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読むプレクシャ・メディテーションVol.10-「迷走・瞑想・名僧 東大に入るYoga」を読み解く-

6月4日(土)20-21時に『読むプレクシャ・メディテーションVol.10-「迷走・瞑想・名僧 東大に入るYoga」を読み解く-』を開催いたします。今回は16-17話を読み解いていきます。

良い食べ物を食べると肉体が満足するように、良い学びを摂り入れることで心が満足します。頭が整理され、瞑想の理解が深まります。知的な理解は実践へと繋がります。知行合一の循環はより高い充足感をもたらしてくれます。

オンラインでの会になりますので、ご自宅問わず、どこからでもご参加頂けます。

Zoomオンラインでの参加で読み解き人との質疑応答にご参加頂けます。

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プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。
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【当日の流れ】
1「迷走・瞑想・名僧 東大に入るYoga」16-17話を読んで参加(読まなくても参加できますが効果が減少します)
2参加者からの読後感
3著者からのポイント解説
4フリートーク
5終了

【読み解く書籍紹介】
「迷走・瞑想・名僧 東大に入るYoga」(まつい ちえこ著)
16話 個人的だけど全体的*ホームレスの神様
17話 神の目・人の目*すべては善いこと



*書籍のご紹介(ご挨拶より抜粋)*
この小冊子は主にインドで仕入れた昔話が基本になっています。昔話だけでなくヒンズー教僧侶やシベリア抑留者の体験談、その他も載っていますが、日本ではあまり知られていない「ジャイナ教」の説話を多く選びました。

【日時】6月4日(土)20-21時(受付開始:19:45)

【会場】オンライン

【受講料】なし(手元に書籍がある場合)orドネーション(手元に書籍がない場合)
*書籍希望の方は、お申し込み後、ご購入頂くための決済リンクをお送りいたします。書籍代1200円税込+送料340円税込+発送手数料100円となります。決済完了後、書籍をお送りいたします。

【読み解き人】:まつい ちえこ

プレクシャディアーナ協会・指導士
NPO沖ヨガ協会・講師・理事
OM楽ちんヨガ会・主催
動禅整体師
イギリス留学中にヨガに出会う。
帰国後1977年から沖ヨガ・三上浩二先生のアシスタント。
1979年 沖正弘導師のご縁で、6ケ月週末合宿の指導員研修を受ける。以後大手企業等で単独指導。
1985年 沖導師のご逝去と自身の転機が重なりヨガから離れる。
2006年 ヨガに復帰
2007年 ジャイナ教キャンプでヨガは瞑想であると改めて実感。
インド旅11回(ヒマラヤ巡礼・ジャイナ教研修)
他・国内外のヨガ・瞑想キャンプに参加・自らも合宿を開催。
カルチャスクール・小中学校コミュニティ・個人対応など学びながら指導中。

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。

ジャイナ教の昔話その7:包まれている本当の自分・輪廻するのはだれ?(まつい ちえこ)

「肉体を自分だと感じ、大切にすること」は生物として命を守るために必要でありましょう。 
その肉体に包まれているものがいわゆる魂で、肉体は儚いが魂は死なないというのが輪廻転生観のもとになっています。
肉体は食物鞘と呼ばれたりしますが、肉体と魂は鞘と刀身のようにスッパっと別れているわけではないといいます。

前世の身体的特徴が転生後に表れている例をエドガー・ケ-シーも報告しています。
肉体的意識の強さ、潜在意識まで染めた愛憎、強烈な体験の印象などは、転生後の身体&精神的傾向にも影響するようです。

肉体から魂に戻る為には人生を生き切らなくてはいけません。

「心が自分だと思うこと」も自然なことで精神的成長に役立つ概念です。
しかし、魂は転生の度に違う感性を味わったことも知っています。
一生においても心はコロコロ変わります。
どれが私の心なのでしょう。

ともかく、私の、とついたモノは私ではないのです。
私の家族も私の友も私ではありません。
私の体も私の心すら私ではないのです。

私たちは肉体を脱いだ時に自分は魂であったこと、肉体は本当の自分では無かった事を知り、肉体に縛られている間には味わえなかった自由を満喫します。
そして心ですら本当の自分ではないことを理解した魂は、その魂を超えた大きな自由があることを知り、本当の自分=真我に戻りたいと願います。

真我に戻る為には魂として生き切らなくてはなりません。

魂は自らを成熟させて真我に戻りたいのです。
そのために転生していくのです。
自分を個我とならしめている迷いから抜け出す道を魂は歩んでいきます。

地球は宇宙の中では小学校だという例えもあります。
卒業したら中学星に進学するのでしょうか。
その見方で行くと、大学院星を卒業して、地球に教師として赴任されたのが聖人なのかもしれません。

地球は他の星の天国(地獄)だと観るのも面白いです。
「昇天(昇地球)したい」と徳を積む下位星人にとって地球は天上界です。
「悪いことをすると地球に落ちますよ」と諭される上位星人がいるかもしれません。
多次元世界に全てがパラレルで存在するとしたら可能性はありそうです。

地球上に天国と地獄が既にあるとみることもできます。
豊かで安楽に暮らしながら疑獄の苦しみを味わう方、地獄のような環境で天国の愛を体現する方もいます。

今ここ、この一瞬に全てがあるとも言えます。

そして小学生の命と大学生のそれが同等なように、熟成度が違っても夫々が大切な命なのです。

私たちはどの段階にいるのかわかりませんが、全ての魂は卒業して宇宙に還るのです。
何時どのようにしてかの説明は多種にわたりますが「人は悟り(真我)に戻る」と多くの聖典にあります。

「神のもとに集う」「人は神(仏)の似姿である」を意味する表現も多くの聖典に共通してみられます。
「何かを知るということは、思い出すということなのだ」とプラトンも言っていますが、
真我に戻ったとき自分は宇宙と一体であることを思い出すのでしょう。

ここで一休み。短いお話です


****お話・その7・誰かがズルしている?(出典不明)****

ある日、目が言いました「私が見つけた食べ物を手が取ってしまうのはずるいのではないか?」。
手が言いました「私が運んだものを、口が取ってしまうのはずるいのではないか?」。
口が言いました「私が噛んだものを胃が取ってしまう。一番ずるいのは胃だ」。
皆は、食べ物を独り占めしている胃のために働くのをやめようと決めました。

暫くのんびりと過ごしていましたが、目がしょぼしょぼしてきました。
手にも力が入りません。口もおしゃべりが面倒です。
それまで黙っていた胃が言いました「断食してくれてありがとう。
皆さんの栄養のためにずっと働いてきたので、良いお休みをいただきました」と。

色々な解釈ができるお話ではあります。

コラム[自分の生活と幸福感を何と比較するのか]

人は皆不幸を厭い幸福を求めている。

そして、私達は自分が他と比べて幸福なのか不幸なのかをいつも気にしている。私は多くの人が比べている対象が間違っているので、自分を不幸な存在に感じてしまうのではないかと思っている。比べる対象を現代の身近なところを対象にするのではなく、もっと時間も空間も広げて対象を探して今の自分と比べたら、いかに自分が物質的に恵まれて幸せかが解る。物質に恵まれた分だけ、逆に精神的に脆弱になり、心が不幸になっていることも解る。

日常的に感じて捉えている自分を取り巻く世界を瞑想的に広く深い視点で見てみよう。視点を替えて自分が江戸時代の人間で時空を超えて現代に迷い込んだと仮定してみる。

場所は只見の叶津番所

叶津番所の外観を見るとほとんど江戸時代と変わっていない。建物内に入ってまずびっくりしたのは、電気という仕組みだ。指で押すだけで行灯やロウソクの100倍も明るい光が天井から吊り下げられたギヤマンの玉から発せられることだ。又、この電気は目で見る事が出来ないが、紐のような中を通って炬燵の中の箱型の装置の中で炭の代わりに熱を出して暖かくしている。この便利な装置は温度を自在に調整できるので暖かく大変気持ち良い。テレビという驚くべき箱芝居があった。これも電気によって情景が映し出されるのだという。世の中で起こっていることの全ての瓦版が廻り灯篭のように紙芝居のように映し出されるのだ。テレビという装置はとても面白く、あたかもその場所にいるように事件や芝居や祭りが見れるし旅行まで出来る。だから何時間見ていても飽きない。この家には水屋(台所)があるが、とても便利に出来ている。水が水道という金属で出来た筒を通って来て簡単に出したり止めたりすることが出来るし、大雨の後でもとても水が綺麗なのには驚いた。

この家には竈がなく、不思議なガスというものを使って煮炊きしている。ガスは煙もでず、火加減も調整出来るようになっている。点火には付木を使わず、火花を散らすことで一瞬のうちに火が付いてしまう。風呂場に行ってみると、水道とガスをうまく組み合わせて簡単に風呂が沸かせるようになっている。厠に行って驚いた。全然臭くない、便槽がなくて、出した便が全部水で流されてしまう。驚くべきことに便を出すための腰掛けから水鉄砲のように水が出て紙を使うことなく尻を洗うようになっている。

石油ストーブというものがあって油を燃やして暖を取るようになっている。どこにでも簡単に持ち運べるので、暖かくしたい部屋に持っていけば良い。着物は我々の時代と全く違う形で動きやすいし丈夫で暖かい。糸は砿油から作るらしい。それにとても安く手に入る。一日か二日働いた給金で一揃いの衣服が手に入る。草鞋を履いている人は誰もいない。ゴム長靴という便利な履物があった、外から水が染み込まないので、雪の中を歩いても冷たくない。布団はとても軽くて暖かい、綿でなく砿油から作られた軽い糸が中綿の代わりになっている。中綿が軽い羽毛で作られた布団も多く出回っているらしい。羽毛が中綿になった袢纏のような衣類があったが、暖かく軽く水も通さない驚くべきものだ。遠くの人と話す事ができる手のひらに乗る程の大きさの道具は本当に不思議なものだ。どうなっているのかさっぱり見当もつかない。この小さな道具で手紙のやり取りもできるとのことだ。江戸や京、長州で起こっていることが遠く離れていても互いに話すことができるし、驚くべきことに手のひらの大きさなのにテレビのように実際にそこにいるように見ることが出来る。

建物の中で驚いたが外にはもっと驚くべきものがあった。道が3倍も広いのだ。そして、石と油を固めたようなアスファルトというもので敷き詰めてあって、凸凹がなく真平なのだ。その道を鉄で出来た篭のような物が勝手に動いていく。車が前後に四つ付いていて、篭のような中には人が腰掛けられるようになっているのだ。鉄篭を動かす人が一人中にいてこの人が巧みに鉄篭を動かしている。鉄篭は4人乗りが多く中には50人も乗れる家ぐらい大きい鉄篭まである。鉄篭は砿油を燃やして動かしているらしくとても巧妙に緻密に出来ている。只見から江戸まで平らな道は繋がっていて、僅か4時間で江戸に行けるとは本当に驚きだ。鉄篭は殿様の乗り物ではなく百姓、町人、下々の者誰もが普通に持っている。叶津村のどの家にも鉄篭があって、冬雪が降っても、とんでもない形の鉄篭が雪を吹き飛ばし道を除雪して、冬でも江戸まで出かけることが出来る。家々の屋根は茅葺きではなく、只見のような雪の降るところでは薄い鉄の板で葺かれている。鉄板の表面は錆びないように加工されていて滑らかである。雪が降っても屋根から簡単に落ちるように工夫されている。村人は落ちた雪だけ片付ければ良いのでとても楽だ。

役所や寺子屋のような多勢人が集まる大きな建物は、漆喰のようなセメントという石の粉を砂利と水で混ぜ合わせて作られている。石で出来た粉(セメント)を水と砂や小石で混ぜ合わせると、最初は田んぼの泥のようだが数日で固まって叩いても引いても壊れないコンクリートという大変丈夫な物が出来上がる。地震でもビクともしないこの石の建物はとても多く作られている。今や江戸の町ではほとんどがこのコンクリートと鉄の組合せで出来ていて、お城の天守閣よりはるかに高く大きい建物が隙間なくぎっしり建っている。高さは70階建て80階建てなのでびっくりだ。

百姓が米を作りたがらない。米は異国から安く買えるし、油で動かす鉄製の巧みな道具で田植えしたり刈り取りするので、楽に沢山できて国じゅうで余って処理に困っている。貧しい百姓には年貢がないので暮らしは楽だ。稼ぎが少ない人や体の不自由な人、年寄りには年貢免除だけでなく、お上からお助け金が貰える。誠に羨ましい。

食べ物は不思議なものが沢山ありどう説明したらいいのか解らない。酒の種類も豊富でどこでどう作られているのかさっぱりわからない。私が神隠しにあって迷い込んだ世の中は孫の孫が暮らしている世界だったらしいが年号で言うと平成26年ということだった。元の時代に戻っても誰も私のいう事を信じないので、神様から許可をもらってひとつだけ宝物を未来から持ち帰って来た。これがほらゴム長靴だよ。

叶津番所の役人だった保左衛門は、村人から夢物語を語るホラ役人、ホラ役と呼ばれて当時の人々に愛され親しまれた。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2014/7/31からの転載です)

坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-霊的色彩光の知覚 レーシャ・ディヤーナ-

*従来開催してまいりました「はじめてのプレクシャ・メディテーション」のクラス名を2022年から変更して開催してまいります*

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容)
講義・実習:霊的色彩光の知覚 レーシャ・ディヤーナ

日時:2022年5月8日(日)10-12時(開場:9時半)
*伊東真知子先生による瞑想のための身体ほぐしのためのプレクシャヨガを30分行います

会場:最寄り駅は茗荷谷駅となります。場所の詳細はお申込者様へご連絡させて頂きます。

注意:マスク着用、最低1mのソーシャルディスタンス、定員18名、換気実施

会場参加受講料:2000円
オンライン参加受講料:1000円
*オンライン参加の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

講師:坂本知忠(指導ランク:教師)
 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

講師:伊東真知子(指導ランク:講師)

日本プレクシャ・ディヤーナ協会 役員
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印5回(2019年3月時点)
1980年沖ヨガ入門
1982年ヨガ指導開始
2008年プレクシャ・メディテーション指導開始
月2回神保町区民館にてヨガと瞑想クラス開催

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み

読むプレクシャ・メディテーションVol.9-「坐禅の源流印度へ~プレクシャ・メディテーション随想録~」を読み解く-

2022年5月7日(土)20-21時に『読むプレクシャ・メディテーションVol.9-「坐禅の源流印度へ~プレクシャ・メディテーション随想録~」を読み解く-』を開催いたします。今回は5章を読み解いていきます。

良い食べ物を食べると肉体が満足するように、良い学びを摂り入れることで心が満足します。頭が整理され、瞑想の理解が深まります。知的な理解は実践へと繋がります。知行合一の循環はより高い充足感をもたらしてくれます。

オンラインでの会になりますので、ご自宅問わず、どこからでもご参加頂けます。

Zoomオンラインでの参加で読み解き人との質疑応答にご参加頂けます。

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プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。
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【当日の流れ】
1「坐禅の源流印度へ~プレクシャ・メディテーション随想録~」5章を読んで参加(読まなくても参加できますが効果が減少します)
2参加者からの読後感
3著者からのポイント解説
4フリートーク
5終了

【読み解く書籍紹介】
「坐禅の源流印度へ~プレクシャ・メディテーション随想録~」(坂本知忠著)
5章 深く考える
5-1.沈思黙考 おかげさまで
5-2.純粋とは何か
5-3.憎しみと愛
5-4.植物に心はあるか
5-5.水は偉大なる教師であり、尊崇すべき恩人である
5-6.悟りとは
5-7.無常と空



【日時】2022年5月7日(土)20-21時(受付開始:19:45)

【会場】オンライン

【受講料】なし(手元に書籍がある場合)orドネーション(手元に書籍がない場合)
*書籍希望の方は、お申し込み後、電子書籍をお送りいたします。申込フォームよりお願い致します。
*ドネーションの場合はイベント終了後1週間以内に協会へのお振込みをお願いしております

【読み解き人】:坂本知忠(指導ランク:教師)

日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。

坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-バアンヴェビーニ・バンダナの言語の意味と新しい訳、48分の意味について-

*従来開催してまいりました「はじめてのプレクシャ・メディテーション」のクラス名を2022年から変更して開催してまいります*

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容)
講義:バアンヴェビーニ・バンダナの言語の意味と新しい訳、48分の意味について
実習:シュヴーサプレクシャを深く感じる

日時:2022年4月3日(日)10-12時(開場:9時半)
*伊東真知子先生による瞑想のための身体ほぐしのためのプレクシャヨガを30分行います

会場:最寄り駅は茗荷谷駅となります。場所の詳細はお申込者様へご連絡させて頂きます。

注意:マスク着用、最低1mのソーシャルディスタンス、定員18名、換気実施

会場参加受講料:2000円
オンライン参加受講料:1000円
*オンライン参加の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

講師:坂本知忠(指導ランク:教師)
 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

講師:伊東真知子(指導ランク:講師)

日本プレクシャ・ディヤーナ協会 役員
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印5回(2019年3月時点)
1980年沖ヨガ入門
1982年ヨガ指導開始
2008年プレクシャ・メディテーション指導開始
月2回神保町区民館にてヨガと瞑想クラス開催

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み

コラム[食の非暴力 俗なる立場から]

台湾の友人、王さんから私のフェイス・ブックを見て、瞑想合宿最終日に熊肉を食べたこと、お酒を飲んだことに対して質問が来た。坂本がいつも提唱している非暴力・不殺生と矛盾しないかとの質問だった。

ちょうど良い機会なので食べ物の非暴力について私の考え方をまとめてみたいと思った。

人間の生き方は聖の立場と俗の立場があると思います。聖なる生き方は出家の生き方です。私たちがイメージする日本の宗教家や普通のお坊さんは出家であって出家ではないと思います。出家の顔をした俗人です。出家といわれる人が王様のような暮らしをして、企業経営者のような金儲けをしています。私はジャイナ教の出家僧に出会ったとき初めて本物の出家のことが解りました。彼らは本当に無所有を実践し、本物の非暴力を実践していました。

私達の生き方は俗の生き方です。結婚し家族がいて家族を養う為に仕事をしなくてはなりません。様々なしがらみに縛られているので完全なる聖の生き方は出来ません。世俗的生活では完全なる無所有も完全なる非暴力も実践出来ません。企業経営者であればライバルとの競争に勝ち抜かなくては企業を存続出来ません。競争に負ければ業績不振となり従業員に給料も出せなくなり倒産もありえます。倒産した会社の社員は失業し苦しむこととなります。スポーツ選手も勝ち抜かなければ栄光は得られません。俗世界は一にぎりの勝者と多くの敗者があって、良く考えれば競争と暴力うずまく社会といえます。

聖なる出家の世界には他との競争がありません。闘いは自分自身との闘いだけです。自分をいかに清らかにするかという実践が自分自身との闘いだから、他に対する完全なる非暴力が実践できるのです。仏陀もジナも出家しない世俗的生き方では解脱出来ないとして出家を勧めました。

出家の教えである完全なる非暴力は世俗的生活では困難です。そこで厳しい出家の戒律と緩やかな世俗の戒律が出来たのです。世俗の人間に対して出家の戒律をあてはめても無理があります。

私は世俗の立場の生活者なので、私に聖人に対するような要求をしても私には実践できません。沖ヨガの沖正弘先生は生前、弟子たちに「お前たちには俺のような聖なる生き方は無理だから、半俗半聖で行けよ」とよく言われていました。私の生き方は俗なる生き方の中に、聖なる生き方を取り入れて、バランスよく人間的に生きるというのが今生のテーマです。

私は俗人の立場で聖なる生き方を実践し提唱しているのであって、私は出家した聖者ではありません。ヨガや瞑想を実生活で生かすにはどうしたらいいかを実践し、俗の立場で提唱している単なる教師です。つまり私は「俗が聖をやっている」のです。世に聖人、出家といわれている人の多くが全くの俗人で「聖が俗をやっている」のがほとんどです。どちらがより善い生き方かと考えて私は「俗が聖を行じる」方を選択しているのです。

以下は食べ物に対する宗教的な非暴力の考え方を半俗半聖の立場で考察したものです。人間が食べ物を食べるとき、その食べ物は何らかの生命を殺しているか傷つけていることになります。植物も生き物です。完全なる食の非暴力は全く食べないことです。人間は生きている以上、何らかの食べ物を食べなくてはなりません。人間に近い哺乳動物を食べるのはなるべく避けて、穀物や野菜中心の菜食にすべきだという見解は非暴力の実践として説得力を持っています。そういう観点からすればバナナや果物、木の実だけを食べるのが一番善いことになります。

私は食べ物に善悪は無いと考えます。適応性拡大の為に食べ物の善い悪いの判断を止めることだと思います。食べ物を区別すると自由を失います。外国に行くと文化や食生活が違うので、時には食べた事の無いようなものを食べなければならないときがあります。何でも食べることが出来れば何処へでも行けます。子供のころ蛇が怖かったのですが、マムシを食べたら蛇に対する恐怖が無くなりました。それからは蛇の生息する山にも行くことが出来るようになり、蛇と出遭ったときには、私はお腹が空いていれば蛇を食糧とすることが出来るので蛇が私を見て逃げていきます。以前は私が蛇から逃げていました。

非暴力の観点から日本人に魚を殺してはいけない、魚を食べてはいけないとは云えないでしょう。魚を食べることは日本の文化であり伝統だからです。海に囲まれた日本は新鮮でおいしい魚が身近で容易にとれます。我々の先祖は米と野菜と魚を食べてきました。牛や豚など家畜を飼育して食べる習慣はありませんでした。明治以降西欧文化の影響を受けて肉食が始まったのです。

印度は暑い気候の国です。海から遠い印度の内陸では新鮮な魚は入手困難です。家畜の肉も暑さで食べる前に腐敗が進んでしまいます。健康の面からも魚や肉を食べる文化は育ちません。印度で魚や肉を食べてはいけないというのは道理に合っています。印度は暑い国なので香辛料を使った辛い料理、砂糖を沢山摂取しています。日本人が同じような食生活をしたら健康は保てないでしょう。同じように印度では気候が暑すぎて発酵食品の文化は育ちませんでした。発酵食品文化は日本で発達しました。日本は発酵食品の国といっても過言でありま
せん。台湾の食事は日本に比べて味付けが薄く、塩気が少ないのも気候の相違によるのです。台湾の人が日本人に比べて身体が柔軟なのは気候によるのです。日本人が風呂好き温泉好きなのは体の塩抜きの為に必要なのかもしれません。

草原の国の人々の肉食文化、エスキモーの人々のアザラシなど海獣の内臓まで食べる文化、それを暴力と責めることは出来ません。その土地に生きる人にとって必要なことであり、カルマなのです。ジャイナ教では印度に生まれて完全なる食の非暴力を実践しないと解脱は得られないとしています。ならば、日本人が解脱を願うなら来世で印度に生まれることを願うしかありません。

只見では江戸時代まで牛や豚は食べませんでした。古代から日本には鹿やイノシシ、カモシカ、熊などの野生動物を狩猟する狩人の食文化がありました。熊狩りする特別な狩人をマタギといいます。只見にもマタギの伝統がありました。今ではほとんどいなくなってしまったマタギの一人が、友人の長谷部義一さんです。

瞑想合宿の終わる前日、厳しかった修行の最終日の夜は、俗界に帰る準備です。今日まで7日間禁酒、ヨガ式自然食だったので、陰陽刺激の総仕上げとして、緊張の反対、緩めて放下する刺激の一つとして夕食時にお酒を出す予定でいました。マタギの義一さんとは一年近く会っていませんでした。丁度その日の午後、義一さんは坂本さんに会いたくなったと番所にやってきて、自ら仕留めた貴重な熊肉を差し入れてくれました。私から熊肉を食べたくて求めたのでなく、向こうからやってきたのです。チベットの聖者ミラレパがイラクサだけ食べて体が緑色になり生きているのが不思議なくらい骨と皮だけになって洞窟で瞑想修行していた時、猟師から獣の肉の喜捨を受けました。そのときミラレパは人間らしい食べ物だと言って喜んで獣の肉を食べたと言う伝説もあります。

食べ物はまずいより美味しいほうが良いと私は考えています。食べ物は舌で食べるのではなく、体を養う為に食べるのだとの主張は一見真実のようですが、半分真実で半分は嘘です。確かに美味しいものだけ追求し美食に偏ったら体を壊します。味はどうでもよく体に良いものを食べるというのも人間的でなく偏りの一種です。欲望をコントロールする意味で食をコントロールするのは良いことです。本当の出家は托鉢によってしか食べられません。食べ物を選択出来ません。現代仏教の托鉢は形骸化してミャンマーやタイの坊さんたちは毎日、在家から食べきれないほど沢山の美味しい食べ物の喜捨を受けて糖尿病や高血圧、肥満で苦労しています。皮肉なことに苦しくても沢山食べることが修行のようになっています。断食は食欲のコントロールと美食による弊害の体調回復にとても良いので、短期の絶食や断食を日常生活に取り入れることを勧めます。

料理人にとってはより美味しく食べ物を作ることが愛です。また、世俗の人が美味しいものを食べて味覚を満足させ人間的喜びを得ることは悪いことではありません。美味しさを追求しなかったらテレビの料理番組は成り立ちません。

美味しい料理はその国の文化です。私たちは俗人なのですから、出家の立場の非暴力・不殺生は困難です。現実というものを大事にしないと混乱し行き詰まってしまいます。完璧に非暴力・不殺生を実践したかったらジャイナ教の出家僧になるしかありません。

栄養補助剤・サプリメントはそのすべてが体の中で吸収されて栄養になるわけではありません。食べ物も同じです。身体が食べた物の養分を不要と判断すれば、それを排泄してしまいます。また、食べた物によって必要な栄養が得られない時には身体は栄養を合成する能力を備えています。その良い例として、50年ほど前まで、チベットの僧侶は麦粉がしを練ったツアンパとバター茶だけしか食べていませんでした。それでも元気に生きていけたのです。身体を効率よく機能させるために微量元素も必要とされているわけですから、サプリメントに頼るばかりでなく、いろいろな食べ物を食べるのが良いとされています。飲用に適した温泉水を少量飲用すれば免疫力やアレルギーの予防になると思います。

食品添加物の問題は深刻です。これからの時代は自分の食べる物を自分でつくるのが最高の食の贅沢になるでしょう。ヨガの実践と食の自給自足が時代のテーマになりつつあります。ジャイナ教哲学では農業が出来ないので、私達は現実的、実際的な江戸後期の哲人・二宮尊徳の教えをあわせ学ばなければならないと思います。

不殺生は殺すなという意味ですが、積極的には生かしなさい、活用しなさいということです。見捨てられて死んだものを活用することが本当の非暴力だと私は考えます。人間や生き物だけでなく、食べ物を含めてあらゆる物を粗末にしないということも非暴力です。

私たちは他の命をいただいて生きていけるのだから、その御恩に報いる生き方、恩返しの生き方をしなければならないというのが沖正弘先生の食養の言葉です。感謝、懺悔、下座、奉仕、愛行が食べ物をいただく姿勢です。それが正しい生き方であると信じています。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2013/8/23からの転載です)

ジャイナ教の昔話その6:人間の輪廻(まつい ちえこ)

3次元で一つの命が終わると、粗雑な塊・肉体を構成していたUは結合を解き、新しい集合体の素になっていきます。
本能のみで生きた生物や目覚めていなかった意識は直に、あるいは時間をかけて自然界に戻ります。

人間の意識(微細な活動領域のU集合体)は、それを包んでいた肉体が消えた後もそのまま留まります。
魂と呼ばれるその集合体は内に真我(宇宙)を包んだまま、自分に近いエネルギーに引きつけられていきます。
その行先は『自業自得』の法則により自動的に決定されます。

地獄・極楽と言いますが、与えられた賞罰ではなく、自分にあったところに自ら引きつけられていくのです。
因果応報は『類は友を呼ぶ』という法則にもつながります。
スエーデンボルグが「好んで地獄に行く魂がある」と言っているのは「同じ業の仲間のいる処にひかれる」ということでしょう。
業の重いものが集まったところが地獄になっていくようです。

転生は時代など3次元世界の流れに影響される事もありますが自分で選ぶのが基本だと思っています。
「それなら楽な方が良いに決まっている。厳しい人生など選ぶはずが無い」
と思うのは、肉体を持っているからです。

微細なエネルギーだけになった魂は、粗雑な肉体が要求する条件には無頓着で、
純粋に自分が体験したいことだけを求めて転生します。

現世でも、怠け心を律して勉学に励むこともあるし、自ら厳しいトレーニングをすることもあります。
自分の為です。
努力は喜びでもあります。

本当の喜びは何なのかを知っている魂は、高みを目指し、肉体や精神の苦痛に頓着せず次に進もうとします。
前世を償う一生も有るかも知れませんが、それも自分の選択です。罰ではありません。

カルマには利子が付くといいます。
重くなった業・カルマは大きな荷物を担いでいるのと一緒です。
自由な動きを妨げる業を早く返済するために、難しい人生にチャレンジすることも有るでしょう。
自らの進歩のためだけでなく、人間全体の為に、あえて辛い体験を選ぶ勇敢な魂もあるようです。

また『強く願ったことは実現する』という法則も働きます。

愛した芸術や身に着けた能力をもっと味わいたいと願えば、それを深める転生となります。
それを繰り返すと天才として産まれるでしょう。

今生で花開いても開かなくても体験や努力は貯蓄となり、次生での個性や境遇に影響します。
踊れないまま舞踏への愛を忘れず生き抜いた人がダンサーの家系に転生する、ということもありそうです。
 
蓄積を増やして好きな事を伸ばすのは、得意科目を追求して完成を目指す転生です。

逆に自分に足りない事を学ぶ転生や、未体験ゾーンを選ぶ魂も有りましょう。
「不得意科目の習得」が成長のチャンスになるからです。
人種、健弱、性別など肉体的なことから
貧富、身分、文化、体制など社会的な環境、その他、違う立場を生きる事で幅広く学ぶのです。

肉体として生きる悲痛もあり、輪廻は苦しみが強調されがちですがワクワクする冒険でもあります。

「私たちはこの世を観に、聞きに生まれてきました」は小説「あん」、
「この世に遠足に来ている」の一行は桜沢如一氏の著作にありました。

メーテルリンクの「青い鳥」では、これから生まれる子どもたちが、
次の人生の計画を病気や悲劇的な事まで楽しげに、誇らしげに語り合っています。

どれも様々な体験をしたいという魂の願いを直観的に表現しているように思います。

良し悪しを判じる向きもありますが「業」に区別はありません。
蒔いた種の芽が出るのです。
どう育てるかは今生の自分次第です。

他の生き物は本能に従って生きていきますが、人間だけは自分の生き方を自分で決められるのだといいます。
「自己責任」という立場は、前世の負債だと今の状態をあきらめることでも、
来世へ繋ぐために今生の喜びを享受しないことでもなく、
精いっぱい生きて命を使い切ることだと思います。

ジャイナ教の絵本には戒律を守るために死んでしまうお坊さんの話がいくつもあります。
命の使い方の一つなのかもしれませんが、私にはまだ理解できません。
そんなお話をひとつ。

****お話6・戒律(ジャイナ教の絵本より編集)****

2500年ほど前のお話です。
 
ラジェグリハという街でチャトラマス・雨季の滞在をしていたアチャリアのもとに、仲の良い四人の若者が使徒になりたいとやってきました。
四人は僧になり、そろって戒律を授かりました。

ある寒い日のことです。
第三時間になってから、四人はそれぞれ別の方向へ托鉢に出かけました。

ジャイナ教の僧は一日を4つの時間帯に分けて、
それぞれの間にしなくてはいけないこと、
してはいけないことが決められていました。

四人は施しを受けることができないまま、さまよっているうちに、
動き回ってはいけない第四時間になってしまいました。

若い僧たちは戒律通り動くことをやめ、
一人は洞窟の入り口で、二人目は公園の中で、
三人目は公園の外で、四人目は街の外側で、
それぞれカヨーサグに入りました。

仲間と離れている寂しさも空腹も彼らの邪魔をすることはありませんでした。

その日は本当に冷え込み、凍るような風も吹きました。
僧たちは一人、また一人とその命を失っていきました。

翌日、四人の訃報が伝えられました。

「彼らは避難所へ移動して、自分たちの命を守ることもできたのではないでしょうか? 
なぜ戻ろうともしなかったのでしょうか?」と、ある人がアチャリアに聞きました。

「ジャイナ教の正聖典であるアガムスの教えには
『どのような状態においても、結果がどのようであっても、
心穏やかに耐えること』と最初にあります。
僧侶の一番の目的は命をかけてでも解脱することにあるので、
彼らは戒律を守ったのです」とアチャリアは答えました。

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キリスト教でも聖人と呼ばれる殉教者が多数います。
このお話は死ぬことを肯定しているようにも読めますが
今生以上に大切なモノがあるとする世界観で見ると別の味わいがあるかもしれません。

読むプレクシャ・メディテーションVol.8-「迷走・瞑想・名僧 東大に入るYoga」を読み解く-

4月2日(土)20-21時に『読むプレクシャ・メディテーションVol.8-「迷走・瞑想・名僧 東大に入るYoga」を読み解く-』を開催いたします。今回は13-15話を読み解いていきます。

良い食べ物を食べると肉体が満足するように、良い学びを摂り入れることで心が満足します。頭が整理され、瞑想の理解が深まります。知的な理解は実践へと繋がります。知行合一の循環はより高い充足感をもたらしてくれます。

オンラインでの会になりますので、ご自宅問わず、どこからでもご参加頂けます。

Zoomオンラインでの参加で読み解き人との質疑応答にご参加頂けます。

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プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。
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【当日の流れ】
1「迷走・瞑想・名僧 東大に入るYoga」13-15話を読んで参加(読まなくても参加できますが効果が減少します)
2参加者からの読後感
3著者からのポイント解説
4フリートーク
5終了

【読み解く書籍紹介】
「迷走・瞑想・名僧 東大に入るYoga」(まつい ちえこ著)
13話 ラッキーな私たち*心変わり
14話 時間って何?*中国の伝奇から
15話 時の長さ*二人の修行者



*書籍のご紹介(ご挨拶より抜粋)*
この小冊子は主にインドで仕入れた昔話が基本になっています。昔話だけでなくヒンズー教僧侶やシベリア抑留者の体験談、その他も載っていますが、日本ではあまり知られていない「ジャイナ教」の説話を多く選びました。

【日時】4月2日(土)20-21時(受付開始:19:45)

【会場】オンライン

【受講料】なし(手元に書籍がある場合)orドネーション(手元に書籍がない場合)
*書籍希望の方は、お申し込み後、ご購入頂くための決済リンクをお送りいたします。書籍代1200円税込+送料340円税込+発送手数料100円となります。決済完了後、書籍をお送りいたします。

【読み解き人】:まつい ちえこ

プレクシャディアーナ協会・指導士
NPO沖ヨガ協会・講師・理事
OM楽ちんヨガ会・主催
動禅整体師
イギリス留学中にヨガに出会う。
帰国後1977年から沖ヨガ・三上浩二先生のアシスタント。
1979年 沖正弘導師のご縁で、6ケ月週末合宿の指導員研修を受ける。以後大手企業等で単独指導。
1985年 沖導師のご逝去と自身の転機が重なりヨガから離れる。
2006年 ヨガに復帰
2007年 ジャイナ教キャンプでヨガは瞑想であると改めて実感。
インド旅11回(ヒマラヤ巡礼・ジャイナ教研修)
他・国内外のヨガ・瞑想キャンプに参加・自らも合宿を開催。
カルチャスクール・小中学校コミュニティ・個人対応など学びながら指導中。

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。

コラム[アヒンサー(非暴力主義)]

ジャイナ教を特徴づける教えの一つがアヒンサーすなわち非暴力・不殺生です。仏教の教えの中にもアヒンサーがありますがジャイナ教ではより厳格に戒律として実践されています。他の人や生き物に対して絶対に暴力を振るわないと云うのがジャイナ教徒や出家僧の生き方になっています。非暴力・不殺生の象徴としてジャイナ教出家僧は口にマスクをしてピチと云う箒を持っています。マスクは他に対しての暴言や悪口を慎むためであり、箒は小さな虫を踏み潰さないように用心するためです。全ての生き物は生きたくて生きているのですからその命を奪ってはならないとしています。

私も非暴力思想とその実践こそこの世に平和をもたらし、地上天国を創造する方法だと信じています。ジャイナ教の出家僧はまた、アパリグラハ・無所有を実践しています。僧侶は本当に何も持っていません。手に持って歩けるだけの最低必要な物だけが所有している物の全てです。着替えの白衣一式と托鉢の為の鉢、それに数冊の本とノート筆記具だけです。お金は一切触りませんからレストランでの食事も出来ません。食事は托鉢で貰って食べるだけです。ベッドに寝ません。固い床の上に簡単な敷物を敷いてごろ寝です。最近地球環境に優しい生き方、エコ生活が各方面で提唱されていますが、ジャイナ教出家僧が世界一のエコ生活者であり平和主義者だと思います。

現在の文明は石油依存文明とも云えますが、それによって気候変動と云う困難な問題を引き起こしています。根本原因は人間の過剰な欲望に起因しています。

ジャイナ教の教えには現代文明を否定するような考え方があり、地下資源を掘ってはならない、川の流れを変えてはいけない、樹を切ってはならない等があります。それらは、全ての生き物たちと地球環境に優しい教えのような気がします。人類は生活の利便性や安楽生活追求のため将来的な持続性を考えもせず、大量生産・大量消費のシステムを作り上げました。しかしそれによって原発事故のような問題を引き起こしました。

今や世界中の経済に閉塞感が漂い、将来の生活に不安があるので、新しい人間としての生き方の模索が始まっています。自然エネルギーへの転換、気候変動への対応などが求められています。

エコ意識の高いヨーロッパでは新しい文明の兆しが芽生え始めています。イギリスの環境運動家であるマーク・ボイル氏が行った現金を一銭も使わずに2年半生活した社会実験が世界中に共感の輪を広げています。マーク・ボイル著『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(紀伊国屋書店刊)。マークは一銭もお金を使わずに大都市近郊で豊かに暮らすと云う見本を見せてくれました。太陽光発電によって電源を確保し、パソコンを使って自分の生き方を世界に発信しつづけました。食事は自然採取、自家栽培、分かち合い、コンビニ等の賞味期限切れ廃棄物を利用しました。燃料は薪、コンロは簡単な手作り、自宅は無料で譲り受けたトレーラハウスを使いました。交通はパンクしないタイヤの自転車を使い、遠方へはヒッチハイクで出かけました。マークはマハトマ・ガンジーの信奉者です。彼の行動は現代におけるマハトマ・ガンジーであり、彼が始めた運動は新しい非暴力運動です。

一銭も使わないと云うことと1カ月1万円で暮らすということの間には大きな隔たりがあります。只見に移住したTさんは1カ月の食費を1万円に抑えて自分の理想を追求しています。お金を使わない生き方は確かに全ての生き物達に優しい生き方であるし、人類の先祖や子孫に対して非暴力の生き方であると思います。私は物を大切にする、活用することも同じように価値あることだと思っています。捨てられている物の中に価値を見出し活用することも非暴力だと思っています。日本中の中山間地域で集落や田畑が打ち捨てられようとしています。私はこれこそ現代日本人の最大暴力行為だと思っています。中山間地域を守るアヒンサー運動とプレクシャ瞑想をどの様に関連付けたら良いか思案しています。これからの私はお金を出して新しく造られた物を買うのではなく、なるべく身近にある自然物や廃棄物を活用していきたいと思っています。新しく芽生え始めた文化や文明によって、放棄された山村や田畑に新しい光が投げかけられることを祈っています。

これからの時代は持続性ある社会システム、自然エネルギー、非暴力、健康、平和がキーワードになるでしょう。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/2/25からの転載です)