現代はネット通販での物品購入が盛んである。ウェブ上には沢山の広告が溢れている。世の中のほとんど全ての商品をスマホやパソコンで検索し、購入できると云っても過言でない。
商品を売りたい方からすれば、いかに上手に消費者の購買意欲に訴えるか智慧を絞っている。広告が上手であれば、価値に乏しい物も高くよく売れる。
ネット通販で商品を購入して、イメージした物と、届いた実物が大きく違っていて、失敗したと思った人も多いだろう。また逆にネットオークションで、とても素晴らしい物を安価に入手して喜ぶ人もいるでしょう。
なぜこのようなことが起こるのかは、ウェブ上では視覚を中心にした画像と文字情報が主であるからだ。そこには、触覚による情報が無い。触覚を欠いた情報はバーチャルであると云えるだろう。そこには体験が欠けている。生き物の根源的な感覚器官は触覚である。触覚が備わっていない生き物は、物質的なこの世には存在しない。触覚の大切さをもう一度しっかり思い起こしてほしいと思う。
私はここ2-3年、視力が衰えて老眼も進んだ。読書が今の私の最大の愉しみなのだけれど、大きめの虫眼鏡を使って、小さな文字を読んでいる。不便極まりない日常である。今や視力の衰えは私の最大の弱点になった。
その弱点を上手に突かれた。ドウー・アクティブという老眼鏡がある。左右のレンズが二重になっていて、フレームに付いている調整ねじを回すことで、前のレンズが左右にスライドし焦点が適正に調整されるものである。「なるほど、うまいことを考えたものだな」と思ってネットで注文した。
ネットでしか買えない視力を改善するというサプリメントを注文して、試してみた。しばらく続けたが何の効果も現われなかったので、「もう、ネットで買い物は止めよう」と思ったはずなのに、「これは」と期待してしまったのだ。
届いた商品の老眼鏡の性能に嘘は無かった。使い方の問題、商品に対する期待感の問題だった。購入前に衣類を試着するように、体験出来ればよかった。返品も出来たが面倒だったので、今後の教訓にしようと考えて返品しないことにした。
老眼鏡購入で失敗した数日後、ビル風に煽られで、10年ほど大事に使ってきた70センチの雨傘が壊れてしまった。ネット通販はこりごりしたので、銀座の松屋に出かけて実物を見て、手で触り納得できるものを買い求めた。値段はネットで買う通常の物より、2倍も高価だった。慌てて行動すると、注意深さに欠けて間違えることが多い。便利さとスピードと安価さはネット通販業者の武器であるが、その利便性が逆に我々の弱点を示しているのである。
似たようなことで、特殊詐欺の被害者になる人は、その人の弱点を詐欺師に突かれるからだと思う。気になっていた宗教的な詐欺まがいも同様にして起こってくることに気付いた。
仏陀やジナ(マハーヴィーラ)の教えは本来、完全な自力であった。自力と云うのは全てが自己責任ですよ、と意味している。しかし、大乗仏教はヒンドゥー教の成立を受けて、その他力主義を取り入れて変化したものであり、仏陀が提唱した仏教ではない。後世のジャイナ教でも、ある一派ではジナの偶像を崇拝し、寺院を作るように変化した。
大乗仏教では救い救われを説き、衆生に対する慈悲である菩薩行を強調する。出家も在家も菩薩行を実践する人は慈悲としての救いに邁進する。一方で心身に悩み、苦しむ衆生は、それに対して救われを求める。救われたいと云う需要があるから、救い手が現われてくる。相互依存の関係になっている。騙されたい人がいるから、騙し手が現われる。これも相互依存であると云える。
私は弱者と自己責任感の少ない人は別けて考えるべきと思う。弱者は助けなければならない。怠け者や自己責任感に欠ける人に対しては救いではなく、教育が必要なのだと思う。二宮金次郎は慈悲をそのように別けて実行した。弱者と怠け心の無責任者を混同して助けようとするから、嘘ではないけれど、本当ではないことが必要になってくるのではないかと考える。そこには救い手側の都合や欲も含まれていると考える。自己責任が強い人は、救いを求めない。救いを求める依頼心の強い人は、責任を他に転化しがちな人だと私は考える。
「依頼心はエゴイズムと共に世の中を悪くしている根本原因だ。」と沖正弘先生も言及している。いらないところまで、救い救われ理論を持ち込むから騙した騙されたのような詐欺まがいの問題が起こっているのではないかと考える。肉体の病気治療もヒーリングも効果は一時的なものだと考えるべきである。根本的な解決法は別の所に有るからだ。問題が起こる根本原因は救い手と救われ手の相互間でのもっと、もっと、もっと、と云う渇愛(根本欲)に起因しているのだと思う。そこを解決しなさいと仏陀が説いています。
大乗仏教では仏道に易行道と難行道があるとして、自力道である難行を廃して、救い救われの道である易行、つまり他力を勧めた。本当に価値あるものが簡単に手に入るはずがない。このことは少し考えれば道理に合わないとすぐ解るだろう。楽な事、簡単なことの概念に、自分の欲と期待が引っかかると体験に乏しい人は騙されてしまうのである。騙されたい人が欲を持っているから、騙す方はそれを上手に利用する。
【救われたい人間の欲】
仏陀の時代から過去仏と未来仏という考え方があった。釈迦牟尼仏陀は入滅したので未来仏としての弥勒如来が生まれるまでは、仏のいない時代となる。それでは人間は救われない時代なので困るではないか、と云うことで現代仏が求められた。
【救い手の対応】
その要請に答えるように、造り出されたのが現代仏としての数々の如来や菩薩である。代表的なものが観音菩薩、地蔵菩薩である。大無量寿経に記された法蔵菩薩の大願、西方極楽世界の阿弥陀仏。東方浄瑠璃世界の薬師如来。維摩経に出てくる妙義国のアシュク如来。華厳世界の毘盧遮那仏。おとぎ話のような壮大な物語として現在仏のいます世界と架空の仏が造り出されたのである。
【更なる対応とその理論】
方便はその時代の人が救いを求める人々の解決策として、作られた理論、理窟である。小さな嘘は直ぐバレル。大きな嘘は検証しようがない、信ずるか信じないかになってしまう。方便は嘘ではないけど本当ではない。厳密にいえば本当でなければ嘘なのである。方便によって救われるのであれば、それは騙したということではなく、助けたということである。その理屈は助けた方の言い訳ともとれる。本当に必要性があったか検証されなければならないと思う。方便と云うのは真理に近づくために、その人のレヴェルに必要に合わせた処方箋みたいなものである。善い方便もあるが、私たち一人一人は方便を超えて真理を探す旅を継続すべきと考える。それが自力の道である。私は他力は人の精神性を高める効果として乏しいのではないかと考えている。
方便によって救われるためには、その物語が真実真理だと信じて塵ほどの疑いを持ってはならないと云うのである。仏教用語で疑蓋と云うのは、99%信じていても救われない、100%信じないとだめだという。法蔵菩薩が全ての衆生の悟りの後、誓願が成就して悟りの本願を成就したのだから、全ての人間は既に悟っている。だから『南無阿弥陀仏』と唱えれば誰でも救われる。「そうであるなら疑っている人は救われないと云うのは、二枚舌で矛盾ではないのか。」「信じていない人も悪人も極楽往生できるのですから。既に全ての衆生は救われているのでしょう。」 人間はもともと悟っていた、救われていた。なのに、好んで遊戯の旅に出た。遊戯の旅に飽きたら、もとの真実に戻りたくなるだろう。それが、南無阿弥陀仏だよ。「それなら、理屈っぽい私にも理解できる。だけど、そのような説明は聞いたことが無い。」真実の内なる自己を探求していけば、外なる何者かに頼ることは無くなるだろう。頼れるものは自分自身だけであると云う考え方を私は支持する。でなければ、自由は無いことになる。救いを求める人に対して、ただ救うのではなく、他に頼ることなく自分自身で問題を解決する方法を教えるべきである。それが真の菩薩道であると思う。
【大乗仏教も真理、智慧を説いている】
私は大乗仏教が真理ではないと云うのではない。真理を説いている事も沢山ある。私は大乗仏教全ての宗祖であるとされる龍樹を尊敬している。龍樹が『中論』で説く空の教えの信奉者でもある。空の教えは仏陀の無常、縁起論を発達させたものである。龍樹は説く、この世・現象物質世界に固定不変の実体はない。この世の全てのことは原因と御縁が結びついて起こっている。それを『空』と云う。
不生不滅、不常不断、不一不異、不来不出。
生ずることもなく、滅することもない。常に変化しているが途切れることなく続いている。前後として同じではないが全く違うわけでもない。来ることもなければ去ることもない、と空を説明している。龍樹にとって空の説明はアートマンの説明でもあった。
常に変化しているが、途切れるんことなく続いている。とは常見でもなければ、断見でもないということである。常見は不変の実体であるアートマンがあるということ、断見は全てのものは存在しない、死んだら無になって終わることである。空は無ではないというのが龍樹の教えである。空は輪廻転生を否定しているのではない。
【注記】
ここで言うアートマンは汚染されたアートマンと究極浄のアートマンを別けて説明していないから理解が難しい。
変化するアートマンをジーヴァ・アートマンと云う。大乗仏教瑜伽行派のヴァスバンドウはジャイナ教のジーヴァ・アトマンを阿頼耶識と説明している。別けることは出来ないけれど変化しない普遍的なアートマンの一側面をシッダ・アートマンと云う。
大乗系のあるグループは龍樹は自力では悟れなかった、絶対他力で救われたのである、とグループの理屈に合うように主張している。外道を含めて当時の宗教全てを探求し、深い思索を繰り返し、論理的に矛盾なく考察した龍樹ともあろう人が、完全他力によって救われた等と云う話を私は信じがたいのである。大乗仏教は非常に難解である。私にもまだまだ理解できない理論・理屈が多い。
沖正弘先生は「信ずるな、疑うな、確かめよ」と説かれた。私は「信ずる前に疑って、熟考して間違えが無いか確かめて、最後に自分に必要なら受け入れなさい。」と教えたい。宗教を只、盲目的に信じてはならない。でないと、「カルトや宗教的な詐欺に騙されるよ。」「宗教がどうして必要なのかが正しく理解できないよ。」と云いたい。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/4/29からの転載です)