コラム:人類のカルマ・人類存亡の瀬戸際

地球温暖化の嘘は嘘

地球温暖化の脅威についてはこのメールマガジンでも過去に何度か取り上げている。原稿を書いている今は8月の半ばで、今夏はまだ終わっていないが、今年の夏は世界各地で気候変動による異常高温や洪水被害、大規模な山火事の発生が多発している。国内でも昨年の九州北部豪雨に続き西日本豪雨災害が起き、各地で40℃を越える猛暑が連日観測されている。埼玉県熊谷市では7月23日、41.1℃を観測し国内観測史上最高気温を更新した。いまだに、地球温暖化は人間活動、CO2の増加が原因ではないとして、地球温暖化は嘘だという論調を展開している馬鹿な学者(中京大学の武田邦彦教授など)が存在しているが、今では地球温暖化の嘘は嘘だと否定する科学者の考えが世界の主流になっている。

再び地球環境問題がクローズアップ

私は1980年代から地球温暖化問題に強い関心をもっていて、ジャーナリズムの報道に強い関心を寄せてきた。2006,7年ごろ元アメリカ副大統領のアル・ゴアによる「不都合な真実」が出版されて地球環境問題は一気に盛り上がったが、数年後沈静化して、最近、日本ではあまり新聞やテレビに報道されなくなっていた。マスコミ関係者は東日本大震災や原発事故の復旧、経済問題やスキャンダルの報道を優先し、地球温暖化問題は不都合な真実として報道自粛していたように思える。

その報道自粛で情報が少なかったこの10年間に地球温暖化問題は着実に進行していた。今年になって積み重なった原因が一気に噴出してきて、世界中の誰の目にもただならぬことが地球気象に起こっていると実感されるようになった。世界に異常気象と災害が続出しているのでマスコミも報道せざるを得なくなってきている。世界で起っていることを総合的に見れば、何が今起こっていて将来どのようなことが起こるか大まかに知ることが出来ると思う。

世界各地で洪水起こる

今年の4月、イスラエルからパレスチナ自治区ヨルダン川西岸にかけて、大雨や洪水、雹などの影響で若者ら十数人が死亡。乾燥した中東でこのような災害が起こることは非常に珍しい。5月には中東のイエメンやオマーンにサイクロンが直撃し水害が起こった。以上はイスラエル在住のガリコ恵美子さんの報告。ラオスでは7月23日に建設中のダムが長雨で決壊し大規模な洪水被害をもたらした。7月上旬にはロシアのモンゴル国境付近のザバイカリエで観測史上最大の洪水が発生した。中国雲南省では毎年のようにどこかで洪水が起こっているが今年も激しい豪雨により各地で河川が氾濫した。四川省や甘粛省でも洪水が起こった。7月の西日本豪雨だけでなく世界中で未曽有の豪雨や洪水被害が起きている。日本では7月に72時間降水量が全国の雨量観測地点の一割強に当たる138地点で観測史上一位を更新した。中でも高知県馬路村では1319mmになった。そして西日本豪雨が発生した。豪雨の後、被災地に連日猛暑が襲った。気象庁はその猛暑を災害であるとした。

世界中で森林火災発生

世界気象機関(WMO)の7月20日の記者会見によると、ノルウエーでは北部の北極圏で7月17日、7月としては史上最高の33.5℃を記録し、翌18日には北極圏の別の場所で夜間の最低気温が25.2℃と日本の熱帯夜に相当する高い気温を観測した。読売新聞7月21日の記事ではスウェーデンで7月中旬だけで高温と乾燥による森林火災が50件以上も起きて国家の危機的状況だと伝えている。APPによれば、ヨーロッパ北部で長期化している未曽有の熱波で北極圏で森林火災が頻発し、ラトビア西部で大規模な山火事が起こっている。ラトビア政府は農業部門で非常事態宣言を出した。8月8日の共同通信の報道によれば7月23日から始まったカリフォルニア州の山火事でサンフランシスコ北部の火災の焼失面積は8月6日までに東京都の半分以上に相当する1150平方キロに達し4万人が避難している。日経新聞の報道によればギリシャでも時を同じくして29日、大規模な山火事が起こり死者が91人に達した。山火事がギリシャのチプラス政権をゆすっている。日経新聞8月1日の記事にはシベリアで800平方キロの森林火災が起きていると報じている。

世界中で猛暑・最高気温の更新

世界の異常気象を報じるインターネットのアース・カタストロフ・レビューによれば、地中海の海水温度が原因不明の異常状態で通常より5℃高い海域もある。7月10日アリゾナ州南部で今まで見たこともないような超巨大な砂嵐が発生した。7月15日フランス・リヨンで雹嵐によって風景が雪景色のようになった。巨大な積乱雲スーパーセルによるものである。北アフリカのアルジェリアのワルグラという町では7月5日、これまで一度も経験した
ことのない非現実的な気温51.3℃を記録した。カナダのケベック州では7月16日、激しい熱波によって70人が死亡。

ニューズウィークの配信によれば、8月4日ポルトガル中部で46.4℃を記録。スペイン南部で45.1℃になった。カリフォルニア州南部のインペリア郡(人口17,000人)で7月24日世界史上最も暑い雨が降った。降り始め時点での気温が48.3℃だった。気温37.7℃以上で雨が降ることはほとんどない。それ以上の気温の場合、高気圧がつきものだからである。

原因は

どうしてこのようなことになるのかというと、東京大学名誉教授山本良一氏によれば、地球温暖化による影響がさらなる温暖化を加速させるポジテブフィードバックが起こっているからだという。北極圏の海水温が高くなり海氷が激減している。高緯度地域の気温が上昇し赤道付近の気温との温度差が少なくなるとジェット気流の流れが遅くなり大きく蛇行するようになる。そのことで世界各地で異常気象がもたらされているのだと言っている。日本の7月の記録的な猛暑は太平洋高気圧が居座り続く中、その上にチベット高気圧が大陸から張り出してきて二階建て構造になったからである。その気圧配置の元を辿っていくとインド洋の海水温が東西で逆転していたからである。通常はインド洋の海水温は東が高く西が低い、これが逆転するダイポールモード現象が起きていたからである。根本原因は人間の欲望にあり、エゴの心にあり、科学技術の急速な発展にある。それが人類のカルマである。

2018年は始まりの始まりの年

今までは地球温暖化は人間活動によるものではないとする科学者の見解も多く、人間活動による化石燃料の消費、CO2の増加が起因していると断定できない事もあった。しかし観測結果が積み重なり、そして実際に得られるデータと気温上昇がはっきり人間活動の増加によるものと断定できるようになった。そして、予測された通りの異常気象が起こった。私は、2018年は誰の目にも温暖化がはっきりした事実と具体的な体験として、人類が引き起こしているものだと自覚出来た年になったと思う。そういう意味でエポックな年になったと思う。これからは毎年このような気象災害が起こるだろう。そして、ますます激しくなっていくと予測する。

後戻りできない深刻なことが起こる

私は中国やインド、東南アジア諸国の経済発展が始まった時に、「あー、これで地球環境問題は深刻になる」と予想した。その時、思ったのは気温上昇がどのくらいで、海面上昇がどのくらいになるか、だった。近年の海面上昇は年間2mm前後である。2mmだったらさほど問題ではない。10年で2cm、100年でも2cmだからだ。本当にそんな程度で済むかということである。南極の氷が1/10融けると海面上昇は7メートルになる。これには海水温上昇による膨張やグリーンランドの氷河融解は含まれていない。こうした中で、8月7日インターネット上で驚くべきニュースが流れた。コペンハーゲン大学、ドイツのポツダム気候影響研究所、オーストラリヤ国立大学などの研究者がまとめた論文で、このまま極地の氷が融け、森林が失われ、温室効果ガスの排出量が増え続ければ転換点となる、しきい値をこえる。そうなれば気温は産業革命前よりも4~5℃上昇する。海面は現在よりも10メートルから60メートル上昇する。という、衝撃的内容である。アメリカの気候科学者の第一人者であるNASのジェームス・ハンセン氏が2012年講演した話では今世紀末までに海面上昇は5メートルに達すると予測している。私たちの孫たちはそれを目撃することになる。

予測と対応

海面上昇は人類が築き上げた都市文明を崩壊させるであろう。その前に世界各地で河川が氾濫し、沿岸地域は巨大台風などの暴風被害により多大な損失を被ることとなろう。気候変動で食料が生産できず世界各地で飢饉が起こるだろう。安全な場所を求めて民族移動が起こる。それが軋轢になって戦乱が起こるだろう。気候変動はテクノロジーでは解決できないと私は考える。私はどう考えても悲観的な結論になってしまう。我々は困難な状況に陥る前に備えるときが来たと思う。我々は人間の暮らしの原点に帰って、何が起こっても大丈夫に暮らしていける方法を見出す時が来たと思う。人間に必要な最低限は何か、昔の人の暮らしはどうだったか研究してほしい。この状況下、AIも地方に移住することを勧めている。若い世代の皆さんに地方都市近郊や中山間地域への移住を勧めたい。そこに新しい価値観の理想郷を築いてほしいと思う。今の生活を替えられない人はそのようなことが起こるだろうと予測してビジネスに役立ててほしい。ピンチはチャンスと考えて積極的に生きる生き方もあります。

結論・パニックにならないために一歩先を行く

スーパーコンピューター・地球シミュレータは2027年に温暖化限界値+2℃を越えてしまうと予測している。そうなれば温暖化が加速して、もう後戻りできなくなる。負のスパイラルが始まる。福島第一原発事故よりも、もっと大変なことが起こりつつあるのです。ノアの箱舟のような、未曽有の災害多発の困難を乗り切るための『安全な砦』が必要な時代が始まったのかもしれません。志ある日本の若者よ、機会を捉えて洪水の危険性がない中山間地域に移住してください。それが自分と家族と子孫を安全に守る道だと私は考えています。世界中でそのように考える人が増えつつあります。これからの時代は地方に移住した方が良いか、首都圏に住み続ける方が幸せかは意見が分かれるところなので、それぞれの人の立場で広く情報を集め、分析し深く観察し先の先を考えてください。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/8/1からの転載です)

コラム:肉体はリサイクル品

時間の経過とともに、この世の物質的な物は全て変化してしまう。この世の中の柔らかい物も固い物も全てが変化する。流れて時が過ぎれば全ての物は、違った場所で違った物になっている。

諸行無常という変化の自然法則の中で、似たような現象が前後で少し形を変えるがパターンになって繰り返し発生することがある。それが循環の自然法則である。循環とは地球の回転によって生起している朝昼晩の繰り返しであり、季節の巡りである。陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ずる法則でもある。春になれば桜の木が満開の花を咲かせるが、桜の木そのものは前年の木と同じでも、一年の間に盛衰して違った木になっている。満開の桜の花も咲き方が前の年とは違っている。経済現象や歴史も特定のパターンが繰り返される。個々の株式相場の上げ下げも循環として考えることが出来る。

私たちの呼吸も循環そのものであり、血液の流れ、生命力の流れも循環である。河の流れも大気も循環して変化はとどまることがない。

そういう循環法則の中で宇宙そのものが変化して流れている。超新星爆発で粉々に飛び散った岩石やガスを材料として新たな恒星が誕生する。新たな星は爆発飛散した古い星の棄てた物質を素材として星自身を創っていく。循環の中で陰陽が入れ替わり、拡散力と収縮力が入れ替わっている。

私たち人間の肉体も宇宙的大きな流れの中の循環現象の現れであり、すべてリサイクル品によって成り立っている。私たちの肉体はリサイクル品なのだ。以前、誰かが捨てたものを使って私たちは自分の肉体を作っている。そして私たちは自分が使って不要になったものを再度リサイクル品として廃棄している。リサイクル品を使って自分の肉体を作り、使用済みのいらなくなった物をリサイクル品として誰かに再度使って貰うべく捨てている。それを受胎したときから死ぬまでずっと継続してやっているのだ。

人間の死体は分解して全て地球上で原子・元素に還元される。その原子・元素は植物や動物や他の人にも使われることがあるかも知れない。たとえすぐに使われないとしても、流れて時が過ぎれば、地球の崩壊とともに宇宙空間にばらまかれる。さらに時が過ぎれば宇宙空間のどこかの惑星で全く別の生き物がリサイクル品として私たちの肉体を構成していた原子・元素を使うだろう。そう考えれば果たして墓を作ることが真実のことかどうか疑わしくなる。その反対に地球そのものが私たちの実家であり、墓地であると考えることが出来るかもしれない。

私たちが吸っている空気は地球上の他の生き物、植物や、動物や他の人間がすでに使って棄てたものである。以前に誰かが吐いた空気を私たちは今、吸っている。私が今吸っている空気の中には、大昔の聖者、仏陀やマハーヴィーラが呼吸した空気の一部が含まれているかもしれない。そう考えれば呼吸によって私は仏陀やマハーヴィーラとつながっているのだと思える。好きな人だけでなく呼吸を通じて嫌いな人とも繋がっていると理解できる。混みあった電車の中で乗り合わせた乗客たちは誰かが吐いた息を吸い、自分が吐いた息を誰かが吸っている。呼吸を通じて乗り合わせた乗客たちはリサイクルの空気によって繋がっている。このように、私達は他との繋がり無くして一人だけ単独では存在することが出来ないのである。

私が今飲んだ水はかって誰かが使ったリサイクル品である。私が今日排泄した小便はリサイクルされてビールその他の飲み物になるかも知れない。その飲み物を誰かが飲む。私が排泄した大便は、やがて肥料になり作物の中に養分として吸収されて、再び誰かの食物になるかもしれない。

私たちが口から摂取している飲み物や食べ物は地球規模のリサイクル品、使い回し品である。そのリサイクル品を通じて私たちは過去現在未来の全ての存在達と御縁で結ばれている。私たちは個であると同時に全体である。私たちが生涯の間に摂取するリサイクル品としての飲み物や食べ物は甚大な量である。どれくらいの量になるかイメージすることすら難しい。その甚大な量のリサイクル品が私たちの肉体を作り、活動のためのエネルギーを生み出して、私たちの生存を支えている。

私たちの肉体はリサイクル品なので本当の私ではない。本当の私はそのリサイクル物質を使用し廃棄しているアートマンと呼ばれる魂である。魂がリサイクル品でつくった肉体を使用しているのである。魂がその人にとって必要な物質を集めて肉体を作り維持している。肉体を維持するために必要なものを集荷し取り入れ、使用し、不要になれば廃棄している。そのように肉体をリサイクル品と思えれば、肉体への執着が希薄になる。肉体に対する執着が無くなれば、恐怖や不安が無くなり非暴力が実践できる。

魂はリサイクル品ではない。魂は変化するものではないからだ。魂は物質ではない。作られたものではないから、無くならないし滅びもしない。魂はあらゆるものの中に浸透し行き渡って偏在である。何処かに行くこともなければ、何処からか来るものでもない。

その魂であるアートマンがリサイクル品を使って人生を体験している。生きていることの体験は魂にある種の汚れをもたらす。その汚れであるカルマがヴァーサナーになって使うべきリサイクル品の選別に関与している。だから私たちはその魂に付いた汚れのことを知らなくてはならない。また、私たちは魂と肉体は完全に別物であるということを理解しなければならない。肉体はリサイクル品でできているということ、その肉体は私ではないと言うことを完全に理解しなければならない。諸行無常の物質世界の原則が当てはまらない魂についても理解しなければならない。それらのことが理解できれば魂を中心にした生き方が出来るようになる。魂を中心にした生き方のことを正しい生き方と言うのである。魂に付着した汚れをとることがプレクシャ・メディテーションの目的である。魂の汚れが完全に無くなり純粋になることをモークシャという。モークシャに一歩でも近づくことが人生の意味である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/7/1からの転載です)

コラム:四つの身体と霊的色彩光

ヴェーダンタ哲学とジャイナ教哲学では、人間の身体は目に見える粗雑な物質の肉体と、精妙な物質的身体である電磁気的な体と、最も微細な物質からなる体原因と、物質でない魂が層のように結合したものだと説いている。

ジャイナ教ではその四つを肉体、テジャス体(電磁気的な身体)、カルマ体(原因体、汚れた魂、個我の源)、ドラビヤ・アートマン(純粋な魂)に分けて説明している。

ヴェーダンタ哲学では肉体(粗雑な体・アンナマヤ・コシャ・食物で出来た体)、スークシュマ・シャリーラ(精妙な体)、カーラナ・シャリーラ(原因体・潜在意識)、アートマン(魂)に相当する。

仏教では魂を説明しないので身体の複合性・重層性を説かないが、四つの身体を説くジャイナ教とヴェーダンタ哲学には共通の思想がある。『スワーミー・メーダサーナンダ著「輪廻転生とカルマの法則」参照。』

魂の二面性についても純粋なる魂をヴェーダンタ哲学でシュッダートマンと言い、ジャイナ教ではドラビア・アートマンという。本性が覆い隠された魂をヴェーダンタ哲学ではジヴァートマンと言い、ジャイナ教ではパーヴァ・アートマンと言う。何によって魂が本性を覆い隠されるのか。ヴェーダンタ哲学では、それは無知・マーヤ(迷い)であると説いている。その迷いとは誤解、妄想、迷信である。

ジャイナ教では魂に付いた汚れであるカルマ(業)であるとして、中でもカシャーイが原因であるとしている。カシャーイとは怒り、慢心、虚偽、強欲のことである。ジャイナ教では全ての生き物の魂にはカルマが付着していて、カルマが原因となって輪廻が起こっていると説いている。そして輪廻する魂を持つ生き物全てをジーヴァと呼んでいる。汚れたジーヴァの魂が純粋になることがモークシャ(解脱)であり、モークシャに到達することが全ての輪廻する魂の目標である。人間として肉体を持った状態でモークシャに到達した人をアラハン又はアラハトと言う。アラハトが肉体を捨てて魂だけになるとモークシャに到達しているので、もう輪廻転生が起こらない。その輪廻転生しない肉体を持たない魂をシッダと言う。ジーヴァという言語、シッダという言語はジャイナ教由来のものである。もしかするとヴェーダンタ哲学で説く四つの体は、いつの時代か、ジャイナ教哲学の影響を受けているのかもしれない。

ジャイナ教哲学では純粋なる魂は色彩を超越した まばゆく輝くものであるが、純粋なる魂にカルマが結びつくと輪廻する魂、ジーヴァ、つまり生き物、生命になる。生命の中の魂はある種のバイブレーションを起こしている。その精妙なバイブレーション(ある種の周波数を持った波動)が周囲に存在している様々な微細な物質を引き寄せる。その微細な物質が魂に付着してカルマの材料となる。人間であれば、五つの感覚器官を通じて微細な物質が魂に引き寄せられてくる。色、音、味、匂い、触感として微細な物質が魂に入ってくる。それは外から内への方向性である。

魂の内奥から常にある種の霊的精神的エネルギーが身体外部に放射されているが、そのバイブレーションは内から外に向かって放射されるときに魂に付いた汚れの影響を受けて着色される。それがジャイナ教哲学でいうレーシャという霊的色彩光である。霊的色彩光はカルマ体(アートマンにカルマが結びついて出来た原因体であり、自我意識であり、個我でもある。)のカシャーイ領域を通過するときにカシャーイに影響されて着色される。原因として蓄積されているカルマによってカシャーイ(情欲・パッション)が出来てくるが、カシャーイの領域を通過して着色されたレーシャは、次にカルマ体のアデヴァシャーイの領域に入り、感情が生起する元となるエネルギーを生み出している。この段階(カルマ体の段階)ではレーシャの周波数が高いので我々はまだ霊的色彩光を知覚することはできない。

レーシャがテジャス体に入ると周波数が低くなり、テジャス体に流入したレーシャは生命力や内部感覚に影響し、テジャス体のレーシャの領域(霊的色彩光の見える領域)に到達すると我々はレーシャの色を知覚することが出来るようになる。更にレーシャが肉体のレヴェルに入ると中枢神経に到達し内分泌系に影響を及ぼして、そこで化学物質・ホルモンが分泌され感情が生起する。感情によって思考が生まれ、知性が心で考えたことを分析判断し決定する。決定することで行動となる。行動の源を辿っていくとカシャーイがその根源となっていることが解り、行為の結果であるカルマがそのカシャーイを生み出していると理解できる。

又、カルマはレーシャに引き寄せられていることがわかる。つまりレーシャが我々の行動の全ての根源だということがわかる。レーシャによって我々は行動させられ、そしてその行動が新たなカルマを引き寄せ新たな原因を作っているのである。

だからカルマを変えたかったらレーシャを変えればよい。それがジャイナ教のカルマを変える瞑想法レーシャ・ディヤーナの理論である。霊的色彩光の知覚を通じてレーシャの色をより良い色彩に変えていく、因果律の負の連鎖を正の連鎖に変えて魂の純粋化を目指すのである。

カルマによって汚れた魂となったパーヴァ・アートマンをもつジーヴァ(生き物、特に人間)が修行によってアカルマ(純粋)になると、モークシャが達成されて輪廻転生しない普遍的なドラヴィア・アートマンになる。このことを解脱と言う。解脱がジャイナ教・仏教・ヒンドゥー教の理想である。それは、今も昔も変わらない。レーシャ・ディヤーナ(霊的色彩光の知覚)は瞑想の目的と目的地とそこに到達する方法を示している。

感情を生み出すホルモンの内分泌線と関係が深いケーンドラ(チャクラともいう)という霊的中心点に善い色彩をイメージし、善い言葉と共に潜在意識であるカルマ体に浸透させる。この瞑想の継続によって我々の潜在意識は変容しカルマも変わり、カシャーイも善きものとなる。

自分自身を知るというのは自己のカルマを知ることである。自己コントロールとは自己の行為の結果であるカルマによって作られたカシャーイをコントロールすることである。また、カルマによって形成された心の癖、願望、傾向、好みであるヴァーサナー・サムスカーラをコントロールすることでもある。

我々は自分自身を肉体としての体だけであると見ていたのでは救われない。常に肉体だけでなく、自分の体を電磁気的な体として、原因の体として、純粋なる魂として見なくてはならない。それが、自分で自分を救う道である。ジュニヤーナの道、智慧のヨガ、論理的思考を好む人の歩む道、プレクシャ・メディテーションがそれである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2018/6/1からの転載です)

コラム:私のヴァーサナー

外は吹雪。夜中に風が吹いて、ここ二階の窓ガラスに風に運ばれてき
た粉雪がびっしり付いている。昨夜は電気炬燵に足を突っ込んで寝てい
た。温かい寝床から渋々起きて、階下に降りる。室温-6度。厳冬の朝、
先ずしなければならないことは居間の石油ストーブに火をつけること、
そして、電気炬燵をONにすることだ。今朝は室内でも素手がかじかんで
しまうぐらい寒い。昨夜、ストーブの上で湯が沸いていた薬缶は夜の間
に冷えきって中まで凍っていた。外の積雪はゆうに2mを超えている。

私は今、新潟県との県境の町、福島県只見町にある福島県指定重要文化
財古民家・叶津番所に2週間の予定で滞在している。叶津番所は250年程
前に建てられた奥会津地方最大規模の古民家で、そこに一人で夜を過ご
している。その歴史を刻んだ大きな古民家の圧倒的な雰囲気のもとでは、
孤独に強くなければ一晩たりとも過ごすことは出来ないだろう。吹雪の
夜は建物のあちらこちらでさまざまな音がする。建物がしゃべっている
ようでもあり、目に見えない精霊の声のようにも聞こえるからだ。
叶津番所の周りには、番所を核として100年以上前に建てられた伝統的な
「蔵」、13年前の2005年に新築した古民家風多目的道場の「みずなら只
見ユイ道場」、「小番所」と称する中古住宅がある。私はその4棟の建
物のオーナーなので、豪雪から建物を守るために滞在しているのである。
平成30年1月27日午後4時、アメダスランキング積雪量情報は只見が271
cmで青森の酸ヶ湯353cm、山形の肘折についで3位であると報じて
いる。

雪に閉ざされた中で、囚われの身になったような状態で日々を過ごして
いると、「何が原因で自分はこのようなことを体験しているのだろうか
?」という思いが強くなる。「なぜ叶津番所を買ったのか、どうして道
場を創ったのか。」「文化財の保護と活用を続けたこの30年間はなんだ
ったのか。」などと考える。何もすることがなく、ボーとした頭に反省
的な心が沸いてくる。そんな時、ふと、「今、私がこのような形で存在
し、このようなことを体験しているのは、原因と条件と結果の糸が必然
的に連綿と悠久の過去につながっているからだ。」と解った。

叶津番所を所有することになるまでに数えきれない御縁があった。その
、どんなに小さな御縁が欠けても叶津番所に出会うことは無かっただろ
うし、また所有することもなかった。私が高校一年生の時、山岳部に入
部しなければ、佐藤勉さんという山登りの先輩に出会わなければ、20歳
で肺結核にかからなければ、ヨガの導師・沖正弘先生に出会わなかった
ら、沖先生の言葉が無かったなら、私がヨガやインド哲学に興味を持た
なかったら、そのようなことは起こらなかったであろう。しかし、その
ような無数の御縁があって今の私が存在している。人間存在は孤独に思
えるがそうではない。あらゆる他のものとの御縁によって支えられてい
るのである。宇宙全体が私という存在を支えてくれているのである。

物を所有するということは、土地であれ建物であれ、家族であれ、美術
品、骨董品、職場、財産、ペット、その他なんでも後々、管理しなけれ
ばならない、世話をしなければならない苦労がつきまとう。所有し使用
する喜びと、それに伴う苦労は必ずついてまわる一体のものだ。人間だ
けがこの苦しみを喜びに替えることが出来る。それが人間の理性的な心
であり、他の動物にはない仏性というものなのだ。さまざまな経験をす
ることで人間の霊性が高まっていくのだと思う。どのようなことを経験
するのかはその人が自由意思で選んでいることである。その自由意思の
根源がヴァーサナーであり、サンスカーラーという。その人の持つ個性
、性向、志、夢や希望の出発点のことである。

番所の周りの4棟の建物で一番問題なのが、「小番所」である。小番所
は道路を挟んで番所と向かい合っている2階建ての中古木造住宅である。
私が2010年に買い受ける前は90歳近いおばあさんと息子が住んでいた。
おばあさんが高齢になったので、姉さんの居住地近く福島県郡山市に
二人で引っ越していった。番所の隣接地であり、建物からの山や川の
風景が絶景なのが気に入って、番所でのヨガ合宿や国際交流の利便性
が高まることもあり、その住宅を買ったのである。売り主の条件とし
て家具や什器備品を全て残置していくというものであった。私はその
条件を承諾して、建物の引き渡しを受けたが、建物内部は不用品でご
み屋敷のようだった。そのとき私は地獄のようなこの環境を天国にし
てみせると心に誓った。今では佐藤松義さんキエ子さん夫婦の協力も
あり地獄のような雰囲気が天国に替わった。近年、2階の一室を綺麗
に整えて只見での私のプライベートな居室にしている。

小番所は建物の構造上致命的な欠点があった。冬の只見の豪雪に対応
していない事だった。それに、極めて安普請で構造材も細かった。屋
根勾配が緩く、積もった雪が滑り落ちなかった。1階部分に下屋が6、
5間×1、5間で付いている。およそ畳20枚分の下屋屋根に雪が積も
る。さらにその上に2階屋根からの落雪が積み重なる。屋根に積もった
雪を放置するとこの家は雪に押しつぶされてしまうのだ。平成27年1月
母が亡くなり葬儀などに追われて只見に来ることが出来なかった。そ
の年は大雪の年だった。屋根に積もった雪が落雪せずに積み重なって、
その重量に押されて小番所二階の梁と柱が折れてしまった。保険に加
入していなかったので修理代は痛い出費となった。

番所や倉は管理を委託している三瓶こずえさんの家族が雪下ろしをし
てくれる。道場は地下水をスプリンクラーのように出しているので、
急こう配の屋根から自然に落雪したあと融けるので、手間がかからな
い。私が冬に只見に滞在する目的は主に小番所を雪害から守るためで
ある。

なぜ、これほどまでに小番所にこだわるのかと言えば、私はこの場所
で自分の理想を表現したいからである。私はここに借景を取り入れた
枯山水の庭を造ってみたい。チャンスがあれば建物を建て替えて、皆
がアッと驚くような素敵な建物を創ってみたいとも思っている。

60歳の時には前途があり、まだいろいろ出来ることがあると思ってい
た。今、70歳を超える年齢になってこの後、何が出来るのだろうか
と考えてしまう。私が只見で活動していることを引き継いでくれる人
は家族にも友人にもいない。妻が私にいつも言っている。「あんたみ
たいな馬鹿な人はいないよね。お金をみんな只見につぎ込んでしまって
・・・。」「あなたが死んだらどうするの?早く只見を始末してよね。
」「私は何も解らないんだから、あなたのやったことの後始末は出来な
いから・・・。」 もっともなことである。

どうやら、私の先が見えてきた。只見での活動は道半ばで終わりそうで
ある。私に働いていた求心力が拡散力に変わったことを感じる。今後、
10年程度かけて只見での活動の整理をしようと思う。成し遂げられなか
った夢を抱えて、今生で経験した様々なカルマを潜在意識に宿して、そ
れらによって熟成したヴァーサナーとサンスカーラが私を次の人生に導
くであろう。

私は過去を振り返り、現在の状況を考察することで、自分の未来が少し
ずつ見えてきた。前世で私を導いたキーワードは海と軍艦だった。今
生で私を導いたキーワードは山と健康と瞑想だった。来世で私を導く
キーワードはユニークな建築物と日本庭園と水晶のような気がする。
私は6のプレクシャ・メディテーションとアヌ・プレクシャで自己の
内部観察を深めていけば、自分の来世がどのような場所に生まれ、ど
のような人生を歩んでいくのか大まかに知ることができると思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/2/1からの転載です)

コラム:自分で自分の医者になる・無病の道

現代人は一般的に病気になると先ず身近な医療施設に出かけて診療を受ける。そして、医師の診断を受け、処方箋に従って薬を飲むことで病気を治している。癌などの重度の病では医師による手術を受けて病の原因を除去する方法をとっている。現代では医学技術は目覚ましい発展をとげて、従来治療が難しいとされてきた多くの難病も治療出来るようになってきた。医療に対しての信頼感が増してきたので、ほとんど全ての人が病気になると、病院や医療施設を頼りにしている。

現代のように医療技術や医療施設が発展し、整っていなかった時代、人々はどのように病気に対峙していたのであろうか。多くは薬草などを使う民間療法であったり、祈祷やさまざまなヒーリング技法に頼っていた。近年の食事療法、色彩療法、指圧、霊気、ホメオパシー、整体、カイロプラクティック等のような代替医療として知られている方法を使っていたのである。

もっと古代においては、自分の体調不調や病気は他に頼る方法がなかったので自分で自分を治すしかなかったのである。その場合、古代人は自分の身体の内部を観察した。身体内部の痛みや不快な感覚を注意深く知覚した。内部感覚を知覚することで自然に痛みや不快感がなくなっていくことを体験した。それが瞑想の起源であると思う。

私たち現代人は痛みや病を悪いものと捉えている。しかし、痛みや病は決しては悪いものではない。それは自然法則が現れたものであり、命の働きが命を守るために痛みや病を起こしているのである。もし痛みや病が無かったら我々は命を長らく存続できないだろう。そう考えれば病は悪いものではなく、むしろ善いものであると言える。痛みと病は原因と結果の法則に従って起ってくる。痛みと病は原因と縁である条件が整わないと現れてこないし起こらない。例え遺伝子の中に弱点として病気の原因を抱えていても、魂のレベルで条件が整わなければ病気は現れない。

ジャイナ教僧侶は自分に起こってくることの原因を自分の内側にある魂の汚れに見ているので、病に対しても自業自得とみている。自業自得であるから他に頼らない、自分で問題を解決するしか方法はない。病気になっても薬を飲んだり手術することもない。同僚による手助けで代替医療などを受けるのみである。戒律によって医師にもかかれないので、自己の病に対して一番の治療手段が断食と瞑想である。断食と瞑想によって命の働きを高め、整えて、病を治癒する方法をとっている。

プレクシャ・メディテーションは本当の自分を見つけるために皮膚の内側に深く観じようとする意識を向ける内なる瞑想法である。それによって、真我つまり魂を知ることが出来る。魂に到達するまでに私たちは身体内部のあらゆる感覚、粗雑なものから超微細なものまで観察し調べつくさなくてはならない。その過程で私たちは自分とは何かということがわかってくる。自分とは何かが解ること、そして自己コントロールが実は自分の病に対する最も優れた治療法なのである。

現代医学は肉体レベル、物質レベルで起こっていることしか治療出来ない。検知器で検知できないようなもっと微細なことが原因になっていることに対して根本的な治療は不可能なのである。人間という存在は物質的な肉体だけで出来ているのではない。目に見えない検知器にかからないような微細なレベルの物質で出来た身体や物質ではない魂の結合によってできているのである。ジャイナ教哲学では肉体の内側に微細な物質による電磁気体があり、更にその内側に超微細物質によってできた原因体があり、更にその内側に物質ではない魂があると観ている。そのように自分の身体が重層的になっていることを理解できなければ、本当の自分を知ることも出来ないし、自分をコントロールすることも難しい。自分で自分の医者になるとはそのように、深いレベルの自己コントロールのことである。

プレクシャ・メディテーションは深いレベルの自己認識法である。それによって、自分自身を知ることが出来るし、自己コントロールが出来るようになる。肉体よりももっと内側の電磁気体のレベルで、原因体のレベルで自己コントロール出来なければ本当の意味での自分で自分の医者になることは出来ない。アカルマの道、自己解放の道が無病への道である。悟りへの道、解脱への道すなわち精神性が高まらなければ無病は無い。カルマが原因となって輪廻する魂に様々な苦しみと病がついてまわるのである。

知恵ある人というのは自己コントロールできる人のことをいう。プレクシャ・メディテーションの技法は身体内部の感覚を知覚する技法と言ってもよいが、その実践よって身体内部に調和がもたらされ、生命エネルギーの流れがスムーズになり生命力、自然治癒力、免疫力を高めることが出来る。その意味で瞑想とは自己ヒーリングと同義語なのである。

カーヤ・ウッサグは心身の完全なるリラックス法であり、もっとも優れたストレス軽減方でもある。ストレスに対応できなくて発症する病を発病前にコントロールできる方法であり、同時に生と死の意味が理解できるようになる。カーヤ・ウッサグによって身体内部の調和が達成されて精神世界への扉が開かれる。カーヤとはインドの言葉で身体という意味であり、ウッサグは去る・分離するという意味である。つまり、カーヤ・ウッサグとは心身分離ということで、意識が肉体から離れることを意味する。最も深いリラックス状態では身体があってないような感覚が起る。身体感覚が消滅して意識だけがはっきり目覚めている、そんな感覚が起る。その時、内なる完全性が達成されて痛みも無ければ病も無い、悩みもない平和な完全性がその人の内側に立ち現れている。カーヤ・ウッサグを継続的に実習すればストレスによる悩みや病と無縁になる。

アンタール・ヤートラ(内なる旅)は電磁気的な体の流れをスムーズにして生命力を高めることが出来る。

シュヴァーサ・プレクシャ(呼吸の観察)は深い呼吸を通じて万病に効く特効薬の代わりになり得る。

シャリーラ・プレクシャ(身体の観察瞑想)は身体内部に深い調和が起こり電磁気体のレベルで完璧な健康がもたらされる。そして身体の観察によって自分とは何かが解ってくる。自分を知ることが自分をコントロールすることであり、自分を自分で癒す方法である。

チャイタニヤ・ケーンドラ・プレクシャは生命力が集中している中心点を知覚することで特に内分泌線が活性化され、ホルモン分泌を正常化させることが出来る。そのことで感情が調和安定する。感情が安定すれば心も安定し正しい生き方、正しい行動が出来るようになる。

霊的色彩光の知覚瞑想は潜在意識に働きかけ、消極的態度を積極的なものに改善することが出来る。

アヌ・プレクシャでは言葉によるアーファメーションを通じ潜在意識を積極的なものに変えることが出来るし、考える瞑想がもたらす直観力によって、真実を知ることが出来るようになる。

プレクシャ・メディテーションは精神性の向上、人格の向上を目的にしているものであるが、その効果だけでなく、同時に私たちの健康を身体の深いレベルから達成できる技法でもある。プレクシャ・メディテーションはインドで古代から現代まで続いてきた宗教であるジャイナ教のセンターや大学で研究しつくされ、体系化された優れた瞑想法であると同時に、自分で自分の医者になる最も優れたテクニックであると言える。

プレクシャ・メディテーションこそ人類の宝である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/3/1からの転載です)

コラム:欲望とは何か

私たち人間が生きていて生活の中で求めているのは、如何にして幸せになるかということに尽きる。では本当の幸せとは何であろうか。仏陀は「人間の日常生活は、ほとんど苦しみに満ちている。その苦しみの生活から脱却して絶対安心、満足、至福、自由に満たされた悟りの世界に行くことが可能である。」と提唱した。インドに起こった宗教のヒンドゥー教もジャイナ教も仏教も人間が本当の幸せを得るために、世俗的、一般的な人間生活の放棄を勧めている。

さらに此岸(人間としての日常生活の苦しみの世界)から彼岸(悟りの世界)に行かなければ本当の幸せになれないと説いている。なぜ日常的な人間生活では本当に幸せになれないのか?それは物質世界が限定的な変化の世界であるからだ。我々は肉体という物質を使って物質世界を体験しているからである。ヴェーダンタ哲学ではこのことをモーハ(迷い)と言っている。迷いの世界では楽しみと苦しみがセットになっていて、苦しみだけを取り除いて楽しみだけ得ることはできない。呼吸を観察しても吸う息と吐く息で苦楽がセットになっていることが解る。人間として生きていると楽しみより苦しみの方が多いのだが、人は多くの苦しみを忘れて、楽しかった想いを増幅出来るから、なんとか辻褄を合わせて生きていくことが出来るのである。

唯物論者は否定するが、魂の永遠性や普遍性を信じる人は物質世界の背後で物質世界を支えている非物質の存在を確信している。物質世界が此岸で非物質世界が彼岸である。此岸は因果律に支配された輪廻転生の世界であり、彼岸は輪廻転生を超えた、再び生き物に生まれない解脱の世界である。彼岸に行くこと、解脱することが真に幸福になることであると言える。解脱無くして真の幸福、自由、安心、至福はあり得ないと仏教やジャイナ教、ヴェーダンタ哲学が教えている。

我々人間が解脱して本当に幸せになれないのは、人間の心身システムのソフトの中に本能的な欲望がインプットされているからである。全ての生き物の命の働きの中に、命が命を守り存続させるために本能的な欲望がインプットされている。この欲望が人間の自由を奪い、本当に幸せになることを妨げ、輪廻転生に縛り付けているのである。

欲望とは何であろうか。生き物には本能的に三つの欲望がインプットされていると言われている。一つが生存欲である。長く生きていたい、健康でいたい、病気になりたくない、いつまでも若々しくいたい、それらは言葉を変えるなら 『食欲』 である。二つ目が自己拡大欲で、自分の分身を増やしたい、子孫や種族を増やしたい、つまり『性欲』 です。三つ目が自由欲で、好きな所に行きたい、遊びたい、世界を知りたい、理解したいという知識欲、悟りたいという欲、それらが言葉を変えるなら『解脱欲』 です。人間だけが持つ芸術的文化的な創作欲、権力欲、名誉欲、所有欲、金銭欲、は三つの基本的欲望から派生した欲望と言える。人間は多くの人を愛し、多くの人から愛されたいとの欲望を持っているが、これも基本欲望が派生したものと考えることが出来る。

なぜ欲望が起こるのか、それは生きていると体の中に生命エネルギーが流れ、それによって感覚が起るからである。感覚には苦楽がある。それは快感と不快である。苦楽の感覚は生きる力であり苦楽の感覚無くして生き物の生存はあり得ない。苦楽の感覚が肉体の生存を脅かす敵や病から自己の命を守っている。

その苦楽の感覚が欲望の根源である。生命の働きが起こす根本的な苦楽の感覚を仏教用語で『痴・ち』といい、ヴェーダンタ哲学ではモーハ(迷妄)にあたる。生きている時に身体に流れる感覚は止めることが出来ず、ほとんど制御が不可能である。だからそれを称してタンハー(渇愛)という。身体に生ずる感覚は沢山あってほとんど自覚出来ないからアヴィッジャー(無明・無知)という。この自覚できない身体内部の微細な感覚が中枢神経系とのやり取りで、盲目的な生の衝動を生み出している。その生の衝動によって好き嫌いの欲望が起こる。欲望には2種類あって好きなものを求める欲(貪・とん)と嫌いなものを避けたい欲(瞋・じん)がある。

コントロールが難しい身体内部の微細な感覚に促されて欲しい、避けたい、という欲望が起こる。その欲望が私たちに行為と行動を促す。心地よい感覚によって、好きなものを側に置きたい、手に入れたいという所有欲が起こる。欲望は一つ達成されると、別のもっと良きものも欲しくなり、欲望の火はエスカレートして燃え上がる。欲望に際限はない。

いろいろな欲望のなかでも、三大根本欲に関係する所有欲は誠に厄介なものである。沢山のものを所有すれば我々は幸せになれると思って行動している。結婚し家族を持つこと、仕事を持つこと、家や財産を持つこと、物を所有することで渇望は満足に変わるが、その反面それらを管理しなければならないし、世話しなくてはならない苦労が生ずる。所有の満足が管理の苦しみに変わるからである。

多くの快楽は多くの苦労が付きまとうという法則が所有にも当てはまる。自分にとって愛おしく、とても好ましいものを所有すると、それと長く一緒にいたい執着が起こる。好きなもの愛おしいものを手放さざるを得なくなった時、人はとても苦痛を感じる。どんなに良い物を持っていても、いつかは手放さなければならないし、多くを所有した人は多くを放棄しなければならない。これが物質世界の掟である。お金でも、物でも所有したものを自分だけの為に使うとそれは悪いカルマとなって未来に悪い結果を招く原因となる。だから、所有を手放して無所有を理想として出家が起こった。なるべく所有しないことで執着から離れようとしたのである。欲望から起こってくる所有と執着によって私たちは不自由になり輪廻の世界に縛られている。だからマハーヴィーラも仏陀も出家することで所有を放棄して無執着を目指したのである。無所有・無執着は欲望から離れた平和な心軽やかな生き方と言える。

欲しい欲望が他人に妨げられたとき、所有を強引に奪われたとき、また、避けたい欲望、嫌悪が原因で怒りが起ってくる。不平や不満も怒りの感情と言える。嫉妬や憎しみ等のネガティブな感情も欲望が元になっている。暴力や争いごとも欲望にもとづく悪行と言える。私たちは欲望に突き動かされて生活している。

願望や希望も形を変えた欲望と考えられる。欲望が私たちを行動させ行為させている。その行為によってカルマが引き付けられ、潜在意識下にインプットされる。インプットされたカルマの蓄積が結果となって今、このような環境のなかで、姿形で自分自身が存在しているのである。我々は欲望に基づき行動しているが、実は悪いことばかりしているわけでもない。行動の善悪は相半ばといったところである。それが一般的な人間だと思う。

欲望の全てが悪いわけではない。善い欲望もある。そのことを煩悩即菩提と言う。解脱欲、完全なる自由を求める欲望は善い欲望と言える。カルマのコントロールとは悪い結果を起こす欲望のコントロールである。それには自己中心的な物質的な欲望を、他の全ての生き物たちの幸せのためになるように精神的に昇華させて行為することにある。あらゆる欲望を魂の解脱に結びつけることにある。私はだんだんそれらが幸せになる道であると信じられるようになってきた。他の誰かが私を救ってくれるわけではない。自分の行為が自分を救うのである。魂が信じられなかったら、欲望のコントロールは出来ない。なぜならコントロールする必要性が無くなるからである。人生の目的が物質的、肉体的な感覚だけの喜びを追求するだけで良いことになるからである。人間の生き方に善悪は関係ない、欲望だけを満足させればよいと、倫理を否定する考えに陥るからである。人間は心の深いレベルで魂を信じているから、なるべく善い行いをして、悪い行いをしないようにしているのである。欲望が少なくなり心軽やかになることで差別心がなくなって、全てを平等に見ることが出来るようになってくる。根本欲すなわちカルマのコントロールで個我の魂が清らかになって、やがては真我を悟る本当の幸せに到達するだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/1/1からの転載です)

コラム:アートマン 魂 本当の自己とは何か

私達は皆、『なぜ自分という存在(肉体や意識)がここに居るのだろうか。』あるいは『生きているという自分の根本的な仕組みが、何処から来て何処へ行こうとしているのだろうか。』 と考えたことがあるのではないでしょうか。つまり魂は存在するのか、生命は輪廻転生するのか、という形而上的問題について考えたことがあると思います。私は長い間、魂の存在や輪廻転生について疑問に思っていましたが、身近にその問題を解りやすく教えてくれる人がいなかったので、まったくの手探り状態で一人で探求していくしか方法はありませんでした。

幸い現代は古今東西の宗教哲学や聖者の教えが書物になって沢山出版されているので、疑問に思ったことをいろいろ比較検討することが出来ます。私はそのような書物を数多く読んで、先人たちの教えを比較検討してきました。さらにジャイナ教僧侶の講話を聴き深く考察することを重ねて、だんだん魂について理解を深めてきました。

魂とはなんでしょうか。魂の定義は『永遠で不変の実在』であるということです。私たちの生きているこの3次元+時間の物質世界は全てのものは変化してしまうから、永遠で不変なものは存在しません。ですから魂はこの世の次元を超越した、非物質のものだと考えられます。物質世界だけを論じようとすれば、魂はどこにもないということが出来ます。BC8世紀ごろインドに現れた哲人・ヤージュニヤヴァルキヤは、目には見えなくとも、この世のあらゆるものの中にアートマン(魂)は浸透している。しかしアートマンである自己(認識主体)は自己(認識対象の魂)を認識することはできない、と説きました。ヤージュニヤヴァルキヤの説はその後のインド哲学思想の源流となったのです。

形而上的な論争を避けることの実用性と現実性を重視することから、仏教は非物質的な考え方や魂・アートマンについて、言及を避けてきました。仏教では魂を説明することもなく、魂についての定義もありません。しかし、仏教と同じく古代インドに起こった宗教のジャイナ教やヴェーダンタ哲学は魂について詳しく説明し定義しています。ヴェーダンタ哲学はヒンドウ教の拠り所となっている古代インドの哲学です。魂について深く知りたいと思うなら、ジャイナ教やヴェーダンタ哲学を勉強するしかありません。

魂を信ずる人達は、世界を物質だけの世界とは見ていません。私たちの存在を物質やエネルギーだけでなく、非物質的なものを含めて重層的な存在であると見ています。つまり身体とは肉体だけでなく、肉体よりも微細な物質の電磁気的なエネルギー体があり、その奥にデーターベースになっている最微細物質が関与した原因体があり、最奥に非物質の魂であるアートマンが存在していると見ています。

多重的な身体の見方はさまざまなバリエーションがありますが、概ね3つの身体と魂の4層構造になっているというのが、ジャイナ教とヴェーダンタ哲学で共通の見方です。

ヴェーダンタ哲学では1.肉体をストゥーラ・シャリーラ(粗雑な体)、2.生命エネルギーと感覚と心、知性、記憶で構成された精妙な体をスークシュマ・シャリーラ、3.自我意識の体であり原因の体であるカーラナ・シャリーラ、4.アートマン・魂、に分類します。

ジャイナ教では1.肉体 2.電磁気体であるテジャス・シャリーラ 3.原因体であるカルマ・シャリーラ(純粋なる魂にカルマ的物質が付着して構成された体)4.純粋なる魂・ドラビア・アートマン に分けて考えます。

このように比較してみると、身体の考え方や魂についての考えがジャイナ教哲学とヴェーダンタ哲学では共通していることがわかります。

魂は非物質であることが共通した概念です。非物質的なものの特徴として魂を定義付ければ、始まりもなければ終わりもない、無始無終である。成長もなければ衰退もない、永遠不変である。何時でも何処にでも有り、全てのものの中にあまねく充満していて、偏在遍満である。時間や空間、次元を越えていて無限のものであると言えます。

一方、魂でない物質的なものの特徴は、始まりがあり終わりがあって、変化するものである。成長もあり衰退もある、一時的で有限なものである。時間と空間に制限されていて、同じ時間に一つのものが別々の場所で存在することは出来ない。魂以外の3つの身体は一時的で変化してしまう無常なものであると言うことができます。諸行無常とは物質世界に適用される真理であって、魂には適用できません。

非物質である魂がどうして生命をもち身体を持つようになったのか、ジャイナ教は次のように説明しています。本来純粋なる魂であるドラヴィア・アートマンが、ここにも有る、あそこにも有ると偏在している微細な原因物質であるカルマと結びつくことで、汚染された魂・パーヴァ・アートマンになる。パーヴァ・アートマンは輪廻する魂であり、輪廻する魂のことを称してジーヴァという。地球だけでなく宇宙には沢山の生命体が存在していると考えられるが、その生命体の基礎は汚染された魂のパーヴァ・アートマンである。生命体が魂の汚れ(パーヴァアートマンについたカルマの汚れ)を払しょくして純粋になれば(ドラヴィア・アートマンに戻れば)輪廻転生しなくなる。それが解脱でありモークシャという。全ての生き物たちの長い旅路の最終目的地はモークシャになることであり、モークシャになることが人間として生まれた理想である。モークシャのことを全知全能、完全なる自由、無限の愛と至福の状態という。

仏教ではモークシャ・解脱・もう生まれない死なない、ことをニルバーナ・涅槃寂静という。ニルヴァーナーとは吹き消してなにも残らない深い沈黙の世界、無の状態である。全知全能とか至福の状態はないとする仏教の考え方は、虚無的で暗く無気力になる恐れがあるように私には思える。

ヴェーダンタ哲学では魂の2面性をシッダ・アートマンとジーヴァアートマンに分けて考えている。シッダ・アートマンは唯一の神であり普遍的な梵である。これをブラフマンという。シッダ・アートマンから分かれた小さな分身のような個我が迷いのうちに、自分の真実の姿を見失っている状態が我々生き物であり人間である。迷いの状態にあるジーヴァ・アートマン(個我)が迷いがなくなり、実は自分はシッダ・アートマン(真我)なのだと解ることが梵我一如で、神との合一であり、解脱であり、このことをカイヴァリアという。

輪廻転生、因果律、魂の法則を解りやすく合理的に説いているのはジャイナ教哲学だと思うようになってきた。魂にどうして汚れが付くのか、それは心に思い、考え、行為したからである。思い考え行為したことが魂に物質的な汚れのカルマ惹きつけて付着する。そのカルマが原因となって我々に様々な結果をもたらす。我々が今このような場所、このような姿、境遇に存在し幸不幸を受け取っている原因の根本は、魂に着いたカルマの汚れや、汚れによって傾向づけられたサンスカーラという力が作用しているのである。私たちはカルマに縛られ操られている限り真の自由はない。我々はカルマにコントロールされ奴隷になっているようなものだ。魂の汚れを取り除き、純粋なる魂になるのがジャイナ教の修行であり、プレクシャ・メディテーションの目指すところである。それが究極の自己コントロール法である。

魂の汚れとは、例えれば汚れた水のようなものである。水はH2Oで水素原子2個と酸素原子1個が結びついて出来ている。水素はこの世(宇宙)で一番質量の多い物質である。酸素は三番目に質量が多いことから宇宙には広く水が普遍的に存在していると考えられる。水は非常に優れた溶解力を持つので、いろいろな物質を取り込むことが出来る。地球の自然環境の中で水は完全に純粋な形でほとんど存在しない。雲や渓流も何らかの形でミネラルなどを含んでいる。純粋な水は工業的に人工で作り出すことが出来る。私たちが飲んでいる飲み物はさまざまな種類があるけれど、その飲み物は実は全て汚染された水なのである。お酒はお酒になる成分が汚染物質となって溶け込んだ水なのだ。牛乳も牛乳という汚染物質が溶け込んだ水であり、味噌汁も味噌や他の具材によって汚染された水である。コーヒーも爽健美茶もビールもオレンジジュースも皆、我々が飲み物として摂取しているものは汚染された水といってよい。水の中に溶け込んだ汚染物質が飲み物の個性になっている。同じように普遍的な魂の中にいろいろな種類のカルマの汚れがついて輪廻する生き物、人間一人一人の個性になっている。汚れが違うから違う形で存在しているのである。

飲み物から汚染物質を取り除けばH2O、純粋な水になる。同じように魂から汚染物質であるさまざまなカルマを取り除けば純粋なる魂・ドラヴィア・アートマンになる。それがモークシャであり全ての人間に課せられた最終目標である。魂を純粋にすることは大変な努力と困難を要するが、より良い魂、より良い個性と人格、より幸せになることは今日からできる。それには、プレクシャ・メディテーションを継続し、日常生活を通じて因果律を信じ、真のカルマヨガを行うことである。それが自由という事であり自己責任であり、自己の内に神を見ることであり愛という。

ヤージュニヤヴァルキヤや8世紀ごろインドで不二一元論を提唱したシャンカラは認識主体は認識対象にはなりえないと説いた。しかしジャイナ教では自己(魂)を知覚の対象としている。優れたメディテーターは深い瞑想の中で魂をじかに知ることが出来るとしている。これが、ジャイナ教哲学の神髄である。

プレクシャ・メディテーションの始めに 『サンピッカエー  アッパーガー マッパエー ナム』『魂を通して魂を見てください。そして本当の自分を見てください。』 と唱えるのは魂を認識、知覚の対象としているからである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/12/1からの転載です)

コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか

インドには古代から続く宗教的流れとして、バラモン系(アーリア文化系)の流れと、シュラマナ系(土着的クシャトリヤ系)の流れがあった。バラモン系宗教の修行の主たるものは苦行であり、シュラマナ系宗教の修行の主たるものが瞑想であった。そしてシュラマナ系の宗教の中に輪廻転生思想が伝わっていた。BC8世紀後半、ウッダーラカ・アールニーなどの思想家の登場によりバラモン系宗教の流れとシュラマナ系宗教の流れに思想的な合流が起こった。苦行と瞑想、自業自得と輪廻思想が結びついて、その後、インドに発生した宗教を特徴付ける解脱思想が起こった。解脱思想が広まることで出家が流行した。そのような時代背景があって、輪廻からの解脱を求めて、BC6~5世紀ごろ、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラと仏教の開祖ゴータマ・ブッダが登場した。

仏陀はマハーヴィーラと同じく、シュラマナ系の出家修行者であった。出家してから仏陀はアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとで瞑想修行をしたが、悟りは開けなかった。仏陀は瞑想修行を捨て、次に苦行の道に入った。仏陀の苦行は断食行と止息行が中心だったと伝わっている。しかしどんなに苦行をしても悟りは開けなかった。苦行を止めた後、仏陀は考察瞑想を行って、徹底的に原因と結果の法則について考えた。仏陀以前のカルマ論は原因があれば結果は必ず起こるというものであったが、仏陀は原因と結果の間にある縁としての条件や環境が重要な因果律の要素であることを発見した。『いくら原因があっても環境や条件が整わない限り結果は起こらない。』と従来のカルマ論を修正した。また従来の輪廻説では欲望が原因となって輪廻が起こると考えられていたが、たんなる欲望ではなく、もっと深いところにある人間としての根本的な生存欲にあることを発見した。この二点の新発見が従来の宗教哲学になかったものであり、仏陀の悟りの核心だと考えられている。

仏陀は苦行は何の意味もないとして排除した。仏陀は 『人間として正しい生き方はどうあるべきか』 について考察したときに、ジャイナ教のように魂を強調してしまうと極端な非暴力、不殺生の考え方に陥り、人間としての現実生活に合わなくなると考えた。ジャイナ教では全ての生き物に魂があり、皆生きたいと思っているのだから、人間生活を脅かす害虫の命でさえ奪ってはならないとした。ジャイナ教哲学では植物にも魂があるのだから、農業は出来ない。実ったコメや麦を刈り取ることも出来ないし、種籾は生きているのだから煮炊きすることは出来ないことになる。雑草を抜くことも樹木を伐採することも出来なくなる。輪廻の中の生き物は皆、魂を持っているという考え方だ。その考えは真実かもしれない。しかしそうだとすれば非暴力を徹底して、自分が生きるためには殺生を他にしてもらわなければならなくなる。そういう行為は卑怯だという批判になる。だから、仏陀は「あまり魂、魂と言うなよ」との立場をとったのだと思う。そして苦行を排して苦楽中道を提唱したのだと思う。

仏陀が魂についてあまり語らなかったので、「ミリンダ王の問」(紀元前2世紀頃書かれた仏典、最初に無我説を説いた。)などの論調に見られるように、後の世の仏教徒は仏陀ともあろう人が魂を語らなかったのだから、きっと仏陀は魂はないと説いたのだろうと解釈して、仏教が無我説(魂は無い)になってしまった。

仏陀は魂についてよく理解していたと思う。なぜなら、仏教の根本思想は因果律の教えであり、輪廻転生からの解脱がその中心思想であるからだ。仏陀の悟りは「縁起の法」として知られる。縁起の法とは原因と結果の法則であり、「カルマによって輪廻転生が起こっている。」との思想はジャイナ教やヴェーダンタ哲学とほぼ共通のものである。

仏陀が魂について無記(言及を避ける)の立場をとったので、本来、非我(体や心は私ではない)であったものが後の仏教徒に無我(魂は無い)と解釈されてしまった。そこで、行為の結果を受ける輪廻の主体があいまいになって、仏教が他からの論争攻撃の対象になってしまった。仏陀在世の時は仏陀は形而上学的な論争は無駄だとして論争を避けることが出来たが、仏陀亡き後はその攻撃に対して苦し紛れの理論武装をしなければならなくなった。そんな理由で、仏教理論が複雑化し解りにくくなり、今に続く混乱のもとになったと私は推察している。無我説では自業自得や因果応報の説明がつかないので、輪廻転生説がなりたたなくなるからだ。

仏陀は現実主義者であり実用主義者だった。一方、マハーヴィーラ・ジナは極端な苦行を通してカルマを根絶し悟りを開いた厳格主義者であり理想主義者だった。ジナは魂を重要視して決して他の命を奪ってはならないとした。ジャイナ教は非暴力・不殺生、無所有・無執着を徹底することを悟りに至る最重要課題にした。絶対非暴力だから、他の命を奪うことはない。他と争うこともない。自分の命が奪われようと他の命を害することはない。それがジャイナ教の理想主義である。ジャイナ教は宗教の名のもとに他の宗教と戦争したことのない唯一の平和宗教といってよい。仏教にも非暴力の考えがあるが現実主義をとるので非徹底にならざるを得ない。ジャイナ教の無執着は無所有と同義語であり、魂の清らかさに重点をおいて、物質的なものや肉体的レベルのもの、快楽原理に従う世俗的なもの等の価値に執着するな、との教えのことである。人は家族や財産や地位や名誉や知識など、自分のものだと思うものに、どうしても執着しがちである。その執着を手放せ、つまり所有してはならないと戒律で厳しく制限した。ジャイナ教は執着しない所有しないことで輪廻の原因となる欲望から離れようとしたのである。

仏陀の無執着は無執着にも執着するなとの教えであって、ジャイナ教の無執着とは少し意味が違う。仏陀は苦行を排して苦楽中道を立てた。中道とは世俗的な安楽な道と苦行的な厳格さの中間、つまりいい加減にしたのである。中道とは厳格な人から見ればハードルを下げた堕落に見える。

仏陀は当時の出家者の厳格さを排して、屋根のある建物の中で起居するようになり、綺麗な衣を身にまとい、食事の接待を受けるようになった。従来の出家者の常識であった厳格な戒律などに執着するな、こだわるな、とらわれてはならないと主張した。

仏陀のこのような革新的で実用的、現実的な思想が当時台頭してきた新しい都市国家の裕福な商工業階級の人達に絶大な支持を受けて仏教教団が大きくなっていったと考えられる。

ジャイナ教と仏教はシュラマナ系の父母を同じくする兄弟宗教である。基本的な哲学もほとんど同じと言ってよい。一つだけ違うところがあるとすれば永遠で不変で無限で偏在で純粋なる魂を認めるか認めないかである。仏教は現実主義、実用主義だから、非物質的なものは認めていない。仏教の世界観は基本的に物質世界のみのことである。物質世界では変化しないものは無いのだから非物質であると定義されている魂は無いことになる。

ジャイナ教やヴェーダンタ哲学では非物質なものの特徴として、始まりもなければ終わりもない。永遠に存在し不変である。何時でも何処にでもあって偏在している。無限であって時間と空間に制約されない。時空を超えていて次元も超えている。そして穢れなき純粋なものであると定義している。それが真我、魂であるとしている。

仏陀が沙羅双樹のもとで涅槃に入られるとき、弟子たちは「仏陀入滅の後、私たちはどのようにしたら良いのでしょうかと」と質問した。仏陀は答えて曰く「これからは法灯明、自灯明あるいは法帰依、自帰依でいきなさい。」と最後の教えを残された。「私は充分お前たちに教えてきた、もう教えることは何もない、私の教え【真実】を頼りに、他に頼ることなく自分で道を歩んでいきなさい。」と言った。仏陀の法とは縁起の法のことである。つまり、「因果律の教えが真実なのだから、そのことを生活の全ての羅針盤にして、全て自己責任で生きていきなさい。」と教えたのである。それが仏教の核心的教えだと私は考えている。自分が神であり、全ての人が神である要素を持っている。仏陀は自己の内側に神聖をみて自業自得、全責任を自分に見なさいと教えているのである。

仏教のカルマ論(因果律の教え)とジャイナ教のカルマ論、ヴェーダンタ哲学のカルマ論はそれぞれ少し違うところがあるけれど、要約すれば、ーーー【この世の中に偶然は無く、原因と結果の法則に従って必然的に起こっている。そして、今自分が存在していることの全て、受け取っていることの全ては過去の自分が為した行為の結果によるものだ。だから自業自得であり全責任が自分にあるのだ。】ーーーとの基本哲学は同じものである。

ヴェーダンタ哲学は創造神としての神を認めていた。マハヴィーラの時代のジャイナ教、初期仏教では創造神というものはなく宇宙はカルマによって始めもない始めから、終わりのない終わりまでただ変化が継続しているのだと説いていた。BC2世紀の後半ごろ仏教がヒンドゥー教の影響を受けて大乗仏教が起こった。同じころ、ジャイナ教でもジナ像が作られ神様の概念のようなものが登場した。救い、救われといった他力救済の概念が起こったのである。

およそ2000年以上に亘って、仏教もジャイナ教もヒンドゥー教も互いに影響しながらその教義を発展させていった。原点に帰っていろいろ考えないと、宗教とは何か、なぜ瞑想が必要かなどのことは良く理解できないのである。


<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/11/1からの転載です)

コラム:アカルマへの道・モークシャとサンミャク・ダルシャン 2017年3月20日(月) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演

今日はカルマから自由になる話をしたいと思います。ジャイナ教哲学では人間にとって最高の理想状態になることをモークシャと言います。私たちはモークシャになることを目指すべきであり、そして、モークシャになる努力をすべきです。モークシャになることはマハーヴィーラだけでなく偉大な教祖の示す道でもあります。モークシャになることは印度哲学の最高の目標であり、仏教もジャイナ教もヴェーダンタも同じです。それら、どの哲学も人間にとって最高の理想状態をモークシャといいます。モークシャになるには語るだけではだめで、モークシャになるための訓練、修行を始めなければなりません。我々一人ひとりがモークシャになることを最終目的とすべきです。

モークシャになるには3つの道があります。ずっと昔の古代の聖者の中には4つの道を歩いた人もいます。しかし、一般的には3つの道を歩くことで実現されます。モークシャを目指すなら、それに値する人にならなければなりません。解脱(モークシャ)するには、解脱するための資格が必要です。それには、まず真実・本当のことと、嘘・間違いを見分けることが出来る力が必要です。

1.正見―正しいものの見方が必要です。偏見や妄想でないものの見方が必要です。知識によってものを見るのではなく、言葉を変えるなら開けた目で全てを観ることです。

2.正しい知識―正しく観て 、正しく受け取ること(正知)です。

3.正しい行動―正しく学び、正しい訓練、修行をする必要があります。

正しく見、正しく知り、正しく行動するとはどういうことかというと:

正しく見るとは真実を信じられるということです。正しく見るとは物事を妄想を抱かないで見ることをいいます。この世の中を正しく観るとはそういうことで、この世の中を正しく観、そして我々自身を正しく観れば、我々は世の中を知ることができるし、全てのことを理解できます。そして、私たちは世の中を理解し、私たち自身を理解して、そのつながりを理解しようと努力することができます。そこには迷いや妄想は生じて来ません。誤解も生まれて来ません。それをサンミャク・ダルシャン(正しく観る)といいます。正しく観るとは真実を信じられるということです。

「サンミャク(Samyak)」 とは、正しいこと、真実、迷いがない悟りの状態を表す言葉です。

「ダルシャン(Darshan)」とは、観ること、運命という意味もあります。

サンミャク・ダルシャンとは揺るぎもない、迷いもない状態のことで、正しい見方、正しい生き方、正しい哲学のことをいいます。サンミャク・ダルシャンは本当のことと、嘘のことを見分ける見方(知力)のことです。

何が正しくて何が正しくないかを見分けられるから、そこから全てが始まります。まず、正しいものの見方は、本当の意味での明確な人間の目的を示してくれます。そして、それは世界中の人間に共通していることです。それこそが人類が体験すべきことで、その方向が自分の修行、訓練の方向で、力を得る方向です。

世の中にはいろいろな悲惨なことや悪いことがありますが、その根底にあるものは何が正しくて何が間違っているかが解からないところにあります。もしサンミャク・ダルシャンが自分の中に整ったと思ったら、次の6つのことについて自分自身に問いかけてみてください。

1.魂は有る。

2.魂は永遠。魂は死なない。輪廻転生する。
魂は永遠でないという考え方や魂はないという考え方もあるが魂は永遠と信じられないと自分を律することが出来ないし、好き勝手に生きても構わないという生き方になります。

3.魂はカルマに従っていて、カルマに拘束されています。

4.魂は為したことを受け取ります。
私たちは原因と結果の法則の中に生きています。何を考え、何を為したかで結果が起ります。今このようにある自分は、全て自分自身に責任があります。善因善果、悪因悪果。

5.魂はモークシャ(解脱)になれます。

6.モークシャの道を歩きたいと思っているか。
我々は全てのカルマを打ち砕き、解消してモークシャになることが出来ます。それがモークシャへの道です。

以上6つのことを理解していれば正しいものの見方が出来ていると言えます。モークシャに至るには基本としてサンミャク・ダルシャン、正しいものの見方を持っていることが必須で、6つのことを理解し信じていればその人をサンミャク・ダルシャーニといいます。サンミャク・ダルシャーニとなることがモークシャに至る基本で、建物でいえば基礎にあたります。

次にモークシャに至るには正しいマスター(導師)、正しいグル(教師)、正しい宗教が必要です。

正しい指導者と真実の宗教によって我々は真のサンミャク・ダルシャーニになれます。

では正しいマスター、正しいグルとはどのような人でしょうか?

本当の智慧を授けてくれるマスターは完全に無執着です。好き嫌いが全然ない。人間だけでなく、全ての生き物に対しても好き嫌いが全然ありません。全てを平等に無差別に見ることが出来る人です。マスターは本当の智慧を授けてくれる人ですが、グルはそれを人々に教えてくれる人です。

正しいグルとはどのような人でしょうか?

本当のグルは無所有を実践している人で、結婚していないし、お金を触りません。貯金通帳も持っていないし、土地も家屋も財産もありません。自分のものを何も持っていない人です。世俗生活から完全に離れた出家です。そのようなマスターやグルを見つけることは大変難しいことであるがとても大切なことです。日本にいなければ地球は狭いので旅をしてグルを探すのも善いでしょう。ジャイナ教では出家と在家の支え合いシステムが出来ています。日本でもそのようなシステムを作ることは可能でしょう。

間違ったマスターやグルを選んでしまったらどうなるでしょう。正しくないグルについてしまうと人生を無駄にしてしまいます。そしてモークシャに至る正しい道を歩くことが出来ません。だから、本当のマスターやグルを見つけるのに注意深く慎重でなければなりません。

正しい宗教とは完全なる非暴力を実践するものです。どんなものにも生き物たちにも暴力を加えないものです。我々は生きていくために食、衣、住、仕事(活動するところ)の4つはどうしても必要ですが、その必要なものに対してアヒンサー(非暴力)、サイグルタ(忍耐)、サンヤム(節度、制限、慎み深さ)が必要だと思います。それが正しい宗教の基本です。

正しいマスター、正しいグル、正しい宗教をもつことが本当の意味でのサンミャク・ダルシャーニであり、モークシャへの道の基本になります。修行しても努力してもサンミャク・ダルシャーニになっていなければ、得るものは少ないと思います。

サンミャク・ダルシャーニになると、恐れ、怒り、執着、混乱から離れられます。多くの善くない習慣から離れられます。鬱や自殺から離れられます。サンミャク・ダルシャーニになることで、多くの病気から私たちは守られます。

サンミャク・ダルシャーニになると、それがその人の行動に現れてきます。

1.シャムが出来るようになります。
シャムとはネガティブな気持ちをちゃんとコントロールできることをいいます。なので、ネガティブな感情はほとんど起こって来ません。

2.悟り(モークシャ)に対する強いあこがれを持っています。

3.全ての執着から離れることが出来ていて、完全なる無執着が実行できます。

4.慈悲の心が絶えることがありません。慈悲の心は全てのものに対してであり、その心が自然に備わっています。

5.真実、真理を信じています。

だから、サンミャク・ダルシャーニは困難、否定的なこともポジティブに肯定的に解決できます。どのような苦しい状態の時も気持ちは沈まないし、その困難を突き抜けていくことが出来ます。本当の意味で真実を追求していけば薬物中毒にはまるようなこともありません。サンミャク・ダルシャーニにならないとアカルマになることはできません。

カルマから解放されることの障害になること、つまりサンミャク・ダルシャニーの障害物は何でしょうか。

1.疑い
精神的なものに対して疑い深い人。人間の頭は常に疑いを作り出しています。

2.間違ったことを期待してしまうこと
他力本願、資格がないのに救いを求めてしまうことです。

3.自分の修行に対する結果に疑いを持ってしまうこと。例えば、この方法でモークシャに至ることができるかと疑ってしまうことです。

4.人々に間違ったことを教えてしまうこと。

5.間違った信念を持ってしまうこと。

これらのことがモークシャへの道の障害となるのです。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/10/1からの転載です)

コラム:2017年3月19日(日) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演「ジャイナ教のカルマ論と輪廻転生」

ジャイナ教のカルマ論はヴェーダーンタ哲学や仏教とは少し違っている。ジャイナ教でカルマのことを考える理論では5つの事柄を中心に考えている。その5つのこととは:

1.魂
2.カルマ的な要素
3.バイブレーション
4.物質的カルマの解放
5.魂が純粋になった状態

カルマの理解の基本は魂(輪廻の主体となる魂つまりジーバ)について知ることが大切である。魂が無ければカルマは無い。宗教によっては魂はないと考える宗教もある。ある宗教哲学では宇宙の5大要素が集まった時、魂が出来て、肉体が死ぬと5大要素はバラバラになって魂は消滅すると説くものもある。ジャイナ教の魂はそのように消滅する物ではなく、永遠のものである。永遠なる魂がベースになってそこにカルマが付いたときジーバと呼ばれる。宗教によっては魂は無いという考え方がある。仏陀は魂を語らず説明しなかった。ジャイナ教では魂は説明できるという立場をとっている。魂とカルマが結びついたとき、その魂をジーバと呼ぶ。ジーバとは輪廻の中にある魂のことである。

魂のことをアートマンともいう。魂(アートマン)は一つのことであるが、二つの性質側面がある。それはドラビア・アートマンとパーヴァ・アートマンである。ドラビア・アートマンは基本的な魂のことで、まったく純粋な魂のことである。パーヴァ・アートマンはカルマ体によって影響を受けた魂をそのように呼んでいる。愛とか怒りとか感情や意識によって作り出された汚れのようなものが魂に付着している。魂の中にいろいろ感情的なものの凝りとか、活動したことの結果によるものとかが付着している、それらを含めてパーヴァ・アートマンと呼ぶ。基本的な純粋な魂ドラビア・アートマンは永遠。輪廻の中にある汚れた魂パーヴァ・アートマンも永遠なものである。パーヴァ・アートマンはそれぞれ違う体に宿りながら輪廻の中を動いている。

カルマもアートマンと同じように二つに考えることができる。ドラビア・カルマは宇宙全体に広がっていて、ずっと私たちの魂にくっついてくる素材のカルマである。宇宙のどこにでもある。ここにもある。あそこにもある。しかし我々には見ることは出来ない。意識的なものではなく、生きているものではなく、物質のようなものだが我々には見ることができない、宇宙全体に満ちている原材料のようなものである。ドラビア・カルマの中には色、匂い、味、触覚が含まれている。それは、肉体的なものに関係する。本当のカルマとは言えないがカルマの素材になっている、生き物ではない物質である。パーヴァ・カルマはカルマによって実った結果をいう。

(注:物質は魂に付着して、その下降性ゆえに魂を身体のうちに押しとどめ、魂の本来の特徴である上昇性が発揮できないようにしている。渡辺研二「ジャイナ教p171」)

アートマンにカルマが結びつくとバイブレーションが生ずる。私たち人間、生き物はカルマとアートマンを持っているから、魂は四六時中いつも、寝ている時もバイブレーションを起こしている。バイブレーションが起こることで、色々なものを引き寄せている。しかし通常意識ではこのバイブレーションは感じることはできない。魂にカルマが付くことで二つが一つになり波動が起こり、その波動によってさまざまなものを引き付ける力が生まれる。波動によって宇宙に漂っている、充満している小さな粒々、カルマのもととなるドラビア・カルマを引き付けている。ちょうど、磁石が砂鉄を引き付けるように。魂はドラビア・カルマを全方向から、魂に一番近いところからより沢山、受け取っている。思考だけでも宇宙からカルマを引き寄せている。肉体はスカスカである。そのスカスカの空間に物質を引き付けている。

なぜ、魂が縛られてしまっているのか。それは、カルマがあるから。ではカルマは何によって縛られてしまうのか。それは迷いによってである。なぜカルマを引き寄せてしまうのか。マーハーヴィーラはゴータマに話した。それには二つ理由があって、一つは無知と行為によっておこるのだ。もう一つは執着と精神的な誤解、妄想、混乱によっておこると説いた。また、プロマーダとカシャーイも身(行動)、口(言葉)、意(意識、マインド)によってカルマを引き寄せている。引き寄せられたものがまた、新しいカルマを引き寄せている。

1.プロマーダ (Pramaad)
惑わすもの(迷い、妄想、誘惑)。永遠なる喜びでなく、一時的な快楽を本当のものと思ってしまうこと。魂(スピリチュアル)なことでなく、肉体的な喜びの迷い。肉体は永遠でなく、魂は永遠。

2.カシャーイ(Kasaay)
もう一つの惑わすもの。4つの情欲のこと。
1、怒り・アンガー 2、慢心・エゴ
3、強欲、貪り・グリード 4、偽り、虚偽、騙す・デシード

カシャーイすなわち情欲がなくなれば、物質は付着する可能性が少なくなる。

カルマによって我々の行動は違ったものとなる。いろいろな人の違い、個性別はカルマによって起こる。アートマン(魂)の性質は、生まれることも死ぬこともないというもの。永遠の智慧と永遠の理解と永遠の至福が備わっている。魂は苦しみがない。魂は形がない。魂に高いとか低いとかはない。皆同じである。そして、魂の奥には永遠の力が備わっている。その力は私たちの魂が持っている自然のものである。もとからあるものである。しかし、我々はそれをなかなか信じられないし、感じることは出来ない。なぜなら、我々の知識は極めて限られたものであるからだ。例えれば、それは大海の中の一滴の水でしかない。我々は極めて少ない知識しか持っていない。それぞれの知識は又、違っている。知識を沢山持っている人もいれば、持っていない人もいる。知識の理解度も人それぞれ違う。ある人はすぐ理解できるし、ある人はなかなか理解できない。我々の苦しみも違う。沢山苦しむ人もいる。そうでない人もいる。我々の呼吸もみな違う。社会的に高い地位にある人も、低い地位にある人もいる。我々は生まれたり死んだりする肉体を持っているので限られた時間しか持っていない。魂は永遠なのに、なぜ私たちはこんなに限られた生き方をしているのか?この違いはどこに原因があるのか? それがカルマというもので、カルマがそれを生じさせている。

ジャイナ教の8カルマ
1.ギャーナ・ヴァラニーヤ・カルマ
知識障害や知識の容量に関係している。魂の持つ知の能力、理解力を覆い隠してしまう。

2.ダルシャナ・ヴァラニーヤ・カルマ
信仰障害。魂に備わる見(信仰)の能力を覆い隠してしまう。

3.ヴェーダニーヤ・カルマ
感受の障害。

4.モーハニーヤ・カルマ
迷妄によって執着心を生じさせる。信仰と行為を惑わすカルマ。

以上4つのカルマは善くないカルマで、善くない結果を生じさせる。

以下の4つのカルマは善いことをすれば善くなり、悪いことをすれば悪くなる。

5.アーユシュ・カルマ
寿命に関係している。

6.ナーマ・カルマ
身体上の相違をもたらすカルマ。男女に生まれる違い。健康に恵まれる恵まれない。肉体的な不調和、美醜。尊敬される、されない。

7.ゴートラ・カルマ

社会的なステータスに関係している。生まれる家柄の上下貴賤を決定する。

8.アンターラヤ・カルマ
内部障害に関係している。目的に到達できることの困難度に関係している。ある人は目標達成が簡単であるが、ある人にとっては大変困難である。

我々は悪いカルマに気づき、カルマに縛られないようにしなければならない。ジャイナ教では苦行者は苦行の実修によってカルマが結果を作る前に原因を除去できるとしている。

カルマ体にカルマ(物質)が結びつくとカシャーイ(4つの情欲)が生まれる。そのカシャーイがもとになってアドバシャーイ(感情)的動きを作っている。

魂はバイブレーション波動のようなものを起こしている。周波数が高い極めて微細なものである。カルマ体からアドバシャーイまではとても微細なものである。バイブレーションはレーシャの領域に来ると、色がつけられているわけではないが、我々が色として知覚できるレヴェル(段階)となる。ここからは色が力になっていく、色の力が我々に影響する。肉体的にホルモンが出る。ホルモンが脳の機能に影響し科学物質が生成される。頭に浮かんだことで行動する。そのプロセスが逆に内側に影響する。魂から外へのプロセスと逆の外から魂へのプロセスがある。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/9/1からの転載です)