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コラム:肉体はリサイクル品

時間の経過とともに、この世の物質的な物は全て変化してしまう。この世の中の柔らかい物も固い物も全てが変化する。流れて時が過ぎれば全ての物は、違った場所で違った物になっている。

諸行無常という変化の自然法則の中で、似たような現象が前後で少し形を変えるがパターンになって繰り返し発生することがある。それが循環の自然法則である。循環とは地球の回転によって生起している朝昼晩の繰り返しであり、季節の巡りである。陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ずる法則でもある。春になれば桜の木が満開の花を咲かせるが、桜の木そのものは前年の木と同じでも、一年の間に盛衰して違った木になっている。満開の桜の花も咲き方が前の年とは違っている。経済現象や歴史も特定のパターンが繰り返される。個々の株式相場の上げ下げも循環として考えることが出来る。

私たちの呼吸も循環そのものであり、血液の流れ、生命力の流れも循環である。河の流れも大気も循環して変化はとどまることがない。

そういう循環法則の中で宇宙そのものが変化して流れている。超新星爆発で粉々に飛び散った岩石やガスを材料として新たな恒星が誕生する。新たな星は爆発飛散した古い星の棄てた物質を素材として星自身を創っていく。循環の中で陰陽が入れ替わり、拡散力と収縮力が入れ替わっている。

私たち人間の肉体も宇宙的大きな流れの中の循環現象の現れであり、すべてリサイクル品によって成り立っている。私たちの肉体はリサイクル品なのだ。以前、誰かが捨てたものを使って私たちは自分の肉体を作っている。そして私たちは自分が使って不要になったものを再度リサイクル品として廃棄している。リサイクル品を使って自分の肉体を作り、使用済みのいらなくなった物をリサイクル品として誰かに再度使って貰うべく捨てている。それを受胎したときから死ぬまでずっと継続してやっているのだ。

人間の死体は分解して全て地球上で原子・元素に還元される。その原子・元素は植物や動物や他の人にも使われることがあるかも知れない。たとえすぐに使われないとしても、流れて時が過ぎれば、地球の崩壊とともに宇宙空間にばらまかれる。さらに時が過ぎれば宇宙空間のどこかの惑星で全く別の生き物がリサイクル品として私たちの肉体を構成していた原子・元素を使うだろう。そう考えれば果たして墓を作ることが真実のことかどうか疑わしくなる。その反対に地球そのものが私たちの実家であり、墓地であると考えることが出来るかもしれない。

私たちが吸っている空気は地球上の他の生き物、植物や、動物や他の人間がすでに使って棄てたものである。以前に誰かが吐いた空気を私たちは今、吸っている。私が今吸っている空気の中には、大昔の聖者、仏陀やマハーヴィーラが呼吸した空気の一部が含まれているかもしれない。そう考えれば呼吸によって私は仏陀やマハーヴィーラとつながっているのだと思える。好きな人だけでなく呼吸を通じて嫌いな人とも繋がっていると理解できる。混みあった電車の中で乗り合わせた乗客たちは誰かが吐いた息を吸い、自分が吐いた息を誰かが吸っている。呼吸を通じて乗り合わせた乗客たちはリサイクルの空気によって繋がっている。このように、私達は他との繋がり無くして一人だけ単独では存在することが出来ないのである。

私が今飲んだ水はかって誰かが使ったリサイクル品である。私が今日排泄した小便はリサイクルされてビールその他の飲み物になるかも知れない。その飲み物を誰かが飲む。私が排泄した大便は、やがて肥料になり作物の中に養分として吸収されて、再び誰かの食物になるかもしれない。

私たちが口から摂取している飲み物や食べ物は地球規模のリサイクル品、使い回し品である。そのリサイクル品を通じて私たちは過去現在未来の全ての存在達と御縁で結ばれている。私たちは個であると同時に全体である。私たちが生涯の間に摂取するリサイクル品としての飲み物や食べ物は甚大な量である。どれくらいの量になるかイメージすることすら難しい。その甚大な量のリサイクル品が私たちの肉体を作り、活動のためのエネルギーを生み出して、私たちの生存を支えている。

私たちの肉体はリサイクル品なので本当の私ではない。本当の私はそのリサイクル物質を使用し廃棄しているアートマンと呼ばれる魂である。魂がリサイクル品でつくった肉体を使用しているのである。魂がその人にとって必要な物質を集めて肉体を作り維持している。肉体を維持するために必要なものを集荷し取り入れ、使用し、不要になれば廃棄している。そのように肉体をリサイクル品と思えれば、肉体への執着が希薄になる。肉体に対する執着が無くなれば、恐怖や不安が無くなり非暴力が実践できる。

魂はリサイクル品ではない。魂は変化するものではないからだ。魂は物質ではない。作られたものではないから、無くならないし滅びもしない。魂はあらゆるものの中に浸透し行き渡って偏在である。何処かに行くこともなければ、何処からか来るものでもない。

その魂であるアートマンがリサイクル品を使って人生を体験している。生きていることの体験は魂にある種の汚れをもたらす。その汚れであるカルマがヴァーサナーになって使うべきリサイクル品の選別に関与している。だから私たちはその魂に付いた汚れのことを知らなくてはならない。また、私たちは魂と肉体は完全に別物であるということを理解しなければならない。肉体はリサイクル品でできているということ、その肉体は私ではないと言うことを完全に理解しなければならない。諸行無常の物質世界の原則が当てはまらない魂についても理解しなければならない。それらのことが理解できれば魂を中心にした生き方が出来るようになる。魂を中心にした生き方のことを正しい生き方と言うのである。魂に付着した汚れをとることがプレクシャ・メディテーションの目的である。魂の汚れが完全に無くなり純粋になることをモークシャという。モークシャに一歩でも近づくことが人生の意味である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/7/1からの転載です)

はじめてのプレクシャ・メディテーションVol.4

4月にスタートしましたプレクシャ・メディテーションの週末クラス・第四回目になります。

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容)
講義:プレクシャ・メディテーションの特徴-三つの身体と魂について
実習:プレクシャヨガ/アンタールヤートラ(内なる旅)

*指導者養成講座Lv1では さらに下記の内容についての講義をお聞きいただけます:

ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点とは何か?
マントラを唱える意味とは何か?

身体の宗教哲学的意味とは何か?
肉体、電磁気体、カルマ体、魂とは何か?
8つの主要なケンドラとは何か?

日時:7月14日(日)10-12時(開場:9時半)

会場:池袋駅西口・平舎Hiraya(住所:豊島区西池袋5-12-3)
*会場は5月以降変更になる可能性があります

受講料:2000円

講師:坂本知忠

日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
福島県重文民家・叶津番所オーナー
みずなら只見ユイ道場主
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印12回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書)「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。

はじめてのプレクシャ・メディテーションVol.3

4月にスタートしましたプレクシャ・メディテーションの週末クラス・第三回目になります。

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容:
講義・実習
アンタールヤートラ/内なる旅

深い瞑想に導く前提条件と中枢神経の強化
瞑想の基礎的練習

*指導者養成講座Lv1では さらに下記の内容についての講義をお聞きいただけます:

ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点とは何か?
マントラを唱える意味とは何か?

身体の宗教哲学的意味とは何か?
肉体、電磁気体、カルマ体、魂とは何か?
8つの主要なケンドラとは何か?

日時:6月9日(日)10-11時半(開場:9時半)

会場:池袋駅西口・平舎Hiraya(住所:豊島区西池袋5-12-3)
*会場は5月以降変更になる可能性があります

受講料:2000円

講師:坂本知忠

日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
福島県重文民家・叶津番所オーナー
みずなら只見ユイ道場主
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印12回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書)「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。

コラム:四つの身体と霊的色彩光

ヴェーダンタ哲学とジャイナ教哲学では、人間の身体は目に見える粗雑な物質の肉体と、精妙な物質的身体である電磁気的な体と、最も微細な物質からなる体原因と、物質でない魂が層のように結合したものだと説いている。

ジャイナ教ではその四つを肉体、テジャス体(電磁気的な身体)、カルマ体(原因体、汚れた魂、個我の源)、ドラビヤ・アートマン(純粋な魂)に分けて説明している。

ヴェーダンタ哲学では肉体(粗雑な体・アンナマヤ・コシャ・食物で出来た体)、スークシュマ・シャリーラ(精妙な体)、カーラナ・シャリーラ(原因体・潜在意識)、アートマン(魂)に相当する。

仏教では魂を説明しないので身体の複合性・重層性を説かないが、四つの身体を説くジャイナ教とヴェーダンタ哲学には共通の思想がある。『スワーミー・メーダサーナンダ著「輪廻転生とカルマの法則」参照。』

魂の二面性についても純粋なる魂をヴェーダンタ哲学でシュッダートマンと言い、ジャイナ教ではドラビア・アートマンという。本性が覆い隠された魂をヴェーダンタ哲学ではジヴァートマンと言い、ジャイナ教ではパーヴァ・アートマンと言う。何によって魂が本性を覆い隠されるのか。ヴェーダンタ哲学では、それは無知・マーヤ(迷い)であると説いている。その迷いとは誤解、妄想、迷信である。

ジャイナ教では魂に付いた汚れであるカルマ(業)であるとして、中でもカシャーイが原因であるとしている。カシャーイとは怒り、慢心、虚偽、強欲のことである。ジャイナ教では全ての生き物の魂にはカルマが付着していて、カルマが原因となって輪廻が起こっていると説いている。そして輪廻する魂を持つ生き物全てをジーヴァと呼んでいる。汚れたジーヴァの魂が純粋になることがモークシャ(解脱)であり、モークシャに到達することが全ての輪廻する魂の目標である。人間として肉体を持った状態でモークシャに到達した人をアラハン又はアラハトと言う。アラハトが肉体を捨てて魂だけになるとモークシャに到達しているので、もう輪廻転生が起こらない。その輪廻転生しない肉体を持たない魂をシッダと言う。ジーヴァという言語、シッダという言語はジャイナ教由来のものである。もしかするとヴェーダンタ哲学で説く四つの体は、いつの時代か、ジャイナ教哲学の影響を受けているのかもしれない。

ジャイナ教哲学では純粋なる魂は色彩を超越した まばゆく輝くものであるが、純粋なる魂にカルマが結びつくと輪廻する魂、ジーヴァ、つまり生き物、生命になる。生命の中の魂はある種のバイブレーションを起こしている。その精妙なバイブレーション(ある種の周波数を持った波動)が周囲に存在している様々な微細な物質を引き寄せる。その微細な物質が魂に付着してカルマの材料となる。人間であれば、五つの感覚器官を通じて微細な物質が魂に引き寄せられてくる。色、音、味、匂い、触感として微細な物質が魂に入ってくる。それは外から内への方向性である。

魂の内奥から常にある種の霊的精神的エネルギーが身体外部に放射されているが、そのバイブレーションは内から外に向かって放射されるときに魂に付いた汚れの影響を受けて着色される。それがジャイナ教哲学でいうレーシャという霊的色彩光である。霊的色彩光はカルマ体(アートマンにカルマが結びついて出来た原因体であり、自我意識であり、個我でもある。)のカシャーイ領域を通過するときにカシャーイに影響されて着色される。原因として蓄積されているカルマによってカシャーイ(情欲・パッション)が出来てくるが、カシャーイの領域を通過して着色されたレーシャは、次にカルマ体のアデヴァシャーイの領域に入り、感情が生起する元となるエネルギーを生み出している。この段階(カルマ体の段階)ではレーシャの周波数が高いので我々はまだ霊的色彩光を知覚することはできない。

レーシャがテジャス体に入ると周波数が低くなり、テジャス体に流入したレーシャは生命力や内部感覚に影響し、テジャス体のレーシャの領域(霊的色彩光の見える領域)に到達すると我々はレーシャの色を知覚することが出来るようになる。更にレーシャが肉体のレヴェルに入ると中枢神経に到達し内分泌系に影響を及ぼして、そこで化学物質・ホルモンが分泌され感情が生起する。感情によって思考が生まれ、知性が心で考えたことを分析判断し決定する。決定することで行動となる。行動の源を辿っていくとカシャーイがその根源となっていることが解り、行為の結果であるカルマがそのカシャーイを生み出していると理解できる。

又、カルマはレーシャに引き寄せられていることがわかる。つまりレーシャが我々の行動の全ての根源だということがわかる。レーシャによって我々は行動させられ、そしてその行動が新たなカルマを引き寄せ新たな原因を作っているのである。

だからカルマを変えたかったらレーシャを変えればよい。それがジャイナ教のカルマを変える瞑想法レーシャ・ディヤーナの理論である。霊的色彩光の知覚を通じてレーシャの色をより良い色彩に変えていく、因果律の負の連鎖を正の連鎖に変えて魂の純粋化を目指すのである。

カルマによって汚れた魂となったパーヴァ・アートマンをもつジーヴァ(生き物、特に人間)が修行によってアカルマ(純粋)になると、モークシャが達成されて輪廻転生しない普遍的なドラヴィア・アートマンになる。このことを解脱と言う。解脱がジャイナ教・仏教・ヒンドゥー教の理想である。それは、今も昔も変わらない。レーシャ・ディヤーナ(霊的色彩光の知覚)は瞑想の目的と目的地とそこに到達する方法を示している。

感情を生み出すホルモンの内分泌線と関係が深いケーンドラ(チャクラともいう)という霊的中心点に善い色彩をイメージし、善い言葉と共に潜在意識であるカルマ体に浸透させる。この瞑想の継続によって我々の潜在意識は変容しカルマも変わり、カシャーイも善きものとなる。

自分自身を知るというのは自己のカルマを知ることである。自己コントロールとは自己の行為の結果であるカルマによって作られたカシャーイをコントロールすることである。また、カルマによって形成された心の癖、願望、傾向、好みであるヴァーサナー・サムスカーラをコントロールすることでもある。

我々は自分自身を肉体としての体だけであると見ていたのでは救われない。常に肉体だけでなく、自分の体を電磁気的な体として、原因の体として、純粋なる魂として見なくてはならない。それが、自分で自分を救う道である。ジュニヤーナの道、智慧のヨガ、論理的思考を好む人の歩む道、プレクシャ・メディテーションがそれである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2018/6/1からの転載です)

はじめてのプレクシャ・メディテーションVol.2

初めての方にプレクシャ・メディテーションを学んでいただくためのクラス「はじめてのプレクシャ・メディテーション」を4月に第一回目を開催した後、今回が第2回目になります。

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容:
講義-プレクシャ・メディテーションの全体像と概略2

瞑想とは何か?
プレクシャ・メディテーションとは何か?

実習-プレクシャ・メディテーションの基本:カーヨウッサグ(完全なるリラクゼーション)

*指導者養成講座Lv1では さらに下記の内容についての講義をお聞きいただけます:

ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点とは何か?
マントラを唱える意味とは何か?

身体の宗教哲学的意味とは何か?
肉体、電磁気体、カルマ体、魂とは何か?
8つの主要なケンドラとは何か?

日時:5月12日(日)10-11時半(開場:9時半)

会場:池袋駅西口・平舎Hiraya(住所:豊島区西池袋5-12-3)
*会場は5月以降変更になる可能性があります

受講料:2000円

講師:坂本知忠

日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
福島県重文民家・叶津番所オーナー
みずなら只見ユイ道場主
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印12回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書)「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。

コラム:私のヴァーサナー

外は吹雪。夜中に風が吹いて、ここ二階の窓ガラスに風に運ばれてき
た粉雪がびっしり付いている。昨夜は電気炬燵に足を突っ込んで寝てい
た。温かい寝床から渋々起きて、階下に降りる。室温-6度。厳冬の朝、
先ずしなければならないことは居間の石油ストーブに火をつけること、
そして、電気炬燵をONにすることだ。今朝は室内でも素手がかじかんで
しまうぐらい寒い。昨夜、ストーブの上で湯が沸いていた薬缶は夜の間
に冷えきって中まで凍っていた。外の積雪はゆうに2mを超えている。

私は今、新潟県との県境の町、福島県只見町にある福島県指定重要文化
財古民家・叶津番所に2週間の予定で滞在している。叶津番所は250年程
前に建てられた奥会津地方最大規模の古民家で、そこに一人で夜を過ご
している。その歴史を刻んだ大きな古民家の圧倒的な雰囲気のもとでは、
孤独に強くなければ一晩たりとも過ごすことは出来ないだろう。吹雪の
夜は建物のあちらこちらでさまざまな音がする。建物がしゃべっている
ようでもあり、目に見えない精霊の声のようにも聞こえるからだ。
叶津番所の周りには、番所を核として100年以上前に建てられた伝統的な
「蔵」、13年前の2005年に新築した古民家風多目的道場の「みずなら只
見ユイ道場」、「小番所」と称する中古住宅がある。私はその4棟の建
物のオーナーなので、豪雪から建物を守るために滞在しているのである。
平成30年1月27日午後4時、アメダスランキング積雪量情報は只見が271
cmで青森の酸ヶ湯353cm、山形の肘折についで3位であると報じて
いる。

雪に閉ざされた中で、囚われの身になったような状態で日々を過ごして
いると、「何が原因で自分はこのようなことを体験しているのだろうか
?」という思いが強くなる。「なぜ叶津番所を買ったのか、どうして道
場を創ったのか。」「文化財の保護と活用を続けたこの30年間はなんだ
ったのか。」などと考える。何もすることがなく、ボーとした頭に反省
的な心が沸いてくる。そんな時、ふと、「今、私がこのような形で存在
し、このようなことを体験しているのは、原因と条件と結果の糸が必然
的に連綿と悠久の過去につながっているからだ。」と解った。

叶津番所を所有することになるまでに数えきれない御縁があった。その
、どんなに小さな御縁が欠けても叶津番所に出会うことは無かっただろ
うし、また所有することもなかった。私が高校一年生の時、山岳部に入
部しなければ、佐藤勉さんという山登りの先輩に出会わなければ、20歳
で肺結核にかからなければ、ヨガの導師・沖正弘先生に出会わなかった
ら、沖先生の言葉が無かったなら、私がヨガやインド哲学に興味を持た
なかったら、そのようなことは起こらなかったであろう。しかし、その
ような無数の御縁があって今の私が存在している。人間存在は孤独に思
えるがそうではない。あらゆる他のものとの御縁によって支えられてい
るのである。宇宙全体が私という存在を支えてくれているのである。

物を所有するということは、土地であれ建物であれ、家族であれ、美術
品、骨董品、職場、財産、ペット、その他なんでも後々、管理しなけれ
ばならない、世話をしなければならない苦労がつきまとう。所有し使用
する喜びと、それに伴う苦労は必ずついてまわる一体のものだ。人間だ
けがこの苦しみを喜びに替えることが出来る。それが人間の理性的な心
であり、他の動物にはない仏性というものなのだ。さまざまな経験をす
ることで人間の霊性が高まっていくのだと思う。どのようなことを経験
するのかはその人が自由意思で選んでいることである。その自由意思の
根源がヴァーサナーであり、サンスカーラーという。その人の持つ個性
、性向、志、夢や希望の出発点のことである。

番所の周りの4棟の建物で一番問題なのが、「小番所」である。小番所
は道路を挟んで番所と向かい合っている2階建ての中古木造住宅である。
私が2010年に買い受ける前は90歳近いおばあさんと息子が住んでいた。
おばあさんが高齢になったので、姉さんの居住地近く福島県郡山市に
二人で引っ越していった。番所の隣接地であり、建物からの山や川の
風景が絶景なのが気に入って、番所でのヨガ合宿や国際交流の利便性
が高まることもあり、その住宅を買ったのである。売り主の条件とし
て家具や什器備品を全て残置していくというものであった。私はその
条件を承諾して、建物の引き渡しを受けたが、建物内部は不用品でご
み屋敷のようだった。そのとき私は地獄のようなこの環境を天国にし
てみせると心に誓った。今では佐藤松義さんキエ子さん夫婦の協力も
あり地獄のような雰囲気が天国に替わった。近年、2階の一室を綺麗
に整えて只見での私のプライベートな居室にしている。

小番所は建物の構造上致命的な欠点があった。冬の只見の豪雪に対応
していない事だった。それに、極めて安普請で構造材も細かった。屋
根勾配が緩く、積もった雪が滑り落ちなかった。1階部分に下屋が6、
5間×1、5間で付いている。およそ畳20枚分の下屋屋根に雪が積も
る。さらにその上に2階屋根からの落雪が積み重なる。屋根に積もった
雪を放置するとこの家は雪に押しつぶされてしまうのだ。平成27年1月
母が亡くなり葬儀などに追われて只見に来ることが出来なかった。そ
の年は大雪の年だった。屋根に積もった雪が落雪せずに積み重なって、
その重量に押されて小番所二階の梁と柱が折れてしまった。保険に加
入していなかったので修理代は痛い出費となった。

番所や倉は管理を委託している三瓶こずえさんの家族が雪下ろしをし
てくれる。道場は地下水をスプリンクラーのように出しているので、
急こう配の屋根から自然に落雪したあと融けるので、手間がかからな
い。私が冬に只見に滞在する目的は主に小番所を雪害から守るためで
ある。

なぜ、これほどまでに小番所にこだわるのかと言えば、私はこの場所
で自分の理想を表現したいからである。私はここに借景を取り入れた
枯山水の庭を造ってみたい。チャンスがあれば建物を建て替えて、皆
がアッと驚くような素敵な建物を創ってみたいとも思っている。

60歳の時には前途があり、まだいろいろ出来ることがあると思ってい
た。今、70歳を超える年齢になってこの後、何が出来るのだろうか
と考えてしまう。私が只見で活動していることを引き継いでくれる人
は家族にも友人にもいない。妻が私にいつも言っている。「あんたみ
たいな馬鹿な人はいないよね。お金をみんな只見につぎ込んでしまって
・・・。」「あなたが死んだらどうするの?早く只見を始末してよね。
」「私は何も解らないんだから、あなたのやったことの後始末は出来な
いから・・・。」 もっともなことである。

どうやら、私の先が見えてきた。只見での活動は道半ばで終わりそうで
ある。私に働いていた求心力が拡散力に変わったことを感じる。今後、
10年程度かけて只見での活動の整理をしようと思う。成し遂げられなか
った夢を抱えて、今生で経験した様々なカルマを潜在意識に宿して、そ
れらによって熟成したヴァーサナーとサンスカーラが私を次の人生に導
くであろう。

私は過去を振り返り、現在の状況を考察することで、自分の未来が少し
ずつ見えてきた。前世で私を導いたキーワードは海と軍艦だった。今
生で私を導いたキーワードは山と健康と瞑想だった。来世で私を導く
キーワードはユニークな建築物と日本庭園と水晶のような気がする。
私は6のプレクシャ・メディテーションとアヌ・プレクシャで自己の
内部観察を深めていけば、自分の来世がどのような場所に生まれ、ど
のような人生を歩んでいくのか大まかに知ることができると思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/2/1からの転載です)

コラム:自分で自分の医者になる・無病の道

現代人は一般的に病気になると先ず身近な医療施設に出かけて診療を受ける。そして、医師の診断を受け、処方箋に従って薬を飲むことで病気を治している。癌などの重度の病では医師による手術を受けて病の原因を除去する方法をとっている。現代では医学技術は目覚ましい発展をとげて、従来治療が難しいとされてきた多くの難病も治療出来るようになってきた。医療に対しての信頼感が増してきたので、ほとんど全ての人が病気になると、病院や医療施設を頼りにしている。

現代のように医療技術や医療施設が発展し、整っていなかった時代、人々はどのように病気に対峙していたのであろうか。多くは薬草などを使う民間療法であったり、祈祷やさまざまなヒーリング技法に頼っていた。近年の食事療法、色彩療法、指圧、霊気、ホメオパシー、整体、カイロプラクティック等のような代替医療として知られている方法を使っていたのである。

もっと古代においては、自分の体調不調や病気は他に頼る方法がなかったので自分で自分を治すしかなかったのである。その場合、古代人は自分の身体の内部を観察した。身体内部の痛みや不快な感覚を注意深く知覚した。内部感覚を知覚することで自然に痛みや不快感がなくなっていくことを体験した。それが瞑想の起源であると思う。

私たち現代人は痛みや病を悪いものと捉えている。しかし、痛みや病は決しては悪いものではない。それは自然法則が現れたものであり、命の働きが命を守るために痛みや病を起こしているのである。もし痛みや病が無かったら我々は命を長らく存続できないだろう。そう考えれば病は悪いものではなく、むしろ善いものであると言える。痛みと病は原因と結果の法則に従って起ってくる。痛みと病は原因と縁である条件が整わないと現れてこないし起こらない。例え遺伝子の中に弱点として病気の原因を抱えていても、魂のレベルで条件が整わなければ病気は現れない。

ジャイナ教僧侶は自分に起こってくることの原因を自分の内側にある魂の汚れに見ているので、病に対しても自業自得とみている。自業自得であるから他に頼らない、自分で問題を解決するしか方法はない。病気になっても薬を飲んだり手術することもない。同僚による手助けで代替医療などを受けるのみである。戒律によって医師にもかかれないので、自己の病に対して一番の治療手段が断食と瞑想である。断食と瞑想によって命の働きを高め、整えて、病を治癒する方法をとっている。

プレクシャ・メディテーションは本当の自分を見つけるために皮膚の内側に深く観じようとする意識を向ける内なる瞑想法である。それによって、真我つまり魂を知ることが出来る。魂に到達するまでに私たちは身体内部のあらゆる感覚、粗雑なものから超微細なものまで観察し調べつくさなくてはならない。その過程で私たちは自分とは何かということがわかってくる。自分とは何かが解ること、そして自己コントロールが実は自分の病に対する最も優れた治療法なのである。

現代医学は肉体レベル、物質レベルで起こっていることしか治療出来ない。検知器で検知できないようなもっと微細なことが原因になっていることに対して根本的な治療は不可能なのである。人間という存在は物質的な肉体だけで出来ているのではない。目に見えない検知器にかからないような微細なレベルの物質で出来た身体や物質ではない魂の結合によってできているのである。ジャイナ教哲学では肉体の内側に微細な物質による電磁気体があり、更にその内側に超微細物質によってできた原因体があり、更にその内側に物質ではない魂があると観ている。そのように自分の身体が重層的になっていることを理解できなければ、本当の自分を知ることも出来ないし、自分をコントロールすることも難しい。自分で自分の医者になるとはそのように、深いレベルの自己コントロールのことである。

プレクシャ・メディテーションは深いレベルの自己認識法である。それによって、自分自身を知ることが出来るし、自己コントロールが出来るようになる。肉体よりももっと内側の電磁気体のレベルで、原因体のレベルで自己コントロール出来なければ本当の意味での自分で自分の医者になることは出来ない。アカルマの道、自己解放の道が無病への道である。悟りへの道、解脱への道すなわち精神性が高まらなければ無病は無い。カルマが原因となって輪廻する魂に様々な苦しみと病がついてまわるのである。

知恵ある人というのは自己コントロールできる人のことをいう。プレクシャ・メディテーションの技法は身体内部の感覚を知覚する技法と言ってもよいが、その実践よって身体内部に調和がもたらされ、生命エネルギーの流れがスムーズになり生命力、自然治癒力、免疫力を高めることが出来る。その意味で瞑想とは自己ヒーリングと同義語なのである。

カーヤ・ウッサグは心身の完全なるリラックス法であり、もっとも優れたストレス軽減方でもある。ストレスに対応できなくて発症する病を発病前にコントロールできる方法であり、同時に生と死の意味が理解できるようになる。カーヤ・ウッサグによって身体内部の調和が達成されて精神世界への扉が開かれる。カーヤとはインドの言葉で身体という意味であり、ウッサグは去る・分離するという意味である。つまり、カーヤ・ウッサグとは心身分離ということで、意識が肉体から離れることを意味する。最も深いリラックス状態では身体があってないような感覚が起る。身体感覚が消滅して意識だけがはっきり目覚めている、そんな感覚が起る。その時、内なる完全性が達成されて痛みも無ければ病も無い、悩みもない平和な完全性がその人の内側に立ち現れている。カーヤ・ウッサグを継続的に実習すればストレスによる悩みや病と無縁になる。

アンタール・ヤートラ(内なる旅)は電磁気的な体の流れをスムーズにして生命力を高めることが出来る。

シュヴァーサ・プレクシャ(呼吸の観察)は深い呼吸を通じて万病に効く特効薬の代わりになり得る。

シャリーラ・プレクシャ(身体の観察瞑想)は身体内部に深い調和が起こり電磁気体のレベルで完璧な健康がもたらされる。そして身体の観察によって自分とは何かが解ってくる。自分を知ることが自分をコントロールすることであり、自分を自分で癒す方法である。

チャイタニヤ・ケーンドラ・プレクシャは生命力が集中している中心点を知覚することで特に内分泌線が活性化され、ホルモン分泌を正常化させることが出来る。そのことで感情が調和安定する。感情が安定すれば心も安定し正しい生き方、正しい行動が出来るようになる。

霊的色彩光の知覚瞑想は潜在意識に働きかけ、消極的態度を積極的なものに改善することが出来る。

アヌ・プレクシャでは言葉によるアーファメーションを通じ潜在意識を積極的なものに変えることが出来るし、考える瞑想がもたらす直観力によって、真実を知ることが出来るようになる。

プレクシャ・メディテーションは精神性の向上、人格の向上を目的にしているものであるが、その効果だけでなく、同時に私たちの健康を身体の深いレベルから達成できる技法でもある。プレクシャ・メディテーションはインドで古代から現代まで続いてきた宗教であるジャイナ教のセンターや大学で研究しつくされ、体系化された優れた瞑想法であると同時に、自分で自分の医者になる最も優れたテクニックであると言える。

プレクシャ・メディテーションこそ人類の宝である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/3/1からの転載です)

コラム:欲望とは何か

私たち人間が生きていて生活の中で求めているのは、如何にして幸せになるかということに尽きる。では本当の幸せとは何であろうか。仏陀は「人間の日常生活は、ほとんど苦しみに満ちている。その苦しみの生活から脱却して絶対安心、満足、至福、自由に満たされた悟りの世界に行くことが可能である。」と提唱した。インドに起こった宗教のヒンドゥー教もジャイナ教も仏教も人間が本当の幸せを得るために、世俗的、一般的な人間生活の放棄を勧めている。

さらに此岸(人間としての日常生活の苦しみの世界)から彼岸(悟りの世界)に行かなければ本当の幸せになれないと説いている。なぜ日常的な人間生活では本当に幸せになれないのか?それは物質世界が限定的な変化の世界であるからだ。我々は肉体という物質を使って物質世界を体験しているからである。ヴェーダンタ哲学ではこのことをモーハ(迷い)と言っている。迷いの世界では楽しみと苦しみがセットになっていて、苦しみだけを取り除いて楽しみだけ得ることはできない。呼吸を観察しても吸う息と吐く息で苦楽がセットになっていることが解る。人間として生きていると楽しみより苦しみの方が多いのだが、人は多くの苦しみを忘れて、楽しかった想いを増幅出来るから、なんとか辻褄を合わせて生きていくことが出来るのである。

唯物論者は否定するが、魂の永遠性や普遍性を信じる人は物質世界の背後で物質世界を支えている非物質の存在を確信している。物質世界が此岸で非物質世界が彼岸である。此岸は因果律に支配された輪廻転生の世界であり、彼岸は輪廻転生を超えた、再び生き物に生まれない解脱の世界である。彼岸に行くこと、解脱することが真に幸福になることであると言える。解脱無くして真の幸福、自由、安心、至福はあり得ないと仏教やジャイナ教、ヴェーダンタ哲学が教えている。

我々人間が解脱して本当に幸せになれないのは、人間の心身システムのソフトの中に本能的な欲望がインプットされているからである。全ての生き物の命の働きの中に、命が命を守り存続させるために本能的な欲望がインプットされている。この欲望が人間の自由を奪い、本当に幸せになることを妨げ、輪廻転生に縛り付けているのである。

欲望とは何であろうか。生き物には本能的に三つの欲望がインプットされていると言われている。一つが生存欲である。長く生きていたい、健康でいたい、病気になりたくない、いつまでも若々しくいたい、それらは言葉を変えるなら 『食欲』 である。二つ目が自己拡大欲で、自分の分身を増やしたい、子孫や種族を増やしたい、つまり『性欲』 です。三つ目が自由欲で、好きな所に行きたい、遊びたい、世界を知りたい、理解したいという知識欲、悟りたいという欲、それらが言葉を変えるなら『解脱欲』 です。人間だけが持つ芸術的文化的な創作欲、権力欲、名誉欲、所有欲、金銭欲、は三つの基本的欲望から派生した欲望と言える。人間は多くの人を愛し、多くの人から愛されたいとの欲望を持っているが、これも基本欲望が派生したものと考えることが出来る。

なぜ欲望が起こるのか、それは生きていると体の中に生命エネルギーが流れ、それによって感覚が起るからである。感覚には苦楽がある。それは快感と不快である。苦楽の感覚は生きる力であり苦楽の感覚無くして生き物の生存はあり得ない。苦楽の感覚が肉体の生存を脅かす敵や病から自己の命を守っている。

その苦楽の感覚が欲望の根源である。生命の働きが起こす根本的な苦楽の感覚を仏教用語で『痴・ち』といい、ヴェーダンタ哲学ではモーハ(迷妄)にあたる。生きている時に身体に流れる感覚は止めることが出来ず、ほとんど制御が不可能である。だからそれを称してタンハー(渇愛)という。身体に生ずる感覚は沢山あってほとんど自覚出来ないからアヴィッジャー(無明・無知)という。この自覚できない身体内部の微細な感覚が中枢神経系とのやり取りで、盲目的な生の衝動を生み出している。その生の衝動によって好き嫌いの欲望が起こる。欲望には2種類あって好きなものを求める欲(貪・とん)と嫌いなものを避けたい欲(瞋・じん)がある。

コントロールが難しい身体内部の微細な感覚に促されて欲しい、避けたい、という欲望が起こる。その欲望が私たちに行為と行動を促す。心地よい感覚によって、好きなものを側に置きたい、手に入れたいという所有欲が起こる。欲望は一つ達成されると、別のもっと良きものも欲しくなり、欲望の火はエスカレートして燃え上がる。欲望に際限はない。

いろいろな欲望のなかでも、三大根本欲に関係する所有欲は誠に厄介なものである。沢山のものを所有すれば我々は幸せになれると思って行動している。結婚し家族を持つこと、仕事を持つこと、家や財産を持つこと、物を所有することで渇望は満足に変わるが、その反面それらを管理しなければならないし、世話しなくてはならない苦労が生ずる。所有の満足が管理の苦しみに変わるからである。

多くの快楽は多くの苦労が付きまとうという法則が所有にも当てはまる。自分にとって愛おしく、とても好ましいものを所有すると、それと長く一緒にいたい執着が起こる。好きなもの愛おしいものを手放さざるを得なくなった時、人はとても苦痛を感じる。どんなに良い物を持っていても、いつかは手放さなければならないし、多くを所有した人は多くを放棄しなければならない。これが物質世界の掟である。お金でも、物でも所有したものを自分だけの為に使うとそれは悪いカルマとなって未来に悪い結果を招く原因となる。だから、所有を手放して無所有を理想として出家が起こった。なるべく所有しないことで執着から離れようとしたのである。欲望から起こってくる所有と執着によって私たちは不自由になり輪廻の世界に縛られている。だからマハーヴィーラも仏陀も出家することで所有を放棄して無執着を目指したのである。無所有・無執着は欲望から離れた平和な心軽やかな生き方と言える。

欲しい欲望が他人に妨げられたとき、所有を強引に奪われたとき、また、避けたい欲望、嫌悪が原因で怒りが起ってくる。不平や不満も怒りの感情と言える。嫉妬や憎しみ等のネガティブな感情も欲望が元になっている。暴力や争いごとも欲望にもとづく悪行と言える。私たちは欲望に突き動かされて生活している。

願望や希望も形を変えた欲望と考えられる。欲望が私たちを行動させ行為させている。その行為によってカルマが引き付けられ、潜在意識下にインプットされる。インプットされたカルマの蓄積が結果となって今、このような環境のなかで、姿形で自分自身が存在しているのである。我々は欲望に基づき行動しているが、実は悪いことばかりしているわけでもない。行動の善悪は相半ばといったところである。それが一般的な人間だと思う。

欲望の全てが悪いわけではない。善い欲望もある。そのことを煩悩即菩提と言う。解脱欲、完全なる自由を求める欲望は善い欲望と言える。カルマのコントロールとは悪い結果を起こす欲望のコントロールである。それには自己中心的な物質的な欲望を、他の全ての生き物たちの幸せのためになるように精神的に昇華させて行為することにある。あらゆる欲望を魂の解脱に結びつけることにある。私はだんだんそれらが幸せになる道であると信じられるようになってきた。他の誰かが私を救ってくれるわけではない。自分の行為が自分を救うのである。魂が信じられなかったら、欲望のコントロールは出来ない。なぜならコントロールする必要性が無くなるからである。人生の目的が物質的、肉体的な感覚だけの喜びを追求するだけで良いことになるからである。人間の生き方に善悪は関係ない、欲望だけを満足させればよいと、倫理を否定する考えに陥るからである。人間は心の深いレベルで魂を信じているから、なるべく善い行いをして、悪い行いをしないようにしているのである。欲望が少なくなり心軽やかになることで差別心がなくなって、全てを平等に見ることが出来るようになってくる。根本欲すなわちカルマのコントロールで個我の魂が清らかになって、やがては真我を悟る本当の幸せに到達するだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/1/1からの転載です)

坂本知忠先生と行く、インドに古代から続くジャイナ教に触れる旅(2019年10-11月)

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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お申込みに当たりましてはチラシ内「参加申込書」に必要事項をご記入いただき、下記お申込み先までお知らせください。

申込締切:2019年8月30日(金)
*定員となり次第締切となりますのでお早目の申込をお願い致します

申込先:
japan@preksha.com(協会)
tomotada@jcom.zaq.ne.jp(代表直通)

旅行企画:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(代表 坂本知忠)

2019年4月スタート!はじめてのプレクシャ・メディテーション

初めての方にプレクシャ・メディテーションを学んでいただくためのクラス「はじめてのプレクシャ・メディテーション」を4月より開催します。

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容:
講義-プレクシャ・メディテーションの全体像と概略

瞑想とは何か?
プレクシャ・メディテーションとは何か?

実習-プレクシャ・メディテーションの基本:カーヨウッサグ(完全なるリラクゼーション)

*指導者養成講座Lv1では さらに下記の内容についての講義をお聞きいただけます:

ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点とは何か?
マントラを唱える意味とは何か?

身体の宗教哲学的意味とは何か?
肉体、電磁気体、カルマ体、魂とは何か?
8つの主要なケンドラとは何か?

日時:4月21日(日)11-12時半(開場:10時半)

会場:池袋駅西口・平舎Hiraya(住所:豊島区西池袋5-12-3)
*会場は5月以降変更になる可能性があります

受講料:2000円

講師:坂本知忠

日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
福島県重文民家・叶津番所オーナー
みずなら只見ユイ道場主
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印12回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書)「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。