コラム:静と動

孫子に曰く、静かなること林の如く、動かざること山のごとし。武田信玄も風林火山の旗印にした。林は静かか、山は動かないかは別問題として、動くこと止まることは一つの事と云える。このことを古人は静動一如と云った。静動一如は名人、達人、悟りの境地である。それは静けさ、止まっていることのなかに、莫大なエネルギーが湛えられていて時が至れば激しく動くと云うことを意味する。また、激しく動いているのにそこに静けさをあわせ持っていることでもある。例えればダム湖の水は波静かであるが、甚大な位置のエネルギーを持っているし、地球は秒速900キロメートルで宇宙空間を移動しているが地上で生活している人間には静止しているとしか感じられない。

動くと云うのは一体なんなのか。

人間がこの世に生を受けるということは、一時も止まることが許されない躍動の中に放り出されることなのだ。人間は常に動かなければならない、人間は変化しなければならない。動かないことじっとしていることは肉体的に苦痛なので常に体勢姿勢を変え続けなければならないように出来ている。立ち続けることも苦痛、座り続けることも苦痛、寝続けることも大変な苦痛なのだ。古人は動くと云うことが心地よいにもかかわらずなぜ苦痛を承知で体の動きを止め、呼吸を限りなく鎮め、思考を止め、体内感覚の波を鎮めようとしたのか。それは、それらが止まり鎮まったときに動いているとき以上の至福感があるからだ。

我々は時間を止めることは出来ないし、地球や惑星の動きを止めることも出来ない。体の中で細胞レベルで起こっている変化の流れも止めることは出来ない。神経細胞の中を流れてゆく電磁気的な流れは継続している。その流れと共におこっている感覚を知覚しているとき、思考が止まって心が鎮まり、知覚が観じようとする対象の感覚と一つになって、粗雑な感覚から微細な感覚へ、希薄な感覚へ、さらに無限に広がる均一で透明な静かに静止した感覚になっていることがある。そんなときは時間も無くなってしまったような、自己と云う存在もなくなってしまって根源的なものだけが立ち現われている気がする。

過去と現在と未来が一瞬のなかにことごとくあって、知覚すべき動きがまったくない静止したような状態、三次元的な空間ではない広がり、観じようとする意識と観じられる対象が双方透きとおったようになる。

そんな体験が未熟な私にもときどき起こる。

私はもっと深く動と静について探求しなければならないと思っている。

私達は動いていること、生命が永遠なる過去現在未来に繋がっていることやもっと多くのことを川の流れに学ばなければならないし、止まっていることの意味、忍耐を大木老樹に学ばなければならないと思う。私は最近、川が先生であり、老樹が友達であり、それらと自分がなんら変わりなく同じものだとの気持ちが目覚めてきた。山や川や森を観察し自分の内部を観察することが万巻の書物を読むことより大事だと解ってきた。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/1/25からの転載です)

コラム:非対立主義について

私はジャイナ教の戒律アネカンタを今まで、不定主義とか非独善主義と訳してきた。今後は非対立主義の意味も含めたいと思う。世界には沢山の宗教哲学がある。なぜ沢山の宗教哲学があるかと言えば、それらがどれも完璧でないからだ。それぞれの宗教哲学が皆正しいと言えるし、同時に皆間違っているとも言える。

南伝仏教では神もなければ魂もない(無元論)と言い、北伝仏教では神も魂も認める宗派(二元論)がある。ジャイナ教では宇宙を創造した神はないが魂があり、それを純粋にすることを修行の第一としている(魂だけの一元論)。ヴェーダンタ派は唯一の神としてブラフマン(梵)を認め、真我であるアートマンと梵は本来一つのものだとする梵我一如(一元論)を唱えている。サーンキャ哲学はプルシャ(魂)とプラクリティ(現象)を説く二元論である。

また、世界には沢山の国々とそこの人々の政治と生活と文化、伝統、習慣がある。これもどれが正しくどれが間違っているという問題ではない。その時の必要性からそういうものが存在するのだ。韓国が竹島は韓国のものだと強引に既成事実を積み上げている。中国は尖閣諸島を中国領だと主張し始めた。お互いに領有権を主張しあえば争いになり戦争になる。このような場合アネカンタで解決するにはどうしたらよいか。国家間の重要問題である。

アネカンタの理想は、争わない、主義主張しない、抗議しない、要求しない、決めつけない、腹を立てない、自分から変わることだが、もう一つ大事なことはすぐに反応したり即答せずに、相手にゆっくり考えさせるということもある。どうしたら平和で双方の利益になるかを考える時間を相手に与える意味も含んでいる。

軍事的に強い国が周辺諸国に覇権の手を伸ばす事は、歴史上、沢山の実例がある。私見では、チベットは中国では絶対ないのに強引に中国にされてしまった。新疆ウイグル自治区も歴史的にみて中国ではないだろう。中国は本来大陸の国であり、また万里の長城の内側の国である。そういう観点からみれば台湾は島なので中国ではないし、南沙諸島の島々も中国領であるはずがない。中国が軍事的にも経済的にも強くなったため周辺諸国に触手を伸ばしているようにみえる。人類史も動物と同じで、弱肉強食がその真の姿である。平和を望むなら相手の要求を飲み忍耐するしかない。土地争いは人類史上、生存権を賭けた熾烈な争いであった。ロシアには北方領土を返す意思はないだろう。土地は実効支配した者の物になる。盗られたくなかったら打ち払うしかないが、そうすれば戦争になる。所有や領有を争うのではなく、人類の幸せの観点から条約をつくり平和に相互利用できたら一番良い。

かって韓国は日本の植民地だった。中国は日本と戦争をしていた。日本は太平洋戦争でアメリカに敗れたが、中国や韓国と戦争して敗れたわけではない。中国や韓国の国民が日本に対して複雑な感情を持っているのは事実である。中国や韓国の国民生活が豊かになり、日本と同等意識・ライバル意識を持ち始めたことが、竹島問題であり、尖閣諸島問題であると私は見ている。竹島は取り返すのが大変だと思う。尖閣諸島は早急に日本が施設を造り防人を置かなければ難しいことになる。付け入る隙を与えないこと、油断しないことが大事である。相手に考える時間を与える方法がこの事である。

自分から変わる方法として、戦国時代、江戸時代はどうだったかと考えることだ。江戸時代は幕府が全国統治していたが沢山の旛に国が分断されていた。その頃、会津旛の人に隠岐や対馬の問題は関係なかっただろう。琉球の話をしてもピントこなかっただろう。今、世界人類が国境を無くし、人類が相互に混じり合い、混血を繰り返す方向に動いている。世界中、好きなところに自由に住めると考えてみる。すると民族主義もなくなり、領土問題も解決することだろう。民族主義、国家エゴは平和の敵である。グローバリゼーションは経済の分野で、金融の分野で、情報の分野で急速に進展しているが、世界が一つの国になるまで越えなければならない壁がまだいくつもあるだろう。世界が一つの国、一つの人類になれば、このような領土問題は存在しなくなる。それを可能にするのがアネカンタの哲学だ。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/8/25からの転載です)

コラム:エコ的生活は新しい非暴力運動です

日本近海の海水温が近年上昇してきていて、それが原因で、筑波の大竜巻や近年の集中豪雨、猛暑などが引き起こされているという。まさに地球温暖化を実感として感じざるを得ない昨今である。地球温暖化の要因は大気中の二酸化炭素やメタンの増加によるものであるが、元を質せば世界の人口増加と経済活動に行きつく。人間は、誰でも安全に快適に豊かに幸福に生きたいと願っている。その願いである欲望が行き過ぎて、逆に安全性や快適性が脅かされはじめているのが地球温暖化問題であり、原発問題である。

また私達人間はある意味で動物である。動物として観た場合、自然から離れた不自然な生き方は許されないように出来ている。現代先進諸国の人々の生活は快適ではあるが不自然生活そのものであり、よほど上手に不便さと折り合いをつけていかないと、心身が不調になる。自殺者の増加や鬱、アレルギー体質の問題なども現代人の不自然生活に起因していることが多いのではないかと私は考えている。もっと生の自然に接しなければ、真の意味の健康に達しないと云うのが私の考えだ。焚火の煙を吸い、蚊、蜂、アブ、ブヨ等の虫達に予防接種の注射を打ってもらったほうが良いと考えている。快適ばかりを追い求めて行くと、心身の適応性が失調してしまうのだ。

便利や快適さをどのレベルに置くことが人間の真の幸福に繋がるのかを今私は模索している。自分だけの幸せでなく、他の人々にとっても、未来の子孫に対しても、地球上の他の生き物達に対しても、責任ある行動と生き方は何か、そして幸せな暮らしとは何かを考え始めた。不便や不快を良い事、楽しい事と積極的に解釈できれば、今問題になっている人間としての正しい生き方は何かの解決策が見いだせるのかもしれない。

自分たちの暮らしが幸せであるかないかを論ずる時、比較する対象が必要となる。只見に住んでいる人は只見と首都圏との生活を比較して苦楽や幸不幸を論じている。つまり視野が狭いのである。只見とマダガスカルやミャンマーの田舎と比べたり、明治時代の只見の暮らしと、現代の暮らしを比べて論じることをしない。もし、そのような視点に立てば、いかに只見の暮らしが豊かで快適で便利で幸福感に満ち満ちているかがわかる。

江戸時代の只見と現代の只見の暮らしぶりを比較してみる。雪に閉ざされる冬の条件は同じである。今ある便利なものとして車、電気、照明、システムキッチン、灯油ストーブ、電気炬燵、羽毛布団など快適な寝具、快適な衣服、ゴム長靴、テレビ、パソコン、携帯電話、宅配便、スーパーマーケット、豊富な食料、学校、役所、その他沢山ある。年貢の重税はなく、補助金を貰える。江戸時代の人が蘇ったらビックリするだろう。

山村や離島で暮らしていた多くの人がより良い快適さ、便利さ、幸福さ、自由さ、やりたい仕事を求めてこの50年間に都会に移住していった。今では、山村や離島は過疎化し、集落が消滅し、先祖が永永として築き上げてきた耕地が荒廃してきている。日本人の悪いカルマ(過剰な贅沢)が積みあがっているのではないかと思ってしまう。いまや、新しい価値観を創造して、新しい幸福観にめざめなければならない時代に入ったのではないかと思っている。

地球温暖化防止の生き方は江戸時代に戻るのではなく、私は昭和30年代の暮らしに戻る事だと考える。現代文明は大量生産大量廃棄でやりすぎだ。昭和30年代の暮らしに戻れば原発を全廃してもエネルギーは足りるだろう。経済優先の政治を止めて、国民の幸福優先の政治に転換すべきと考える。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/7/25からの転載です)

コラム:所有と無所有

私は人間の幸せというのは、その人が所有している物の、質と量であるとずっと思っていた。お金は無いよりあった方が良いし、お金が沢山あるということは少ないより自由度が高いのだと思っていた。お金がもっと沢山あればさらにもっといろいろな可能性が出てくると考えるが、今まで自分がしたいと思ったことのほとんどをする事が出来て、お金に困った経験はあまりない。若いころ漠然と欲しいと思っていたものはいつの間にか、ほとんど実現されて手元にある。今、自分の身の回りを改めて見回してみると、あまりにも沢山の物を所有していることが解る。

親から相続した屋敷は広大だ。庭の手入れだけでも多大の労力と経費が掛かる。自宅以外に奥会津の只見町には自分の夢を追いかけた結果、5軒の建物を所有している。この維持費もばかにならない。只見に所有している平坦な土地も数千坪にのぼる。それらは無駄だといえば確かに無駄である。煩わしいことでもある。瞑想センターを中心とした理想郷作りが自分の夢や願いであるから、なんでこんなに馬鹿な事をしているのかと思いつつ、多大な労力を費やして現在も実際にしていることである。

若いころから読書が好きだったので私の蔵書は甚大な量になっている。その蔵書を只見と自宅に分けて置いている。本はなかなか捨てることが出来ないので今も増えていく一方である。研究の過程で集めた水晶も把握出来ていないほどの量になる。刀剣や油絵などの骨とう品も数多く持っている。それらの物は全て過去の私がイメージし引き寄せた物なのだ。カルマが引き寄せたと云ってもよい。なんと欲深い人間なのだろうと改めて自分を客観視している。

私たちは普段、好きなもの素敵な物に取り囲まれて暮らしたらどんなに幸せだろうと考える。素敵な家族、素敵な家と庭、素敵な別荘、車、美術・骨とう品、宝石等々を追い求めて日々努力している。それが一般的な幸せの価値観だ。それを俗生活という。一方、所有を手放し出来るだけシンプルに気軽に生きていこうと云うのが出家生活である。典型的な出家の姿をいまに留めているのがジャイナ教の出家僧である。日本の僧侶のほとんどは所有の生き方なので、出家でなく俗生活者だ。現代の出家とはホームレスの人達かもしれない。彼らは生活保護を受けているのではなく自己責任で自由に生きているからだ。

私は年齢と共に所有物が増えて、今ではそれらの管理に煩わしささえ感じている。自己保存本能と自己拡大本能が人間を物の所有に向かわせる。物をいろいろ所有してもそれによって、心の平和や幸福、自由が達成できないことがわかる。だから偉大なる仏陀やジナは所有から無所有への道を歩み始めたのである。方丈記の鴨長明のように越後の良寛さんのように、ジャイナ教の出家僧のように無一物になれたらどんなに心が休まり平和だろうかと思うことがある。所有物を必要最小限に整理していく事がやましたひでこさんの提唱する断捨離整理術である。いらないものを手放し、心を軽く、住環境を清らかにする方法だ。究極的な断捨離がジャイナ教の出家僧だ。ジャイナ教の出家僧は本当に何も持っていない。私には出家生活は無理だったので沖先生が云われた半俗半聖の生き方を目指して今日までやってきた。バランスのとれた生き方をすると云うのが今回の私の人生のテーマである。俗生活の中で聖・俗のバランスを取る生き方を心掛けてきたつもりだ。

集まったものは何時か宇宙空間に散逸していく。宇宙空間に働いている力は陰と陽、プラスとマイナス、収縮と拡散である。所有することは陽であり、プラスであり収縮である。無所有、捨てること、手放すことはその反対のことだ。所有、無所有に良い悪いは無い。悪いのは執着である。持っていても持っていない心であればそれは無所有である。全て物は縁があって預かっているのだと思う心が捨てている心(捨の心)である。所有物を自分の為だけに使えばそれは所有になり、他の人の為に役立つように使えば無所有になる。全てのものは縁あって帰去来している。手元の物が離れる時期が来て、離れていこうとする時それに執着するから苦しみがやってくるのだ。無執着と無所有が同義語なのはそういう意味から理解出来る。私は今、自分が預かっているものをどの様に縁ある人に手渡していこうかと考える年になった。物の集合離散は考えても仕方がない事かも知れない。なぜなら縁起していることだから。しかし、出来るだけ大勢の人の役に立つように手放していきたいと思っている。また、ふさわしい人に引き継いでもらいたいと思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/11/25からの転載です)

コラム:仏教の源流・ジャイナ教との類似

何事も一部分のみを見ているだけでは本当のことは解らない。物事を広く深く観察して考察することが瞑想である。時間と空間を拡大して考察し、さらにそのことが起こってきた背景までも考察する。すると、疑念が解け、理路整然となって本当のことがスッキリ腑落ちする。

河口だけ見ていても川の本当の姿は解らない。川の中流や源流をも見なければならない。さらに川を理解するためには、地球の自転や海について理解し、大気の流れや雲、雨、水の性質、どうして水が多量に地球に存在しているかなどを考察する必要がある。

同じように、広く深く考察することで、私達日本人が仏教と思っている概念のほとんどは仏教であって仏教ではないことが解る。日本の仏教は広い意味での仏教のカテゴリーに包括されるかもしれないが、その実態はゴータマ・ブッダ(仏陀)が説いた仏教とは程遠いものだ。また、初期仏教を正しく継承していると言われているテーラワーダ仏教でさえ疑わしく思えることがある。

仏教の草創期、仏教の源流、つまり仏陀が生きていた時代から没後百年ぐらいまでの初期仏教がどのようなものであったかが解らないと、私たちは後世の人の創作を仏陀が説いた教えであると間違って受け容れてしまうことになる。

幸い私は仏陀と同時代から今日までインドに続いているジャイナ教を通して初期仏教との共通点や相違点を探って来たので、初期仏教がどのようなものであったか、又、ジャイナ教やヒンドウ教との比較の中で宗教とは何かがとても良く理解出来るようになった。日本仏教についても格段に理解が進んで本質的な事が良く解るようになった。

古来、インドにはバラモン教の流れと、シュラマナ系宗教の流れがあった。バラモン教はアーリヤ人の奉ずる宗教で本来寺院を持たなかった。バラモン教の伝統の中に自業自得の哲学があった。一方、シュラマナ系は土着的なインド先住民の奉ずる宗教で輪廻転生がその哲学の中にあった。紀元前八世紀ごろ、この二つの宗教哲学、自業自得と輪廻転生が出会い解脱思想が起こった。この解脱思想こそインドに起こった宗教の根幹をなしている。

解脱思想の流行でバラモン系からもシュラマナ系からも沢山の出家者が現れた。世俗の生活では解脱出来ないというのがその理由だった。世捨て人となって、世俗的なことを何もなさないことを理想とした。出家は家庭を持たず、仕事も持たず、食事の支度もせず、屋根の下に寝ず、ボロをまとい、中には素っ裸になった者もいた。

輪廻転生の原因であるところのカルマを根絶するために苦行と瞑想することが修行の中心だった。

こうしたなか、紀元前5、6世紀頃、シュラマナ系修行者の中からマハーヴィーラとゴータマ仏陀が現れた。マハーヴィーラは苦行(断食行)と瞑想を通じて解脱した。一方仏陀は瞑想しても苦行しても解脱に至らなかったので、修行法にどこか欠陥があるのではと思い因果律(カルマの法則)について徹底的に考察した。そして従来考えられていた因果律の欠陥を発見しそれを教えの基本とした。それがブッダの教え、根本仏教である。

マハーヴィーラグループもゴータマグループも哲学的に大きな差異はなかった。仏陀は理想主義者ではなく、現実主義者だった。現実主義者である仏陀は悟りを開いてから、在家信者からの寄進や布施に対して理想主義的な出家者のようにこだわりを持たなかった。

食事の接待を受けるようになり、常に綺麗な衣を纏うようになり、屋根のある大きな建物にも寝起きするようになった。その頃、発達し始めた都市国家の担い手、有力な商人がこぞってジャイナ教や仏陀等の自由思想家達に帰依したが、仏陀の教えがより多くの人々の心を捉えたのだと思う。仏陀が生きていた時代、ジャイナ教徒からは弟子のサーリープッタが仏教教団の代表のように思われていた。サーリープッタは仏陀に帰依する前、サンジャヤ(注:六師外道の一人、鰻論法で知られる懐疑論・不可知論者。シャーリプッタは仏陀が因果律を説くと聞き兄弟弟子のモンガラナーと共にサンジャヤの下を去り仏陀の弟子になった)の弟子であったので、経験的な事実に基づかない宗教哲学理論を師のサンジャヤと同じようにのらりくらりとした掴みどころのない戦法で否定したと思われる。ブッダも恐らく同じような考えを持っていた。それが十難無記である。十難無記の中に魂が有るか無いかの問題があった。

仏陀は魂が有るとも無いとも云わなかったのが真相だと思えてならない。なぜならその頃の出家修行者の間では魂があるのは当たり前の考え方であり、自業自得の因果律と輪廻転生の哲学、輪廻からの解脱とそのために出家するということは広く受け入れられた考え方だった。仏陀もマハーヴィーラも言っているように、出家しなければ解脱できないというのがその当時の共通した考え方だった。出家主義は今もジャイナ教や南伝仏教に生きている。

バラモン教は仏教とジャイナ教の影響を受けて、紀元前3世紀頃、その当時有ったインドの民間信仰を何でも採り入れて、インドのなんでもあり宗教に変化したが、その基本的な教えはベーダンタ哲学である。ベーダンタの修行体系、ジャイナ教の修行体系、初期仏教の修行体系はいずれも、出家を中心にしてカルマの根絶、輪廻転生からの解脱に取り組むものである。その方法は多少の相違はあっても瞑想と苦行(タパス)であった。仏陀は極端な苦行は無意味としたが、苦行は悟りや解脱に必要なものとして位置づけていた。共通項として他律を廃し自律を重んじた。

ヒンドウ教にあっても、修行とは自分で自分を助け救う悟りの希求だった。要約すると、自業自得で汚れた魂を清らかにする道、カルマを無くす方法が修行であり、その哲学がインドで生まれた宗教であり、輪廻転生からの解脱がその目的である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2014/8/27からの転載です)

コラム:生 カルマ 死 カルマ 生

ありとあらゆる物が自分のカルマと縁によって、やって来て次の瞬間去って行く。

まるで流れる川の中に立っているようだ。
その流れはまさに宇宙のエネルギーそのものだ。
体の外側も流れている。
体の内側も流れている。
それは高速の流れだ。

動いている身体をもって、僕は動いている世界に飛び込んで行く。
生きている世界は僕が立ち止まっても、押し寄せてくる。
それが生と云うものだ。

今日一日、いろいろな物や出来事が、僕の所へ引き寄せられ押し寄せて来て、超スピードで去って行った。

死とは自分の中の流れが止まって、別次元の止まっている外界を、意識だけが流れて行く状態だ。その時、世界は押し寄せて来ない。意識が動くので世界が動いているように想えるのだ。

純化できていない意識はやがてある特定の振動を持ったエネルギー(音、匂い、光、色彩)に強く引きつけられる。

鮭が故郷の川の水を知っているように、自分を思い出し、帰るべき世界、生まれるべき所に強く惹きつけられる。

そして人間は生まれてくるのだ。

純化出来ていない意識はどうしても成し遂げたい願を持っている。
それが良いカルマ仏性だ。

仏性発現を阻害するものが悪いカルマだ。

陰陽二つのエネルギーが人間の潜在意識から放射される。
一つの人生で遭遇するあらゆる出来事の源泉はそこにある。

カルマに対する洞察、カルマのコントロール、アカルマへの道が全ての人間の遠い旅路なのだ。

プレクシャ・ディヤーナはその旅の道しるべであり、地図でもある。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/10/25からの転載です)

コラム:瞑想・二つの流れ

アーリヤ人がアフガニスタンやパキスタン方面からインドに進出してきたのは紀元前13世紀から11世紀頃のことである。アーリア人は遊牧を生業とする人達であった。彼らが奉ずるのはヴェーダという宗教であり、司祭をバラモンと呼んだ。バラモンは施主から祭祀を頼まれると荒野に結界を作り祭壇を作った。結界に炉を作り火を燃やして火の中に生贄をくべ、施主の願いを叶えるべく呪文を唱え、神々を召喚した。ヴェーダというのは神々を召喚し願いを聞き届けてもらうための様々な呪文の事である。

祭祀が終わると祭壇は壊されて更地に戻された。遊牧民であったアーリア人は当初固定的な寺院を作らなかったのである。バラモンはインドに流入してくる以前には神々から天啓を受けるためにアムリタを使っていた。アムリタとは最近の研究によればベニテングダケだということがわかってきた。インドではベニテングダケが入手出来ないので、天啓を受けるための別な手段の必要性が出てきた。そこで彼らが採用した方法が苦行である。苦行によって天啓を得た。またアーリア人は自業自得の宗教哲学を持っていた。

一方インド在住の人々の間には長い伝統としてのシュラマナ系の宗教があった。シュラマナ系の起源は極めて古くインダス文明にまで遡ると言われる。シュラマナ系宗教では修行としてメディテーションが行われていた。そして教義として輪廻転生を信じていた。

紀元前8世紀頃、ヴェーダの流れとシュラマナ系の流れの宗教哲学が合流し、自業自得と輪廻転生の哲学が融合して解脱思想が起こった。何回も何回も生まれては死ぬのは嫌だと考えて大出家ブームが起こった。世俗的な生活ではどうしても沢山の業を作ってしまうので、業を作らないようにと世俗的な生活を捨て、行為をなさないようにと出家した。出家とは世捨て人、社会からドロップアウトした人の意味が強く、ぼろ布を纏っていた。ヴェーダの流れの中からも、シュラマナ系からも沢山の出家者が出た。

紀元前5世紀から6世紀頃、シュラマナ系出家者の中からマハビーラと仏陀が現れた。マハビーラや仏陀の時代、沢山の宗教哲学が起こり宗教論争が盛んであった。今日、世界中に見られる様々な宗教哲学がこの頃既に全て存在していたと言っても過言でない。六師外道が有名であるが、そのほかに沢山の宗教指導者が存在した。ジャイナ教の経典「スーヤガタ」では363の異なる宗教哲学があったとされる。マハビーラや仏陀以外では運命決定論・無因無縁論者のマッカリ・ゴーサーラ、快楽主義・唯物論者のアジタ・ケーサカンバリン、不可知論者のサンジャヤが主な思想家である。輪廻や魂を否定する彼らも又、出家であり質素な生活を営み苦行をしていたのである。

インドでは古代から輪廻転生が既定の事実として考えられていた。又、因果応報のカルマの支配も疑う余地のないものであり、仏教では六道輪廻からの解放を切に願った。ジャイナ教では地獄の7層、植物界、動物界、人間界、天界の26界に分かれるが、天界の最上階モークシャに入ることを理想とした。

修行によってカルマを根絶し輪廻の輪から離れてモークシャ(解脱)になるという点では仏教もジャイナ教も根本教義は同じである。見解の違うところはカルマがどこに蓄積されるかということと、輪廻の主体は何かということだけである。ジャイナ教は輪廻の主体として真我である魂を想定した。そしてカルマが魂に付着すると考えた。だから魂の汚れであるカルマを取り除けば魂は純粋になる。純粋になった魂がアラハンでアラハンが死んで肉体がなくなるとモークシャに入り、解脱してシッダとなり再生しないと説いた。

一方仏陀は実用主義者だったので証明できないものは有るとも無いとも断定しなかった。架空のはなしの論争を避け、そんなことに時間を費やさず心の安定に励めと弟子達を指導した。そして八正道の実践を奨励した。仏陀は体は私ではない、心は私ではないと言った。私は魂だとも云わなかった。

後世の仏教者たちは仏陀ともあろう人が曖昧な事を言うはずがないとして本来非我説であった仏陀の説を無我説(魂はない)にしてしまった。シャーリープッタやモンガラナーは初め懐疑論不可知論者のサンジャヤの弟子であったが、後にブッダが因果律を説くというので仏陀の弟子になった。仏陀が証明出来ない仮定の話にのらりくらりと断定を避ける姿勢をとったのは、シャーリープッタやモンガラナーをとおしてサンジャヤの影響を受けていたのかもしれない。

部派仏教の時代に仏教は「魂は無い」とする無我説を採用したので、輪廻の主体が不明確になり、カルマ論や輪廻転生からの解脱が曖昧になってしまった。現代のテーラワーダ仏教系は無我説の立場に立っている。

仏教にはニルヴァーナ寂静としての解脱があり、解脱の方法(実践方法・修行)があるが、無我説に立つと何のための修行かの説明が十分でなくなる。魂を否定するとそういう矛盾がおきてしまう。

ジャイナ教と初期仏教は教義や修行体系が驚く程よく似ていて、兄と弟、本家と分家、本店と支店のような類似性がある。小異を捨て大同につけば兄弟宗教と言っても良い。仏教側から見てジャイナ教を外道と蔑めば、ジャイナ教からは仏教が外道となる。

ジャイナ教は魂を認める宗教であり、カルマと輪廻転生を信ずる宗教である。プレクシャ・メディテーションの目的はアカルマ(無業)になることであり、魂を純粋にすることにある。そして魂があるか無いかに関係なく、瞑想修行の過程で健康と幸福を得る恩恵が間違いなくある。

古来ジャイナ教の出家者は自然法則を深く洞察し、今日でいう宇宙物理学や原子物理学のレベルの考察をしていた。それらの見解が古代のジャイナ教聖典に記述されている。現代科学に照らしてみて荒唐無稽なものも多いが、現代にも通ずる優れた見識も見受けられる。科学が発達していなかった古代において宗教哲学を科学的に説明しようとしていたジャイナ教僧侶の洞察は驚嘆すべきものがある。

私たちは本に書かれたものをまるごと信じたり、人の学説を鵜呑みにすることなく、あくまで自分で考え経験・体験し学ばなければならない。宗教哲学を論じる際にはアネカンタ、つまり非独善主義、無対立にならなければならない。他が信ずる宗教を否定してはならないし、侮辱してもいけない。他を尊重することが平和の道であり、争いを無くす道である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/1/28からの転載です)

コラム[瞑想をする、瞑想が起こる]

只見川と叶津川の合流点の瞑想に参加したS君が私に質問した。

「皆さん川の側で、じっと座っているけど、あれっていったい何してるんですか?」

S君は瞑想したことがないし、瞑想が何かまったくわからないらしい。そこで私はじっと座って何をしているかを説明した。

瞑想で一番大事なことは体の動きを止めることです。身体の動きは完全に止めることは出来ません。なぜなら地球が宇宙空間を動いているからであり、生きている身体も瞬間、瞬間に変化しているからです。私達の小腸の栄養吸収細胞は1500億個ありますが24時間で全て生まれ変わります。1秒間に170万個生まれかわっています。胃の粘膜細胞は2~3日で入れ替わり、肌の細胞は一ヶ月で入れ替わります。

どうしてじっとしていなければならないかというと、自分の皮膚の内側を観察しようとする場合、体を動かしていると内部感覚をあれこれ観察するのが難しいのです。体の動きを止めると、呼吸がリズミカルに落ち着きます。さらに目を閉じて外部からの情報を遮断すると心の動きが静まり、さらに意識的にゆっくりした深く長い呼吸をすると、思考(雑念や妄想)が静まって感じる心が強くなります。思考力が静まった分、知覚力(観じようとする心)が出てきます。

その観じようとする心で身体内部のさまざまな感覚を観じて行くのが瞑想の第一歩です。体を動かさないようにするとき、背筋を真っすぐにすることが肝心です。背筋が真っすぐでないと頭がボーとして眠くなります。背筋を真っすぐにして生命エネルギーの流れを良くすることが良い瞑想に入るために必要なことなのです。背筋を真っすぐに保つことが緊張です、体の動きを止めることが緊張です。随意筋はすべてリラックスさせます。

以上が内部感覚を観察する準備です。準備ができたら、外界からの音や光や風やコスミックエネルギーが内部感覚にどのように影響を及ぼしているのかを観察します。川の流れの音や鳥の囀りが内部感覚とどう結びついているかを観察します。観じようとする心で意識的に身体内部のさまざまな動きを知覚します。つまり、体全体を一つものと観じて、その内部で起こっているさまざまな変化を観じていきます。内部感覚として、どの部分が明るく感じるか、どの部分が暗く感じるか、明るさ暗さの部分が時間と共に変化して行くのを観じていきます。同じように暖かさ冷たさ、重さ軽さ、濃密さ希薄さ、等の感覚が変化し体のなかで動いていくのを観じてみます。細かな振動やバイブレーションがどこで起こりどこに広がり消えていくか等も観じるようにします。それが瞑想で「する」ことです。瞑想で私達がしなくてはならないことは体の中身が動いているということを感覚的に観じることです。出来るだけ細かく心を鋭敏にして観じていきます。

そこまでが「する」ということ、プラティヤハーラ(制感法)、ダラーナ(集中法)です。ディヤーナ(瞑想) サマージー(三昧) は整ったところに「起こる」ことです。瞑想は整えて行くとそこに現れ起こってきます。体の動きを止め、呼吸を整え、内部感覚と観じようとする意識的な心をしっかり結びつけるとディヤーナが起こります。

体が地球内部に高速エレベーターでストーンと落ちていく感覚、ロケットに乗って宇宙空間に飛び出していく感覚、三次元的な方向感覚がまったく消失した感覚、水平方向に身体感覚が無限に広がってゆく感覚、身体内部の動きが静止して全てが穏やかな光に満たされクリヤーに均一になった感覚、平和で静かな喜びに満たされている感覚等が起こります。本当の自分を少しだけ垣間見たような感じです。意識的な観じようとする心を内部感覚に結び付け、内部感覚に浸すようにしていると、感情や潜在意識がだんだん純粋になっていきます。そのとき、自分だと思っていたことが全部自分でなくなり、本当の自分に出会うでしょう。本当の自分に出会った時、不安や恐怖が消え、悩みや病が消え、真の健康を獲得し、平和と至福に満たされるでしょう。自己救済の道が瞑想の道です。なぜ多くの人は瞑想しないのでしょうか、人間としてしなくてもよい事ばかりしていて、しなくてはならないことをどうしてしないのでしょう? 明確な目的地を持って一歩、一歩、道を歩く者だけが目的地に到達できます。あなたは何処へ行きたいのですか? 何処に生まれたいのですか?


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/9/20からの転載です)

コラム[プレクシャ讃歌の魅力]

私がジャイナ教の瞑想法に魅せられたのは論理性の高さと、こうすればこうなると云う方法論が確立されていることにありました(日本の禅にはHOW TOが不足していると思っている)。

さらに、プレクシャ瞑想にはマントラや讃歌が具体的方法のなかに組み込まれていて、これが心身の深いレベルに影響を及ぼすと理解できたからです。私はテーラパンタ派のマントラや讃歌が大好きです。楽器を使わず声だけで讃歌を合唱しますが、メロディや旋律が心に響きます。

アラハト・バンダナやローガッサ・スートラの詠唱を初めて本拠地ラドヌーンで聞いたとき、私は言葉の意味や内容が解らないにもかかわらず魂をゆすられる感動を覚えました。もしプレクシャ瞑想の中に讃歌の詠唱がなかったなら、私はこれほどまでにプレクシャ瞑想に入り込まなかったかもしれません。そういう意味でヴィパッサナーとの出会いには魅力を感じなかったのだと思います。アラハト・バンダナやチャイテ・プルシャの意味は10年以上前から解明できていましたが、ローガッサ・スートラの意味がなかなか解明できなかった。それが最近になってようやく森山江美さんによって明らかにされ、私の長年の疑問が解消されました。

どのように唱えるかは、今年2月、ラドヌーンでニーラジ・ムニからいただいたCDがあるので、これを聴きこめば歌えるようになると思います。やっと日本でもプレクシャ合宿のときに讃歌を唱えることができるようになるでしょう。ニーラジ・ムニはテーラパンタ派で一番声が綺麗で歌が上手な出家僧です。CDを聴いていると歌声とメロディが深く心に浸透してきます。同時に悩みやストレスが抜け出てゆくように感じます。

仏教でもたぶん、仏陀の時代には御経が讃歌として詠われていたに違いありません。テーラパンタ派で朝に夕べに唱えられているマントラや讃歌は仏陀の時代の読典と同質なのだと思います。プレクシャ瞑想のHOW TO体系の内容はヨガのヤマ・ニヤマに相当するアヌブラタ戒律からアーサナ(身体のヨガ)、呼吸法、自己コントロールのバーバナ、プレクシャ・ディヤーナ、アヌプレクシャ、マントラ、讃歌まで多彩で総合的です。これら全てを含むのがプレクシャ瞑想なのです。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/5/20からの転載です)

コラム[清らかな心]

清らかな心とか、心を清らかにするとは、どういうことなのでしょう。それは宗教家や道徳を語る人が良く使う言葉です。そのような人が語る話を聞いても、書物で読んでも、清らかな心というものが理解できませんでした。なぜ、解らなかったかと云えば、心と云う言葉の意味する範囲が広すぎたからです。心という言葉を定義づければ、『心とは人間の生体内部で働く機能の総称である。また、人間の精神作用の基になるものと、その作用である。』となり、その意味するところが余りにも広範囲に亘っているからです。

 清らかな心と云う言葉で、若かった私が真っ先に思い描いたのは、神に使える巫女さんのような人でした。若くて容姿端麗で処女であり、両親からの愛に恵まれた幸せな家庭に育ち、人生上の困難な経験に乏しく、素直で従順な人を思い浮かべました。そんな、状態だったから清らかな心、清らかな人と云う概念が全く解らなかったのです。

 プレクシャ・メデティションを学び実践していくなかで、自分とは一体何かと云うことが、肉体の中で働く機能を含めて総合的に理解出来るようになってきたとき、やっと心の清らかさと云うものが解ってきました。

 心と云う言葉の範囲が広すぎて、心の清らかさが理解できないのだから、心の核心に迫るために、その意味する心の範囲を狭めれば良いのです。心を潜在意識と置き換えてみましょう。すると心の清らかな人は潜在意識が清らかな人だと云うことになります。

 潜在意識はジャイナ教哲学で云うドラビア・アートマン(純粋なる魂)に汚れが着いたパーヴァ・アートマン(汚染された魂)のことです。汚れた魂は、その人の個性であり、人格であり、精神性であり、癖づいた心でもあります。この汚れた心、つまり汚れである癖のことをカルマと云い、そのカルマが今、ある私たち全ての人間の人それぞれの現実を創っているのです。私たちの潜在意識であり、存在の大元である精妙な体のことをジャイナ教ではカルマ体、原因体と呼称します。日本語では霊体と呼称し精神性のことです。

 清らかな心と云う表現は本当は適切ではありません。清らかな魂と云うべきです。ジャイナ教の理想は魂に付着した汚れを振り払い、魂が純粋になることを目指しています。ジャイナ教では魂が純粋になった状態をモークシャと云い、それがもう生まれないもう死なないことで解脱と云います。解脱は全ての生き物に課されている課題であり最終目的地です。魂を完全に純粋にすることは、かなり難しいことなので、解脱の域に到達するのはほとんど不可能と云っても過言ではありません。解脱出来なくとも幸せになることは出来ます。それが潜在意識、カルマの浄化コントロールです。

 なぜ、生き物にカルマが付着するのか、それは宇宙全体に同じものごとの別の側面として、プラスとマイナス、陰と陽のエネルギー、バイブレーションが満ち満ちているからです。暖かい冷たい、好き嫌い、正しい間違いと云うのは同じことのレヴェルの差のことなのです。私たちは生きていたいという欲求を満たすために、自己中心的に行動しがちなので、それによって行動も考え方も癖づいてしいます。顕在的な意識は癖づきませんが、潜在意識は癖づきやすいのです。無自覚であれば誰でも癖づいた行動思考によって、同じようなものを引き寄せる悪循環に陥ってしまいます。

 善いものを引き寄せれば善いものが出てきます。悪いものを引き寄せれば悪いものが出てきます。生まれながらの天才的な才能も身体的な障害も病や悩みも潜在意識下の癖が原因となっているのです。この癖のことをカルマと云い業のことです。自ら創ったカルマによって我々は縛られて不自由になっています。カルマは人間の輪廻転生がわからないと理解できません。私たちが自由になりたかったら、幸せになりたかったら、このカルマの縛りをほどき、自分で自分をコントロールすればよいのです。

 カルマの法則とは、私たちが自ら幸、不幸を創っているのだから、全ては自己責任だということになります。カルマ論は外側から私たちをコントロールしている宇宙創造神のような賞罰を与える存在はいない事を示しています。そうで無ければ自由も平等もありません。カルマの法則の中で私たちは自由で平等で無差別なのです。私たちが日常的に繰り返す行動と思考の癖が潜在意識的にちょうどコンピユーターのハードデスクに打ち込まれたデーターのように機能して、私たちを操っているのです。ですから私たちはそのことを理解して、そのことを自己コントロールする必要があるのです。

 ジャイナ教ではカルマは超微細な物質であると考えています。これが素材としてのカルマです。素材である物質的なカルマの影響で、様々な感情や欲望が起こってきます。それらは善いものも有れば悪いものもあります。問題なのは悪い感情と欲望です。

 それは大きく分けると4つあります。一つは怒りです。不平不満 非難、嫉妬、羨望も怒りの一種と考えてよいでしょう。二つ目がプライドであり、傲慢さ、利己心です。三つ目が強欲です。強欲とは他人の物まで自分の物にしてしまう強い欲望です。四つ目が嘘、偽りを語る虚偽の心です。この4つの潜在意識下に癖づいている心であるところの怒り、自己中心的な心、強欲、欺瞞を取り除いていけば、かなりの部分私たちの潜在意識は健全で清らかになります。清らかな心とは潜在意識の清らかさであり、怒らない心、謙虚で利他心に満ちた心であり、足るを知る心であり、嘘、偽りのない正直な心だと云えます。

 今、起こっているウクライナ戦争の事を考えてみましょう。その真の原因がその国を指導する指導者達の心の汚れに起因していることがわかるでしょう。その指導者を選び出した国民一人一人の心の汚れの総和に起因していることが解るでしょう。だから、私たち一人一人の心の持ち方をコントロールことが大事なのです。潜在意識下に根付いた心の癖を善いものに替える事が心を清らかにする道です。

 潜在意識下の癖を知らないこと、日常生活が無自覚であること、それを無知と云うのです。唯物論では無知は治らない。宗教を否定する思想では無知は治りません。無知によって私たちに不幸がやってくると知るべきです。

 潜在意識下の心を清らかにする方法は、日常生活で求める心を止める事です。いろいろな物事を欲しい欲しいと求める心を止めて、他に捧げる心に切り替えることに尽きます。自分の持てる力や才能を他の人の喜びと幸せと友好、共存共栄のために使うのです。その実践こそが怒りを無くし、傲慢さが無くなり、欲望を少なくし、欺瞞に満ちた心を、友好と無条件の愛に溢れた清らかな心にしてくれるのです。一人一人の心の平和が国の平和になり世界の平和に繋がっています。

 魂(アートマン)を理解しカルマの法則が解り、生き物の輪廻転生が真実として確信出来るようになれば、私たちの自己認識は一変するでしょう。宇宙始まって以来の全てのご縁に感謝できるようになるでしょう。その全てのご縁に感謝できる心のことを清らかな心と言います。全ての人間の心が清らかになった時、地上がそのまま天国になるでしょう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2022/10/31からの転載です)