コラム:エコ的生活は新しい非暴力運動です

日本近海の海水温が近年上昇してきていて、それが原因で、筑波の大竜巻や近年の集中豪雨、猛暑などが引き起こされているという。まさに地球温暖化を実感として感じざるを得ない昨今である。地球温暖化の要因は大気中の二酸化炭素やメタンの増加によるものであるが、元を質せば世界の人口増加と経済活動に行きつく。人間は、誰でも安全に快適に豊かに幸福に生きたいと願っている。その願いである欲望が行き過ぎて、逆に安全性や快適性が脅かされはじめているのが地球温暖化問題であり、原発問題である。

また私達人間はある意味で動物である。動物として観た場合、自然から離れた不自然な生き方は許されないように出来ている。現代先進諸国の人々の生活は快適ではあるが不自然生活そのものであり、よほど上手に不便さと折り合いをつけていかないと、心身が不調になる。自殺者の増加や鬱、アレルギー体質の問題なども現代人の不自然生活に起因していることが多いのではないかと私は考えている。もっと生の自然に接しなければ、真の意味の健康に達しないと云うのが私の考えだ。焚火の煙を吸い、蚊、蜂、アブ、ブヨ等の虫達に予防接種の注射を打ってもらったほうが良いと考えている。快適ばかりを追い求めて行くと、心身の適応性が失調してしまうのだ。

便利や快適さをどのレベルに置くことが人間の真の幸福に繋がるのかを今私は模索している。自分だけの幸せでなく、他の人々にとっても、未来の子孫に対しても、地球上の他の生き物達に対しても、責任ある行動と生き方は何か、そして幸せな暮らしとは何かを考え始めた。不便や不快を良い事、楽しい事と積極的に解釈できれば、今問題になっている人間としての正しい生き方は何かの解決策が見いだせるのかもしれない。

自分たちの暮らしが幸せであるかないかを論ずる時、比較する対象が必要となる。只見に住んでいる人は只見と首都圏との生活を比較して苦楽や幸不幸を論じている。つまり視野が狭いのである。只見とマダガスカルやミャンマーの田舎と比べたり、明治時代の只見の暮らしと、現代の暮らしを比べて論じることをしない。もし、そのような視点に立てば、いかに只見の暮らしが豊かで快適で便利で幸福感に満ち満ちているかがわかる。

江戸時代の只見と現代の只見の暮らしぶりを比較してみる。雪に閉ざされる冬の条件は同じである。今ある便利なものとして車、電気、照明、システムキッチン、灯油ストーブ、電気炬燵、羽毛布団など快適な寝具、快適な衣服、ゴム長靴、テレビ、パソコン、携帯電話、宅配便、スーパーマーケット、豊富な食料、学校、役所、その他沢山ある。年貢の重税はなく、補助金を貰える。江戸時代の人が蘇ったらビックリするだろう。

山村や離島で暮らしていた多くの人がより良い快適さ、便利さ、幸福さ、自由さ、やりたい仕事を求めてこの50年間に都会に移住していった。今では、山村や離島は過疎化し、集落が消滅し、先祖が永永として築き上げてきた耕地が荒廃してきている。日本人の悪いカルマ(過剰な贅沢)が積みあがっているのではないかと思ってしまう。いまや、新しい価値観を創造して、新しい幸福観にめざめなければならない時代に入ったのではないかと思っている。

地球温暖化防止の生き方は江戸時代に戻るのではなく、私は昭和30年代の暮らしに戻る事だと考える。現代文明は大量生産大量廃棄でやりすぎだ。昭和30年代の暮らしに戻れば原発を全廃してもエネルギーは足りるだろう。経済優先の政治を止めて、国民の幸福優先の政治に転換すべきと考える。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です