インドの神話では空(くう)の世界に最初の揺らぎ=バイブレーションOMが現れ、すかさず「それで?」を表す音(振動)が生まれたと言います。
聖なる振動OMは永遠に止むことなく「それで?」が永遠に続き、繰り返されます。
何かが終わっても、それは違うものの始まりであり、常に「それで?」あるいは「それから?」が続くのです。
最初の揺らぎ、バイブレーションは超微細次元の粒子U=無数の煌めきの素となり広がっていきます。
揺らぎは膨張を生み、無数の粒子Uはその一つ一つの内に宇宙(空)を含んだまま集まり、粗雑な世界の構成単位になっていきます。
Uの集合体がさらに集まり、物質世界が生まれました。
Uが宇宙のバイブレーションから発し、宇宙を含んでいるとすれば「全てがUでできていて、全てが宇宙そのものである」ということになります。
もちろん私たちもUの集合体で、なおかつ宇宙に満ちているUに囲まれています。
Uは純粋なものですが、各集合体(個我)は重ねた経験により性格を帯びてきます。
「水が砂糖で甘くなっても、苦いお茶になっても、コーヒーとして香りや色がついても水は水。
同じ水が違ってくるのは加えられたものの違いだけ。
純粋な魂は同じだが、様々なものが付いて個性別になった」とプレクシャ瞑想の坂本知忠先生は例をあげてジャイナ教で[ドラビア・アートマン]と呼ばれる純粋な魂、それに汚れが付いて個性別になった[パーバ・アートマン]の違いを説明されています。
元は同じU であっても、個別の性格を帯びた私たち(Uの集合体)は自分の波動に似たUの粒を空中からひきつけています。
元気な人がより元気になり、そうでない人がより消極的になっていくことが多い理由の一つがここにあります。
確かに「類は友を呼ぶ」のです。
Uを直接語っているわけではありませんが「思い」が経験を引き寄せたお話をおひとつどうぞ。
****お話・その8・学者僧 (ジャイナ教の絵本から)****
あるところに賢い兄と愚鈍な弟がいました。
二人はアチャリアのもとで出家しました。
兄は立派な学者僧になり、沢山の弟子に囲まれました。
弟子の教育の他、次から次へと訪問者が来るので休む暇もありません。
一方、弟のところには訪れる人もありません。
昼寝をしている弟を見て、兄は思いました。
「のんびり暮らせる弟は幸せだ。私はこんなに忙しくて幸せだと言えるのだろうか。勉学に励んだことは良かったのだろうか」。
ふと起こったこの気持ちは、繰り返し彼の心に湧きました。
その思いを重ねることで兄にカルマができていきました。
兄は学者僧としての人生を終えると天上界に転生しました。
天上界の後は人間に生まれ、再び出家して新しいアチャリアから聖典を教わるようになりました。
アチャリアは三つの聖典を覚えるように言いましたが、三つ目がどうしても覚えられません。
知識を阻害するカルマが働いていたのです。
彼は断食を始めました。
真摯な長い断食によってカルマが浄化されただけでなく、彼の内なる知識の力も表に出てきました。
覚えられなかった第三聖典だけでなく、他の多くの聖典を学ぶことができるようになりました。
単に学び、教えるだけでは、自尊心のもとになってしまう、悟りに向かうために学ぶのだと真から理解しました。
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(思っていることがそれに「ふさわしいもの」を引き付けている、とこのお話は伝えているのだと思います。沖ヨガ行持集にも後天的な業とは「習慣、癖、記憶の内容」であると書かれています。胃袋の話でも出ましたが、他を羨む傾向のある私たちへの警鐘も含んでいるように思います。