ジャイナ教の昔話その4:祈りについて(まつい ちえこ)

宇宙素粒子Uを引き付ける力は繰り返される想念で強められていきます。

意識する、しない、にかかわらず、集まってくるUの数や種類を決めているのは自分自身の生き方です
 
「自業自得」といえますが、人々や場所に影響を受けることもありましょう。

「朱に交われば赤くなる」というのも自然の理です。
 
聖地巡礼や徳人との交流を願う人が多いのは自然なことです。

古より人は土地のバイブレ-ションを感じ、Uの力が強い場所を選んで祈りや祭りを捧げてきました。

神社仏閣も気の良い場所が選ばれ、そこに祈りの力が加わったことで聖地となりました。
 
聖人の足に触れるインドの挨拶は尊敬を表すだけでなく、良いUをいただくという意味もあるように思えます。
 
マントラや祈りは繊細な力ですから、Uを集める方法として有効であり、想念を引き上げるだけでなく肉体にも影響を与えます。

祈ったことが成就したり、しなかったりするように思えても結果的には(真我にとって)良い結果が引き寄せられます。
 
気を付けたいのは自分以外の自然をゆがめる願いです。

具体的な目標を持つことは成功の秘訣でありますが自分の都合や欲望によって他者の自由を脅かすものだとしたら、それは祈りとは呼べないでしょう。
 
祈りの逆などはもってのほかです。

「他人を呪えば穴二つ」と言いますが、相手と自分に二つの穴(災い)を掘ることになり、その業・カルマは自分が引き受けるのです。
 
他者への祈りは「往復切符付き」なので、良いこともそうでないことも自分に戻ってくるのです。
 
そうは言っても、祈りは人の理解を超えたところにあります。

真摯な祈りで重篤者が回復した奇跡も多々あるというのに、届かぬ祈りに悲嘆する方もいます。

自分の願いと反することや突然の災いに「なぜ?」と嘆くのは万人共通でありましょう。

また、同じ出来事でまるっきり違う体験があるのはどうしてでしょう。

九死に一生を得た方や成功者は単にラッキーだったのでしょうか。

善人が苦しむ理不尽があるのはなぜなのでしょう。
 
偶然に振り回されるなら、人の思いには意味がないのでしょうか。

そのような人生の悲哀を受け入れ、疑問に答えようと信仰や哲学が出番を待っています。
 
すべて神仏の御心であると達観し、慈悲に自分をゆだねる他力と、自らの努力で道を究めていく自力のゴールはきっと同じでありましょう。

全ての中に救いがあるのだと達観した方には平安が訪れ、出来事を真に理解した方には悟りへの道が開かれる、どちらも最終的には至福に包まれる、とえられています。
 
そこへ至る道はいくつもあり、宗派によって違うマントラや祈りの儀式もあります。

優劣を論ずるより、自分に縁のあったものを正しく理解し、実践していくことが大切ではないかと思います。
 
「神の愛という海にたどり着く川はたくさんある」というスワミ・ヴィベカナンダの言葉は、宗的な諍いへの戒めになりましょう。
 
祈りでは義も形式もない素朴なものが成就し、貧者の一燈が輝くことがあります。

一方、者の儀式や真言に祖師の真や伝承の時間で熟成された力があることも確かです。
 
どちらにしても、宇宙の力と繋がったときに特別な力が働くのでしょう。

インドの神話には、ダルマ・法に則ることで力を得ている魔族までいます。

人間の善悪判断では理解できない宇宙の理があるようです。

それは法則的なもので、祈りは起動スイッチの一つであるのだと思っています。

今日は「祈り」が中心になった説話を紹介させていただきます。

インドで聞いた話ですが特定の宗にだけでなく、いくつかのバリエーションがありそうです。
 
*お話・その4ー幸せな男(語り部:サマニ・ジャイアットさん)
 
海辺に幸せな男が引っ越してきました。
夕刻が近づいたころ、男は一人で浜辺を歩きました。
振り返ると無人の砂浜に二人分の足跡がありました。
 
片方は自分の足跡。
もう一人分は神様のものだと気付いた男は、共に歩いてくださる至高の存在への感謝で心がいっぱいになりました。
その日から浜辺の祈りが彼の日課になりました。
砂浜にはいつも二人分の足跡がありました。
 
ある時、大きな問題がおこり、男は海辺で神の助けを求めました。
振り返っても足跡は一人分しかありませんでした。
神の不在に落胆した男は、家族を残して街へ働きに出ました。
 
孤独で苦しい日々を過ごし、やっと問題を解決した男は海辺の家に戻ってきました。
 
昔を思い出して一人、砂浜を歩くと二人分の足跡が残りました。
 
今になって存在を示した神への不信が湧きました。
「あなたは、なぜ苦しい時に、私の傍にいてくださらなかったのですか?」
 
本音を吐露する男の眼に、突然、数年前の自分の姿が映りました。
白く輝く存在が、ぼろぼろになった彼を背負っていたのです。
 
「砂浜にあったのは私の足跡ではなく、あなたのものだったのですね!」
男は感涙と共に叫びました。
 
順調な時は共に歩き、苦難の時は背負って進ませてくださるのが神だということ。
今までずっと神の愛に包まれていたこと、そして今も包まれていることを幸せな男は知りました。
 
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(自然は何も隠していない…神を知る者はどこにでも愛を見ると言われています。同行二人…頭ではわかっていても…自分の幸福を本当に知っている人は少ないのかもしれませんね)

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