コラム[ラーナクプールのジャイナ教寺院]

ジャイナ教は一世紀頃、大きく裸形派と白衣派に分かれ、さらに偶像崇拝す派と寺院を持たず偶像崇拝しない派に分かれている。白衣派の中から17世紀に偶像崇拝を否定し寺院を持たない、スターナックヴァーシン派が出現した。それに対して寺院に参拝しジナ像を崇拝する派はムールティプージャカと呼んでいる。私たちがプレクシャ・メディテーションを学んでいるテーラパンタ派はスターナックヴァーシンから分派して1761年にアチャリヤ・ビークシュによって始められた。現在のアチャリヤ・マハーシュラマン師は11代目のアチャリヤ(ダライラマのような宗派の最高指導者)である。テーラパンタ派は古代のジャイナ教への復帰を目指す復古主義グループであり、教団と在家信者の関係及び宗教的形態や活動が古代ジャイナ教の姿を今にとどめている。

ジャイナ教の戒律であるアヒンサー(非暴力、不殺生)とアパリグラハ(無所有、無執着)の実践は徹底したものであり、一切の妥協を許さぬ厳しいものである。これに対して同じ戒律を持ち兄弟宗教とされる仏教各派の非暴力、無所有の実践は中道といって中途半端で生ぬるい。ジャイナ教は魂を清らかにするための実践宗教と言える。輪廻転生の原動力になっている魂の汚れであるカルマの浄化が修行の基本となっている。全ての生き物に魂を認めているので、他の命を奪うことを厳しく諌めている。世界一平和な宗教であるといえる。

アチャリヤ・マハーシュラマン師は、世界平和のために2014年、テーラパンタ派の根拠地ラジャスタン州のラドヌーンを出発してアヒンサー・ヤートラ(非暴力の旅)に出られた。古代の伝統に基づく布教伝道の旅である。車や鉄道、飛行機に乗れないので完全に徒歩による巡行である。5月にアチャリヤ一行はネパールのカトマンズで地震に遭遇したが、幸い一行の中から怪我人は出なかった。さらに一行は巡行を重ね、11月15日から22日までの間、ネパールの4番目に大きな街ビルトナガールで、プレクシャ・メディテーション国際キャンプが開かれた。この国際キャンプに私を含めて11名が日本から部分参加した。

テーラパンタ派は1年に一回、各地で活動している出家僧、尼僧、在家信徒が一堂に会し家族的な団結を確認しあうという伝統守ってきた。2002年からは海外に普及したプレクシャ・メディテーションの仲間もその会合に合わせて参加し学ぶという国際キャンプが始まった。

会場がネパールだったということもあり、今年の国際キャンプはインド国内からの参加者は少なく、また海外からの参加者も極めて少なく盛り上がりに欠けていた。

ビルトナガールはインド国境に近いネパール東部の街で、インド系ネパール人が多い。ネパールというイメージではなく、観光地でないインドの埃っぽい普通の田舎町といった風情だった。ビルトナガールにはネパールでも有数な富豪の実家があり、その富豪一族が有力なスポンサーになって今回の国際キャンプは開かれた。街全体がお祭りのような歓迎ムードに包まれていた。アチャリヤ一行は、ネパールの後、再びインドに入り、ブータンを巡幸し、さらにインド各地を7年間かけて15000キロを歩いて旅をされるという。

アヒンサー・ヤートラの巡行を終えれば、偉業を成し遂げたアチャリヤ・マハーシュラマン師は9代目アチャリヤ・トウルシー師のように全信徒から心より尊敬される偉大なる指導者になるに違いない。

私はお寺を持たない偶像崇拝しないというジャイナ教復古主義グループのテーラパンタ派で瞑想を学んでいるが、ジャイナ教の寺院やジナ像にも多大な感心を持っている。初めて(1989年)ラーナクプールのアディナータ寺院やグジャラート州のシャトルンジャヤ山の山岳寺院群に参拝したとき、白大理石で作られたジャイナ教寺院に強く魅せられた。シャトルンジャヤ山は宇宙都市のような異彩を放っており、ラーナクプールの寺院は瞑想空間として、その独創的な立体的構成に驚嘆した。その後、ラーナクプールのアディナータ寺院やシャトルンジャヤ山にもう一度行きたいという思いが強まり、2000年に再訪する機会を得た。

今も私の心の中にはラーナクプールのアディナータ寺院がある。神谷武夫著『インド建築案内』(TOTO出版、1996年刊)は、全インドの古代から現代に至るあらゆる様式の主だった建築について調査論考した労作で、甚大な労力と時間を費やして著された大変優れた著作である。神谷武夫がその著書の中で「これこそがインド建築の最高傑作というべきものである」と述べているのが、ラーナクプールのアディナータ寺院である。「世界で一番好きな建築物はなんですか」と問われれば、迷わず私はラーナクプールのアディナータ寺院をあげる。伝承によると寺院は天才的な建築家であるデパーカという人物が瞑想によって啓示を受け、1439年に建てられた。

寺院は基壇となっている床部分を除いてすべて白大理石で造られている。建築材料に使われている高品質の白大理石の産地が比較的近いところにあった。この白大理石を使ったことで寺院の内部が清浄で荘厳な雰囲気になった。白大理石で作られた柱や梁、壁やドーム型の天井全てが微細なまでに緻密な彫刻をびっしりと彫り込んである。全く妥協を許さない完璧度である。寺院全体に使われている大理石の柱が1444本、ドーム型天井は大小24作られている。24はマハーヴィーラを含めて24人のテールタンカラ(救済者であり解脱者)を表している。アディナータとはジャイナ教の最初のテールタンカラで始祖のリシャバのことである。

ドーム天井は極めて音の響きが良く、ドームの下でマントラを唱えたり、賛歌を歌えば身体内部にパワフルなバイブレーションが起こる。回廊を取り巻くように沢山の瞑想のための小祀祠が作られてある。どの小祀祠も一坪ほどの空間で、中に3体のジナ像を祀っている。寺院全体が立体的な変化に富んだ構成となっていて、内部を回遊するように出来ている。寺院の屋上に上がってみたら、そこにさらに驚くべき風景が広がっていた。屋上は屋根を構成する塔やドームによって、変化に富んだ魅力的な立体空間となっていて、そこかしこに瞑想のための理想的な場所があった。寺院を取り巻く丘のような山々も木々に覆われて美しかった。私が追い求めていた全ての理想がここにあった。今でこそ、この寺院はあまり実際的に使われていないようであるが、600年前の創建当時、ジャイナ教徒が寺院に参詣し賛歌を歌い、瞑想に使われていた光景を想像してみると、これこそ地上に出現した天国だったのではないかと思う。しかし長い年月の間にソフトとしての教団や瞑想の実践が失われてしまった。もしこの寺院が往時のように修行の場として生きて使われたら、どんなにか素晴らしかったことだろう。

私は今もこのアディナータ寺院を思い出すと胸が熱くなる。もう一度あの場所に行って、今度は長く滞在してじっくり瞑想したいと思う。私の来世はラーナクプールのアディナータ寺院に関係したものになるのかもしれない。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/12/31からの転載です)

コラム[空の思想とマントラ]

般若心経、正確には摩訶般若波羅蜜多心経は玄奘三蔵(七世紀)が訳した大乗経典で日本人にもっとも多く親しまれている仏教経典である。般若とは智慧のことであり、その智慧とは、全てのものは縁起しているから無常であり、有って無いようなものだから執着してはならないと説いている。般若心経で説かれている無常は、それ以前にインドにあった無我の思想を人間の問題だけでなく、大乗仏教的にあらゆる事物に拡大解釈したものでありその内容を「空の思想」という。

沖ヨガ行持集の般若心経の意訳を読むと、空について無と表現し、また空無と表現している。こういう観点から空とは何かと考察すれば空と無は同じであり、空無は無常のことを指していることが解る。無常とは時の流れの中であらゆるものが変化することであり、起こってくることの全ては諸縁(原因と条件)が関係しているのだから、どんなものでも独立して存在することが出来ないというものの見方の説明である。般若心経のなかで、観音菩薩がシャーリープッタに、全てのものは縁起していて独立して存在できないから実体がないのだと説明している。体や心も変化するものなので私という実体は無い、つまり無我である。般若心経は無常が解かれば無執着になれると教えているのである。

大乗仏教の空の思想はなぜ空の思想と言うのだろうかとの疑問がおこる。どうして無常の思想または無の思想ではいけないのだろうか。

私は空と無には違いがあるような気がする。空と無の違いについてアヌプレクシャしている時に内なる声のひらめきがあった。同じことの別な角度の表現の違いなのではないかと思った。無とは私たちが感覚的に有ると思っていたことが、深く考察すると実は無いということが解ることであり、「有即無」のことだと思う。陰陽で言えば陽でありプラスであり現れていることとなる。逆に空とはカラッポ、無いと思えることが実は満々と満ちていて有るのだと解ることだと思う。つまり空とは「無即有」のことではないだろうか。陰陽で言えば陰でありマイナスであり見えないことである。目に見えている形ある世界は、目に見えない形のない世界から現れてきたと言っているのだと思う。空無という時、それは有るものは無く、無いものは有り、満ち満ちているものは空っぽであり、空っぽは満ち満ちていることを言っている。陰陽一対、空無一対と考えればわかりやすい。

大乗仏教は出家の為でなく在家の信者のために易しく仏道修行ができる方法を提唱している。一般大衆に南無阿彌陀仏と唱えるだけで死後、阿彌陀仏のおられる仏国土に往生できるというのがこれに当たる。同じように、大乗経典である般若心経の最後の呪文、つまりマントラはこれを唱えるだけで、観音菩薩が到達した悟りの霊力を手に入れることができると言っているのである。多くの般若心経の解説書にはこの点の説明が完全に抜け落ちている。

「ぎやてい ぎやてい。はら ぎやてい。はらそう ぎやてい。ぼじそわか」このサンスクリット語をカタカナ表記にすると「ガテー ガテー パーラ ・ ガテー パーラ ・ サンガテー ボーディスヴァーハー」となりその意味は「往こう 往こう 彼岸に往こう。完全に彼岸に往こう。目覚め(悟り)に幸いあれ」である。(この日本語訳は私がマントラとは何かに焦点をあて独自に意訳したものである)

般若心経ではこのマントラが大事であり、このマントラをいつも唱えていると、そのマントラが潜在意識化して、その潜在意識の力によって必ずそうなりますよと説いているのである。

般若心経はともすると、我々には色即是空 空即是色に代表される空の思想を説いたものとの認識しかない。しかし、「だから知るべきである。潜在意識化した言葉の力の知恵を。これは偉大なマントラである。叡智のマントラである。これ以上無いマントラである。比類なきマントラである。これを唱えれば全ての苦しみが除かれる。それは真実で疑いないことである。このマントラは悟りの智慧と同じである。」と最後の部分で力説しているように、マントラを唱えることを奨励しているのである。

マントラの意味がわかってマントラを唱えればマントラの霊力を手に入れることができる。皆さん、もう一度般若心経を読んで深く味わってみてください。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/9/27からの転載です)

コラム[身体とは何か]

宇宙は目に見える物質的なものと、目に見えないエネルギーや情報の結合によって成り立っている。人間の身体も物質的な目に見える肉体と目に見えない心や精神、意識や生命エネルギーの結合によって出来ている。現代テクノロジーが発達したことで、目に見えない様々な宇宙エネルギー等の検知器が開発され、今までわからなかった宇宙の成り立ちがだんだん解ってきた。私たちの身体についても様々な検知器が開発され電磁気的な身体の仕組みなどもだんだん検査できるようになってきた。しかし、心や精神、意識や魂等の精妙なものは検知器で捉えることはどんなにテクノロジーが発達しても不可能だろう。

私たちの身体は宇宙の法則が身体になったものと言える。身体の発生の起源は目に見えない部分から目に見える肉体が発生したのであり、成長、変化していく過程で目に見えないものが深く肉体に影響している。現代医療は身体の目に見える物質的な肉体そのものだけが対象で、症状を肉体レベルで検査して病気を特定することは出来る。原因が細菌やウイルスの感染症や短期的に急激に起こった毒物中毒や怪我等のような場合は極めて有効で価値ある治療法が確立されている。

しかし、原因が身体内部の深いレベルの次元の異なる目に見えない極めて微細なものであった場合、原因と結果を結びつけて根本的な適切な治療は出来ない。つまり、感情的な問題が原因となっている病気や意識のあり方、潜在意識下のカルマのようなものが原因になっている病気については精神科医といえども現代医学はその治療法を持っていない。症状となって現れてきた病気のうち半数程度は、原因を特定出来ない身体内部の極めて微細なものから起こって来ていると考えられる。

私たちが幸せになるために、より自由に精神的に高まるために、全ての責任を自己に見なければならないと思う。幸せや自由を人任せにして本当の幸せや自由は手に入らない。病気についても全て人任せにしないで、出来るだけ自分で自分の医者になる道を探るべきであり、必要、適切な時だけ専門医師の手助けを受けたら良いと思う。自分で自分の医者になる方法はヨガや瞑想の実践にある。

そのためには、自分の身体に対する理解を深めることが不可欠である。その身体の目に見えない部分を深く知るための方法がプレクシャ・メディテーション(知覚瞑想)である。私たちの観じようとする心が宿る中枢神経系は極めて優れた検知器であり、その検知器、自己意識を使って身体内部のさまざまな感覚を観じていくのが知覚瞑想である。意識的な心、感じようとする心、意識を使って内部感覚を細かく観察すると、命の働きが外部刺激に反応し変化してバランス状態を求めて流れていくので、それとともに生起している内部感覚に気づくことができる。内部感覚を細かく、より微細に知覚していくことで、深いレベルで身体の気づきが私たちに起こる。生命エネルギーと内部感覚は一体のものであり、感覚を観ることは命を観ることになる。生命エネルギーはいつも意識とともに有り、意識があるから生命があるのであり、生命は意識そのものと言える。内部感覚を観じるとは生命そのものを観ることである。そのことを意識で純粋意識を観るという。また、魂で魂を観るともいう。自己意識で内部感覚を観じることがプレクシャ・メディテーションである。

徹底的に細かく身体内部を探ることが本当の自分を知ることであり、本当の自分を見つけることが自分で自分の医者になる方法である。瞑想によって身体内部の変化や流れを理解することは、原因と結果の法則の理解を深める。自分の生活や身体に起こってくるさまざまな現象が身体内部のカルマ(業)に起因していることが解る。私たちが不幸になるのも幸福になるのも、病気になるのも健康に生きることができるのも、生まれることができるのも死ぬのも、カルマによって起きていることが解ってくる。

どうして生き物は身体を必要としているかといえば、身体が精神的発達のために必要だからである。身体を宗教哲学的に解釈すると、身体は精神的成長のための道具であると定義できる。精神修行のためには身体以外の道具は何も必要としない。身体だけが必要であり、身体がなかったら私達は修行できない。身体がなければ私達は見ることも聞くことも話すことも食べることも考えることも触れることも出来ない。苦楽の感覚を感じることも出来ない。苦楽の相反する感覚が身体内部に起こるから身体が生存できるのであり、身体が生存できるから私達は修行できるのである。

私達が生まれてくるのは修行のためである。カルマが深いレベルで私たちを必要な修行に導いている。修行に良い悪いはない。ただその人に必要で資格があるから起こってくるのである。そして地球は人間だけでなく全ての身体ある生き物たちの修行道場なっている。全ての生き物たちは相互に関わりながら修行しているのである。

自分が自分の主人公になるために、自分自身を知らなくてはならない。本当の自分を知るために、自分の身体の仕組みを肉体レベルだけでなく、電磁気体・エネルギー体のレベルで、カルマ体(業の体、原因体)のレベルで理解する必要がある。それを可能にするのがプレクシャ・メディテーションである。プレクシャ・メディテーションによって私達は深い自己認識のレベルに到達することができる。

プレクシャ・メディテーションは自己認識の高度な技法であると同時に、自己コントロールの高度なテクニックでもある。自己コントロールによって神経系や内分泌系のシステムまでコントロールして変化させることができる。私たちの感情はホルモン分泌と一体のものであり、真の健康状態も神経系を通して内的生命エネルギーの流れが大きく関係している。このようなことがわからないと心身の本当の健康は達成されない。

プレクシャ・メディテーションの技法は単なる知覚を超えて高度な自己コントロールをともなうものである。ヨガとは何か、瞑想とは何かと問われれば、それは自己コントロールの道であるといえる。自分が自分の主人公になって無限の自由に到達する道であるといえる。無限の自由に至るために必要な道具が身体であり、身体を観察し知覚し本当の自分を知ることがプレクシャ。メディテーションである。解脱とは自己が消えてなくなることではない、無限の自由と歓喜に満たされることである

身体の知覚を通じて自分とは何かが解った分だけ病気や死に対する不安が消え、たとえ病気になってもその原因が解るので平常心で受け入れ、対処することができるようになる。深いレベルの自己認識によって自分の死までコントロールできるようになるだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/7/30からの転載です)