ブログ(最新情報・イベント案内)

はじめてのプレクシャ・メディテーションVol.3

4月にスタートしましたプレクシャ・メディテーションの週末クラス・第三回目になります。

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容:
講義・実習
アンタールヤートラ/内なる旅

深い瞑想に導く前提条件と中枢神経の強化
瞑想の基礎的練習

*指導者養成講座Lv1では さらに下記の内容についての講義をお聞きいただけます:

ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点とは何か?
マントラを唱える意味とは何か?

身体の宗教哲学的意味とは何か?
肉体、電磁気体、カルマ体、魂とは何か?
8つの主要なケンドラとは何か?

日時:6月9日(日)10-11時半(開場:9時半)

会場:池袋駅西口・平舎Hiraya(住所:豊島区西池袋5-12-3)
*会場は5月以降変更になる可能性があります

受講料:2000円

講師:坂本知忠

日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
福島県重文民家・叶津番所オーナー
みずなら只見ユイ道場主
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印12回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書)「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。

コラム:四つの身体と霊的色彩光

ヴェーダンタ哲学とジャイナ教哲学では、人間の身体は目に見える粗雑な物質の肉体と、精妙な物質的身体である電磁気的な体と、最も微細な物質からなる体原因と、物質でない魂が層のように結合したものだと説いている。

ジャイナ教ではその四つを肉体、テジャス体(電磁気的な身体)、カルマ体(原因体、汚れた魂、個我の源)、ドラビヤ・アートマン(純粋な魂)に分けて説明している。

ヴェーダンタ哲学では肉体(粗雑な体・アンナマヤ・コシャ・食物で出来た体)、スークシュマ・シャリーラ(精妙な体)、カーラナ・シャリーラ(原因体・潜在意識)、アートマン(魂)に相当する。

仏教では魂を説明しないので身体の複合性・重層性を説かないが、四つの身体を説くジャイナ教とヴェーダンタ哲学には共通の思想がある。『スワーミー・メーダサーナンダ著「輪廻転生とカルマの法則」参照。』

魂の二面性についても純粋なる魂をヴェーダンタ哲学でシュッダートマンと言い、ジャイナ教ではドラビア・アートマンという。本性が覆い隠された魂をヴェーダンタ哲学ではジヴァートマンと言い、ジャイナ教ではパーヴァ・アートマンと言う。何によって魂が本性を覆い隠されるのか。ヴェーダンタ哲学では、それは無知・マーヤ(迷い)であると説いている。その迷いとは誤解、妄想、迷信である。

ジャイナ教では魂に付いた汚れであるカルマ(業)であるとして、中でもカシャーイが原因であるとしている。カシャーイとは怒り、慢心、虚偽、強欲のことである。ジャイナ教では全ての生き物の魂にはカルマが付着していて、カルマが原因となって輪廻が起こっていると説いている。そして輪廻する魂を持つ生き物全てをジーヴァと呼んでいる。汚れたジーヴァの魂が純粋になることがモークシャ(解脱)であり、モークシャに到達することが全ての輪廻する魂の目標である。人間として肉体を持った状態でモークシャに到達した人をアラハン又はアラハトと言う。アラハトが肉体を捨てて魂だけになるとモークシャに到達しているので、もう輪廻転生が起こらない。その輪廻転生しない肉体を持たない魂をシッダと言う。ジーヴァという言語、シッダという言語はジャイナ教由来のものである。もしかするとヴェーダンタ哲学で説く四つの体は、いつの時代か、ジャイナ教哲学の影響を受けているのかもしれない。

ジャイナ教哲学では純粋なる魂は色彩を超越した まばゆく輝くものであるが、純粋なる魂にカルマが結びつくと輪廻する魂、ジーヴァ、つまり生き物、生命になる。生命の中の魂はある種のバイブレーションを起こしている。その精妙なバイブレーション(ある種の周波数を持った波動)が周囲に存在している様々な微細な物質を引き寄せる。その微細な物質が魂に付着してカルマの材料となる。人間であれば、五つの感覚器官を通じて微細な物質が魂に引き寄せられてくる。色、音、味、匂い、触感として微細な物質が魂に入ってくる。それは外から内への方向性である。

魂の内奥から常にある種の霊的精神的エネルギーが身体外部に放射されているが、そのバイブレーションは内から外に向かって放射されるときに魂に付いた汚れの影響を受けて着色される。それがジャイナ教哲学でいうレーシャという霊的色彩光である。霊的色彩光はカルマ体(アートマンにカルマが結びついて出来た原因体であり、自我意識であり、個我でもある。)のカシャーイ領域を通過するときにカシャーイに影響されて着色される。原因として蓄積されているカルマによってカシャーイ(情欲・パッション)が出来てくるが、カシャーイの領域を通過して着色されたレーシャは、次にカルマ体のアデヴァシャーイの領域に入り、感情が生起する元となるエネルギーを生み出している。この段階(カルマ体の段階)ではレーシャの周波数が高いので我々はまだ霊的色彩光を知覚することはできない。

レーシャがテジャス体に入ると周波数が低くなり、テジャス体に流入したレーシャは生命力や内部感覚に影響し、テジャス体のレーシャの領域(霊的色彩光の見える領域)に到達すると我々はレーシャの色を知覚することが出来るようになる。更にレーシャが肉体のレヴェルに入ると中枢神経に到達し内分泌系に影響を及ぼして、そこで化学物質・ホルモンが分泌され感情が生起する。感情によって思考が生まれ、知性が心で考えたことを分析判断し決定する。決定することで行動となる。行動の源を辿っていくとカシャーイがその根源となっていることが解り、行為の結果であるカルマがそのカシャーイを生み出していると理解できる。

又、カルマはレーシャに引き寄せられていることがわかる。つまりレーシャが我々の行動の全ての根源だということがわかる。レーシャによって我々は行動させられ、そしてその行動が新たなカルマを引き寄せ新たな原因を作っているのである。

だからカルマを変えたかったらレーシャを変えればよい。それがジャイナ教のカルマを変える瞑想法レーシャ・ディヤーナの理論である。霊的色彩光の知覚を通じてレーシャの色をより良い色彩に変えていく、因果律の負の連鎖を正の連鎖に変えて魂の純粋化を目指すのである。

カルマによって汚れた魂となったパーヴァ・アートマンをもつジーヴァ(生き物、特に人間)が修行によってアカルマ(純粋)になると、モークシャが達成されて輪廻転生しない普遍的なドラヴィア・アートマンになる。このことを解脱と言う。解脱がジャイナ教・仏教・ヒンドゥー教の理想である。それは、今も昔も変わらない。レーシャ・ディヤーナ(霊的色彩光の知覚)は瞑想の目的と目的地とそこに到達する方法を示している。

感情を生み出すホルモンの内分泌線と関係が深いケーンドラ(チャクラともいう)という霊的中心点に善い色彩をイメージし、善い言葉と共に潜在意識であるカルマ体に浸透させる。この瞑想の継続によって我々の潜在意識は変容しカルマも変わり、カシャーイも善きものとなる。

自分自身を知るというのは自己のカルマを知ることである。自己コントロールとは自己の行為の結果であるカルマによって作られたカシャーイをコントロールすることである。また、カルマによって形成された心の癖、願望、傾向、好みであるヴァーサナー・サムスカーラをコントロールすることでもある。

我々は自分自身を肉体としての体だけであると見ていたのでは救われない。常に肉体だけでなく、自分の体を電磁気的な体として、原因の体として、純粋なる魂として見なくてはならない。それが、自分で自分を救う道である。ジュニヤーナの道、智慧のヨガ、論理的思考を好む人の歩む道、プレクシャ・メディテーションがそれである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2018/6/1からの転載です)

はじめてのプレクシャ・メディテーションVol.2

初めての方にプレクシャ・メディテーションを学んでいただくためのクラス「はじめてのプレクシャ・メディテーション」を4月に第一回目を開催した後、今回が第2回目になります。

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容:
講義-プレクシャ・メディテーションの全体像と概略2

瞑想とは何か?
プレクシャ・メディテーションとは何か?

実習-プレクシャ・メディテーションの基本:カーヨウッサグ(完全なるリラクゼーション)

*指導者養成講座Lv1では さらに下記の内容についての講義をお聞きいただけます:

ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点とは何か?
マントラを唱える意味とは何か?

身体の宗教哲学的意味とは何か?
肉体、電磁気体、カルマ体、魂とは何か?
8つの主要なケンドラとは何か?

日時:5月12日(日)10-11時半(開場:9時半)

会場:池袋駅西口・平舎Hiraya(住所:豊島区西池袋5-12-3)
*会場は5月以降変更になる可能性があります

受講料:2000円

講師:坂本知忠

日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
福島県重文民家・叶津番所オーナー
みずなら只見ユイ道場主
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印12回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書)「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。

コラム:私のヴァーサナー

外は吹雪。夜中に風が吹いて、ここ二階の窓ガラスに風に運ばれてき
た粉雪がびっしり付いている。昨夜は電気炬燵に足を突っ込んで寝てい
た。温かい寝床から渋々起きて、階下に降りる。室温-6度。厳冬の朝、
先ずしなければならないことは居間の石油ストーブに火をつけること、
そして、電気炬燵をONにすることだ。今朝は室内でも素手がかじかんで
しまうぐらい寒い。昨夜、ストーブの上で湯が沸いていた薬缶は夜の間
に冷えきって中まで凍っていた。外の積雪はゆうに2mを超えている。

私は今、新潟県との県境の町、福島県只見町にある福島県指定重要文化
財古民家・叶津番所に2週間の予定で滞在している。叶津番所は250年程
前に建てられた奥会津地方最大規模の古民家で、そこに一人で夜を過ご
している。その歴史を刻んだ大きな古民家の圧倒的な雰囲気のもとでは、
孤独に強くなければ一晩たりとも過ごすことは出来ないだろう。吹雪の
夜は建物のあちらこちらでさまざまな音がする。建物がしゃべっている
ようでもあり、目に見えない精霊の声のようにも聞こえるからだ。
叶津番所の周りには、番所を核として100年以上前に建てられた伝統的な
「蔵」、13年前の2005年に新築した古民家風多目的道場の「みずなら只
見ユイ道場」、「小番所」と称する中古住宅がある。私はその4棟の建
物のオーナーなので、豪雪から建物を守るために滞在しているのである。
平成30年1月27日午後4時、アメダスランキング積雪量情報は只見が271
cmで青森の酸ヶ湯353cm、山形の肘折についで3位であると報じて
いる。

雪に閉ざされた中で、囚われの身になったような状態で日々を過ごして
いると、「何が原因で自分はこのようなことを体験しているのだろうか
?」という思いが強くなる。「なぜ叶津番所を買ったのか、どうして道
場を創ったのか。」「文化財の保護と活用を続けたこの30年間はなんだ
ったのか。」などと考える。何もすることがなく、ボーとした頭に反省
的な心が沸いてくる。そんな時、ふと、「今、私がこのような形で存在
し、このようなことを体験しているのは、原因と条件と結果の糸が必然
的に連綿と悠久の過去につながっているからだ。」と解った。

叶津番所を所有することになるまでに数えきれない御縁があった。その
、どんなに小さな御縁が欠けても叶津番所に出会うことは無かっただろ
うし、また所有することもなかった。私が高校一年生の時、山岳部に入
部しなければ、佐藤勉さんという山登りの先輩に出会わなければ、20歳
で肺結核にかからなければ、ヨガの導師・沖正弘先生に出会わなかった
ら、沖先生の言葉が無かったなら、私がヨガやインド哲学に興味を持た
なかったら、そのようなことは起こらなかったであろう。しかし、その
ような無数の御縁があって今の私が存在している。人間存在は孤独に思
えるがそうではない。あらゆる他のものとの御縁によって支えられてい
るのである。宇宙全体が私という存在を支えてくれているのである。

物を所有するということは、土地であれ建物であれ、家族であれ、美術
品、骨董品、職場、財産、ペット、その他なんでも後々、管理しなけれ
ばならない、世話をしなければならない苦労がつきまとう。所有し使用
する喜びと、それに伴う苦労は必ずついてまわる一体のものだ。人間だ
けがこの苦しみを喜びに替えることが出来る。それが人間の理性的な心
であり、他の動物にはない仏性というものなのだ。さまざまな経験をす
ることで人間の霊性が高まっていくのだと思う。どのようなことを経験
するのかはその人が自由意思で選んでいることである。その自由意思の
根源がヴァーサナーであり、サンスカーラーという。その人の持つ個性
、性向、志、夢や希望の出発点のことである。

番所の周りの4棟の建物で一番問題なのが、「小番所」である。小番所
は道路を挟んで番所と向かい合っている2階建ての中古木造住宅である。
私が2010年に買い受ける前は90歳近いおばあさんと息子が住んでいた。
おばあさんが高齢になったので、姉さんの居住地近く福島県郡山市に
二人で引っ越していった。番所の隣接地であり、建物からの山や川の
風景が絶景なのが気に入って、番所でのヨガ合宿や国際交流の利便性
が高まることもあり、その住宅を買ったのである。売り主の条件とし
て家具や什器備品を全て残置していくというものであった。私はその
条件を承諾して、建物の引き渡しを受けたが、建物内部は不用品でご
み屋敷のようだった。そのとき私は地獄のようなこの環境を天国にし
てみせると心に誓った。今では佐藤松義さんキエ子さん夫婦の協力も
あり地獄のような雰囲気が天国に替わった。近年、2階の一室を綺麗
に整えて只見での私のプライベートな居室にしている。

小番所は建物の構造上致命的な欠点があった。冬の只見の豪雪に対応
していない事だった。それに、極めて安普請で構造材も細かった。屋
根勾配が緩く、積もった雪が滑り落ちなかった。1階部分に下屋が6、
5間×1、5間で付いている。およそ畳20枚分の下屋屋根に雪が積も
る。さらにその上に2階屋根からの落雪が積み重なる。屋根に積もった
雪を放置するとこの家は雪に押しつぶされてしまうのだ。平成27年1月
母が亡くなり葬儀などに追われて只見に来ることが出来なかった。そ
の年は大雪の年だった。屋根に積もった雪が落雪せずに積み重なって、
その重量に押されて小番所二階の梁と柱が折れてしまった。保険に加
入していなかったので修理代は痛い出費となった。

番所や倉は管理を委託している三瓶こずえさんの家族が雪下ろしをし
てくれる。道場は地下水をスプリンクラーのように出しているので、
急こう配の屋根から自然に落雪したあと融けるので、手間がかからな
い。私が冬に只見に滞在する目的は主に小番所を雪害から守るためで
ある。

なぜ、これほどまでに小番所にこだわるのかと言えば、私はこの場所
で自分の理想を表現したいからである。私はここに借景を取り入れた
枯山水の庭を造ってみたい。チャンスがあれば建物を建て替えて、皆
がアッと驚くような素敵な建物を創ってみたいとも思っている。

60歳の時には前途があり、まだいろいろ出来ることがあると思ってい
た。今、70歳を超える年齢になってこの後、何が出来るのだろうか
と考えてしまう。私が只見で活動していることを引き継いでくれる人
は家族にも友人にもいない。妻が私にいつも言っている。「あんたみ
たいな馬鹿な人はいないよね。お金をみんな只見につぎ込んでしまって
・・・。」「あなたが死んだらどうするの?早く只見を始末してよね。
」「私は何も解らないんだから、あなたのやったことの後始末は出来な
いから・・・。」 もっともなことである。

どうやら、私の先が見えてきた。只見での活動は道半ばで終わりそうで
ある。私に働いていた求心力が拡散力に変わったことを感じる。今後、
10年程度かけて只見での活動の整理をしようと思う。成し遂げられなか
った夢を抱えて、今生で経験した様々なカルマを潜在意識に宿して、そ
れらによって熟成したヴァーサナーとサンスカーラが私を次の人生に導
くであろう。

私は過去を振り返り、現在の状況を考察することで、自分の未来が少し
ずつ見えてきた。前世で私を導いたキーワードは海と軍艦だった。今
生で私を導いたキーワードは山と健康と瞑想だった。来世で私を導く
キーワードはユニークな建築物と日本庭園と水晶のような気がする。
私は6のプレクシャ・メディテーションとアヌ・プレクシャで自己の
内部観察を深めていけば、自分の来世がどのような場所に生まれ、ど
のような人生を歩んでいくのか大まかに知ることができると思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/2/1からの転載です)

コラム:自分で自分の医者になる・無病の道

現代人は一般的に病気になると先ず身近な医療施設に出かけて診療を受ける。そして、医師の診断を受け、処方箋に従って薬を飲むことで病気を治している。癌などの重度の病では医師による手術を受けて病の原因を除去する方法をとっている。現代では医学技術は目覚ましい発展をとげて、従来治療が難しいとされてきた多くの難病も治療出来るようになってきた。医療に対しての信頼感が増してきたので、ほとんど全ての人が病気になると、病院や医療施設を頼りにしている。

現代のように医療技術や医療施設が発展し、整っていなかった時代、人々はどのように病気に対峙していたのであろうか。多くは薬草などを使う民間療法であったり、祈祷やさまざまなヒーリング技法に頼っていた。近年の食事療法、色彩療法、指圧、霊気、ホメオパシー、整体、カイロプラクティック等のような代替医療として知られている方法を使っていたのである。

もっと古代においては、自分の体調不調や病気は他に頼る方法がなかったので自分で自分を治すしかなかったのである。その場合、古代人は自分の身体の内部を観察した。身体内部の痛みや不快な感覚を注意深く知覚した。内部感覚を知覚することで自然に痛みや不快感がなくなっていくことを体験した。それが瞑想の起源であると思う。

私たち現代人は痛みや病を悪いものと捉えている。しかし、痛みや病は決しては悪いものではない。それは自然法則が現れたものであり、命の働きが命を守るために痛みや病を起こしているのである。もし痛みや病が無かったら我々は命を長らく存続できないだろう。そう考えれば病は悪いものではなく、むしろ善いものであると言える。痛みと病は原因と結果の法則に従って起ってくる。痛みと病は原因と縁である条件が整わないと現れてこないし起こらない。例え遺伝子の中に弱点として病気の原因を抱えていても、魂のレベルで条件が整わなければ病気は現れない。

ジャイナ教僧侶は自分に起こってくることの原因を自分の内側にある魂の汚れに見ているので、病に対しても自業自得とみている。自業自得であるから他に頼らない、自分で問題を解決するしか方法はない。病気になっても薬を飲んだり手術することもない。同僚による手助けで代替医療などを受けるのみである。戒律によって医師にもかかれないので、自己の病に対して一番の治療手段が断食と瞑想である。断食と瞑想によって命の働きを高め、整えて、病を治癒する方法をとっている。

プレクシャ・メディテーションは本当の自分を見つけるために皮膚の内側に深く観じようとする意識を向ける内なる瞑想法である。それによって、真我つまり魂を知ることが出来る。魂に到達するまでに私たちは身体内部のあらゆる感覚、粗雑なものから超微細なものまで観察し調べつくさなくてはならない。その過程で私たちは自分とは何かということがわかってくる。自分とは何かが解ること、そして自己コントロールが実は自分の病に対する最も優れた治療法なのである。

現代医学は肉体レベル、物質レベルで起こっていることしか治療出来ない。検知器で検知できないようなもっと微細なことが原因になっていることに対して根本的な治療は不可能なのである。人間という存在は物質的な肉体だけで出来ているのではない。目に見えない検知器にかからないような微細なレベルの物質で出来た身体や物質ではない魂の結合によってできているのである。ジャイナ教哲学では肉体の内側に微細な物質による電磁気体があり、更にその内側に超微細物質によってできた原因体があり、更にその内側に物質ではない魂があると観ている。そのように自分の身体が重層的になっていることを理解できなければ、本当の自分を知ることも出来ないし、自分をコントロールすることも難しい。自分で自分の医者になるとはそのように、深いレベルの自己コントロールのことである。

プレクシャ・メディテーションは深いレベルの自己認識法である。それによって、自分自身を知ることが出来るし、自己コントロールが出来るようになる。肉体よりももっと内側の電磁気体のレベルで、原因体のレベルで自己コントロール出来なければ本当の意味での自分で自分の医者になることは出来ない。アカルマの道、自己解放の道が無病への道である。悟りへの道、解脱への道すなわち精神性が高まらなければ無病は無い。カルマが原因となって輪廻する魂に様々な苦しみと病がついてまわるのである。

知恵ある人というのは自己コントロールできる人のことをいう。プレクシャ・メディテーションの技法は身体内部の感覚を知覚する技法と言ってもよいが、その実践よって身体内部に調和がもたらされ、生命エネルギーの流れがスムーズになり生命力、自然治癒力、免疫力を高めることが出来る。その意味で瞑想とは自己ヒーリングと同義語なのである。

カーヤ・ウッサグは心身の完全なるリラックス法であり、もっとも優れたストレス軽減方でもある。ストレスに対応できなくて発症する病を発病前にコントロールできる方法であり、同時に生と死の意味が理解できるようになる。カーヤ・ウッサグによって身体内部の調和が達成されて精神世界への扉が開かれる。カーヤとはインドの言葉で身体という意味であり、ウッサグは去る・分離するという意味である。つまり、カーヤ・ウッサグとは心身分離ということで、意識が肉体から離れることを意味する。最も深いリラックス状態では身体があってないような感覚が起る。身体感覚が消滅して意識だけがはっきり目覚めている、そんな感覚が起る。その時、内なる完全性が達成されて痛みも無ければ病も無い、悩みもない平和な完全性がその人の内側に立ち現れている。カーヤ・ウッサグを継続的に実習すればストレスによる悩みや病と無縁になる。

アンタール・ヤートラ(内なる旅)は電磁気的な体の流れをスムーズにして生命力を高めることが出来る。

シュヴァーサ・プレクシャ(呼吸の観察)は深い呼吸を通じて万病に効く特効薬の代わりになり得る。

シャリーラ・プレクシャ(身体の観察瞑想)は身体内部に深い調和が起こり電磁気体のレベルで完璧な健康がもたらされる。そして身体の観察によって自分とは何かが解ってくる。自分を知ることが自分をコントロールすることであり、自分を自分で癒す方法である。

チャイタニヤ・ケーンドラ・プレクシャは生命力が集中している中心点を知覚することで特に内分泌線が活性化され、ホルモン分泌を正常化させることが出来る。そのことで感情が調和安定する。感情が安定すれば心も安定し正しい生き方、正しい行動が出来るようになる。

霊的色彩光の知覚瞑想は潜在意識に働きかけ、消極的態度を積極的なものに改善することが出来る。

アヌ・プレクシャでは言葉によるアーファメーションを通じ潜在意識を積極的なものに変えることが出来るし、考える瞑想がもたらす直観力によって、真実を知ることが出来るようになる。

プレクシャ・メディテーションは精神性の向上、人格の向上を目的にしているものであるが、その効果だけでなく、同時に私たちの健康を身体の深いレベルから達成できる技法でもある。プレクシャ・メディテーションはインドで古代から現代まで続いてきた宗教であるジャイナ教のセンターや大学で研究しつくされ、体系化された優れた瞑想法であると同時に、自分で自分の医者になる最も優れたテクニックであると言える。

プレクシャ・メディテーションこそ人類の宝である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/3/1からの転載です)

コラム:欲望とは何か

私たち人間が生きていて生活の中で求めているのは、如何にして幸せになるかということに尽きる。では本当の幸せとは何であろうか。仏陀は「人間の日常生活は、ほとんど苦しみに満ちている。その苦しみの生活から脱却して絶対安心、満足、至福、自由に満たされた悟りの世界に行くことが可能である。」と提唱した。インドに起こった宗教のヒンドゥー教もジャイナ教も仏教も人間が本当の幸せを得るために、世俗的、一般的な人間生活の放棄を勧めている。

さらに此岸(人間としての日常生活の苦しみの世界)から彼岸(悟りの世界)に行かなければ本当の幸せになれないと説いている。なぜ日常的な人間生活では本当に幸せになれないのか?それは物質世界が限定的な変化の世界であるからだ。我々は肉体という物質を使って物質世界を体験しているからである。ヴェーダンタ哲学ではこのことをモーハ(迷い)と言っている。迷いの世界では楽しみと苦しみがセットになっていて、苦しみだけを取り除いて楽しみだけ得ることはできない。呼吸を観察しても吸う息と吐く息で苦楽がセットになっていることが解る。人間として生きていると楽しみより苦しみの方が多いのだが、人は多くの苦しみを忘れて、楽しかった想いを増幅出来るから、なんとか辻褄を合わせて生きていくことが出来るのである。

唯物論者は否定するが、魂の永遠性や普遍性を信じる人は物質世界の背後で物質世界を支えている非物質の存在を確信している。物質世界が此岸で非物質世界が彼岸である。此岸は因果律に支配された輪廻転生の世界であり、彼岸は輪廻転生を超えた、再び生き物に生まれない解脱の世界である。彼岸に行くこと、解脱することが真に幸福になることであると言える。解脱無くして真の幸福、自由、安心、至福はあり得ないと仏教やジャイナ教、ヴェーダンタ哲学が教えている。

我々人間が解脱して本当に幸せになれないのは、人間の心身システムのソフトの中に本能的な欲望がインプットされているからである。全ての生き物の命の働きの中に、命が命を守り存続させるために本能的な欲望がインプットされている。この欲望が人間の自由を奪い、本当に幸せになることを妨げ、輪廻転生に縛り付けているのである。

欲望とは何であろうか。生き物には本能的に三つの欲望がインプットされていると言われている。一つが生存欲である。長く生きていたい、健康でいたい、病気になりたくない、いつまでも若々しくいたい、それらは言葉を変えるなら 『食欲』 である。二つ目が自己拡大欲で、自分の分身を増やしたい、子孫や種族を増やしたい、つまり『性欲』 です。三つ目が自由欲で、好きな所に行きたい、遊びたい、世界を知りたい、理解したいという知識欲、悟りたいという欲、それらが言葉を変えるなら『解脱欲』 です。人間だけが持つ芸術的文化的な創作欲、権力欲、名誉欲、所有欲、金銭欲、は三つの基本的欲望から派生した欲望と言える。人間は多くの人を愛し、多くの人から愛されたいとの欲望を持っているが、これも基本欲望が派生したものと考えることが出来る。

なぜ欲望が起こるのか、それは生きていると体の中に生命エネルギーが流れ、それによって感覚が起るからである。感覚には苦楽がある。それは快感と不快である。苦楽の感覚は生きる力であり苦楽の感覚無くして生き物の生存はあり得ない。苦楽の感覚が肉体の生存を脅かす敵や病から自己の命を守っている。

その苦楽の感覚が欲望の根源である。生命の働きが起こす根本的な苦楽の感覚を仏教用語で『痴・ち』といい、ヴェーダンタ哲学ではモーハ(迷妄)にあたる。生きている時に身体に流れる感覚は止めることが出来ず、ほとんど制御が不可能である。だからそれを称してタンハー(渇愛)という。身体に生ずる感覚は沢山あってほとんど自覚出来ないからアヴィッジャー(無明・無知)という。この自覚できない身体内部の微細な感覚が中枢神経系とのやり取りで、盲目的な生の衝動を生み出している。その生の衝動によって好き嫌いの欲望が起こる。欲望には2種類あって好きなものを求める欲(貪・とん)と嫌いなものを避けたい欲(瞋・じん)がある。

コントロールが難しい身体内部の微細な感覚に促されて欲しい、避けたい、という欲望が起こる。その欲望が私たちに行為と行動を促す。心地よい感覚によって、好きなものを側に置きたい、手に入れたいという所有欲が起こる。欲望は一つ達成されると、別のもっと良きものも欲しくなり、欲望の火はエスカレートして燃え上がる。欲望に際限はない。

いろいろな欲望のなかでも、三大根本欲に関係する所有欲は誠に厄介なものである。沢山のものを所有すれば我々は幸せになれると思って行動している。結婚し家族を持つこと、仕事を持つこと、家や財産を持つこと、物を所有することで渇望は満足に変わるが、その反面それらを管理しなければならないし、世話しなくてはならない苦労が生ずる。所有の満足が管理の苦しみに変わるからである。

多くの快楽は多くの苦労が付きまとうという法則が所有にも当てはまる。自分にとって愛おしく、とても好ましいものを所有すると、それと長く一緒にいたい執着が起こる。好きなもの愛おしいものを手放さざるを得なくなった時、人はとても苦痛を感じる。どんなに良い物を持っていても、いつかは手放さなければならないし、多くを所有した人は多くを放棄しなければならない。これが物質世界の掟である。お金でも、物でも所有したものを自分だけの為に使うとそれは悪いカルマとなって未来に悪い結果を招く原因となる。だから、所有を手放して無所有を理想として出家が起こった。なるべく所有しないことで執着から離れようとしたのである。欲望から起こってくる所有と執着によって私たちは不自由になり輪廻の世界に縛られている。だからマハーヴィーラも仏陀も出家することで所有を放棄して無執着を目指したのである。無所有・無執着は欲望から離れた平和な心軽やかな生き方と言える。

欲しい欲望が他人に妨げられたとき、所有を強引に奪われたとき、また、避けたい欲望、嫌悪が原因で怒りが起ってくる。不平や不満も怒りの感情と言える。嫉妬や憎しみ等のネガティブな感情も欲望が元になっている。暴力や争いごとも欲望にもとづく悪行と言える。私たちは欲望に突き動かされて生活している。

願望や希望も形を変えた欲望と考えられる。欲望が私たちを行動させ行為させている。その行為によってカルマが引き付けられ、潜在意識下にインプットされる。インプットされたカルマの蓄積が結果となって今、このような環境のなかで、姿形で自分自身が存在しているのである。我々は欲望に基づき行動しているが、実は悪いことばかりしているわけでもない。行動の善悪は相半ばといったところである。それが一般的な人間だと思う。

欲望の全てが悪いわけではない。善い欲望もある。そのことを煩悩即菩提と言う。解脱欲、完全なる自由を求める欲望は善い欲望と言える。カルマのコントロールとは悪い結果を起こす欲望のコントロールである。それには自己中心的な物質的な欲望を、他の全ての生き物たちの幸せのためになるように精神的に昇華させて行為することにある。あらゆる欲望を魂の解脱に結びつけることにある。私はだんだんそれらが幸せになる道であると信じられるようになってきた。他の誰かが私を救ってくれるわけではない。自分の行為が自分を救うのである。魂が信じられなかったら、欲望のコントロールは出来ない。なぜならコントロールする必要性が無くなるからである。人生の目的が物質的、肉体的な感覚だけの喜びを追求するだけで良いことになるからである。人間の生き方に善悪は関係ない、欲望だけを満足させればよいと、倫理を否定する考えに陥るからである。人間は心の深いレベルで魂を信じているから、なるべく善い行いをして、悪い行いをしないようにしているのである。欲望が少なくなり心軽やかになることで差別心がなくなって、全てを平等に見ることが出来るようになってくる。根本欲すなわちカルマのコントロールで個我の魂が清らかになって、やがては真我を悟る本当の幸せに到達するだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/1/1からの転載です)

坂本知忠先生と行く、インドに古代から続くジャイナ教に触れる旅(2019年10-11月)

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PDFはこちらよりダウンロードください

お申込みに当たりましてはチラシ内「参加申込書」に必要事項をご記入いただき、下記お申込み先までお知らせください。

申込締切:2019年8月30日(金)
*定員となり次第締切となりますのでお早目の申込をお願い致します

申込先:
japan@preksha.com(協会)
tomotada@jcom.zaq.ne.jp(代表直通)

旅行企画:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(代表 坂本知忠)

2019年4月スタート!はじめてのプレクシャ・メディテーション

初めての方にプレクシャ・メディテーションを学んでいただくためのクラス「はじめてのプレクシャ・メディテーション」を4月より開催します。

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容:
講義-プレクシャ・メディテーションの全体像と概略

瞑想とは何か?
プレクシャ・メディテーションとは何か?

実習-プレクシャ・メディテーションの基本:カーヨウッサグ(完全なるリラクゼーション)

*指導者養成講座Lv1では さらに下記の内容についての講義をお聞きいただけます:

ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点とは何か?
マントラを唱える意味とは何か?

身体の宗教哲学的意味とは何か?
肉体、電磁気体、カルマ体、魂とは何か?
8つの主要なケンドラとは何か?

日時:4月21日(日)11-12時半(開場:10時半)

会場:池袋駅西口・平舎Hiraya(住所:豊島区西池袋5-12-3)
*会場は5月以降変更になる可能性があります

受講料:2000円

講師:坂本知忠

日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
福島県重文民家・叶津番所オーナー
みずなら只見ユイ道場主
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印12回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書)「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。

コラム:アートマン 魂 本当の自己とは何か

私達は皆、『なぜ自分という存在(肉体や意識)がここに居るのだろうか。』あるいは『生きているという自分の根本的な仕組みが、何処から来て何処へ行こうとしているのだろうか。』 と考えたことがあるのではないでしょうか。つまり魂は存在するのか、生命は輪廻転生するのか、という形而上的問題について考えたことがあると思います。私は長い間、魂の存在や輪廻転生について疑問に思っていましたが、身近にその問題を解りやすく教えてくれる人がいなかったので、まったくの手探り状態で一人で探求していくしか方法はありませんでした。

幸い現代は古今東西の宗教哲学や聖者の教えが書物になって沢山出版されているので、疑問に思ったことをいろいろ比較検討することが出来ます。私はそのような書物を数多く読んで、先人たちの教えを比較検討してきました。さらにジャイナ教僧侶の講話を聴き深く考察することを重ねて、だんだん魂について理解を深めてきました。

魂とはなんでしょうか。魂の定義は『永遠で不変の実在』であるということです。私たちの生きているこの3次元+時間の物質世界は全てのものは変化してしまうから、永遠で不変なものは存在しません。ですから魂はこの世の次元を超越した、非物質のものだと考えられます。物質世界だけを論じようとすれば、魂はどこにもないということが出来ます。BC8世紀ごろインドに現れた哲人・ヤージュニヤヴァルキヤは、目には見えなくとも、この世のあらゆるものの中にアートマン(魂)は浸透している。しかしアートマンである自己(認識主体)は自己(認識対象の魂)を認識することはできない、と説きました。ヤージュニヤヴァルキヤの説はその後のインド哲学思想の源流となったのです。

形而上的な論争を避けることの実用性と現実性を重視することから、仏教は非物質的な考え方や魂・アートマンについて、言及を避けてきました。仏教では魂を説明することもなく、魂についての定義もありません。しかし、仏教と同じく古代インドに起こった宗教のジャイナ教やヴェーダンタ哲学は魂について詳しく説明し定義しています。ヴェーダンタ哲学はヒンドウ教の拠り所となっている古代インドの哲学です。魂について深く知りたいと思うなら、ジャイナ教やヴェーダンタ哲学を勉強するしかありません。

魂を信ずる人達は、世界を物質だけの世界とは見ていません。私たちの存在を物質やエネルギーだけでなく、非物質的なものを含めて重層的な存在であると見ています。つまり身体とは肉体だけでなく、肉体よりも微細な物質の電磁気的なエネルギー体があり、その奥にデーターベースになっている最微細物質が関与した原因体があり、最奥に非物質の魂であるアートマンが存在していると見ています。

多重的な身体の見方はさまざまなバリエーションがありますが、概ね3つの身体と魂の4層構造になっているというのが、ジャイナ教とヴェーダンタ哲学で共通の見方です。

ヴェーダンタ哲学では1.肉体をストゥーラ・シャリーラ(粗雑な体)、2.生命エネルギーと感覚と心、知性、記憶で構成された精妙な体をスークシュマ・シャリーラ、3.自我意識の体であり原因の体であるカーラナ・シャリーラ、4.アートマン・魂、に分類します。

ジャイナ教では1.肉体 2.電磁気体であるテジャス・シャリーラ 3.原因体であるカルマ・シャリーラ(純粋なる魂にカルマ的物質が付着して構成された体)4.純粋なる魂・ドラビア・アートマン に分けて考えます。

このように比較してみると、身体の考え方や魂についての考えがジャイナ教哲学とヴェーダンタ哲学では共通していることがわかります。

魂は非物質であることが共通した概念です。非物質的なものの特徴として魂を定義付ければ、始まりもなければ終わりもない、無始無終である。成長もなければ衰退もない、永遠不変である。何時でも何処にでも有り、全てのものの中にあまねく充満していて、偏在遍満である。時間や空間、次元を越えていて無限のものであると言えます。

一方、魂でない物質的なものの特徴は、始まりがあり終わりがあって、変化するものである。成長もあり衰退もある、一時的で有限なものである。時間と空間に制限されていて、同じ時間に一つのものが別々の場所で存在することは出来ない。魂以外の3つの身体は一時的で変化してしまう無常なものであると言うことができます。諸行無常とは物質世界に適用される真理であって、魂には適用できません。

非物質である魂がどうして生命をもち身体を持つようになったのか、ジャイナ教は次のように説明しています。本来純粋なる魂であるドラヴィア・アートマンが、ここにも有る、あそこにも有ると偏在している微細な原因物質であるカルマと結びつくことで、汚染された魂・パーヴァ・アートマンになる。パーヴァ・アートマンは輪廻する魂であり、輪廻する魂のことを称してジーヴァという。地球だけでなく宇宙には沢山の生命体が存在していると考えられるが、その生命体の基礎は汚染された魂のパーヴァ・アートマンである。生命体が魂の汚れ(パーヴァアートマンについたカルマの汚れ)を払しょくして純粋になれば(ドラヴィア・アートマンに戻れば)輪廻転生しなくなる。それが解脱でありモークシャという。全ての生き物たちの長い旅路の最終目的地はモークシャになることであり、モークシャになることが人間として生まれた理想である。モークシャのことを全知全能、完全なる自由、無限の愛と至福の状態という。

仏教ではモークシャ・解脱・もう生まれない死なない、ことをニルバーナ・涅槃寂静という。ニルヴァーナーとは吹き消してなにも残らない深い沈黙の世界、無の状態である。全知全能とか至福の状態はないとする仏教の考え方は、虚無的で暗く無気力になる恐れがあるように私には思える。

ヴェーダンタ哲学では魂の2面性をシッダ・アートマンとジーヴァアートマンに分けて考えている。シッダ・アートマンは唯一の神であり普遍的な梵である。これをブラフマンという。シッダ・アートマンから分かれた小さな分身のような個我が迷いのうちに、自分の真実の姿を見失っている状態が我々生き物であり人間である。迷いの状態にあるジーヴァ・アートマン(個我)が迷いがなくなり、実は自分はシッダ・アートマン(真我)なのだと解ることが梵我一如で、神との合一であり、解脱であり、このことをカイヴァリアという。

輪廻転生、因果律、魂の法則を解りやすく合理的に説いているのはジャイナ教哲学だと思うようになってきた。魂にどうして汚れが付くのか、それは心に思い、考え、行為したからである。思い考え行為したことが魂に物質的な汚れのカルマ惹きつけて付着する。そのカルマが原因となって我々に様々な結果をもたらす。我々が今このような場所、このような姿、境遇に存在し幸不幸を受け取っている原因の根本は、魂に着いたカルマの汚れや、汚れによって傾向づけられたサンスカーラという力が作用しているのである。私たちはカルマに縛られ操られている限り真の自由はない。我々はカルマにコントロールされ奴隷になっているようなものだ。魂の汚れを取り除き、純粋なる魂になるのがジャイナ教の修行であり、プレクシャ・メディテーションの目指すところである。それが究極の自己コントロール法である。

魂の汚れとは、例えれば汚れた水のようなものである。水はH2Oで水素原子2個と酸素原子1個が結びついて出来ている。水素はこの世(宇宙)で一番質量の多い物質である。酸素は三番目に質量が多いことから宇宙には広く水が普遍的に存在していると考えられる。水は非常に優れた溶解力を持つので、いろいろな物質を取り込むことが出来る。地球の自然環境の中で水は完全に純粋な形でほとんど存在しない。雲や渓流も何らかの形でミネラルなどを含んでいる。純粋な水は工業的に人工で作り出すことが出来る。私たちが飲んでいる飲み物はさまざまな種類があるけれど、その飲み物は実は全て汚染された水なのである。お酒はお酒になる成分が汚染物質となって溶け込んだ水なのだ。牛乳も牛乳という汚染物質が溶け込んだ水であり、味噌汁も味噌や他の具材によって汚染された水である。コーヒーも爽健美茶もビールもオレンジジュースも皆、我々が飲み物として摂取しているものは汚染された水といってよい。水の中に溶け込んだ汚染物質が飲み物の個性になっている。同じように普遍的な魂の中にいろいろな種類のカルマの汚れがついて輪廻する生き物、人間一人一人の個性になっている。汚れが違うから違う形で存在しているのである。

飲み物から汚染物質を取り除けばH2O、純粋な水になる。同じように魂から汚染物質であるさまざまなカルマを取り除けば純粋なる魂・ドラヴィア・アートマンになる。それがモークシャであり全ての人間に課せられた最終目標である。魂を純粋にすることは大変な努力と困難を要するが、より良い魂、より良い個性と人格、より幸せになることは今日からできる。それには、プレクシャ・メディテーションを継続し、日常生活を通じて因果律を信じ、真のカルマヨガを行うことである。それが自由という事であり自己責任であり、自己の内に神を見ることであり愛という。

ヤージュニヤヴァルキヤや8世紀ごろインドで不二一元論を提唱したシャンカラは認識主体は認識対象にはなりえないと説いた。しかしジャイナ教では自己(魂)を知覚の対象としている。優れたメディテーターは深い瞑想の中で魂をじかに知ることが出来るとしている。これが、ジャイナ教哲学の神髄である。

プレクシャ・メディテーションの始めに 『サンピッカエー  アッパーガー マッパエー ナム』『魂を通して魂を見てください。そして本当の自分を見てください。』 と唱えるのは魂を認識、知覚の対象としているからである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/12/1からの転載です)

コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか

インドには古代から続く宗教的流れとして、バラモン系(アーリア文化系)の流れと、シュラマナ系(土着的クシャトリヤ系)の流れがあった。バラモン系宗教の修行の主たるものは苦行であり、シュラマナ系宗教の修行の主たるものが瞑想であった。そしてシュラマナ系の宗教の中に輪廻転生思想が伝わっていた。BC8世紀後半、ウッダーラカ・アールニーなどの思想家の登場によりバラモン系宗教の流れとシュラマナ系宗教の流れに思想的な合流が起こった。苦行と瞑想、自業自得と輪廻思想が結びついて、その後、インドに発生した宗教を特徴付ける解脱思想が起こった。解脱思想が広まることで出家が流行した。そのような時代背景があって、輪廻からの解脱を求めて、BC6~5世紀ごろ、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラと仏教の開祖ゴータマ・ブッダが登場した。

仏陀はマハーヴィーラと同じく、シュラマナ系の出家修行者であった。出家してから仏陀はアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとで瞑想修行をしたが、悟りは開けなかった。仏陀は瞑想修行を捨て、次に苦行の道に入った。仏陀の苦行は断食行と止息行が中心だったと伝わっている。しかしどんなに苦行をしても悟りは開けなかった。苦行を止めた後、仏陀は考察瞑想を行って、徹底的に原因と結果の法則について考えた。仏陀以前のカルマ論は原因があれば結果は必ず起こるというものであったが、仏陀は原因と結果の間にある縁としての条件や環境が重要な因果律の要素であることを発見した。『いくら原因があっても環境や条件が整わない限り結果は起こらない。』と従来のカルマ論を修正した。また従来の輪廻説では欲望が原因となって輪廻が起こると考えられていたが、たんなる欲望ではなく、もっと深いところにある人間としての根本的な生存欲にあることを発見した。この二点の新発見が従来の宗教哲学になかったものであり、仏陀の悟りの核心だと考えられている。

仏陀は苦行は何の意味もないとして排除した。仏陀は 『人間として正しい生き方はどうあるべきか』 について考察したときに、ジャイナ教のように魂を強調してしまうと極端な非暴力、不殺生の考え方に陥り、人間としての現実生活に合わなくなると考えた。ジャイナ教では全ての生き物に魂があり、皆生きたいと思っているのだから、人間生活を脅かす害虫の命でさえ奪ってはならないとした。ジャイナ教哲学では植物にも魂があるのだから、農業は出来ない。実ったコメや麦を刈り取ることも出来ないし、種籾は生きているのだから煮炊きすることは出来ないことになる。雑草を抜くことも樹木を伐採することも出来なくなる。輪廻の中の生き物は皆、魂を持っているという考え方だ。その考えは真実かもしれない。しかしそうだとすれば非暴力を徹底して、自分が生きるためには殺生を他にしてもらわなければならなくなる。そういう行為は卑怯だという批判になる。だから、仏陀は「あまり魂、魂と言うなよ」との立場をとったのだと思う。そして苦行を排して苦楽中道を提唱したのだと思う。

仏陀が魂についてあまり語らなかったので、「ミリンダ王の問」(紀元前2世紀頃書かれた仏典、最初に無我説を説いた。)などの論調に見られるように、後の世の仏教徒は仏陀ともあろう人が魂を語らなかったのだから、きっと仏陀は魂はないと説いたのだろうと解釈して、仏教が無我説(魂は無い)になってしまった。

仏陀は魂についてよく理解していたと思う。なぜなら、仏教の根本思想は因果律の教えであり、輪廻転生からの解脱がその中心思想であるからだ。仏陀の悟りは「縁起の法」として知られる。縁起の法とは原因と結果の法則であり、「カルマによって輪廻転生が起こっている。」との思想はジャイナ教やヴェーダンタ哲学とほぼ共通のものである。

仏陀が魂について無記(言及を避ける)の立場をとったので、本来、非我(体や心は私ではない)であったものが後の仏教徒に無我(魂は無い)と解釈されてしまった。そこで、行為の結果を受ける輪廻の主体があいまいになって、仏教が他からの論争攻撃の対象になってしまった。仏陀在世の時は仏陀は形而上学的な論争は無駄だとして論争を避けることが出来たが、仏陀亡き後はその攻撃に対して苦し紛れの理論武装をしなければならなくなった。そんな理由で、仏教理論が複雑化し解りにくくなり、今に続く混乱のもとになったと私は推察している。無我説では自業自得や因果応報の説明がつかないので、輪廻転生説がなりたたなくなるからだ。

仏陀は現実主義者であり実用主義者だった。一方、マハーヴィーラ・ジナは極端な苦行を通してカルマを根絶し悟りを開いた厳格主義者であり理想主義者だった。ジナは魂を重要視して決して他の命を奪ってはならないとした。ジャイナ教は非暴力・不殺生、無所有・無執着を徹底することを悟りに至る最重要課題にした。絶対非暴力だから、他の命を奪うことはない。他と争うこともない。自分の命が奪われようと他の命を害することはない。それがジャイナ教の理想主義である。ジャイナ教は宗教の名のもとに他の宗教と戦争したことのない唯一の平和宗教といってよい。仏教にも非暴力の考えがあるが現実主義をとるので非徹底にならざるを得ない。ジャイナ教の無執着は無所有と同義語であり、魂の清らかさに重点をおいて、物質的なものや肉体的レベルのもの、快楽原理に従う世俗的なもの等の価値に執着するな、との教えのことである。人は家族や財産や地位や名誉や知識など、自分のものだと思うものに、どうしても執着しがちである。その執着を手放せ、つまり所有してはならないと戒律で厳しく制限した。ジャイナ教は執着しない所有しないことで輪廻の原因となる欲望から離れようとしたのである。

仏陀の無執着は無執着にも執着するなとの教えであって、ジャイナ教の無執着とは少し意味が違う。仏陀は苦行を排して苦楽中道を立てた。中道とは世俗的な安楽な道と苦行的な厳格さの中間、つまりいい加減にしたのである。中道とは厳格な人から見ればハードルを下げた堕落に見える。

仏陀は当時の出家者の厳格さを排して、屋根のある建物の中で起居するようになり、綺麗な衣を身にまとい、食事の接待を受けるようになった。従来の出家者の常識であった厳格な戒律などに執着するな、こだわるな、とらわれてはならないと主張した。

仏陀のこのような革新的で実用的、現実的な思想が当時台頭してきた新しい都市国家の裕福な商工業階級の人達に絶大な支持を受けて仏教教団が大きくなっていったと考えられる。

ジャイナ教と仏教はシュラマナ系の父母を同じくする兄弟宗教である。基本的な哲学もほとんど同じと言ってよい。一つだけ違うところがあるとすれば永遠で不変で無限で偏在で純粋なる魂を認めるか認めないかである。仏教は現実主義、実用主義だから、非物質的なものは認めていない。仏教の世界観は基本的に物質世界のみのことである。物質世界では変化しないものは無いのだから非物質であると定義されている魂は無いことになる。

ジャイナ教やヴェーダンタ哲学では非物質なものの特徴として、始まりもなければ終わりもない。永遠に存在し不変である。何時でも何処にでもあって偏在している。無限であって時間と空間に制約されない。時空を超えていて次元も超えている。そして穢れなき純粋なものであると定義している。それが真我、魂であるとしている。

仏陀が沙羅双樹のもとで涅槃に入られるとき、弟子たちは「仏陀入滅の後、私たちはどのようにしたら良いのでしょうかと」と質問した。仏陀は答えて曰く「これからは法灯明、自灯明あるいは法帰依、自帰依でいきなさい。」と最後の教えを残された。「私は充分お前たちに教えてきた、もう教えることは何もない、私の教え【真実】を頼りに、他に頼ることなく自分で道を歩んでいきなさい。」と言った。仏陀の法とは縁起の法のことである。つまり、「因果律の教えが真実なのだから、そのことを生活の全ての羅針盤にして、全て自己責任で生きていきなさい。」と教えたのである。それが仏教の核心的教えだと私は考えている。自分が神であり、全ての人が神である要素を持っている。仏陀は自己の内側に神聖をみて自業自得、全責任を自分に見なさいと教えているのである。

仏教のカルマ論(因果律の教え)とジャイナ教のカルマ論、ヴェーダンタ哲学のカルマ論はそれぞれ少し違うところがあるけれど、要約すれば、ーーー【この世の中に偶然は無く、原因と結果の法則に従って必然的に起こっている。そして、今自分が存在していることの全て、受け取っていることの全ては過去の自分が為した行為の結果によるものだ。だから自業自得であり全責任が自分にあるのだ。】ーーーとの基本哲学は同じものである。

ヴェーダンタ哲学は創造神としての神を認めていた。マハヴィーラの時代のジャイナ教、初期仏教では創造神というものはなく宇宙はカルマによって始めもない始めから、終わりのない終わりまでただ変化が継続しているのだと説いていた。BC2世紀の後半ごろ仏教がヒンドゥー教の影響を受けて大乗仏教が起こった。同じころ、ジャイナ教でもジナ像が作られ神様の概念のようなものが登場した。救い、救われといった他力救済の概念が起こったのである。

およそ2000年以上に亘って、仏教もジャイナ教もヒンドゥー教も互いに影響しながらその教義を発展させていった。原点に帰っていろいろ考えないと、宗教とは何か、なぜ瞑想が必要かなどのことは良く理解できないのである。


<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/11/1からの転載です)