場で聖なる生き方を実践し提唱しているのであって、私は出家した聖者ではありません。ヨガや瞑想を実生活で生かすにはどうしたらいいかを実践し、俗の立場で提唱している単なる教師です。つまり私は「俗が聖をやっている」のです。世に聖人、出家といわれている人の多くが全くの俗人で「聖が俗をやっている」のがほとんどです。どちらがより善い生き方かと考えて私は「俗が聖を行じる」方を選択しているのです。

以下は食べ物に対する宗教的な非暴力の考え方を半俗半聖の立場で考察したものです。人間が食べ物を食べるとき、その食べ物は何らかの生命を殺しているか傷つけていることになります。植物も生き物です。完全なる食の非暴力は全く食べないことです。人間は生きている以上、何らかの食べ物を食べなくてはなりません。人間に近い哺乳動物を食べるのはなるべく避けて、穀物や野菜中心の菜食にすべきだという見解は非暴力の実践として説得力を持っています。そういう観点からすればバナナや果物、木の実だけを食べるのが一番善いことになります。

私は食べ物に善悪は無いと考えます。適応性拡大の為に食べ物の善い悪いの判断を止めることだと思います。食べ物を区別すると自由を失います。外国に行くと文化や食生活が違うので、時には食べた事の無いようなものを食べなければならないときがあります。何でも食べることが出来れば何処へでも行けます。子供のころ蛇が怖かったのですが、マムシを食べたら蛇に対する恐怖が無くなりました。それからは蛇の生息する山にも行くことが出来るようになり、蛇と出遭ったときには、私はお腹が空いていれば蛇を食糧とすることが出来るので蛇が私を見て逃げていきます。以前は私が蛇から逃げていました。

非暴力の観点から日本人に魚を殺してはいけない、魚を食べてはいけないとは云えないでしょう。魚を食べることは日本の文化であり伝統だからです。海に囲まれた日本は新鮮でおいしい魚が身近で容易にとれます。我々の先祖は米と野菜と魚を食べてきました。牛や豚など家畜を飼育して食べる習慣はありませんでした。明治以降西欧文化の影響を受けて肉食が始まったのです。

印度は暑い気候の国です。海から遠い印度の内陸では新鮮な魚は入手困難です。家畜の肉も暑さで食べる前に腐敗が進んでしまいます。健康の面からも魚や肉を食べる文化は育ちません。印度で魚や肉を食べてはいけないというのは道理に合っています。印度は暑い国なので香辛料を使った辛い料理、砂糖を沢山摂取しています。日本人が同じような食生活をしたら健康は保てないでしょう。同じように印度では気候が暑すぎて発酵食品の文化は育ちませんでした。発酵食品文化は日本で発達しました。日本は発酵食品の国といっても過言でありま
せん。台湾の食事は日本に比べて味付けが薄く、塩気が少ないのも気候の相違によるのです。台湾の人が日本人に比べて身体が柔軟なのは気候によるのです。日本人が風呂好き温泉好きなのは体の塩抜きの為に必要なのかもしれません。

草原の国の人々の肉食文化、エスキモーの人々のアザラシなど海獣の内臓まで食べる文化、それを暴力と責めることは出来ません。その土地に生きる人にとって必要なことであり、カルマなのです。ジャイナ教では印度に生まれて完全なる食の非暴力を実践しないと解脱は得られないとしています。ならば、日本人が解脱を願うなら来世で印度に生まれることを願うしかありません。

只見では江戸時代まで牛や豚は食べませんでした。古代から日本には鹿やイノシシ、カモシカ、熊などの野生動物を狩猟する狩人の食文化がありました。熊狩りする特別な狩人をマタギといいます。只見にもマタギの伝統がありました。今ではほとんどいなくなってしまったマタギの一人が、友人の長谷部義一さんです。

瞑想合宿の終わる前日、厳しかった修行の最終日の夜は、俗界に帰る準備です。今日まで7日間禁酒、ヨガ式自然食だったので、陰陽刺激の総仕上げとして、緊張の反対、緩めて放下する刺激の一つとして夕食時にお酒を出す予定でいました。マタギの義一さんとは一年近く会っていませんでした。丁度その日の午後、義一さんは坂本さんに会いたくなったと番所にやってきて、自ら仕留めた貴重な熊肉を差し入れてくれました。私から熊肉を食べたくて求めたのでなく、向こうからやってきたのです。チベットの聖者ミラレパがイラクサだけ食べて体が緑色になり生きているのが不思議なくらい骨と皮だけになって洞窟で瞑想修行していた時、猟師から獣の肉の喜捨を受けました。そのときミラレパは人間らしい食べ物だと言って喜んで獣の肉を食べたと言う伝説もあります。

食べ物はまずいより美味しいほうが良いと私は考えています。食べ物は舌で食べるのではなく、体を養う為に食べるのだとの主張は一見真実のようですが、半分真実で半分は嘘です。確かに美味しいものだけ追求し美食に偏ったら体を壊します。味はどうでもよく体に良いものを食べるというのも人間的でなく偏りの一種です。欲望をコントロールする意味で食をコントロールするのは良いことです。本当の出家は托鉢によってしか食べられません。食べ物を選択出来ません。現代仏教の托鉢は形骸化してミャンマーやタイの坊さんたちは毎日、在家から食べきれないほど沢山の美味しい食べ物の喜捨を受けて糖尿病や高血圧、肥満で苦労しています。皮肉なことに苦しくても沢山食べることが修行のようになっています。断食は食欲のコントロールと美食による弊害の体調回復にとても良いので、短期の絶食や断食を日常生活に取り入れることを勧めます。

料理人にとってはより美味しく食べ物を作ることが愛です。また、世俗の人が美味しいものを食べて味覚を満足させ人間的喜びを得ることは悪いことではありません。美味しさを追求しなかったらテレビの料理番組は成り立ちません。

美味しい料理はその国の文化です。私たちは俗人なのですから、出家の立場の非暴力・不殺生は困難です。現実というものを大事にしないと混乱し行き詰まってしまいます。完璧に非暴力・不殺生を実践したかったらジャイナ教の出家僧になるしかありません。

栄養補助剤・サプリメントはそのすべてが体の中で吸収されて栄養になるわけではありません。食べ物も同じです。身体が食べた物の養分を不要と判断すれば、それを排泄してしまいます。また、食べた物によって必要な栄養が得られない時には身体は栄養を合成する能力を備えています。その良い例として、50年ほど前まで、チベットの僧侶は麦粉がしを練ったツアンパとバター茶だけしか食べていませんでした。それでも元気に生きていけたのです。身体を効率よく機能させるために微量元素も必要とされているわけですから、サプリメントに頼るばかりでなく、いろいろな食べ物を食べるのが良いとされています。飲用に適した温泉水を少量飲用すれば免疫力やアレルギーの予防になると思います。

食品添加物の問題は深刻です。これからの時代は自分の食べる物を自分でつくるのが最高の食の贅沢になるでしょう。ヨガの実践と食の自給自足が時代のテーマになりつつあります。ジャイナ教哲学では農業が出来ないので、私達は現実的、実際的な江戸後期の哲人・二宮尊徳の教えをあわせ学ばなければならないと思います。

不殺生は殺すなという意味ですが、積極的には生かしなさい、活用しなさいということです。見捨てられて死んだものを活用することが本当の非暴力だと私は考えます。人間や生き物だけでなく、食べ物を含めてあらゆる物を粗末にしないということも非暴力です。

私たちは他の命をいただいて生きていけるのだから、その御恩に報いる生き方、恩返しの生き方をしなければならないというのが沖正弘先生の食養の言葉です。感謝、懺悔、下座、奉仕、愛行が食べ物をいただく姿勢です。それが正しい生き方であると信じています。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[アヒンサー(非暴力主義)]

ジャイナ教を特徴づける教えの一つがアヒンサーすなわち非暴力・不殺生です。仏教の教えの中にもアヒンサーがありますがジャイナ教ではより厳格に戒律として実践されています。他の人や生き物に対して絶対に暴力を振るわないと云うのがジャイナ教徒や出家僧の生き方になっています。非暴力・不殺生の象徴としてジャイナ教出家僧は口にマスクをしてピチと云う箒を持っています。マスクは他に対しての暴言や悪口を慎むためであり、箒は小さな虫を踏み潰さないように用心するためです。全ての生き物は生きたくて生きているのですからその命を奪ってはならないとしています。

私も非暴力思想とその実践こそこの世に平和をもたらし、地上天国を創造する方法だと信じています。ジャイナ教の出家僧はまた、アパリグラハ・無所有を実践しています。僧侶は本当に何も持っていません。手に持って歩けるだけの最低必要な物だけが所有している物の全てです。着替えの白衣一式と托鉢の為の鉢、それに数冊の本とノート筆記具だけです。お金は一切触りませんからレストランでの食事も出来ません。食事は托鉢で貰って食べるだけです。ベッドに寝ません。固い床の上に簡単な敷物を敷いてごろ寝です。最近地球環境に優しい生き方、エコ生活が各方面で提唱されていますが、ジャイナ教出家僧が世界一のエコ生活者であり平和主義者だと思います。

現在の文明は石油依存文明とも云えますが、それによって気候変動と云う困難な問題を引き起こしています。根本原因は人間の過剰な欲望に起因しています。

ジャイナ教の教えには現代文明を否定するような考え方があり、地下資源を掘ってはならない、川の流れを変えてはいけない、樹を切ってはならない等があります。それらは、全ての生き物たちと地球環境に優しい教えのような気がします。人類は生活の利便性や安楽生活追求のため将来的な持続性を考えもせず、大量生産・大量消費のシステムを作り上げました。しかしそれによって原発事故のような問題を引き起こしました。

今や世界中の経済に閉塞感が漂い、将来の生活に不安があるので、新しい人間としての生き方の模索が始まっています。自然エネルギーへの転換、気候変動への対応などが求められています。

エコ意識の高いヨーロッパでは新しい文明の兆しが芽生え始めています。イギリスの環境運動家であるマーク・ボイル氏が行った現金を一銭も使わずに2年半生活した社会実験が世界中に共感の輪を広げています。マーク・ボイル著『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(紀伊国屋書店刊)。マークは一銭もお金を使わずに大都市近郊で豊かに暮らすと云う見本を見せてくれました。太陽光発電によって電源を確保し、パソコンを使って自分の生き方を世界に発信しつづけました。食事は自然採取、自家栽培、分かち合い、コンビニ等の賞味期限切れ廃棄物を利用しました。燃料は薪、コンロは簡単な手作り、自宅は無料で譲り受けたトレーラハウスを使いました。交通はパンクしないタイヤの自転車を使い、遠方へはヒッチハイクで出かけました。マークはマハトマ・ガンジーの信奉者です。彼の行動は現代におけるマハトマ・ガンジーであり、彼が始めた運動は新しい非暴力運動です。

一銭も使わないと云うことと1カ月1万円で暮らすということの間には大きな隔たりがあります。只見に移住したTさんは1カ月の食費を1万円に抑えて自分の理想を追求しています。お金を使わない生き方は確かに全ての生き物達に優しい生き方であるし、人類の先祖や子孫に対して非暴力の生き方であると思います。私は物を大切にする、活用することも同じように価値あることだと思っています。捨てられている物の中に価値を見出し活用することも非暴力だと思っています。日本中の中山間地域で集落や田畑が打ち捨てられようとしています。私はこれこそ現代日本人の最大暴力行為だと思っています。中山間地域を守るアヒンサー運動とプレクシャ瞑想をどの様に関連付けたら良いか思案しています。これからの私はお金を出して新しく造られた物を買うのではなく、なるべく身近にある自然物や廃棄物を活用していきたいと思っています。新しく芽生え始めた文化や文明によって、放棄された山村や田畑に新しい光が投げかけられることを祈っています。

これからの時代は持続性ある社会システム、自然エネルギー、非暴力、健康、平和がキーワードになるでしょう。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

 

コラム[自殺を無くす道]

 現代日本の自殺者数は年間3万人を超え社会問題になっています。3月11日の東北関東大震災や福島第一原発事故により、夢や希望を失った人の自殺増加が懸念されています。

 なぜ人は自殺するのか、その理由はいろいろ考えられるが、私は人間の執着心が根本原因になっていると考えています。生に執着するのであれば自殺しないと思いがちですが、執着心の強い人は皮膚の外側の世界も内側の世界も確固たる世界であってほしいと強く願っています。良く考えればその願いは不自然な願いなのですが、自分を含めて世界が安定していることを求める心が強いので、それが突然襲う変化によって覆されたとき、強い不安と恐怖に襲われます。戦いの矛先が他に対して向けられているうちはまだ良いが、敗北が自己に向けられた時、自己を傷つける行動となります。私はそれが自殺の根本原因だと見ています。自分の肉体に対する無執着とは完全に正反対の心の状態です。

 ジャイナ教の教えの核心は「アヒンサー」つまり非暴力・不殺生です。自殺は自己に対する暴力、殺生です。アヒンサーの実践には恐怖を無くすことがポイントになります。恐怖を無くすには、無常について心底から理解する必要があります。無常が理解出来れば、「アパリグラハ」無所有・無執着も楽に実践出来るでしょう。

 無常が解れば、人間は何も所有することは出来ない、また執着することも出来ないと理解出来るでしょう。人間は何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいきます。人間は生まれると自己のカルマと宇宙の求心的エネルギーによって自分の周りに様々な物や人を引き寄せます。しかし時が過ぎればそれら全てのものは別の所で別のものになってしまいます。そして、命が永遠の過去から未来へと続いていくエネルギーであると理解できれば無常が解ります。無常が解ればアパリグラハは簡単です。無常が解れば恐怖がなくなります。恐怖がなくなれば非暴力が出来ます。

 「アネカンタ」非独善主義も非暴力に欠かせない教えです。自己に対する暴力をやめることが自殺を無くす方法です。自分に自信が持てるようになることが大事です。プレクシャ・メディテーションの実践は自分に自信が持てるようになる道でもあります。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[哲学論争]

人は誰しも「なぜ自分はここにいるのか、どこから来たのか、そしてどこに行くのか」という疑問を持っていることと思う。それは、現代人に限らず古代の人も同じ疑問を持っていた。その真実を知りたいと欲する気持ちから、心の働きや意識の状態と現象及び行動によってとらえられる心的過程を追究することが始まった。それを哲学という。

仏陀の唱えた教えも哲学であり、当時の六師外道の思想も哲学である。古来様々な哲学が論じられて来た。すでに哲学は出尽くした感があり新しい哲学もすでにあるものの変形でしかない。宗教が人間としての正しい生き方や倫理道徳観にかかわるものなので哲学をぬきにした宗教はあり得ない。

古代より哲学的に最大の論争になってきた問題は、宇宙は神が創造したかそうでないか、魂はあるかないか、生き物は輪廻転生するかしないかに要約される。

マハーヴィーラや仏陀と同時代、古代ギリシャ哲学が起こった。BC4世紀ごろプラトンもその師であったソクラテスも魂を認め魂は不死であるとして、魂に重点を置く生き方を説いた。近代では17世紀フランスのパスカルも魂は永遠と説いた。20世紀フランスの哲学者サルトルは「神は存在しない、神が自分を作ったのではない。自分の行為と選択が自分を作る」としてマハーヴィーラや仏陀が唱えたカルマ論と同じことを唱えた。

ジャイナ教と仏教は兄弟宗教と言われている。インド古代から続いてきたシュラマナ系の宗教が共通する母体になっているからである。その核心的な哲学は因縁果の法則、カルマ論の共通性であり、輪廻転生論である。違っているのはジャイナ教が仏陀以前からインドにあった「自己・我・魂は輪廻転生を貫く主体であり、認識の主体であり、常住にして不変、不生不滅である」との哲学を踏襲しているのに対して、仏教では魂は無いという考えが主流となっている。仏陀が無記として論じなかった魂が有るか無いかという問題を、後世の仏教徒が仏陀ともあろう人がそんなあいまいなことを言うはずがないとして、魂は無いと仏陀は言ったに違いないと結論づけてしまった。「ミリンダ王の問」。しかし魂は無いとしてしまうと、輪廻転生やカルマ論が論理的に破たんしてしまう。そこで、論理の破たんを繕うために様々な理論を考え出し仏教哲学が難解になってしまった。

それでは仏陀は魂についてどのように考えていたのであろうか。仏陀は魂(我)が有るといえば固定不変な身体と心があると錯覚し、固定不変な自己が永遠に続くという迷いに陥るであろう。無いといえば死んだら無になって自己は断絶するという迷いを深めると言った。

仏陀は現世の私の心身と来世に私が受け取る心身は同一でもなければ、別物でもないと言った。常見(魂は有る)でもなければ、断見(魂は無い)でもない、不常不断を説いた。また、同一でも別異でもない、不一不異といった。つまり、仏陀は心と体は私ではないと非我を説いたが無我(魂は無い)と断言しなかった。仏陀は私とは只、原因と縁(条件)によって成り立っている、だから、因縁がなくなれば私は存在できなくなり滅する(輪廻転生しない)と説いた。この世の全てのものは因縁が揃っている時だけ一時的に存在しているに過ぎないと説いた。迷いの根本原因である無明とは因果律を知らないことである。

仏陀の言う「この世の全てのもので常住不変なものはない」というのは、確かにその通りである。しかし、魂が物質でなくこの世の外側にあると仮定すれば魂は常住にして不変、不生不滅という考えも成立するのではないかと思える。我(魂)が無いなら生前の行為の結果としてのカルマを何が受けるのか受ける主体が無くなってしまう。主体が無ければ輪廻転生論は成り立たない。仏陀はたとえ今生で業の報い(結果)を受けなくとも次生かもっと先の生に必ず結果が現れると説いているのだから、カルマ論と輪廻転生は仏教哲学の根本思想と考えてもよい。仏陀は真実の自己は業の相続者であるとして本当の自己は目に見えない業の流れであると説いた。仏陀はアートマン(魂)という言葉を使わず生命エネルギー(生命力)という特殊な流れでカルマの結実を受ける主体を説いた。

仏陀時代の哲学論争は宇宙とは何か、魂は有るか無いか、神のような他をコントロールするような存在が存在するかしないかなどであった。仏陀は現実実用主義の立場で、考えても結論を得られないような問題に対しては時に、無記として明確に答えなかった。だから、魂の問題もそのように考えるべきであり、魂は無いといったのではないと思う。このことに関して國學院大學哲学科の教授宮元啓一先生は「仏陀は無我(魂は無い)を説いたのではなく非我(心身は私ではない)と説いたのである。」と言っている。私もその解釈に賛同している。テーラワーダ仏教のある長老は「魂は無い、魂を信ずるのは邪教であり妄想にとり付かれている」と自分だけが正しく他は間違っていると極めて傲慢で矛盾だらけの哲学理論を展開している。

当時の宗教哲学にあって仏陀の哲学の革新性はなんだったのだろうか。それは仏陀の「中道」という言葉の中に隠されているのではないかと私は考える。厳しい修行や戒律にたいして、こだわらない、とらわれない、ひっかからないという無執着の考えを取り入れたのだと思う。仏陀の悟りの核心は無執着になること、完全に心が無執着になればそれが解脱であると説いた。従来の解脱の状態のハードルが下がったから仏陀の教団から解脱者が続出したのだとおもう。仏陀は厳しい戒律を意味がないとして立派な衣を纏、建物の中に寝起きし、食事の接待を受けるようになった。中道と無執着をそのように解釈していた。

一方、ジャイナ教は無執着を無所有と同義語に解釈し、出家僧ばかりでなく在家信者も含めて苦行に近い厳しい戒律を完全に守ることを実践していった。戒律(ブラタ)は妥協を許さぬものと解釈され厳しく実践された。

私はジャイナ教と仏教の違いを強調するのではなく、ジャイナ教と仏教は兄弟であり本店、支店であり同じものだと訴え続けたいと思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[自殺を無くす道]

現代日本の自殺者数は年間3万人を超え社会問題になっています。3月11日の東北関東大震災や福島第一原発事故により、夢や希望を失った人の自殺増加が懸念されています。

なぜ人は自殺するのか、その理由はいろいろ考えられるが、私は人間の執着心が根本原因になっていると考えています。生に執着するのであれば自殺しないと思いがちですが、執着心の強い人は皮膚の外側の世界も内側の世界も確固たる世界であってほしいと強く願っています。良く考えればその願いは不自然な願いなのですが、自分を含めて世界が安定していることを求める心が強いので、それが突然襲う変化によって覆されたとき、強い不安と恐怖に襲われます。

戦いの矛先が他に対して向けられているうちはまだ良いが、敗北が自己に向けられた時、自己を傷つける行動となります。私はそれが自殺の根本原因だと見ています。自分の肉体に対する無執着とは完全に正反対の心の状態です。

ジャイナ教の教えの核心は「アヒンサー」つまり非暴力・不殺生です。自殺は自己に対する暴力、殺生です。アヒンサーの実践には恐怖を無くすことがポイントになります。恐怖を無くすには、無常について心底から理解する必要があります。無常が理解出来れば、「アパリグラハ」無所有・無執着も楽に実践出来るでしょう。

無常が解れば、人間は何も所有することは出来ない、また執着することも出来ないと理解出来るでしょう。人間は何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいきます。人間は生まれると自己のカルマと宇宙の求心的エネルギーによって自分の周りに様々な物や人を引き寄せます。しかし時が過ぎればそれら全てのものは別の所で別のものになってしまいます。そして、命が永遠の過去から未来へと続いていくエネルギーであると理解できれば無常が解ります。無常が解ればアパリグラハは簡単です。無常が解れば恐怖がなくなります。恐怖がなくなれば非暴力が出来ます。

「アネカンタ」非独善主義も非暴力に欠かせない教えです。自己に対する暴力をやめることが自殺を無くす方法です。自分に自信が持てるようになることが大事です。プレクシャ・メディテーションの実践は自分に自信が持てるようになる道でもあります。

プレクシャ・メディテーション集中合宿で、只見川と叶津川の合流点で毎朝行う「無常についてのアヌプレクシャ」は無常を理解する為の実践です。合宿参加者は皆この瞑想法がとても気に入ったようです。

<著:坂本知忠>
(2011年7月20日(水)協会メールマガジンからの転載です)

コラム:人類のカルマ・人類存亡の瀬戸際

地球温暖化の嘘は嘘

地球温暖化の脅威についてはこのメールマガジンでも過去に何度か取り上げている。原稿を書いている今は8月の半ばで、今夏はまだ終わっていないが、今年の夏は世界各地で気候変動による異常高温や洪水被害、大規模な山火事の発生が多発している。国内でも昨年の九州北部豪雨に続き西日本豪雨災害が起き、各地で40℃を越える猛暑が連日観測されている。埼玉県熊谷市では7月23日、41.1℃を観測し国内観測史上最高気温を更新した。いまだに、地球温暖化は人間活動、CO2の増加が原因ではないとして、地球温暖化は嘘だという論調を展開している馬鹿な学者(中京大学の武田邦彦教授など)が存在しているが、今では地球温暖化の嘘は嘘だと否定する科学者の考えが世界の主流になっている。

再び地球環境問題がクローズアップ

私は1980年代から地球温暖化問題に強い関心をもっていて、ジャーナリズムの報道に強い関心を寄せてきた。2006,7年ごろ元アメリカ副大統領のアル・ゴアによる「不都合な真実」が出版されて地球環境問題は一気に盛り上がったが、数年後沈静化して、最近、日本ではあまり新聞やテレビに報道されなくなっていた。マスコミ関係者は東日本大震災や原発事故の復旧、経済問題やスキャンダルの報道を優先し、地球温暖化問題は不都合な真実として報道自粛していたように思える。

その報道自粛で情報が少なかったこの10年間に地球温暖化問題は着実に進行していた。今年になって積み重なった原因が一気に噴出してきて、世界中の誰の目にもただならぬことが地球気象に起こっていると実感されるようになった。世界に異常気象と災害が続出しているのでマスコミも報道せざるを得なくなってきている。世界で起っていることを総合的に見れば、何が今起こっていて将来どのようなことが起こるか大まかに知ることが出来ると思う。

世界各地で洪水起こる

今年の4月、イスラエルからパレスチナ自治区ヨルダン川西岸にかけて、大雨や洪水、雹などの影響で若者ら十数人が死亡。乾燥した中東でこのような災害が起こることは非常に珍しい。5月には中東のイエメンやオマーンにサイクロンが直撃し水害が起こった。以上はイスラエル在住のガリコ恵美子さんの報告。ラオスでは7月23日に建設中のダムが長雨で決壊し大規模な洪水被害をもたらした。7月上旬にはロシアのモンゴル国境付近のザバイカリエで観測史上最大の洪水が発生した。中国雲南省では毎年のようにどこかで洪水が起こっているが今年も激しい豪雨により各地で河川が氾濫した。四川省や甘粛省でも洪水が起こった。7月の西日本豪雨だけでなく世界中で未曽有の豪雨や洪水被害が起きている。日本では7月に72時間降水量が全国の雨量観測地点の一割強に当たる138地点で観測史上一位を更新した。中でも高知県馬路村では1319mmになった。そして西日本豪雨が発生した。豪雨の後、被災地に連日猛暑が襲った。気象庁はその猛暑を災害であるとした。

世界中で森林火災発生

世界気象機関(WMO)の7月20日の記者会見によると、ノルウエーでは北部の北極圏で7月17日、7月としては史上最高の33.5℃を記録し、翌18日には北極圏の別の場所で夜間の最低気温が25.2℃と日本の熱帯夜に相当する高い気温を観測した。読売新聞7月21日の記事ではスウェーデンで7月中旬だけで高温と乾燥による森林火災が50件以上も起きて国家の危機的状況だと伝えている。APPによれば、ヨーロッパ北部で長期化している未曽有の熱波で北極圏で森林火災が頻発し、ラトビア西部で大規模な山火事が起こっている。ラトビア政府は農業部門で非常事態宣言を出した。8月8日の共同通信の報道によれば7月23日から始まったカリフォルニア州の山火事でサンフランシスコ北部の火災の焼失面積は8月6日までに東京都の半分以上に相当する1150平方キロに達し4万人が避難している。日経新聞の報道によればギリシャでも時を同じくして29日、大規模な山火事が起こり死者が91人に達した。山火事がギリシャのチプラス政権をゆすっている。日経新聞8月1日の記事にはシベリアで800平方キロの森林火災が起きていると報じている。

世界中で猛暑・最高気温の更新

世界の異常気象を報じるインターネットのアース・カタストロフ・レビューによれば、地中海の海水温度が原因不明の異常状態で通常より5℃高い海域もある。7月10日アリゾナ州南部で今まで見たこともないような超巨大な砂嵐が発生した。7月15日フランス・リヨンで雹嵐によって風景が雪景色のようになった。巨大な積乱雲スーパーセルによるものである。北アフリカのアルジェリアのワルグラという町では7月5日、これまで一度も経験した
ことのない非現実的な気温51.3℃を記録した。カナダのケベック州では7月16日、激しい熱波によって70人が死亡。

ニューズウィークの配信によれば、8月4日ポルトガル中部で46.4℃を記録。スペイン南部で45.1℃になった。カリフォルニア州南部のインペリア郡(人口17,000人)で7月24日世界史上最も暑い雨が降った。降り始め時点での気温が48.3℃だった。気温37.7℃以上で雨が降ることはほとんどない。それ以上の気温の場合、高気圧がつきものだからである。

原因は

どうしてこのようなことになるのかというと、東京大学名誉教授山本良一氏によれば、地球温暖化による影響がさらなる温暖化を加速させるポジテブフィードバックが起こっているからだという。北極圏の海水温が高くなり海氷が激減している。高緯度地域の気温が上昇し赤道付近の気温との温度差が少なくなるとジェット気流の流れが遅くなり大きく蛇行するようになる。そのことで世界各地で異常気象がもたらされているのだと言っている。日本の7月の記録的な猛暑は太平洋高気圧が居座り続く中、その上にチベット高気圧が大陸から張り出してきて二階建て構造になったからである。その気圧配置の元を辿っていくとインド洋の海水温が東西で逆転していたからである。通常はインド洋の海水温は東が高く西が低い、これが逆転するダイポールモード現象が起きていたからである。根本原因は人間の欲望にあり、エゴの心にあり、科学技術の急速な発展にある。それが人類のカルマである。

2018年は始まりの始まりの年

今までは地球温暖化は人間活動によるものではないとする科学者の見解も多く、人間活動による化石燃料の消費、CO2の増加が起因していると断定できない事もあった。しかし観測結果が積み重なり、そして実際に得られるデータと気温上昇がはっきり人間活動の増加によるものと断定できるようになった。そして、予測された通りの異常気象が起こった。私は、2018年は誰の目にも温暖化がはっきりした事実と具体的な体験として、人類が引き起こしているものだと自覚出来た年になったと思う。そういう意味でエポックな年になったと思う。これからは毎年このような気象災害が起こるだろう。そして、ますます激しくなっていくと予測する。

後戻りできない深刻なことが起こる

私は中国やインド、東南アジア諸国の経済発展が始まった時に、「あー、これで地球環境問題は深刻になる」と予想した。その時、思ったのは気温上昇がどのくらいで、海面上昇がどのくらいになるか、だった。近年の海面上昇は年間2mm前後である。2mmだったらさほど問題ではない。10年で2cm、100年でも2cmだからだ。本当にそんな程度で済むかということである。南極の氷が1/10融けると海面上昇は7メートルになる。これには海水温上昇による膨張やグリーンランドの氷河融解は含まれていない。こうした中で、8月7日インターネット上で驚くべきニュースが流れた。コペンハーゲン大学、ドイツのポツダム気候影響研究所、オーストラリヤ国立大学などの研究者がまとめた論文で、このまま極地の氷が融け、森林が失われ、温室効果ガスの排出量が増え続ければ転換点となる、しきい値をこえる。そうなれば気温は産業革命前よりも4~5℃上昇する。海面は現在よりも10メートルから60メートル上昇する。という、衝撃的内容である。アメリカの気候科学者の第一人者であるNASのジェームス・ハンセン氏が2012年講演した話では今世紀末までに海面上昇は5メートルに達すると予測している。私たちの孫たちはそれを目撃することになる。

予測と対応

海面上昇は人類が築き上げた都市文明を崩壊させるであろう。その前に世界各地で河川が氾濫し、沿岸地域は巨大台風などの暴風被害により多大な損失を被ることとなろう。気候変動で食料が生産できず世界各地で飢饉が起こるだろう。安全な場所を求めて民族移動が起こる。それが軋轢になって戦乱が起こるだろう。気候変動はテクノロジーでは解決できないと私は考える。私はどう考えても悲観的な結論になってしまう。我々は困難な状況に陥る前に備えるときが来たと思う。我々は人間の暮らしの原点に帰って、何が起こっても大丈夫に暮らしていける方法を見出す時が来たと思う。人間に必要な最低限は何か、昔の人の暮らしはどうだったか研究してほしい。この状況下、AIも地方に移住することを勧めている。若い世代の皆さんに地方都市近郊や中山間地域への移住を勧めたい。そこに新しい価値観の理想郷を築いてほしいと思う。今の生活を替えられない人はそのようなことが起こるだろうと予測してビジネスに役立ててほしい。ピンチはチャンスと考えて積極的に生きる生き方もあります。

結論・パニックにならないために一歩先を行く

スーパーコンピューター・地球シミュレータは2027年に温暖化限界値+2℃を越えてしまうと予測している。そうなれば温暖化が加速して、もう後戻りできなくなる。負のスパイラルが始まる。福島第一原発事故よりも、もっと大変なことが起こりつつあるのです。ノアの箱舟のような、未曽有の災害多発の困難を乗り切るための『安全な砦』が必要な時代が始まったのかもしれません。志ある日本の若者よ、機会を捉えて洪水の危険性がない中山間地域に移住してください。それが自分と家族と子孫を安全に守る道だと私は考えています。世界中でそのように考える人が増えつつあります。これからの時代は地方に移住した方が良いか、首都圏に住み続ける方が幸せかは意見が分かれるところなので、それぞれの人の立場で広く情報を集め、分析し深く観察し先の先を考えてください。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/8月第84号からの転載です)

コラム:肉体はリサイクル品

時間の経過とともに、この世の物質的な物は全て変化してしまう。この世の中の柔らかい物も固い物も全てが変化する。流れて時が過ぎれば全ての物は、違った場所で違った物になっている。

諸行無常という変化の自然法則の中で、似たような現象が前後で少し形を変えるがパターンになって繰り返し発生することがある。それが循環の自然法則である。循環とは地球の回転によって生起している朝昼晩の繰り返しであり、季節の巡りである。陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ずる法則でもある。春になれば桜の木が満開の花を咲かせるが、桜の木そのものは前年の木と同じでも、一年の間に盛衰して違った木になっている。満開の桜の花も咲き方が前の年とは違っている。経済現象や歴史も特定のパターンが繰り返される。個々の株式相場の上げ下げも循環として考えることが出来る。

私たちの呼吸も循環そのものであり、血液の流れ、生命力の流れも循環である。河の流れも大気も循環して変化はとどまることがない。

そういう循環法則の中で宇宙そのものが変化して流れている。超新星爆発で粉々に飛び散った岩石やガスを材料として新たな恒星が誕生する。新たな星は爆発飛散した古い星の棄てた物質を素材として星自身を創っていく。循環の中で陰陽が入れ替わり、拡散力と収縮力が入れ替わっている。

私たち人間の肉体も宇宙的大きな流れの中の循環現象の現れであり、すべてリサイクル品によって成り立っている。私たちの肉体はリサイクル品なのだ。以前、誰かが捨てたものを使って私たちは自分の肉体を作っている。そして私たちは自分が使って不要になったものを再度リサイクル品として廃棄している。リサイクル品を使って自分の肉体を作り、使用済みのいらなくなった物をリサイクル品として誰かに再度使って貰うべく捨てている。それを受胎したときから死ぬまでずっと継続してやっているのだ。

人間の死体は分解して全て地球上で原子・元素に還元される。その原子・元素は植物や動物や他の人にも使われることがあるかも知れない。たとえすぐに使われないとしても、流れて時が過ぎれば、地球の崩壊とともに宇宙空間にばらまかれる。さらに時が過ぎれば宇宙空間のどこかの惑星で全く別の生き物がリサイクル品として私たちの肉体を構成していた原子・元素を使うだろう。そう考えれば果たして墓を作ることが真実のことかどうか疑わしくなる。その反対に地球そのものが私たちの実家であり、墓地であると考えることが出来るかもしれない。

私たちが吸っている空気は地球上の他の生き物、植物や、動物や他の人間がすでに使って棄てたものである。以前に誰かが吐いた空気を私たちは今、吸っている。私が今吸っている空気の中には、大昔の聖者、仏陀やマハーヴィーラが呼吸した空気の一部が含まれているかもしれない。そう考えれば呼吸によって私は仏陀やマハーヴィーラとつながっているのだと思える。好きな人だけでなく呼吸を通じて嫌いな人とも繋がっていると理解できる。混みあった電車の中で乗り合わせた乗客たちは誰かが吐いた息を吸い、自分が吐いた息を誰かが吸っている。呼吸を通じて乗り合わせた乗客たちはリサイクルの空気によって繋がっている。このように、私達は他との繋がり無くして一人だけ単独では存在することが出来ないのである。

私が今飲んだ水はかって誰かが使ったリサイクル品である。私が今日排泄した小便はリサイクルされてビールその他の飲み物になるかも知れない。その飲み物を誰かが飲む。私が排泄した大便は、やがて肥料になり作物の中に養分として吸収されて、再び誰かの食物になるかもしれない。

私たちが口から摂取している飲み物や食べ物は地球規模のリサイクル品、使い回し品である。そのリサイクル品を通じて私たちは過去現在未来の全ての存在達と御縁で結ばれている。私たちは個であると同時に全体である。私たちが生涯の間に摂取するリサイクル品としての飲み物や食べ物は甚大な量である。どれくらいの量になるかイメージすることすら難しい。その甚大な量のリサイクル品が私たちの肉体を作り、活動のためのエネルギーを生み出して、私たちの生存を支えている。

私たちの肉体はリサイクル品なので本当の私ではない。本当の私はそのリサイクル物質を使用し廃棄しているアートマンと呼ばれる魂である。魂がリサイクル品でつくった肉体を使用しているのである。魂がその人にとって必要な物質を集めて肉体を作り維持している。肉体を維持するために必要なものを集荷し取り入れ、使用し、不要になれば廃棄している。そのように肉体をリサイクル品と思えれば、肉体への執着が希薄になる。肉体に対する執着が無くなれば、恐怖や不安が無くなり非暴力が実践できる。

魂はリサイクル品ではない。魂は変化するものではないからだ。魂は物質ではない。作られたものではないから、無くならないし滅びもしない。魂はあらゆるものの中に浸透し行き渡って偏在である。何処かに行くこともなければ、何処からか来るものでもない。

その魂であるアートマンがリサイクル品を使って人生を体験している。生きていることの体験は魂にある種の汚れをもたらす。その汚れであるカルマがヴァーサナーになって使うべきリサイクル品の選別に関与している。だから私たちはその魂に付いた汚れのことを知らなくてはならない。また、私たちは魂と肉体は完全に別物であるということを理解しなければならない。肉体はリサイクル品でできているということ、その肉体は私ではないと言うことを完全に理解しなければならない。諸行無常の物質世界の原則が当てはまらない魂についても理解しなければならない。それらのことが理解できれば魂を中心にした生き方が出来るようになる。魂を中心にした生き方のことを正しい生き方と言うのである。魂に付着した汚れをとることがプレクシャ・メディテーションの目的である。魂の汚れが完全に無くなり純粋になることをモークシャという。モークシャに一歩でも近づくことが人生の意味である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/7月第83号からの転載です)

コラム:四つの身体と霊的色彩光

ヴェーダンタ哲学とジャイナ教哲学では、人間の身体は目に見える粗雑な物質の肉体と、精妙な物質的身体である電磁気的な体と、最も微細な物質からなる体原因と、物質でない魂が層のように結合したものだと説いている。

ジャイナ教ではその四つを肉体、テジャス体(電磁気的な身体)、カルマ体(原因体、汚れた魂、個我の源)、ドラビヤ・アートマン(純粋な魂)に分けて説明している。

ヴェーダンタ哲学では肉体(粗雑な体・アンナマヤ・コシャ・食物で出来た体)、スークシュマ・シャリーラ(精妙な体)、カーラナ・シャリーラ(原因体・潜在意識)、アートマン(魂)に相当する。

仏教では魂を説明しないので身体の複合性・重層性を説かないが、四つの身体を説くジャイナ教とヴェーダンタ哲学には共通の思想がある。『スワーミー・メーダサーナンダ著「輪廻転生とカルマの法則」参照。』

魂の二面性についても純粋なる魂をヴェーダンタ哲学でシュッダートマンと言い、ジャイナ教ではドラビア・アートマンという。本性が覆い隠された魂をヴェーダンタ哲学ではジヴァートマンと言い、ジャイナ教ではパーヴァ・アートマンと言う。何によって魂が本性を覆い隠されるのか。ヴェーダンタ哲学では、それは無知・マーヤ(迷い)であると説いている。その迷いとは誤解、妄想、迷信である。

ジャイナ教では魂に付いた汚れであるカルマ(業)であるとして、中でもカシャーイが原因であるとしている。カシャーイとは怒り、慢心、虚偽、強欲のことである。ジャイナ教では全ての生き物の魂にはカルマが付着していて、カルマが原因となって輪廻が起こっていると説いている。そして輪廻する魂を持つ生き物全てをジーヴァと呼んでいる。汚れたジーヴァの魂が純粋になることがモークシャ(解脱)であり、モークシャに到達することが全ての輪廻する魂の目標である。人間として肉体を持った状態でモークシャに到達した人をアラハン又はアラハトと言う。アラハトが肉体を捨てて魂だけになるとモークシャに到達しているので、もう輪廻転生が起こらない。その輪廻転生しない肉体を持たない魂をシッダと言う。ジーヴァという言語、シッダという言語はジャイナ教由来のものである。もしかするとヴェーダンタ哲学で説く四つの体は、いつの時代か、ジャイナ教哲学の影響を受けているのかもしれない。

ジャイナ教哲学では純粋なる魂は色彩を超越した まばゆく輝くものであるが、純粋なる魂にカルマが結びつくと輪廻する魂、ジーヴァ、つまり生き物、生命になる。生命の中の魂はある種のバイブレーションを起こしている。その精妙なバイブレーション(ある種の周波数を持った波動)が周囲に存在している様々な微細な物質を引き寄せる。その微細な物質が魂に付着してカルマの材料となる。人間であれば、五つの感覚器官を通じて微細な物質が魂に引き寄せられてくる。色、音、味、匂い、触感として微細な物質が魂に入ってくる。それは外から内への方向性である。

魂の内奥から常にある種の霊的精神的エネルギーが身体外部に放射されているが、そのバイブレーションは内から外に向かって放射されるときに魂に付いた汚れの影響を受けて着色される。それがジャイナ教哲学でいうレーシャという霊的色彩光である。霊的色彩光はカルマ体(アートマンにカルマが結びついて出来た原因体であり、自我意識であり、個我でもある。)のカシャーイ領域を通過するときにカシャーイに影響されて着色される。原因として蓄積されているカルマによってカシャーイ(情欲・パッション)が出来てくるが、カシャーイの領域を通過して着色されたレーシャは、次にカルマ体のアデヴァシャーイの領域に入り、感情が生起する元となるエネルギーを生み出している。この段階(カルマ体の段階)ではレーシャの周波数が高いので我々はまだ霊的色彩光を知覚することはできない。

レーシャがテジャス体に入ると周波数が低くなり、テジャス体に流入したレーシャは生命力や内部感覚に影響し、テジャス体のレーシャの領域(霊的色彩光の見える領域)に到達すると我々はレーシャの色を知覚することが出来るようになる。更にレーシャが肉体のレヴェルに入ると中枢神経に到達し内分泌系に影響を及ぼして、そこで化学物質・ホルモンが分泌され感情が生起する。感情によって思考が生まれ、知性が心で考えたことを分析判断し決定する。決定することで行動となる。行動の源を辿っていくとカシャーイがその根源となっていることが解り、行為の結果であるカルマがそのカシャーイを生み出していると理解できる。

又、カルマはレーシャに引き寄せられていることがわかる。つまりレーシャが我々の行動の全ての根源だということがわかる。レーシャによって我々は行動させられ、そしてその行動が新たなカルマを引き寄せ新たな原因を作っているのである。

だからカルマを変えたかったらレーシャを変えればよい。それがジャイナ教のカルマを変える瞑想法レーシャ・ディヤーナの理論である。霊的色彩光の知覚を通じてレーシャの色をより良い色彩に変えていく、因果律の負の連鎖を正の連鎖に変えて魂の純粋化を目指すのである。

カルマによって汚れた魂となったパーヴァ・アートマンをもつジーヴァ(生き物、特に人間)が修行によってアカルマ(純粋)になると、モークシャが達成されて輪廻転生しない普遍的なドラヴィア・アートマンになる。このことを解脱と言う。解脱がジャイナ教・仏教・ヒンドゥー教の理想である。それは、今も昔も変わらない。レーシャ・ディヤーナ(霊的色彩光の知覚)は瞑想の目的と目的地とそこに到達する方法を示している。

感情を生み出すホルモンの内分泌線と関係が深いケーンドラ(チャクラともいう)という霊的中心点に善い色彩をイメージし、善い言葉と共に潜在意識であるカルマ体に浸透させる。この瞑想の継続によって我々の潜在意識は変容しカルマも変わり、カシャーイも善きものとなる。

自分自身を知るというのは自己のカルマを知ることである。自己コントロールとは自己の行為の結果であるカルマによって作られたカシャーイをコントロールすることである。また、カルマによって形成された心の癖、願望、傾向、好みであるヴァーサナー・サムスカーラをコントロールすることでもある。

我々は自分自身を肉体としての体だけであると見ていたのでは救われない。常に肉体だけでなく、自分の体を電磁気的な体として、原因の体として、純粋なる魂として見なくてはならない。それが、自分で自分を救う道である。ジュニヤーナの道、智慧のヨガ、論理的思考を好む人の歩む道、プレクシャ・メディテーションがそれである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2018/6月第82号からの転載です)

コラム:私のヴァーサナー

外は吹雪。夜中に風が吹いて、ここ二階の窓ガラスに風に運ばれてき
た粉雪がびっしり付いている。昨夜は電気炬燵に足を突っ込んで寝てい
た。温かい寝床から渋々起きて、階下に降りる。室温-6度。厳冬の朝、
先ずしなければならないことは居間の石油ストーブに火をつけること、
そして、電気炬燵をONにすることだ。今朝は室内でも素手がかじかんで
しまうぐらい寒い。昨夜、ストーブの上で湯が沸いていた薬缶は夜の間
に冷えきって中まで凍っていた。外の積雪はゆうに2mを超えている。

私は今、新潟県との県境の町、福島県只見町にある福島県指定重要文化
財古民家・叶津番所に2週間の予定で滞在している。叶津番所は250年程
前に建てられた奥会津地方最大規模の古民家で、そこに一人で夜を過ご
している。その歴史を刻んだ大きな古民家の圧倒的な雰囲気のもとでは、
孤独に強くなければ一晩たりとも過ごすことは出来ないだろう。吹雪の
夜は建物のあちらこちらでさまざまな音がする。建物がしゃべっている
ようでもあり、目に見えない精霊の声のようにも聞こえるからだ。
叶津番所の周りには、番所を核として100年以上前に建てられた伝統的な
「蔵」、13年前の2005年に新築した古民家風多目的道場の「みずなら只
見ユイ道場」、「小番所」と称する中古住宅がある。私はその4棟の建
物のオーナーなので、豪雪から建物を守るために滞在しているのである。
平成30年1月27日午後4時、アメダスランキング積雪量情報は只見が271
cmで青森の酸ヶ湯353cm、山形の肘折についで3位であると報じて
いる。

雪に閉ざされた中で、囚われの身になったような状態で日々を過ごして
いると、「何が原因で自分はこのようなことを体験しているのだろうか
?」という思いが強くなる。「なぜ叶津番所を買ったのか、どうして道
場を創ったのか。」「文化財の保護と活用を続けたこの30年間はなんだ
ったのか。」などと考える。何もすることがなく、ボーとした頭に反省
的な心が沸いてくる。そんな時、ふと、「今、私がこのような形で存在
し、このようなことを体験しているのは、原因と条件と結果の糸が必然
的に連綿と悠久の過去につながっているからだ。」と解った。

叶津番所を所有することになるまでに数えきれない御縁があった。その
、どんなに小さな御縁が欠けても叶津番所に出会うことは無かっただろ
うし、また所有することもなかった。私が高校一年生の時、山岳部に入
部しなければ、佐藤勉さんという山登りの先輩に出会わなければ、20歳
で肺結核にかからなければ、ヨガの導師・沖正弘先生に出会わなかった
ら、沖先生の言葉が無かったなら、私がヨガやインド哲学に興味を持た
なかったら、そのようなことは起こらなかったであろう。しかし、その
ような無数の御縁があって今の私が存在している。人間存在は孤独に思
えるがそうではない。あらゆる他のものとの御縁によって支えられてい
るのである。宇宙全体が私という存在を支えてくれているのである。

物を所有するということは、土地であれ建物であれ、家族であれ、美術
品、骨董品、職場、財産、ペット、その他なんでも後々、管理しなけれ
ばならない、世話をしなければならない苦労がつきまとう。所有し使用
する喜びと、それに伴う苦労は必ずついてまわる一体のものだ。人間だ
けがこの苦しみを喜びに替えることが出来る。それが人間の理性的な心
であり、他の動物にはない仏性というものなのだ。さまざまな経験をす
ることで人間の霊性が高まっていくのだと思う。どのようなことを経験
するのかはその人が自由意思で選んでいることである。その自由意思の
根源がヴァーサナーであり、サンスカーラーという。その人の持つ個性
、性向、志、夢や希望の出発点のことである。

番所の周りの4棟の建物で一番問題なのが、「小番所」である。小番所
は道路を挟んで番所と向かい合っている2階建ての中古木造住宅である。
私が2010年に買い受ける前は90歳近いおばあさんと息子が住んでいた。
おばあさんが高齢になったので、姉さんの居住地近く福島県郡山市に
二人で引っ越していった。番所の隣接地であり、建物からの山や川の
風景が絶景なのが気に入って、番所でのヨガ合宿や国際交流の利便性
が高まることもあり、その住宅を買ったのである。売り主の条件とし
て家具や什器備品を全て残置していくというものであった。私はその
条件を承諾して、建物の引き渡しを受けたが、建物内部は不用品でご
み屋敷のようだった。そのとき私は地獄のようなこの環境を天国にし
てみせると心に誓った。今では佐藤松義さんキエ子さん夫婦の協力も
あり地獄のような雰囲気が天国に替わった。近年、2階の一室を綺麗
に整えて只見での私のプライベートな居室にしている。

小番所は建物の構造上致命的な欠点があった。冬の只見の豪雪に対応
していない事だった。それに、極めて安普請で構造材も細かった。屋
根勾配が緩く、積もった雪が滑り落ちなかった。1階部分に下屋が6、
5間×1、5間で付いている。およそ畳20枚分の下屋屋根に雪が積も
る。さらにその上に2階屋根からの落雪が積み重なる。屋根に積もった
雪を放置するとこの家は雪に押しつぶされてしまうのだ。平成27年1月
母が亡くなり葬儀などに追われて只見に来ることが出来なかった。そ
の年は大雪の年だった。屋根に積もった雪が落雪せずに積み重なって、
その重量に押されて小番所二階の梁と柱が折れてしまった。保険に加
入していなかったので修理代は痛い出費となった。

番所や倉は管理を委託している三瓶こずえさんの家族が雪下ろしをし
てくれる。道場は地下水をスプリンクラーのように出しているので、
急こう配の屋根から自然に落雪したあと融けるので、手間がかからな
い。私が冬に只見に滞在する目的は主に小番所を雪害から守るためで
ある。

なぜ、これほどまでに小番所にこだわるのかと言えば、私はこの場所
で自分の理想を表現したいからである。私はここに借景を取り入れた
枯山水の庭を造ってみたい。チャンスがあれば建物を建て替えて、皆
がアッと驚くような素敵な建物を創ってみたいとも思っている。

60歳の時には前途があり、まだいろいろ出来ることがあると思ってい
た。今、70歳を超える年齢になってこの後、何が出来るのだろうか
と考えてしまう。私が只見で活動していることを引き継いでくれる人
は家族にも友人にもいない。妻が私にいつも言っている。「あんたみ
たいな馬鹿な人はいないよね。お金をみんな只見につぎ込んでしまって
・・・。」「あなたが死んだらどうするの?早く只見を始末してよね。
」「私は何も解らないんだから、あなたのやったことの後始末は出来な
いから・・・。」 もっともなことである。

どうやら、私の先が見えてきた。只見での活動は道半ばで終わりそうで
ある。私に働いていた求心力が拡散力に変わったことを感じる。今後、
10年程度かけて只見での活動の整理をしようと思う。成し遂げられなか
った夢を抱えて、今生で経験した様々なカルマを潜在意識に宿して、そ
れらによって熟成したヴァーサナーとサンスカーラが私を次の人生に導
くであろう。

私は過去を振り返り、現在の状況を考察することで、自分の未来が少し
ずつ見えてきた。前世で私を導いたキーワードは海と軍艦だった。今
生で私を導いたキーワードは山と健康と瞑想だった。来世で私を導く
キーワードはユニークな建築物と日本庭園と水晶のような気がする。
私は6のプレクシャ・メディテーションとアヌ・プレクシャで自己の
内部観察を深めていけば、自分の来世がどのような場所に生まれ、ど
のような人生を歩んでいくのか大まかに知ることができると思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/2月第78号からの転載です)