コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか

インドには古代から続く宗教的流れとして、バラモン系(アーリア文化系)の流れと、シュラマナ系(土着的クシャトリヤ系)の流れがあった。バラモン系宗教の修行の主たるものは苦行であり、シュラマナ系宗教の修行の主たるものが瞑想であった。そしてシュラマナ系の宗教の中に輪廻転生思想が伝わっていた。BC8世紀後半、ウッダーラカ・アールニーなどの思想家の登場によりバラモン系宗教の流れとシュラマナ系宗教の流れに思想的な合流が起こった。苦行と瞑想、自業自得と輪廻思想が結びついて、その後、インドに発生した宗教を特徴付ける解脱思想が起こった。解脱思想が広まることで出家が流行した。そのような時代背景があって、輪廻からの解脱を求めて、BC6~5世紀ごろ、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラと仏教の開祖ゴータマ・ブッダが登場した。

仏陀はマハーヴィーラと同じく、シュラマナ系の出家修行者であった。出家してから仏陀はアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとで瞑想修行をしたが、悟りは開けなかった。仏陀は瞑想修行を捨て、次に苦行の道に入った。仏陀の苦行は断食行と止息行が中心だったと伝わっている。しかしどんなに苦行をしても悟りは開けなかった。苦行を止めた後、仏陀は考察瞑想を行って、徹底的に原因と結果の法則について考えた。仏陀以前のカルマ論は原因があれば結果は必ず起こるというものであったが、仏陀は原因と結果の間にある縁としての条件や環境が重要な因果律の要素であることを発見した。『いくら原因があっても環境や条件が整わない限り結果は起こらない。』と従来のカルマ論を修正した。また従来の輪廻説では欲望が原因となって輪廻が起こると考えられていたが、たんなる欲望ではなく、もっと深いところにある人間としての根本的な生存欲にあることを発見した。この二点の新発見が従来の宗教哲学になかったものであり、仏陀の悟りの核心だと考えられている。

仏陀は苦行は何の意味もないとして排除した。仏陀は 『人間として正しい生き方はどうあるべきか』 について考察したときに、ジャイナ教のように魂を強調してしまうと極端な非暴力、不殺生の考え方に陥り、人間としての現実生活に合わなくなると考えた。ジャイナ教では全ての生き物に魂があり、皆生きたいと思っているのだから、人間生活を脅かす害虫の命でさえ奪ってはならないとした。ジャイナ教哲学では植物にも魂があるのだから、農業は出来ない。実ったコメや麦を刈り取ることも出来ないし、種籾は生きているのだから煮炊きすることは出来ないことになる。雑草を抜くことも樹木を伐採することも出来なくなる。輪廻の中の生き物は皆、魂を持っているという考え方だ。その考えは真実かもしれない。しかしそうだとすれば非暴力を徹底して、自分が生きるためには殺生を他にしてもらわなければならなくなる。そういう行為は卑怯だという批判になる。だから、仏陀は「あまり魂、魂と言うなよ」との立場をとったのだと思う。そして苦行を排して苦楽中道を提唱したのだと思う。

仏陀が魂についてあまり語らなかったので、「ミリンダ王の問」(紀元前2世紀頃書かれた仏典、最初に無我説を説いた。)などの論調に見られるように、後の世の仏教徒は仏陀ともあろう人が魂を語らなかったのだから、きっと仏陀は魂はないと説いたのだろうと解釈して、仏教が無我説(魂は無い)になってしまった。

仏陀は魂についてよく理解していたと思う。なぜなら、仏教の根本思想は因果律の教えであり、輪廻転生からの解脱がその中心思想であるからだ。仏陀の悟りは「縁起の法」として知られる。縁起の法とは原因と結果の法則であり、「カルマによって輪廻転生が起こっている。」との思想はジャイナ教やヴェーダンタ哲学とほぼ共通のものである。

仏陀が魂について無記(言及を避ける)の立場をとったので、本来、非我(体や心は私ではない)であったものが後の仏教徒に無我(魂は無い)と解釈されてしまった。そこで、行為の結果を受ける輪廻の主体があいまいになって、仏教が他からの論争攻撃の対象になってしまった。仏陀在世の時は仏陀は形而上学的な論争は無駄だとして論争を避けることが出来たが、仏陀亡き後はその攻撃に対して苦し紛れの理論武装をしなければならなくなった。そんな理由で、仏教理論が複雑化し解りにくくなり、今に続く混乱のもとになったと私は推察している。無我説では自業自得や因果応報の説明がつかないので、輪廻転生説がなりたたなくなるからだ。

仏陀は現実主義者であり実用主義者だった。一方、マハーヴィーラ・ジナは極端な苦行を通してカルマを根絶し悟りを開いた厳格主義者であり理想主義者だった。ジナは魂を重要視して決して他の命を奪ってはならないとした。ジャイナ教は非暴力・不殺生、無所有・無執着を徹底することを悟りに至る最重要課題にした。絶対非暴力だから、他の命を奪うことはない。他と争うこともない。自分の命が奪われようと他の命を害することはない。それがジャイナ教の理想主義である。ジャイナ教は宗教の名のもとに他の宗教と戦争したことのない唯一の平和宗教といってよい。仏教にも非暴力の考えがあるが現実主義をとるので非徹底にならざるを得ない。ジャイナ教の無執着は無所有と同義語であり、魂の清らかさに重点をおいて、物質的なものや肉体的レベルのもの、快楽原理に従う世俗的なもの等の価値に執着するな、との教えのことである。人は家族や財産や地位や名誉や知識など、自分のものだと思うものに、どうしても執着しがちである。その執着を手放せ、つまり所有してはならないと戒律で厳しく制限した。ジャイナ教は執着しない所有しないことで輪廻の原因となる欲望から離れようとしたのである。

仏陀の無執着は無執着にも執着するなとの教えであって、ジャイナ教の無執着とは少し意味が違う。仏陀は苦行を排して苦楽中道を立てた。中道とは世俗的な安楽な道と苦行的な厳格さの中間、つまりいい加減にしたのである。中道とは厳格な人から見ればハードルを下げた堕落に見える。

仏陀は当時の出家者の厳格さを排して、屋根のある建物の中で起居するようになり、綺麗な衣を身にまとい、食事の接待を受けるようになった。従来の出家者の常識であった厳格な戒律などに執着するな、こだわるな、とらわれてはならないと主張した。

仏陀のこのような革新的で実用的、現実的な思想が当時台頭してきた新しい都市国家の裕福な商工業階級の人達に絶大な支持を受けて仏教教団が大きくなっていったと考えられる。

ジャイナ教と仏教はシュラマナ系の父母を同じくする兄弟宗教である。基本的な哲学もほとんど同じと言ってよい。一つだけ違うところがあるとすれば永遠で不変で無限で偏在で純粋なる魂を認めるか認めないかである。仏教は現実主義、実用主義だから、非物質的なものは認めていない。仏教の世界観は基本的に物質世界のみのことである。物質世界では変化しないものは無いのだから非物質であると定義されている魂は無いことになる。

ジャイナ教やヴェーダンタ哲学では非物質なものの特徴として、始まりもなければ終わりもない。永遠に存在し不変である。何時でも何処にでもあって偏在している。無限であって時間と空間に制約されない。時空を超えていて次元も超えている。そして穢れなき純粋なものであると定義している。それが真我、魂であるとしている。

仏陀が沙羅双樹のもとで涅槃に入られるとき、弟子たちは「仏陀入滅の後、私たちはどのようにしたら良いのでしょうかと」と質問した。仏陀は答えて曰く「これからは法灯明、自灯明あるいは法帰依、自帰依でいきなさい。」と最後の教えを残された。「私は充分お前たちに教えてきた、もう教えることは何もない、私の教え【真実】を頼りに、他に頼ることなく自分で道を歩んでいきなさい。」と言った。仏陀の法とは縁起の法のことである。つまり、「因果律の教えが真実なのだから、そのことを生活の全ての羅針盤にして、全て自己責任で生きていきなさい。」と教えたのである。それが仏教の核心的教えだと私は考えている。自分が神であり、全ての人が神である要素を持っている。仏陀は自己の内側に神聖をみて自業自得、全責任を自分に見なさいと教えているのである。

仏教のカルマ論(因果律の教え)とジャイナ教のカルマ論、ヴェーダンタ哲学のカルマ論はそれぞれ少し違うところがあるけれど、要約すれば、ーーー【この世の中に偶然は無く、原因と結果の法則に従って必然的に起こっている。そして、今自分が存在していることの全て、受け取っていることの全ては過去の自分が為した行為の結果によるものだ。だから自業自得であり全責任が自分にあるのだ。】ーーーとの基本哲学は同じものである。

ヴェーダンタ哲学は創造神としての神を認めていた。マハヴィーラの時代のジャイナ教、初期仏教では創造神というものはなく宇宙はカルマによって始めもない始めから、終わりのない終わりまでただ変化が継続しているのだと説いていた。BC2世紀の後半ごろ仏教がヒンドゥー教の影響を受けて大乗仏教が起こった。同じころ、ジャイナ教でもジナ像が作られ神様の概念のようなものが登場した。救い、救われといった他力救済の概念が起こったのである。

およそ2000年以上に亘って、仏教もジャイナ教もヒンドゥー教も互いに影響しながらその教義を発展させていった。原点に帰っていろいろ考えないと、宗教とは何か、なぜ瞑想が必要かなどのことは良く理解できないのである。


<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/11月第74号からの転載です)

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