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コラム「勝利者の瞑想法」一覧

*各コラム名を押して頂くと、リンクが設定してある場合は、各コラムへ遷移します*

コラム:プレクシャ讃歌の魅力
コラム:あなたは何処に行きたいですか?
コラム:自殺を無くす道
コラム:瞑想をする、瞑想が起こる
コラム:生 カルマ 死 カルマ 生
コラム:所有と無所有
コラム:自己防御の砦
コラム:静と動
コラム:アヒンサー(非暴力主義)
コラム:活用する喜び
コラム:ジャイナ教僧侶がしているマスクの意味
コラム:動きを止める、動きが止まる
コラム:雰囲気と人格
コラム:エコ的生活は新しい非暴力運動です
コラム:非対立主義について
コラム:なぜ瞑想したくない、出来ない、解らないのか
コラム:カルマを無くす瞑想
コラム:ジャイナ教と仏教は兄弟宗教
コラム:別れと出会い
コラム:来世不動産
コラム:資格
コラム:言葉(言霊)の力
コラム:純粋とは何か
コラム:忍耐と無執着
コラム:呼吸の奥義
コラム:食の非暴力 俗なる立場から
コラム:憎しみと愛
コラム:魂を観る瞑想
コラム:魂について
コラム:何もしない行為
コラム:植物に心は有るか
コラム:絶体絶命、崖っぷち、究極の選択・ 非暴力と義務どっち
コラム:水は偉大なる教師であり、尊崇すべき恩人である
コラム:地球温暖化の脅威
コラム:悟りとは
コラム:無常と空
コラム:自分の生活と幸福感を何と比較するのか
コラム:仏教の源流・ジャイナ教との類似
コラム:瞑想登山
コラム:沖ヨガ冥想行法とプレクシャ瞑想
コラム:瞑想における緊張と弛緩
コラム:沈思黙考「おかげさまで」
コラム:瞑想・二つの流れ
コラム:完全なるリラックス
コラム:利己心と依頼心
コラム:身体とは何か
コラム:空の思想とマントラ
コラム:自己コントロールの道
コラム:哲学論争
コラム:ラーナクプールのジャイナ教寺院
コラム:『シッダールタ』を読んで
コラム:生かされて生きている
コラム:美しき日本刀と非暴力
コラム:アンベードカルと仏教改宗
コラム:無限の自由とは
コラム:生命が病気を創る
コラム:カラーセラピー・色彩療法
コラム:日本文化の精髄・露天風呂
コラム:カルマヨギ・二宮金次郎
コラム:皮膚と触覚と意識について
コラム:虫たちのこと
コラム:自分が自分の主人公になる
コラム:火とは何か
コラム:2017年3月19日(日) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演「ジャイナ教のカルマ論と輪廻転生」
コラム:アカルマへの道・モークシャとサンミャク・ダルシャン 2017年3月20日(月) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演
コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか
コラム:アートマン 魂 本当の自己とは何か
コラム:欲望とは何か
コラム:私のヴァーサナー
コラム:自分で自分の医者になる・無病の道
コラム:四つの身体と霊的色彩光
コラム:肉体はリサイクル品
コラム:人類のカルマ・人類存亡の瀬戸際
コラム:2018年インド瞑想研修の旅 印象記 その1 ラドヌーン編
コラム:2018年インド瞑想研修の旅 印象記 その2 聖地アルナチャラ編
コラム:南インドの聖なる篝火の山・アルナチャラ その1
洗脳と世界の分断コラム:
コラム:平等心と無差別
コラム:清らかな心

コラム[洗脳と世界の分断]

新型コロナウイルスが次々変異してココロナ禍が長期化する様相を見せている。そんな中、ヨガの友人が「坂本先生はワクチン接種を受けるのですか?」と聞いてきた。そこで「私は高齢だし、罹患すると回復後も味覚や嗅覚異常の後遺症が長く続くようでもあるし、私はあちこち出かけることも多いので接種を受けるつもりだ」と答えた。彼女は「ワクチン接種は百害あって一利なしですよ」という。私は彼女がワクチンは毒だから打たない方が善いと強く言うので、もっと洞察力をもって現実を見た方が良いような気がするけどねと話した。

 その彼女が、今度は私がワクチン接種を受けようとしていることを、別のヨガの友人に話した。別のヨガの友人Yさんから、SNSのメッセンジャー機能を使って様々な【ワクチン打つな】の情報が送られてきた。その中には海外の学者の見解動画や、日本の医師の研究動画、証拠だとする副作用の画像などが含まれていた。それだけ見ているとなるほどなー、もしそこで云われていることが事実だとしたら大変な事だなーと私も思った。Yさん曰く、「日本のテレビ報道やマスコミは権力者によって報道をコントロールされているので、真実の情報は出てこない。真実の情報はインターネット上にある」と云った。

 その後、Yさんとは連絡をとらないまま、私は1回目のワクチン接種を受けて、そのことを、フェイスブックに載せた。すると、関西の著名なヨガ先生がYさんと同じように私に「先生2回目のワクチンは打っちゃダメです」と沢山の添付画像や動画の証拠資料を送ってきた。

 その時、私はおかしいなー、ワクチン接種は賛否両論あることは知っているが、どうしてそこまで打たない方がいいと、自信をもって言い切れるのだろうかと思った。人それぞれ価値観や経験、立場、環境、年齢なども違うし、アレルギーを持つ人もるのだから、ワクチン打つ打たないは本人の自由意思に任せて、他人があーだこーだと言うべきものではないような気がした。アドバイスをくれたヨガの友人たちはどうしてそのように強い信念を持って自分は正しいと云っているのだろうか?それは興味深い心の問題だと深く感じた。

 【ワクチン打つな】の話は昨年秋のアメリカ大統領選挙の不正があった、なかったの話に似ている気がする。選挙結果はバイデン氏が8100万票、トランプ氏の7400万票を上回ってバイデン氏が大統領に当選したのだけれど、この時アメリカ中が不正選挙だったとして大混乱に陥った。トランプ支持派はさまざまな証拠をあげ不正があったと主張し、バイデン派は不正はなかったと主張した。不正があったか無かったか事実は一つなのにアメリカが二つに分断しそれが今も続いている。

 どうしてこのような事が起こるかといえば、それはインターネット社会がつくりだしているように思えてならない。

 以前から云われていることであるが、同じ価値観、趣味や境遇の人が集まった閉ざされたコミュニテーの中にいると、仲間の中で権威ある尊敬される人が話す内容が仲間内で公式見解となる。仲間内ではその公式見解に疑問を挟む人はいない。仲間内だけで話していると、賛同意見しか返ってこないし、公式見解の正しさを証明する証拠が次から次へと出てくる。するとその中の人は自分の価値観や意見と同じなので、とても居心地が良く、いつの間にか真実が見えなくなって自己の信念が強化されてしまう。これと同じようにインターネットコミュニティが閉じられた空間となってしまうと、情報を求めて入っていったとしても、そこは同じ意見ばかりが返ってきて反復しているだけになる。そこでは、反対の見解や意見はなく、他のグループとは理解しあえない全く違う見解の世界になってしまうのである。

 誰か権威ある人が自分に好ましい意見を言ったとする、次の人が同じような意見を云うときに「あの人の云うとおりだ」と反復すれば、情報が次から次へと広がっていく過程で、おもしろ可笑しく誇張され変化しながら広まっていく。話が誇張されると偽情報は拡散が早く伝わるものである。
 
 インターネットで沢山の情報が証拠付きで送られてくるが、それがはたして本当か噓か誰にも解らない。もしかしたら嘘の話が、意図的に作られた動画とともに、偽情報として拡散しているのかもしれないからである。

 インターネット検索で自分の意見や好みに合う情報を求めていくと、次から次へと自分が求めている情報が表示される。グーグルもヤフーもアマゾンもフェイスブックも検索すると検索する人それぞれに違った答えが出てくる。アルゴリズムで観測されているからである。インターネット上では私がどういう人間で、何を好んで何に興味を持ち、何を考え、何をしているか、次に何をしそうかとAIが分析しカスタマイズ(見込み客としての情報)されている。何か一つのことを検索すると自動的にその人の好みに合った情報を勝手に送ってくるようになっている。

 ネットで見ている世界はその人だけの世界になっていると云っても過言でない。ユーチューブ動画も関連情報が次から次へと表示される。興味にひかれて動画を見ていると、最初に見た自分に合う印象や意見が増幅されて強くなってくる。最初ワクチン打たない方が善いのかなと軽く考えていたことが反復され増幅されて、いつの間にか偏った強い信念に変わってしまう。意見の違いが増幅されるのでお互いが理解できなくなって、事実が共有できなくなってしまう。

 ちょうど中国共産党と欧米民主主義陣営が人権問題で理解しえないで分断しているように、韓国と日本が歴史問題や慰安婦・徴用工問題で分断しているような状態になる。それらは教育や言論弾圧によってもたらされた巨大なカルト教団みたいなものなのである。それと同じことが、インターネットでは情報を求めて自ら選択して学んでいるのだけれど、実は知らず知らずのうちに洗脳の罠にはまってしまうことになるのである。そのことをインターネット用語でフィルターバブルと云う。

 フィルターバブルに入ると物事が客観視出来なくなる。自分の好みに合った方向のニュースがどんどん出てくるから、そちら側に染まってしまう。権威ある人が証拠をそろえて指摘しているからそのとおりだと思って、その人自身も同じような強い意見を持つようになり、他に対して譲らなくなる。さらに、その人の信念も増強されてその通りだと思って行動するようになるのだと思う。フィルターバブルの中に入り込んでしまうと、新しい洞察に出会うことは期待できないと思う。

 現代人の多く、若い世代はほとんど新聞を読まないし、テレビも嘘の報道が多いなどと言って見ない。情報のほとんどをスマホやパソコンをとおしてネットで得ている。ネットには便利で有益な情報も多いが偽情報、デマ情報もあふれている。インターネットに入ってやりすぎると精神的な肥満・偏りになってくると私は思う。好きな情報だけ欲しがるから情報偏りになる。今や多くの人がネット情報によって極端に偏った妄想状態に陥っているのではないだろうか?。

 そのように、誰でもがフィルターバブルに陥る危険性がある。もし、インターネット上にあった自分にとって都合の良い情報が、サイト運営会社側から削除されたとき、「反対意見を持つ裏組織側の証拠隠滅操作である」などと言い出したら、その人はかなりネット洗脳が進んでいると思う。独善主義に陥っているから他を理解することはできないし、世界を分断することになる。「コロナワクチンは毒で百害あって一利なし」と極端に主張したり、「ワクチン接種は詐欺や陰謀だ」などと叫ぶようならもう完全にネット洗脳を疑わなくてはならない。洗脳された心で物事を見ても、いわば色眼鏡で世界を見ているわけだから真実は見えない。本当か嘘かを信ずるな、疑うな、確かめよと云ったところで、体験のない情報や先入観に支配されていれば真実は見えないのである。適応性を広げ自由でなければ真実は見えてこなない。それには自分を守る鎧を脱がなければならないと思う。それを積極的なヨガという。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2021/7/29からの転載です)

コラム:2018年インド瞑想研修の旅 印象記 その2 聖地アルナチャラ



 南インドのタミールナドウ州の州都チェンナイの西方、車で5時間ほどのところに大地から湧出したような花崗岩の岩山がある。標高およそ800メートルの独立峰でアルナチャラと呼ばれる。アルナチャラの意味は「内なる炎」であるが、「篝火の山」あるいは「智慧の丘」ともいわれる聖山である。聖山アルナチャラの東麓にシバ神を祀るアルナチャレシュワラ寺院がある。アルナチャレシュワラ寺院は9つのゴープラム(山門)をもつ典型的なドラビダ様式の壮大な寺院である。テルバンナマライの街はアルナチャレシュワラ寺院の門前町として発達してきた。アルナチャラはアルナチャレシュワラ寺院の奥の院であり、山そのものがシバ神であると言われている。20世紀の中頃、この山を世界的に有名にした優れた聖者が現れた。「真我とは」と探求し続けてジュニヤーナヨガにより悟りを開いたラーマナ・マハリシである。マハリシは16歳の時、抑えがたい衝動を感じて裕福な家庭から家出した。アルナチャラに引き寄せられるようにやって来て、その後70歳で亡くなるまで生涯にわたってアルナチャラから離れることはなかった。

 聖山アルナチャラ、ラーマナ・マハリシのアシュラムそしてアルナチャレシュワラ寺院、この魅力的な3つの要素を備えたこの場所に私は25年前に来たことがある。その時、ジャイナ教と仏教の研究者として高名だったナットマル・タチヤ博士から「アルナチャラは世界最古の行者の山で、古来より優れたメディテーターを輩出してきた所である。」と聞いた。日本に帰国してもアルナチャラの印象は強く残って、いつかまた訪れたいと思っていた。

 今回の旅の目的の一つはアルナチャラの頂上に登ることと山中で瞑想すること、そして、アルナチャラ山麓を1周する巡礼路を歩くことにあった。テルバンナマライでは1年前から予約していたラマナシュラムのゲストハウスに3泊した。ゲストハウスにチエックインしてアルナチャレシュワラ寺院を見に行った。東門が正門であるがマイクロバスが着けやすい南門から入った。境内は、日曜日だったので参拝客で込み合っていたが、時間が充分にあったのでゆっくり拝観することが出来た。境内はとても広い大きな寺である。マヤの神殿を連想させる9つのゴープラム(山門)が高く聳え立つ基本構造は宗教建築の極地と言ってもよい。山門に守られた境内にはガーネシャ等を祀る祠堂や千柱ホール、シバ神を祀る本堂などがあり、どれも敬虔な信徒が熱心に参拝している。我々もヒンドウ教徒に習ってお布施をし、僧侶から額に聖なる灰のティッカをつけてもらった。寺は全て固い砂岩を組み合わせ積み上げて作られている。高い技術で柱や壁に彫刻が施されているので見る者を飽きさせない。日が暮れるとゴープラムはイルミネーションで飾られ昼間とは違った別の美しい姿を見せてくれた。

 翌日は早朝からアルナチャラの頂上をめざして登山する予定でいた。現地で登山の為の情報を集めたら、中腹のスカンダシュラムより上部は2年前から登山禁止の聖域になっているのだという。私はこの情報を全く知らないでいた。2年程前にロシア人のツーリストが山中で2日間行方不明になり、遭難騒ぎになった。それがきっかけで入山禁止になったのだという。アルナチャラはそんなに危険な山ではない。ただ、入山者が多くなると山に慣れない人は道に迷うだろうし、行者さん達の修行の妨げにもなる。頂上付近をサンクチャリーとして入山規制することでアルナチャラの神秘性が高まる。ラマナシュラムの管理運営者と政府役人の思惑と利害が一致して入山規制が始まったと私は思った。1年に一度頂上で篝火を焚く祭りの準備で、関係者が山に登る以外は何人も山に登れないことになった。サンクチャリーとして聖なる山となったが、行者さん達は山から降りてカーニャクマリ方面に行ってしまったという。25年前と比べてラマナシュラムは様変わりし、参拝客が100倍になっていた。以前のような、自ずから平和な宗教的敬虔な気持ちが湧き起ってくるような静かさが失われてしまった。テルバンナマライの街も車の数が比較にならないほど増加して騒がしく落ち着いた雰囲気を失っていた。失望した私は浦島太郎のような思いで、再訪前に作り上げていたイメージの差を埋めようと努めた。

 山頂に登れなくとも、旅を最良のものにする責任が私にはある。ツーリストが以前より格段に多いので人込みを避けてスカンダシュラムまで早朝に登って、日の出を拝むことにした。ラマナシュラムからの登山道は朝8:30にならないとゲートが開かないので、アルナチャレシュワラ寺院西門近くの東登山道はゲートが無いはずなので、そちらから登ることに決めた。

 5:00、我々一行12名と現地添乗員のネギさん、一人もかけることなく登山に参加することになった。ゲストハウスからマイクロバスで西門まで行き、そこから登山道に入る。あたりはまだ夜が明けず暗い。登山道の両脇に民家が立ち並んでいたが、やがて小さなお寺や祠のある場所に出た。この辺りにマハリシが修行したマンゴウ樹洞窟やビルパクシャ洞窟があるはずだが暗いので良くわからない。明るくなってだんだん周囲の情景がはっきりしてきたころスカンダシュラムに着いた。スカンダシュラムは固く門が閉ざされて人の気配がなかった。スカダシュラムから右手に少し上るとラマナシュラムに下る峠に出る。そこは懐かしい場所だった。25年前この大岩の上に木村賢司さんと横たわって、夜明け前の星々に輝く夜空を見上げていた。そのときは30分ほどの間に十数個の流れ星を見た。想い出の多い大岩である。この場所は今も昔と変わらない。足下にテルバンナマライの街と荘厳な佇まいを見せるアルナチャレシュワラ寺院の全景が手に取るように望まれた。登る朝日を期待したが靄にかすんで現れなかった。私たちはそれぞれ好きな場所を選んで瞑想した。野猿が沢山いたので瞑想のじゃまになった。私はその場所で持ってきた母の遺骨の小片を散骨した。その遺骨はチベットのマナサロワール湖に散骨する予定であった。ネパール地震でカイラーサに行けなくなって散骨できないでいたものである。

 スカンダシュラムからの下山は往路を下った。ビルパクシャ洞窟は時間外だったので入れなかったが、マンゴー樹洞窟は入ることが出来た。どちらもマハリシが住んで修行した場所である。マンゴー樹洞窟は建物に入って奥の方にあった。わずか数人が座ってやっと入れる広さである。洞内でマントラを唱えると音が回るように響いた。早朝に登山出来て本当に良かった。他の観光客と会わずに私たちだけの静かな登山を楽しむことが出来たからだ。

 午後の自由時間に元気な女性の南部さん伊藤さん阿部さんとともに今度はラマナシュラム側からスカンダシュラムまで登った。こちら側からの登山道にはお土産の石彫を売る人たちが店を出していた。観光客が増えたのでマハバリプラムから観光客目当てに石彫職人が出稼ぎに来ているのであろう。石彫の多くは柔らかい石で彫られていて価値あるものではなかった。アルナチャラ山は植林が進み以前に比べ格段に樹木が増えていた。25年前、砂漠のような岩山だった所が森になっている。驚くべき変わりようである。以前はスカンダシュラムの周辺しか樹木は無かった。スカンダシュラムは拝観できる時間だったので中に入った。マハリシの母親が住んでいた部屋を見た後で、マハリシの居室や瞑想室に入った。一坪に満たないような小さな瞑想室はマハリシの写真が飾られ、その前にオイルランプがともされていた。誰もいなくなった瞑想室で一人静かに瞑想の座法を組んだ。そこは狭くとも穏やかで平和な雰囲気に満ちた空間だった。スカンダシュラムで瞑想することができて、山頂に登れなかった私の満たされない心が少し平和になった。

 ラマナシュラムはすっかり観光地化してしまっていた。以前はマハリシのブロンズや黄金の彫像などなかった。マハリシが神像のように崇拝対象になり、立派な寺に変身したアシュラムに安置されている。参拝客はマハリシの像を神様のように礼拝している。マハリシはジュニヤーナ・ヨギだった。しかし、私にはアシュラムが今やバクテイ・ヨガのお寺になってしまったと感じた。マハリシがこの現状を知ったらなんと思うだろうか。純粋だった宗教が大衆化して俗的なものに変化する過程を私は学んだと思った。

 アルナチャラを一周する巡礼路は全て自動車道路になっていた。一部に人が歩くだけの巡礼路が残されているとイメージしてきたが、この点でも私のイメージはかけ離れていた。3日目の早朝5時にゲストハウスを出発し、3時間半かけて右回りの巡礼を終えたが、私の心は喜んでいなかった。その時の気持ちを例えれば、「別れなければならなくなって、25年間もう一度会いたいと恋焦がれた久恋の人と再会した。25年間、私が勝手に美しいイメージを作り上げてきたその人はあまりにも変化していた。その恋人は年を取って昔の美しいイメージはどこにもなかった。私は失望したがそれは執着した無理な願いだったと悟った。」そんな心情だった気がする。

 正直言って私の心はラマナシュラムでアルナチャラで満足からほど遠いものだった。満たされぬ思いを抱いて一人再びアルナチャレシュワラ寺院を訪れた。今度は東門から入り境内を隈なく歩いた。今日は火曜日なので空いていて、のんびりお寺の雰囲気を楽しむことが出来た。寺の境内は隙間なく大きな敷石で覆われていた。その石の感触が素足に心地よかった。西ゴープラムの主門と副門が重なる上にアルナチャラが聳えていた。この風景は今も昔も変わらない。アルナチャレシュワラ寺院別名テルバンナマライ神殿の壮大な佇まいだけは来る前に25年間描き続けていたイメージを凌駕していた。このときになって、やっとアルナチャラに来られて良かったという感情が湧き起った。今回の人生でやり残していたことの一つを為し終えたという気がした。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/12からの転載です)

2024.7月開催 坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-プレクシャ・ヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス-

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

2024年クラスから、プレクシャヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス、として開催してまいります。

内容)
ヨガ:瞑想できる体づくりヨガ
讃歌:「プレクシャ・メディテーション 讃歌・マントラ・スートラ集」から1-2歌
講義:当日告知
実習:当日告知

日時:2024年7月7日(日)10-12時(開場:9時半)

会場:茗荷谷中央大学キャンパス2階(住所:大塚1丁目4番地)
*丸の内線茗荷谷駅前の春日通りを左に行くと、新設の中央大学茗荷谷キャンパスがあり、その2階になります。中央大学正面入り口の手前左側に階段、右側にエレベーターがあります。お間違いのないようご注意ください。


会場参加受講料:2000円
アーカイブ動画視聴:1000円
*アーカイブ動画視聴の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

講師:伊東真知子(指導ランク:講師)*ヨガ担当*

日本プレクシャ・ディヤーナ協会 役員
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印5回(2019年3月時点)
1980年沖ヨガ入門
1982年ヨガ指導開始
2008年プレクシャ・メディテーション指導開始
月2回神保町区民館にてヨガと瞑想クラス開催


講師:坂本知忠(指導ランク:教師)*讃歌、講義、瞑想担当*

 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。 

コラム:2018年インド瞑想研修の旅 印象記 その1 ラドヌーン編

私にとって今度のインド旅行は16回目になる。初めてインドを訪れたのが43年前になる。その頃のインドを思い出して現在と比べてみると、あまりにも変化が激しすぎて、一体何が起こったのかと戸惑いを感じてしまう。経済発展と国民所得の向上が爆発的に自動車普及の増加と建築ブームをもたらし、インドの大都市の景観を一変させてしまった。靄のように立ち込める排気ガスのスモッグと交通渋滞は、蜂の巣をつついたようなデリーの大混乱の中でも逞しくエネルギッシュに生きるインドの庶民の象徴だと思った。

 居心地の悪いそんなデリーから早く昔の雰囲気の残る地方に行きたかった。目指すはプレクシャ・メディテーションの聖地ラジャスターン州のラドヌーン、そこはジャイナ教スエタンバラ(白衣派)に属するテーラパンタ派の本拠地になっている。テーラパンタ派は1761年に白衣派のスターナックヴァーシ派からアチャリヤ・ビーカンジが12名の同志と共に分離して起こったジャイナ教復古主義者のグループである。テーラパンタ派は偶像崇拝しない、寺院を作らず参拝もしない、一か所に定住せず常に遍歴しながら修行しているなどの特徴があり、古代のジャイナ教の厳格主義、純粋主義に一番近い白衣派集団であると位置づけられている。

 テーラパンタ派9代目のアチャリヤ(宗派の最高指導者)がアチャリヤ・トウルシー師でトウルシー師がラドヌーンに生まれたことから、トウルシー師が女子の地位向上と教育の重要性を大事にしてラドヌーンに教育センターを作った。それがジェイン・ヴィシュヴァ・バーラティ(ジャイナ教学院)の始まりである。トウルシー師と6歳年下だった10代目アリャリアが、マハープラギャ師で、トウルシー師と共にプレクシャ・メディテーションを完成させた大哲学者であり優れたメディテーターである。プレクシャ・メディテーションは古代から伝わるジャイナ教の瞑想法に仏教の瞑想法やタントラヨガの瞑想法を加え、さらに現代医学や心理学の科学性を加えて論理的に理性的に再編された世界で最も高く評価されている優れた瞑想法の一つである。アチャリヤ・トウルシー師もアチャリヤ・マハープラギャ師もすでにこの世を去り、今は11代目のアチャリヤ・マハー・シュラマン師の時代になっている。マハー・シュラマン師はテーラパンタ派を特徴づける一か所に定住しない行のアヒンサー・ヤートラ(非暴力の旅)を、2014年にラドヌーンを出発して7年がかりで、インド中を遍歴する徒歩の旅を現在続行中である。次にラドヌーン戻ってくるのは2021年になる。 

 現在は南インドのチエンナイ近郊に居られるとのことでした。旅の後半に訪れるポンデチェリーはチエンナイに近かったので日程に余裕があればアチャリア師に接見できるかと考えたが、滞在場所が私たちの旅のルートと離れていたために実現できませんでした。2019年は南インドのバンガロールでプレクシャ・メディテーションの国際キャンプが開かれる予定です。その時に、アチャリヤ・マハープラギャ師生誕100年祭も行われるということです。キャンプの参加費を無料招待するので日本からも大勢で来てほしいと召請が来ています。

 瞑想巡礼の旅に参加した私を含めた10人と通訳兼現地ガイドのサンジーブ・バンダリさんを載せたバスは高速道路をデリーから北西を目指して走ります。高速道路も10年程でだいぶ整備が進み走りやすくなっています。以前は高速道路上を干し草を満載させてノロノロ道をふさいでいたおんぼろ車もなくなり、ノラ牛が歩き回っているようなことも無くなりました。私たちの乗ったマイクロバスは現地生産の日本のいすゞ製で新車です。砂漠に近い荒野地帯になるとドライブインもなくなり、トイレも野外ですることになります。トイレの為に枯れた草地に入った時のこと、足に虫に刺されたような激痛が走った。よく見ると無数の草の実が付いている。手で取り除こうとすると指先に小さな針のような毬が刺さってとても痛い。ちょうど栗の毬を2mmぐらいの大きさにした草の実でズボンの裾に沢山ついている。それを取り除こうとして大騒ぎになった。生き物たちは子孫を増やそうとさまざまに工夫してこんな荒地でもしたたかに逞しく生きているのだなーと実感した。

デリーからおよそ8時間かけてやっとラドヌーンに着いた。日本なら8時間あれば車で東京から青森まで行ってしまう。遥かなラドヌーンに日の暮れる前に到着できた。ジェイン・ヴィシュヴァ・バーラティの敷地内はいつもと違ってやけに静かで閑散としている。それもそのはず今日と明日はディワリの祝日なのだ。ディワリとは印度最大のお祭りで日本の正月のようなものと考えれば良い。街中はイルミネーションで飾り立て数日にわたって昼夜関係なく爆竹を鳴らし、花火を競ってガンガン上げまくる誠ににぎやかな祭りである。ヒンドウ教では伝説の神様ラーマが魔王と戦って勝利してその凱旋を祝うものである。ジャイナ教徒はこの日をマハヴィーラがモークシャ(悟り)を得た日として一緒に祝っている。大学も休みなので構内は閑散としている。今日は日本で言えば大晦日のような日なのだ。そのように忙しい中、研修センターの責任者アショカ・ジェイン氏と奥さんのマンジュウラ・ジェインさんが我々を優しく迎えてくれた。

 ディワリは10月の下旬から11月上旬にかけての新月に行う。今年は11月7日がその日だった。私たちはその日、瞑想ドームで瞑想したり、アショカ氏の講話を聞いたり、ジェイン・ヴィシュヴァ・バーラティ内の今は廃墟同然になって使われていない旧道場の二ダムや国際ホールを見学するなどのんびりと過ごした。外では一日中花火の音が砲撃のように響き渡っていた。 その夜、ムニ・ジャイクマール師に会った。ジャイクマール師とは2005年のビワニでの国際キャンプ以来づーと教えを受けている。テーラパンタ派のムニの中で私が一番親しい知己のムニである。ヨガの達人であり、体を横にしないで瞑想の座法のまま眠る修行を長年継続している。ムニはこの日私たちに会うまで数日間モウナ(沈黙の行)をしていた。私たちが接見したとき、沈黙の行は終わったと言って「マントラとは何か」という素晴らしい講話をしてくれた。ジャイクマール師は3年前ネパールのビルトナガールでお会いした時より一層パワフルで清らかで平和な雰囲気になられていた。まさに聖者である。徳が高く威厳に満ちた聖者でありながら友好的な親しみをも感じさせてくれる。

 ラドヌーンでの今回の収穫は毎朝6:30分、毎夜8:30分からムニと在家信徒によるお祈りのマントラや讃歌の斉唱を聞くことが出来たことにある。ラドヌーンに着いた初日はモウナ中のジャイクマール師に代わってお弟子さんの若い出家僧モデッタ・ムニが中心になって讃歌を唱えてくれた。次の日の夜からはジャイクマール師が中心になり一層パワフルな讃歌の斉唱になった。

 ジャイナ教の讃歌を聞いていると細胞の深い深いレヴェルで魂がゆすぶられる。楽器のない音声だけの合唱讃歌がものすごいバイブレーションを生み出し、音の粒子が身体深くに浸透する。本当に素晴らしい響きだ。魂の深いレヴェルから得も言われぬ感動が起ってくる。同時に心身が清らかに軽くなっていくのが良くわかる。魂が音のバイブレーションで浄化されているのだ。私は本当に感動し打ちのめされた。今までラドヌーンであるいはプレクシャ・メディテーションの国際キャンプで何度もジャイナ教の讃歌を聞いて素晴らしいと思っていたが、今回は格別だった。私はジャイナ教の讃歌への恋に落ちたと感じた。

 日本に帰ったらCDや録音機に録音された音声をよく聞いて讃歌を覚えよう。以前、プレクシャ・メディテーションの国際キャンプで頂いた讃歌集から意味を日本語に翻訳し、意味が解ったうえで、日本のプレクシャ同志と共に、瞑想する前にジャイナ教讃歌唱えることにしようと思った。

 ラドヌーンでのもう一つ感動的な出来事は、ジャイナ教のデガンバラ派の偶像崇拝するグループに属する二人の裸形僧に出会ったことである。ラドヌーンの旧市内にはテーラパンタ派とは全く別のデガンバラ・マンデールがある。この寺は相当古い寺らしく、かつては廃墟になっていたらしい。遺跡のような古い寺の上に新しい寺が作られていた。古い寺は地下室のようになっていて、地下に降りていくと、ジナを祀る祭壇があった。その祭壇の中で二人の裸形僧が横座りになって背中をみせていた。「あ、裸形僧だ」と思ったけれどどのように接して良いかわからなかったので、静かに祭壇を右回りに一周した。裸形僧一人が我々日本人の訪問を珍しく思ったのか、突然に英語で話しかけてきた。地下室になっている古いお寺のことをいろいろ説明してくれた。二人の裸形僧は極めて友好的で明るくよく笑った。デガンバラの裸形僧に対して厳格で気難しい、とっつきにくいイメージを持っていたが、この二人は全く違っていた。英語を話すムニの名前はムニ・サンブット・サーガジーという。彼は我々に興味を持ったらしく、いろいろ興奮気味に話してくれる。同行の武田さんや飯島さんはこの機会とばかりにムニに質問する。瞑想の時の立ち方はどうすれば良いか?ジナムドラの手の組み方と位置は正しくはどうするのか?目は半眼が良いか、閉じた方が良いかなどについて質問したところ詳しく教えてくれた。話には聞いていた私にとってデガンバラの僧侶との出会いは初めてだったのでとても感動した。彼らは非暴力、不殺生のシンボルの箒しか持っていなかった。全くの裸でスッポンポンだった。完全なる無所有、無執着の実践者だ。食事は乞食して両手で受けて立って食べるだけで食器は使わない。命を繋ぐぎりぎりの飲食である。それでも健康に溢れていた。このようなムニはインドにどれくらいいるのだろう。宗教の国印度、その奥は深いと実感した。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/11からの転載です)

 

コラム:来世不動産



台湾の友人から添付メールで面白い動画が送られてきた。日本で作られ、フジテレビ系列で放映された「来世不動産」という短編ドラマである。人間の生まれ変わりについてとても示唆に富んでいて、哲学的でありながら面白可笑しく、ペーソスにも満ちていて、深く考えさせられ、また感動した。このドラマはお笑い芸人で人気があるバカリズムが原作を作り、脚本を手がけまた出演するという、15分程の短編ドラマだ。ドラマの主な出演者はバカリズムと俳優の高橋克実の2人である。

話の筋は以下のようなものだ。

物語の主人公である高橋克実が病院のベッドで寝ている。真夏の暑い昼下がり病室の開け放たれた窓の外で蝉がうるさく鳴いている。そこへ克実の奥さんが病室に入ってきて蝉の鳴き声がうるさいと窓を閉める。すると克実は別次元の大草原に仰向けに横たわっていて、ふと気がついて起き上がる。克実は死んで死後の世界に入ったのである。何もない大草原にただ一軒、現実離れした不動産屋がある。店に近づき恐る恐るドアを開けると、店の中から店長のバカリズムの「いらっしゃい」の声がかかる。克実は「ここは不動産屋ですか」と尋ねる。バカリズムは「1つの人生の契約を終えた方(死んだ人)に次に生まれる物件を紹介する不動産屋です。つまり魂が次に宿る体を賃貸住宅のように紹介しているのです」と答える。店には入居者募集の張り紙があり、人間の他、蛇や魚、パンダ、猿などが入居条件と金額に代わるポイントと共に掲示されている。

克実はそれらの張り紙を見ながら、入居希望としては日本人の男として生まれたいと言う。バカリズムは「人間ですか?人間は人気があって、人間に生まれ変わるのは、前世の行いが良くないと難しいです。」と言う。克実は「人間でないこともあるのですか?」と尋ねると、バカリズムは「もちろん」と答える。

「このパソコンにお客様の名前と生年月日を打ち込むと、お客様の行いリストがすべての事柄と回数になってデータとして記録されている。良い行いも、悪い行いも、普通の行いも全て記録されていて足し引きしてポイントが出るようになっている」と言って克実のデータを調べる。前世で31390回洗面し、358回ポイ捨てし、675匹の蟻を踏みつけ、19回コンビニの入口でボロ傘を新しい傘に取り替えたと表示され、忘れてしまっていた些細な悪事を思い起こして愕然とする。これらはマイナスポイントになる。いじめられていた子供を9回助けたのはプラスポイントになる。結果、克実のトータルポイントは82000ポイントだった。平均点より少ない。

克実は「82000ポイントだとどんな物件ありますか」と尋ねる。バカリズムは、この予算だと人間も無くはないけれどもあまり良い条件のものがないので、むしろ他の物件にした方が幸せではないかと言って犬に生まれることを勧める。ここにある土佐犬なら闘犬で横綱になれるという。克実は「私は争いごとが嫌いだから、動物ならのんびりしたものが良い、できれば長生きが良い」と答える。バカリズムは、「それならミル貝はどうですか?160年生きられるし、砂の中でのんびりと160年長生きできますよ」。克実は、160年も砂の中でじっとしているのは嫌だ、他にはないのか、パンダはダメかと聞くが、パンダは一応絶滅危惧種指定物件であり克実のポイントでは足らず入居出来ないと言われる。

バカリズムは、北海道の乳牛はどうかと提案する。「のんびりしているし、生活環境も良いし、定期的に乳を絞られるだけで人間関係の悩みもないし、仕事に追われることもないですよ。なんなら内見しませんか?」許諾すると次の瞬間、克実は不動産屋のバカリズムと共に北海道の牧場にいて牛を眺めている。搾りたての牛乳を飲みながら、「乳牛になると牛乳を搾り取られるだけでこのように飲むことができない、一生人に飼われる生活は嫌だ、もっと自由な生き物が良い」と勧められた物件の乳牛を断る。

そこで、バカリズムは「最近人気がある蝉はどうですか」と克実に尋ねる。克実は「蝉の生活のどこが良いのだ」と不機嫌に聞き返す。「蝉は7年間地中で暮らし、最後の1週間だけ地上に出てきて生涯を終えるといいますが、この1週間が実は天国の暮らしでとてつもなく気持ち良く、人間の夜の営みで得られる100倍もの快楽があり、蝉の鳴き声は鳴き声というより快楽から来る絶叫なんです。それに蝉は悪いことをする機会がないのでポイントが貯まります。蝉に入居してそこでポイントをしっかり貯めて次の来世にかけるというのはどうですか」と勧められる。ついに克実は蝉への入居を決意し、契約書に捺印する。

そして、51歳で人間としての生涯を終えた克実はあるアブラゼミの長男に生まれ変わった。地中での7年間の暮らしは蝉なのでストレスもなく、暇とか退屈とかいう概念がないので苦ではなかった。地中での7年の長い生活を終え今日、初めて地上に出た。初めて浴びる光、初めて空を飛ぶ、初めて吹かれる風の心地よさ、なんという自由さ、なんという爽快さ、なんという喜び快感、至福感で思わず絶叫してしまう。ミーン、ミーン、ミーン・・・・・蝉は最高、蝉は最高、・・・・・・」

留まった木からふと下を見ると、そこは克実がかって人間だったときに息を引き取った病室で、自分と同じような人間が死にかかっていた。蝉の克実は、生まれ変わるなら蝉が良いとその人に伝えたくて思いっきりミーン、ミーンと泣き叫んだ。ところが、不意に奥さんが病室に入ってきて空いていた病室の窓をバシャッと閉めた。 

終わり

このドラマはジャイナ教の生まれ変わりの哲学そのものである。不動産屋のパソコンが私たちのカルマボデイであり、様々なデータが原因としてのカルマである。自己責任の因果律と輪廻転生が結びついたとき高度な倫理哲学となる。すべての道徳、戒律の根拠がここにある。人間が幸福になり、地球社会が平和になるための基本原則だとおもう。

「来世不動産」は小学館の文庫「東と西2」で原作を読むことが出来ますので、皆さん是非読んで見てください。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2013/1/26からの転載です)

坂本知忠先生と行くプレクシャ瞑想キャンプと世界遺産の旅(2024年10-11月)

【旅行のお誘い】
プレクシャ国際キャンプは世界の友と共に学べる貴重なチャンスです。日本組も坂本先生を中心に長年参加してきました。今年は2年ぶりに待望のツアー参加です。通訳付で初めての方にも安心ですし、希望に沿った講座も開いてもらえます。

現在のインドは最先端のIT産業と世界屈指の人口で、若いエネルギーに溢れています。今年を逃すと古き良きインドを味わうチャンスはないかもしれません。その日進月歩のインドでも本当のものは、どんなに世界が変わろうと変わりません。

瞑想キャンプでは古代から受け継がれてきた教えを実践している方たちから直接学べます。特に、ジャイナ教の出家者には現地にいかなければお会いできません。ヨガや瞑想の学びだけでなく、国際的交流もバーチャルでは味わえない楽しい体験です。

キャンプの後は観光を兼ねた巡礼旅行を楽しみます!「シルディー」は普通のツアーや個人では行き辛い聖地、「エローラ」「アジャンタ」はインドが誇る世界遺産の中でも最高峰です。仏教・ヒンズー教・ジャイナ教、独特の石窟寺院を訪れるリアル体験をしませんか?

(日本プレクシャディアーナ協会・まついちえこ/(社)国際インド星術協会・谷内健太郎)

 

  

PDFはこちらよりダウンロードください

申込締切:2024年9月9日(月)
*定員となり次第締切となりますのでお早目の申込をお願い致します

申込先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)
*件名を「2024年インドツアー」としていただき、メールにてお申し込みください。仮受付メールをご返信させていただきます。
 

旅行企画:日本プレクシャディヤーナ協会・まついちえこ/㈳国際インド占星術協会・代表 谷内健太郎

FAQ(よくある質問):
Q.キャンプの期間は1週間くらいですか?
A. 10/21~27はキャンプですが27日は終了式で講義は無い予定です。

Q.白い衣服を用意しますか?
A. 無理に用意する必要はありません・暗い色より明るい色が馴染むのは確かですが。毎年、現地で肌触りの良い上下服をくれます。インド人は制服らしくするのが好きなようですが、それを着なくてはいけないという事ではありません。マーケットでも着ていると「瞑想キャンプ参加者」だと分かり、親切にしてくれたりします。

Q.食事は1日何回ですか?
A. 3回の食事+簡単なお茶タイムがあります。

Q.大体のスケジールですが、朝何時に起きてご飯食べて学んでお昼食べて学んで、夕飯あれば食べて夜は何時に床につきますか?
A. 朝は各自で散歩をしたり、瞑想をしたりします。スケジュールは流動的です。日の出前後に起きる方が多かったと思います。一昨年は、7時ころからヨガタイムで、その後に短い瞑想と朝食でした。講義や実習が午前と午後に2~3講座ずつある日が多かったと思います。夜はグループごとに集まったりなどしますが、講義などはあまりなく、比較的ゆっくり過ごします。

Q.ずっと講義と瞑想ですか?
A. 講義と瞑想、ヨガになります。 午後のフリータイムに買い物に行ったり、自分の用事をします。他の部屋を訪ねて交流をしたりもします。現地の方が街の案内してくださるミニツアーがあった年もあります。海外組との交流会が終了時にあります。

Q.部屋は何人ですか?
A. 毎回、違う場所ですから、多少の違いがあります。今までの例では、2~4人部屋で 各シャワー・トイレ付き、になります。

Q.キャンプが終わってから旅行ですか?
A. はい。キャンプ終了後10/28~旅行になります。毎回、3つ星以上のホテルでの旅です 専用車での移動になります。

コラム:活用する喜び

不殺生を積極的にすることが活用です。活用は殺すなではなく活かせという教えです。生き物だけではなく、人間が生きて行く上で必要な物についても粗末にするな、大事にしなさいと云う教えです。私は生き物だけでなく、物にも心が宿っていると思っています。その心というのはある種のエネルギーでネガティブなものとポジティブなものとして主観的に感じます。人間に粗末にされた物や打ち捨てられたものにはネガティブなエネルギーが宿っています。それらの物に対して愛の心、大事にする心、活用する心で接していくとポジティブな物に変化します。打ち捨てられたものや場所を愛し助けてあげると、今度は助けたものが私達を生かし助けてくれます。それが自然法則です。

大量生産・大量消費システムは一見、人類を幸せにするシステムに思えますが、沢山の物を粗末にし、殺すことなので長い目でみれば人類を幸福にするシステムではないと解ります。世の中は全てが変化の流れの中にあり、必要な物が出現し、不要な物が滅していきます。これも自然法則です。

しかし現代人類社会は変化の流れが加速しているので、沢山のものを創り沢山の不要物を破棄しています。私達はあまりにも日常多くの不要物を廃棄しているので、心が麻痺して生活の必要物をあまりにも粗末にしています。自転車が1万円で買えるなんて本当に考えたらおかしな事なのです。自分一人で作るとしたら、とても難しいことです。江戸時代に自転車を持っていたら、それこそ宝ものです。その宝ものが今や町中、至る所に破棄されていて厄介者、ゴミとして処理されています。これらの自転車を徒歩で生活しているマダガスカルの人々に届けられないかと思います。

大量につくられたものはどんなに価値を有していても、需給バランスが崩れて需要が無くなれば金銭価値は限りなくゼロに近づいてゆきます。近年の不況は社会が成熟化したからともとれますが、工業化、便利化、快適化のやりすぎに起因しているのではないかとも考えられます。全ての生き物達との共存、サステイナブルな社会システム構築の観点から、今の資本主義経済に対して人類の良心が許せなくなってきたのではないかと思っています。

最近、著名な作家・五木寛之氏の『下山の思想』と云う本が話題になっています。日本は世界史的に見て繁栄の時代が終焉し成熟後の活力の乏しい社会になるとの論調です。本の題名が時代にマッチしたせいかベストセラーになっています。本を読んでみて、何処に下山してゆくのか具体的に触れられていなかったのでとても物足りなく思いました。私なら下山してゆく場所を具体的に指し示すことが出来ます。それは彼が漠然と云っている経済指数とは別の物差しのことです。ブータン王国的幸福指数の事です。下山とは私達の生活から複雑な機械を手放して行くことです。身体の延長としての道具までの時代にもどることです。

昭和30年代食料増産のため、日本の米作道具が最高水準に達しました。道具ですがエンジンを持たないし電気を使わないから機械と定義しませんが、機械寸前まで高度化した道具が作られました。私はここが下山地点だと思います。電気で機械を動かさない、電気は照明器具に使うだけとします。車も化石燃料を使わないところまで、馬車、人力車、自転車、リヤカーを使うまでにします。そして住環境や町や村の景観を芸術的にまで美しく整えてゆくようにします。個人がそれぞれ美しい庭を競って作り、共同で石畳や石垣の美しい路地を作ってゆきます。それが大事な下山の道筋だと思います。下山とは揺り戻し、反動でありルネッサンスのことだと考えます。田舎から都市に流れた人口が都市から田舎に流れるようになることかもしれません。

日本は少子高齢化、人口減少がこれからどんどん進行し50年後は4000万人の人口が減るとの予測がなされています。東京、千葉、埼玉、神奈川以上の人口がなくなるのです。下山するとはこの事です。人口減少によって需要が減少し大量の物が余ってきます。余ったものは値が付きません。今でも、余った物が沢山出て来て、本来価値あるものが値崩れして悲惨な状態になっています。ネットオークション市場で、総欅のしっかりした茶箪笥がたったの5500円で落札されていました。本来の価値から云ったら20万円するでしょう。美術品の値下がりも甚だしく中堅の洋画作家の油絵が本来価格の20分の1、30分の1の値段になっています。これからの時代、中古住宅やリサイクル家具調度品なども余って来て考えられない安値になっていくでしょう。お金がかかるものと云えば食べ物位になるでしょう。食べ物は安全安心が求められるので、逆に高くなってゆくような気がします。多くの人が自分の食べ物や生活必需エネルギーを自分で作るということに、今よりずっと価値を見い出すようになるでしょう。

需給が有り余って金銭的に無価値になったものの中から、宝のような価値を見い出し、それを愛の心で活かすならば下山後の時代も悲惨になりません。むしろ今よりずっと精神的に豊かな時代となるでしょう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/3/25からの転載です)

2024.5月開催 坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-プレクシャ・ヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス-

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

2024年クラスから、プレクシャヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス、として開催してまいります。

内容)
ヨガ:瞑想できる体づくりヨガ
讃歌:「プレクシャ・メディテーション 讃歌・マントラ・スートラ集」から1-2歌
講義:当日告知
実習:当日告知

日時:2024年5月12日(日)10-12時(開場:9時半)

会場:茗荷谷中央大学キャンパス2階(住所:大塚1丁目4番地)
*丸の内線茗荷谷駅前の春日通りを左に行くと、新設の中央大学茗荷谷キャンパスがあり、その2階になります。中央大学正面入り口の手前左側に階段、右側にエレベーターがあります。お間違いのないようご注意ください。


会場参加受講料:2000円
アーカイブ動画視聴:1000円
*アーカイブ動画視聴の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

講師:伊東真知子(指導ランク:講師)*ヨガ担当*

日本プレクシャ・ディヤーナ協会 役員
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印5回(2019年3月時点)
1980年沖ヨガ入門
1982年ヨガ指導開始
2008年プレクシャ・メディテーション指導開始
月2回神保町区民館にてヨガと瞑想クラス開催


講師:坂本知忠(指導ランク:教師)*讃歌、講義、瞑想担当*

 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。 

コラム:静と動

孫子に曰く、静かなること林の如く、動かざること山のごとし。武田信玄も風林火山の旗印にした。林は静かか、山は動かないかは別問題として、動くこと止まることは一つの事と云える。このことを古人は静動一如と云った。静動一如は名人、達人、悟りの境地である。それは静けさ、止まっていることのなかに、莫大なエネルギーが湛えられていて時が至れば激しく動くと云うことを意味する。また、激しく動いているのにそこに静けさをあわせ持っていることでもある。例えればダム湖の水は波静かであるが、甚大な位置のエネルギーを持っているし、地球は秒速900キロメートルで宇宙空間を移動しているが地上で生活している人間には静止しているとしか感じられない。

動くと云うのは一体なんなのか。

人間がこの世に生を受けるということは、一時も止まることが許されない躍動の中に放り出されることなのだ。人間は常に動かなければならない、人間は変化しなければならない。動かないことじっとしていることは肉体的に苦痛なので常に体勢姿勢を変え続けなければならないように出来ている。立ち続けることも苦痛、座り続けることも苦痛、寝続けることも大変な苦痛なのだ。古人は動くと云うことが心地よいにもかかわらずなぜ苦痛を承知で体の動きを止め、呼吸を限りなく鎮め、思考を止め、体内感覚の波を鎮めようとしたのか。それは、それらが止まり鎮まったときに動いているとき以上の至福感があるからだ。

我々は時間を止めることは出来ないし、地球や惑星の動きを止めることも出来ない。体の中で細胞レベルで起こっている変化の流れも止めることは出来ない。神経細胞の中を流れてゆく電磁気的な流れは継続している。その流れと共におこっている感覚を知覚しているとき、思考が止まって心が鎮まり、知覚が観じようとする対象の感覚と一つになって、粗雑な感覚から微細な感覚へ、希薄な感覚へ、さらに無限に広がる均一で透明な静かに静止した感覚になっていることがある。そんなときは時間も無くなってしまったような、自己と云う存在もなくなってしまって根源的なものだけが立ち現われている気がする。

過去と現在と未来が一瞬のなかにことごとくあって、知覚すべき動きがまったくない静止したような状態、三次元的な空間ではない広がり、観じようとする意識と観じられる対象が双方透きとおったようになる。

そんな体験が未熟な私にもときどき起こる。

私はもっと深く動と静について探求しなければならないと思っている。

私達は動いていること、生命が永遠なる過去現在未来に繋がっていることやもっと多くのことを川の流れに学ばなければならないし、止まっていることの意味、忍耐を大木老樹に学ばなければならないと思う。私は最近、川が先生であり、老樹が友達であり、それらと自分がなんら変わりなく同じものだとの気持ちが目覚めてきた。山や川や森を観察し自分の内部を観察することが万巻の書物を読むことより大事だと解ってきた。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/1/25からの転載です)