コラム[利己心と依頼心]



人類社会が混乱し争いが絶えない根本の要因は、人間の心の奥に巣食っている自己中心的なエゴの心と他者への依頼心である。この心を正し、取り除いていかないと個人として幸福になれないし、社会に平和が訪れることもないだろう。宗教が必要とされる理由は、その二つの心から起こる問題を取り除くためである。

世界中にある宗教の根本教義を要約すると、宇宙は神によって創られたものであるという創造神を認める立場と、宇宙は神によって作られたものではなく始めもなく終わりもなくただ無限の変化を繰り返しているに過ぎないという立場の二つに分類できる。創造神を認める立場の主な宗教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。一方、創造神を認めない立場が仏教やジャイナ教である。ただし、後世の変容した仏教やヒンドゥー教には創造神を認める立場もある。

創造神を認めると神様が人間の人生をコントロールしていると考えるようになる。それに対して、創造神を認めない立場の人間は神様にコントロールされているのではなく、自分の為した行為に支配されていると考える。自分の行った行為は潜在意識下の深いレベルに蓄えられていて、それが人間をコントロールしていると考えた。それが自業自得、自己責任、因果律の考え方、教えである。

創造神を認める立場の人は人間的に成長するために、そして神に救われる為には、他に対する奉仕、社会救済活動が必要と考えた。自分が他を救うことによって神様からの救い、恩寵を受けることができると考えた。神による救いと救われを理想とし、他に対する思いやりの心を育むことと愛の実践を重視した。この立場はエゴの心を取り除き自己中心的になることを防ぐ利点があるが、ともすると依頼心を育て他に依存するようになってしまう。責任を自己に見ないで他に転嫁する考えを育む。訴訟事案の多い社会となる弊害がある。良いことをすれば神に救われるが、悪いことをすれば地獄に落ちて劫火に焼かれると勧善懲悪を教える。近年の日本人の考え方から責任感が希薄になってきたのは、創造神を認める欧米文化の影響が強くなって来ているのではないかと私は考えている。

ジャイナ教や初期仏教は解脱(輪廻転生からの離脱)を理想として、輪廻転生の元である原因と結果の法則を断ち切ることを理想とした。今、自己に起こっていることの全ての原因は自己にあるとして、他を助けること、他から助けてもらうことに力点を置かなかった。このような考えはともすると他を突き放し、自己中心的になりやすく傲慢になってしまう欠点がある。良いところは、自分のことは自分でするという自主独立の精神が養われ、強い責任感を持ち、責任を他に転嫁しない考え方を育む点である。しかし社会的弱者に対して突き放した冷たい社会になる恐れがある。原因と結果の法則、魂の輪廻転生を説いて悪を為さないように教える。

社会救済を主とする活動は、自己を皮膚の外側に拡大していく方向性を持つ。人類救済のために菩薩行、愛の実践を行う。地上天国の創造を目標にし、神に救いを求める祈り、他を助けるための救いがその方法である。自己拡散的なこの方法を通して今まで自分でないと思っていたものが自分となる。他人が自分となり、動物や植物が自分になり、他物が自分になり、地球が自分になり、ついには宇宙が自分になる。

自己救済を目的にした修行は、自己の皮膚の内側に集中していく求心的方向性を持つ。解脱のために瞑想を通して徹底的な自己観察を行う。自己観察によって今まで自分だと思っていたものが自分でないと解る。体は自分ではない。心は自分ではない。怒りや悲しみ等の感情も自分ではない。悩みや癖や反応も自分ではないと解る。自分ではないものを取り除いていって最後に本当の自分が残る。不純物が混ざり合った金鉱石を精錬し純金にするように、不純物で汚染された水を清らかにして純水を作るように、魂の本質は純魂というべき純粋なものである。

世界中の宗教は大まかにどちらに重点をおいていかによって二つのいずれかのカテゴリーに分類できるので、今自分が学んでいるスピリチュアルな学びはどちらに属しているのか常に念頭に置いておかなければならない。そのことが分かっていないとスピリチュアルな学びが混乱して何がなんだかわからなくなる。創造神を信奉する宗教は神の偉大さを強調するために壮大な寺院を必要とした。バラモン教の時代には大寺院を必要としなかったが、ヒンズー教化すると壮大な寺院が建てられた。仏教も救いの概念が入って大乗化すると大寺院が立てられるようになった。ジャイナ教も祈りや救いが入ると壮大な寺院が建てられた。偶像崇拝する心に祈りと救いの概念が入る。初期仏教や初期ジャイナ教には救い救われの哲学は乏しく自力修行と自己責任が強調される教えであった。ジャイナ教のマハーマントラは救いを祈るものではなく、悟りを開いた先人に対する敬慕と感謝の想いを言葉に出している。

私は一般に言われている自己救済を目的にしたメディテーションを「瞑想」というのに対して、自己拡大していく社会救済的な活動を「冥想」と呼びたい。本当の瞑想とは、「瞑想」と「冥想」を合わせたものである。沖正弘先生は創造神を認める宗教と創造神を認めない宗教を統合してその全ての修行を総合的に行うことを冥想行法と表現された。パタンジャリのヨガ8段階に不足している社会救済的な面、愛や祈り救いの行法を加えてヨガの10段階を構成した。総合ヨガの10段階には冥想行法という段階はない。一般にメディテーションと言われている段階は統一行法(ダラーナ)と禅定行法(ディヤーナ)に相当する。ヨガの10段階全ての行法を含む意味合いを持つ冥想行法の中で最も重要なものは統一行法、禅定行法であると言っている。

沖先生の提唱されたヨガは総合ヨガであり、生活ヨガ、求道ヨガ、冥想ヨガである。そしてそれらを実践することが「生きている宗教」である沖ヨガ、沖道である。創造神を認める宗教と創造神を認めない宗教を統合し、その欠点を利点に変え、日常生活の中で実践していくとした宗教哲学である。

身体の動的訓練が素晴らしい沖ヨガと霊性の静的訓練が素晴らしいプレクシャ・メディテーションが融合したら、人類史上最高の身心訓練法になるのではないかと常々思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/3/31からの転載です)

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