プレクシャな生活(日本プレクシャ・ディヤーナ協会 準指導士・深野晶子)

「自分が自分の医者になる」という魅力的なコピーに惹かれ、プレクシャメディテーションを受講し2年が経ちました。

以前は肉体の健康ばかりに囚われていましたが、今は、精神性の健康について気づくことができ、視点が変わったように思います。

身体の癖は鏡をみると気づくけど、心の癖は鏡では気づけない、カルマを次に持ち越さない!

プレクシャメディテーションは色々教えてくれました。

「大事なことは学校で教えてくれないんだよ」と先生がおっしゃったのが印象的で、振り返れば、哲学的なことは実際学校で教わったことはありませんでした。覚えてないだけかもしれませんが・・。

インドの生活では当たり前に宗教哲学があり、こどものころから、出家するとか、しないとか家庭の話題としてあがることがあまりにも日本との人生観の違いが衝撃的でした。

宗教というと、悪い側面ばかりが報道され、何かタブー感が漂う日本社会。

せめて子育て中にプレクシャメディテーションに出会えたことに感謝し、我が家のこどもとの会話に少しでもにじみ出るようになればと思います。

今年から娘が小学生。今の小学校がどんな授業をしているのか、新な視点で注目していこうと思います。

(2023年2月136号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 準指導士・深野晶子

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秋に風邪をこじらせ肺炎になってしまいました。
以前は入院する病気でしたが、今は薬と通院で治る病気になり、医学の進歩はありがたい限りです。
さて、さっきまで普通に生活していたものが、医者から肺炎の診断が下ると、急に病人になってしまい、気持ちまで病んできます。

そんな時に手が伸びたのが沖先生の本でした。
「病はチャンス」「健康だから病気になる」等々、病気に対する前向きな言葉のおかげで、肺炎をチャンスととらえ、瞑想をしたり、アサナをしたりして過ごしました。もちろん呼吸は苦しい。でも毎日していると、今日はここまでできるようになったと呼吸の違いがはっきりとわかり、呼吸のありがたさが身に沁みました。

瞑想をするために動かないのではなく、動けないから瞑想をする、ということになってしまいましたが、このまま習慣になればそれも良しかと思います。ヨガの教えがあったおかげで前向きに過ごせ、治癒したわけですが、振り返れば、普段から自分を観ていなかった反省点。

どこかでただの風邪と肺炎まで進行してしまった分岐点があり、自分を観ていなかったため、見逃していたのです。もちろん、体力的なことだけでなく、精神的な面でも観るということ。瞑想中だけが内観の時間ではなく、普段の生活から「観る」を心がけてこそ、形だけではなく、瞑想を生活に活かすことを心がけたいと思いました。

(2023年12月145号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 準指導士・深野晶子

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瞑想状態とはどんなものか、今だに辿り着けず道半ばです。千里の道も一歩よりと、最近気づいたことは身体の中に静けさを取り戻す感覚でした。頭のおしゃべりが止まればいいわけではなく、身体のざわざわ感もノイズなんだな、と気づいたのです。

よくわかるのがアサナを重ねることにより、身体の静けさを取り戻すことができます。
捻じりから戻った時、前屈から起き上がった時、強度の高いアサナのキープから開放した時、等々。
この体験からも、アサナが瞑想の準備であることは間違いありません。

食のコントロールでも体感できます。時々無塩菜食を行いますが、これも身体のざわざわ感がなくなります。
修行者が菜食なのも、非暴力の意味だけではないのでしょう。

日々の生活の中でも味わえる瞬間があり、それは食事でした。
調理の方が陰陽を理解し、適切な方法で調理したものを頂く機会がありました。
味はもちろん美味しいのですが、身体が静まりかえったという感覚もありました。

もちろん、技術だけではなく、調理する方の精神というものもあるでしょう。
食べる環境、相手など外部環境の影響もあるのかもしれません。

自分の状態もありますが、食べるものの身体に与える影響は栄養学の観点ではなくあるんだな、と思いました。日々の食事は作る側も、食べる側も、意識をもって行うことの大切さを確認した次第です。

心の静けさを取り戻す機会は、食だけなく、日常にも見つけられるよう、日々観察したいと思います。

(2024年6月151号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 準指導士・深野晶子

 

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