近世ヨーロッパでジャイナ教哲学が研究され始めた時、ジャイナ教は仏教の一つの分派であると考えられた。それほどジャイナ教と仏教の教義が類似していたのである。今ではジャイナ教と仏教は別の宗教であると確定している。しかし、修行法も開祖の生い立ちや境遇、宗教が成立した時代背景などに共通点が多く、兄弟宗教と考えられている。
ジャイナ教と仏教の根本的な共通点は何であるのか。
初期仏教とジャイナ教の共通点は、生きとし生けるものは生滅を繰り返し輪廻転生していて、生存そのものを苦しみであると解釈した。人間はその生存の苦しみになっている輪廻から離脱して理想の状態(涅槃・モークシャ・解脱)を目指すべきであると教説している。
では、何処が根本的に異なっているのか。
それはアートマン(魂霊)の解釈の違いである。マハヴィーラはアートマンについて克明に説いて輪廻からの解脱を教えた。一方、仏陀は実用現実主義、唯物主義的観点に立ち、実在を証明できないから、アートマンについて説明を避けて涅槃を説いた。アートマンを説明すると極端な非暴力主義に陥り、人間生活が非現実的で不便になると云う理屈からであった。仏陀の時代、ジャイナ教はニガンタ宗と呼ばれ裸形派(ディガンバラ)だけだった。仏陀はニガンタの修行者を見て、極端な苦行で自虐することに疑問を抱き中道を唱えたのである。
マハーヴィーラは現象世界、自然界を徹底観察し、思考の上に思考を重ねる論理的思想家であった。彼は物質的なものだけではこの世の中を完璧に説明できないとして、非物質的な物の見方を加えて解脱を説いたのである。彼は理想主義者、厳格主義者、非唯物論者だったと私は考えている。マハヴィーラは以前から有った自我説(アートマン)とカルマ論を発達させ精緻なものにした。その結果としてジャイナ教は不殺生・非暴力、無所有・無執着の厳しい修行体系となっていったのだと思う。
 ジャイナ教聖典の中で、最も古代のものであるとされる聖典に『アーヤーランガ』がある。
この聖典は幸いなる方、バガヴァン・マハヴィーラの弟子であるスハンマ (50歳でマハヴィーラとの論争に敗れて弟子となり、80歳まで師と共に過ごし、92歳で一切智者となり、100歳でモークシャに入った。) が、直弟子のジャンブー (マハヴィーラがモークシャになった64年後に一切智者になった) に語った記録である。
 この聖典はマハヴィーラが出家修行者の為に向けて語ったものであって、在家に向けられたものではないと云う特徴がある。
その中の第1章、第3節の3に次のような記述がある。
みずから、世間を決して誣いるべきではない。アートマンを決して誣いるべきではない。
世間を誣いるものはアートマンを誣いる。アートマンを誣いるものは世間を誣いる。
と語っている。
◆世間は世の中と云う意味で、誣いるという言葉は事実と違うことを云ったり、事実を曲げて人に話すことである。マハーヴィーラはこの様にアートマンの考え方を大事にしていたことが伺える。
アートマンの哲学はマハヴィーラよりも100年以上古い時代に既にインドでは知られていた。ヤージュニヤ・ヴァルキヤはバラモン教の思想家であったが、アートマンはこの世界の外側別次元に属し、輪廻転生の原動力はカルマであると説いている。輪廻転生思想と瞑想修行はインダス文明まで遡るとされ、インド先住民族ドラヴィダ人に伝承されていた。ドラヴィダ人の宗教はシュラマナ系の流れと云われ、その中から、BC6世紀、ジャイナ教と仏教がほぼ同時代に起こったのである。時代は少し遡るが、バラモン系宗教とシュラマナ系宗教の思想的、修行的な合流があって、BC8世紀ごろ、インドの宗教思想の核心、解脱思想が起こったのである。
解脱とは輪廻転生からの離脱である。カルマを無くすことによって、輪廻転生は止まるとその時代の人々は考えた。
仏陀は従来から一般に信じられていたアートマンに対する信仰に疑問を抱き、アートマンに言及せず、縁起論(カルマ論)と輪廻転生からの涅槃を説いた。仏陀の菩提樹下での、考える瞑想の悟りは『12縁起』として知られている。「これがあれば、これがある。これが生ずれば、これが生ずる。これが無ければ、これが無い。これが滅すれば、これが滅する。」順にたどっていって、出発点にあるのが無明だと気付いた。無明が滅すれば、輪廻も滅すると解釈したのである。無明と云うのは、いろいろな欲望の基であり、言葉を変えるなら、苦楽の感覚、そして好き嫌いの感情の大元である。生きていたい、永く健康でいたいと云う命の働きの中にインプットされた根本的な生存欲である。これを無知と云い、渇愛と呼び、ほとんど制御できないから無明と云った。初期仏教の涅槃は無明を滅することだったから、ことさらアートマンやカルマについて詳しく説明しなくても済んだのだと思う。
一方、マハヴィーラはアートマンを説き、全ての生きとし生ける物はアートマンのレヴェルで平等であり、無差別であり、輪廻転生の中で親兄弟であり、友であると説いた。生き物たちは生きたくて生きていて死にたくないし、いじめられるのは嫌なのだから、決して他に対して暴力をふるったり、殺してはならないとした。ジャイナ教は不殺生・非暴力、無所有・無執着の宗教である。仏教にもそのような教えがあるがジャイナ教はそれらが徹底している。魂の哲学を発展させ強調すると人間生活が不便になるきらいがある。仏陀は人間生活に不便であり、現実的ではないアートマンに対する考え方を避けたのだと私は推察する。
ジャイナ教はマハヴィーラ以降もアートマンの哲学とカルマ論を発達させていった。特にジャイナ教の修行はいかにアートマンから物質的なカルマの染着を取り除いていって、純粋になるかに絞られるようになった。
ジャイナ教のカルマは素粒子のような超微細な物質である。超純粋なるアートマンにカルマが付着するとジーバと呼ばれる生命体になる。その生命体は行為することによって微細なバイブレーションが起こり、それに、部質的なカルマが引き寄せられて流入・アースラヴァが起こる。カルマのアースラヴァによって魂(アートマン)は束縛・バンダされる。束縛を受けて不自由になり自己を見失いカルマによってコントロールされる。魂の本質は無限の自由であり、歓喜にあふれ全知全能であるが、束縛によってそれらが覆い隠されて誤解と迷いと苦しみの人生になる。
 ジャイナ教修行と云うのは、そのカルマの流入を防止・サンバァラして、蓄積されているカルマは解放・ニルジャーラして完全なるアカルマ・無業を目指すものである。
 解放・ニルジャーラは残存するカルマを除去するには苦行と禁欲によって可能であるとしている。ジャイナ教の極端と思える苦行や禁欲主義、厳しい戒律はこのようにして出来上がってきたのである。
 ジャイナ教の解脱、モークシャは全知全能、完全なる自由、歓喜に溢れている。究極の清らかさである。仏教の涅槃、ニルバーナは蠟燭の火を吹き消すように何も残らない。虚無的である。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/5/29からの転載です)
