インド西部、グジャラート州・パリタナと云う町にシャトルンジャヤ山がある。シャトルンジャヤとは勝利の扉と云う意味で、山の頂上稜線に城塞都市のようなジャイナ教山岳寺院群がある。イスラム教の侵攻に対してジャイナ教徒が防御するために山岳寺院を造ったと云われている。非暴力・他と争わないジャイナ教徒が砦を作って武器で敵と戦うことはないが、亀が甲羅の中に首をすくめるように、ヤドカリが貝殻の中に閉じこもるように無抵抗非暴力の防御線にすることを目的に造られたのかもしれない。私はここの地球離れした異星に建てられているような不思議な外観の寺院建築群に魅せられて、1989年、2000年と2回訪れている。
防御とは何か。
今も昔も人類社会に争いが絶えない。商業活動や経済活動は見方を変えればライバルとの競争、戦争である。ライバルとの争いに敗れれば企業は立ちいかなくなり個人は生活の為の基盤を失いかねない。経済活動では今、勝者であっても何時、敗者になるかわからないので人の心は不安で一杯になる。
近年の日本経済は繁栄の頂上に登ってしまったのではないか、後はいかに上手に下山するかという理論と方法を考えなければならない時期にきているのではないかと思う。だが今でも、もっともっと便利に快適にと商品開発や経済活動にライバルと鎬を削ることが止められない。世界中で不況感が高まりライバルとの競争も激しさを増している。激しい社会情勢の変化に合わせて、一生懸命努力して新製品を開発しても、不況による少ない需要の奪い合いで利益も出ない。あくせくした気持ちで、長時間奴隷のように働きライバルと争っているのが今の人間社会ではないのか。人間社会の中に天国も地獄も修羅界もある。
怠けることが出来ない修羅界のような争いの社会に嫌気がさして、解脱の境地に救いを求め南伝仏教やジャイナ教に出家しても、それは社会からの逃避ではないのか?出家集団は怠けもの集団ではないのか?との疑問が起こる。全ての人が出家して修羅界から逃避できるわけではない。出家が少数であればその人たちを大多数の人で支えることはできる。私は先進諸国の人と発展途上国の大多数の人類は修羅界に陥っているのではないかとおもっている。仏陀は争いを止めよと両手を胸の横で前方に掲げられた。ジナは非暴力・不殺生を第1の戒律とした。それでも人類は争うことを止めず今なお嫉妬、悲しみ、怒り、不安、絶望で苦しんでいる。
どうしたら俗生活を続けながら、修羅界から遠ざかれるか、敵の攻撃から身を守ることができるか、それにはむさぼり心を止めることであると思う。自然に与えられる以外のものは取らないということであり、他の人を陥れたり、騙したり恨みをかうようなことをしないことでもある。また足るるを知るということを実践し、むさぼり心にたいして塹壕を築くことである。他の人の価値観が自己中心的でむさぼり心に占められているようならそのような人とは争わないことである。少ない物を分かち合い、互いを尊重して譲り合えば調和に満ちた平和な人間界、地上天国ができると思う。
ブータン王国の価値観はグローバル化したアメリカ式自由貿易主義、自由競争経済主義ではない所に価値観を置いている。それは足るるを知るという幸せ感である。ブータンのように物質的豊かさでなく、足るるを知る所に本当の人類社会の平和があるような気がしてならない。努力することと怠けることの調和の中に人間らしい幸福な生活があるような気がしてならない。沖正弘先生は瞑想を中心とした出家主義の怠け心は許されないとし、冥想を中心とした全力投球の積極的な生き方である沖道ヨガを提唱した。私は日常生活を通じてプレクシャ・メディテーションと沖道ヨガの実践が修羅界からの離脱、争いから身を守る自己防御の砦であると思っている。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/12/25からの転載です)