コラム:欲望とは何か

私たち人間が生きていて生活の中で求めているのは、如何にして幸せになるかということに尽きる。では本当の幸せとは何であろうか。仏陀は「人間の日常生活は、ほとんど苦しみに満ちている。その苦しみの生活から脱却して絶対安心、満足、至福、自由に満たされた悟りの世界に行くことが可能である。」と提唱した。インドに起こった宗教のヒンドゥー教もジャイナ教も仏教も人間が本当の幸せを得るために、世俗的、一般的な人間生活の放棄を勧めている。

さらに此岸(人間としての日常生活の苦しみの世界)から彼岸(悟りの世界)に行かなければ本当の幸せになれないと説いている。なぜ日常的な人間生活では本当に幸せになれないのか?それは物質世界が限定的な変化の世界であるからだ。我々は肉体という物質を使って物質世界を体験しているからである。ヴェーダンタ哲学ではこのことをモーハ(迷い)と言っている。迷いの世界では楽しみと苦しみがセットになっていて、苦しみだけを取り除いて楽しみだけ得ることはできない。呼吸を観察しても吸う息と吐く息で苦楽がセットになっていることが解る。人間として生きていると楽しみより苦しみの方が多いのだが、人は多くの苦しみを忘れて、楽しかった想いを増幅出来るから、なんとか辻褄を合わせて生きていくことが出来るのである。

唯物論者は否定するが、魂の永遠性や普遍性を信じる人は物質世界の背後で物質世界を支えている非物質の存在を確信している。物質世界が此岸で非物質世界が彼岸である。此岸は因果律に支配された輪廻転生の世界であり、彼岸は輪廻転生を超えた、再び生き物に生まれない解脱の世界である。彼岸に行くこと、解脱することが真に幸福になることであると言える。解脱無くして真の幸福、自由、安心、至福はあり得ないと仏教やジャイナ教、ヴェーダンタ哲学が教えている。

我々人間が解脱して本当に幸せになれないのは、人間の心身システムのソフトの中に本能的な欲望がインプットされているからである。全ての生き物の命の働きの中に、命が命を守り存続させるために本能的な欲望がインプットされている。この欲望が人間の自由を奪い、本当に幸せになることを妨げ、輪廻転生に縛り付けているのである。

欲望とは何であろうか。生き物には本能的に三つの欲望がインプットされていると言われている。一つが生存欲である。長く生きていたい、健康でいたい、病気になりたくない、いつまでも若々しくいたい、それらは言葉を変えるなら 『食欲』 である。二つ目が自己拡大欲で、自分の分身を増やしたい、子孫や種族を増やしたい、つまり『性欲』 です。三つ目が自由欲で、好きな所に行きたい、遊びたい、世界を知りたい、理解したいという知識欲、悟りたいという欲、それらが言葉を変えるなら『解脱欲』 です。人間だけが持つ芸術的文化的な創作欲、権力欲、名誉欲、所有欲、金銭欲、は三つの基本的欲望から派生した欲望と言える。人間は多くの人を愛し、多くの人から愛されたいとの欲望を持っているが、これも基本欲望が派生したものと考えることが出来る。

なぜ欲望が起こるのか、それは生きていると体の中に生命エネルギーが流れ、それによって感覚が起るからである。感覚には苦楽がある。それは快感と不快である。苦楽の感覚は生きる力であり苦楽の感覚無くして生き物の生存はあり得ない。苦楽の感覚が肉体の生存を脅かす敵や病から自己の命を守っている。

その苦楽の感覚が欲望の根源である。生命の働きが起こす根本的な苦楽の感覚を仏教用語で『痴・ち』といい、ヴェーダンタ哲学ではモーハ(迷妄)にあたる。生きている時に身体に流れる感覚は止めることが出来ず、ほとんど制御が不可能である。だからそれを称してタンハー(渇愛)という。身体に生ずる感覚は沢山あってほとんど自覚出来ないからアヴィッジャー(無明・無知)という。この自覚できない身体内部の微細な感覚が中枢神経系とのやり取りで、盲目的な生の衝動を生み出している。その生の衝動によって好き嫌いの欲望が起こる。欲望には2種類あって好きなものを求める欲(貪・とん)と嫌いなものを避けたい欲(瞋・じん)がある。

コントロールが難しい身体内部の微細な感覚に促されて欲しい、避けたい、という欲望が起こる。その欲望が私たちに行為と行動を促す。心地よい感覚によって、好きなものを側に置きたい、手に入れたいという所有欲が起こる。欲望は一つ達成されると、別のもっと良きものも欲しくなり、欲望の火はエスカレートして燃え上がる。欲望に際限はない。

いろいろな欲望のなかでも、三大根本欲に関係する所有欲は誠に厄介なものである。沢山のものを所有すれば我々は幸せになれると思って行動している。結婚し家族を持つこと、仕事を持つこと、家や財産を持つこと、物を所有することで渇望は満足に変わるが、その反面それらを管理しなければならないし、世話しなくてはならない苦労が生ずる。所有の満足が管理の苦しみに変わるからである。

多くの快楽は多くの苦労が付きまとうという法則が所有にも当てはまる。自分にとって愛おしく、とても好ましいものを所有すると、それと長く一緒にいたい執着が起こる。好きなもの愛おしいものを手放さざるを得なくなった時、人はとても苦痛を感じる。どんなに良い物を持っていても、いつかは手放さなければならないし、多くを所有した人は多くを放棄しなければならない。これが物質世界の掟である。お金でも、物でも所有したものを自分だけの為に使うとそれは悪いカルマとなって未来に悪い結果を招く原因となる。だから、所有を手放して無所有を理想として出家が起こった。なるべく所有しないことで執着から離れようとしたのである。欲望から起こってくる所有と執着によって私たちは不自由になり輪廻の世界に縛られている。だからマハーヴィーラも仏陀も出家することで所有を放棄して無執着を目指したのである。無所有・無執着は欲望から離れた平和な心軽やかな生き方と言える。

欲しい欲望が他人に妨げられたとき、所有を強引に奪われたとき、また、避けたい欲望、嫌悪が原因で怒りが起ってくる。不平や不満も怒りの感情と言える。嫉妬や憎しみ等のネガティブな感情も欲望が元になっている。暴力や争いごとも欲望にもとづく悪行と言える。私たちは欲望に突き動かされて生活している。

願望や希望も形を変えた欲望と考えられる。欲望が私たちを行動させ行為させている。その行為によってカルマが引き付けられ、潜在意識下にインプットされる。インプットされたカルマの蓄積が結果となって今、このような環境のなかで、姿形で自分自身が存在しているのである。我々は欲望に基づき行動しているが、実は悪いことばかりしているわけでもない。行動の善悪は相半ばといったところである。それが一般的な人間だと思う。

欲望の全てが悪いわけではない。善い欲望もある。そのことを煩悩即菩提と言う。解脱欲、完全なる自由を求める欲望は善い欲望と言える。カルマのコントロールとは悪い結果を起こす欲望のコントロールである。それには自己中心的な物質的な欲望を、他の全ての生き物たちの幸せのためになるように精神的に昇華させて行為することにある。あらゆる欲望を魂の解脱に結びつけることにある。私はだんだんそれらが幸せになる道であると信じられるようになってきた。他の誰かが私を救ってくれるわけではない。自分の行為が自分を救うのである。魂が信じられなかったら、欲望のコントロールは出来ない。なぜならコントロールする必要性が無くなるからである。人生の目的が物質的、肉体的な感覚だけの喜びを追求するだけで良いことになるからである。人間の生き方に善悪は関係ない、欲望だけを満足させればよいと、倫理を否定する考えに陥るからである。人間は心の深いレベルで魂を信じているから、なるべく善い行いをして、悪い行いをしないようにしているのである。欲望が少なくなり心軽やかになることで差別心がなくなって、全てを平等に見ることが出来るようになってくる。根本欲すなわちカルマのコントロールで個我の魂が清らかになって、やがては真我を悟る本当の幸せに到達するだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2018/1月第77号からの転載です)

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