人は誰しも「なぜ自分はここにいるのか、どこから来たのか、そしてどこに行くのか」という疑問を持っていることと思う。それは、現代人に限らず古代の人も同じ疑問を持っていた。その真実を知りたいと欲する気持ちから、心の働きや意識の状態と現象及び行動によってとらえられる心的過程を追究することが始まった。それを哲学という。
仏陀の唱えた教えも哲学であり、当時の六師外道の思想も哲学である。古来様々な哲学が論じられて来た。すでに哲学は出尽くした感があり新しい哲学もすでにあるものの変形でしかない。宗教が人間としての正しい生き方や倫理道徳観にかかわるものなので哲学をぬきにした宗教はあり得ない。
古代より哲学的に最大の論争になってきた問題は、宇宙は神が創造したかそうでないか、魂はあるかないか、生き物は輪廻転生するかしないかに要約される。
マハーヴィーラや仏陀と同時代、古代ギリシャ哲学が起こった。BC4世紀ごろプラトンもその師であったソクラテスも魂を認め魂は不死であるとして、魂に重点を置く生き方を説いた。近代では17世紀フランスのパスカルも魂は永遠と説いた。20世紀フランスの哲学者サルトルは「神は存在しない、神が自分を作ったのではない。自分の行為と選択が自分を作る」としてマハーヴィーラや仏陀が唱えたカルマ論と同じことを唱えた。
ジャイナ教と仏教は兄弟宗教と言われている。インド古代から続いてきたシュラマナ系の宗教が共通する母体になっているからである。その核心的な哲学は因縁果の法則、カルマ論の共通性であり、輪廻転生論である。違っているのはジャイナ教が仏陀以前からインドにあった「自己・我・魂は輪廻転生を貫く主体であり、認識の主体であり、常住にして不変、不生不滅である」との哲学を踏襲しているのに対して、仏教では魂は無いという考えが主流となっている。仏陀が無記として論じなかった魂が有るか無いかという問題を、後世の仏教徒が仏陀ともあろう人がそんなあいまいなことを言うはずがないとして、魂は無いと仏陀は言ったに違いないと結論づけてしまった。「ミリンダ王の問」。しかし魂は無いとしてしまうと、輪廻転生やカルマ論が論理的に破たんしてしまう。そこで、論理の破たんを繕うために様々な理論を考え出し仏教哲学が難解になってしまった。
それでは仏陀は魂についてどのように考えていたのであろうか。仏陀は魂(我)が有るといえば固定不変な身体と心があると錯覚し、固定不変な自己が永遠に続くという迷いに陥るであろう。無いといえば死んだら無になって自己は断絶するという迷いを深めると言った。
仏陀は現世の私の心身と来世に私が受け取る心身は同一でもなければ、別物でもないと言った。常見(魂は有る)でもなければ、断見(魂は無い)でもない、不常不断を説いた。また、同一でも別異でもない、不一不異といった。つまり、仏陀は心と体は私ではないと非我を説いたが無我(魂は無い)と断言しなかった。仏陀は私とは只、原因と縁(条件)によって成り立っている、だから、因縁がなくなれば私は存在できなくなり滅する(輪廻転生しない)と説いた。この世の全てのものは因縁が揃っている時だけ一時的に存在しているに過ぎないと説いた。迷いの根本原因である無明とは因果律を知らないことである。
仏陀の言う「この世の全てのもので常住不変なものはない」というのは、確かにその通りである。しかし、魂が物質でなくこの世の外側にあると仮定すれば魂は常住にして不変、不生不滅という考えも成立するのではないかと思える。我(魂)が無いなら生前の行為の結果としてのカルマを何が受けるのか受ける主体が無くなってしまう。主体が無ければ輪廻転生論は成り立たない。仏陀はたとえ今生で業の報い(結果)を受けなくとも次生かもっと先の生に必ず結果が現れると説いているのだから、カルマ論と輪廻転生は仏教哲学の根本思想と考えてもよい。仏陀は真実の自己は業の相続者であるとして本当の自己は目に見えない業の流れであると説いた。仏陀はアートマン(魂)という言葉を使わず生命エネルギー(生命力)という特殊な流れでカルマの結実を受ける主体を説いた。
仏陀時代の哲学論争は宇宙とは何か、魂は有るか無いか、神のような他をコントロールするような存在が存在するかしないかなどであった。仏陀は現実実用主義の立場で、考えても結論を得られないような問題に対しては時に、無記として明確に答えなかった。だから、魂の問題もそのように考えるべきであり、魂は無いといったのではないと思う。このことに関して國學院大學哲学科の教授宮元啓一先生は「仏陀は無我(魂は無い)を説いたのではなく非我(心身は私ではない)と説いたのである。」と言っている。私もその解釈に賛同している。テーラワーダ仏教のある長老は「魂は無い、魂を信ずるのは邪教であり妄想にとり付かれている」と自分だけが正しく他は間違っていると極めて傲慢で矛盾だらけの哲学理論を展開している。
当時の宗教哲学にあって仏陀の哲学の革新性はなんだったのだろうか。それは仏陀の「中道」という言葉の中に隠されているのではないかと私は考える。厳しい修行や戒律にたいして、こだわらない、とらわれない、ひっかからないという無執着の考えを取り入れたのだと思う。仏陀の悟りの核心は無執着になること、完全に心が無執着になればそれが解脱であると説いた。従来の解脱の状態のハードルが下がったから仏陀の教団から解脱者が続出したのだとおもう。仏陀は厳しい戒律を意味がないとして立派な衣を纏、建物の中に寝起きし、食事の接待を受けるようになった。中道と無執着をそのように解釈していた。
一方、ジャイナ教は無執着を無所有と同義語に解釈し、出家僧ばかりでなく在家信者も含めて苦行に近い厳しい戒律を完全に守ることを実践していった。戒律(ブラタ)は妥協を許さぬものと解釈され厳しく実践された。
私はジャイナ教と仏教の違いを強調するのではなく、ジャイナ教と仏教は兄弟であり本店、支店であり同じものだと訴え続けたいと思っている。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/11/30からの転載です)