コラム:仏教の源流・ジャイナ教との類似

何事も一部分のみを見ているだけでは本当のことは解らない。物事を広く深く観察して考察することが瞑想である。時間と空間を拡大して考察し、さらにそのことが起こってきた背景までも考察する。すると、疑念が解け、理路整然となって本当のことがスッキリ腑落ちする。

河口だけ見ていても川の本当の姿は解らない。川の中流や源流をも見なければならない。さらに川を理解するためには、地球の自転や海について理解し、大気の流れや雲、雨、水の性質、どうして水が多量に地球に存在しているかなどを考察する必要がある。

同じように、広く深く考察することで、私達日本人が仏教と思っている概念のほとんどは仏教であって仏教ではないことが解る。日本の仏教は広い意味での仏教のカテゴリーに包括されるかもしれないが、その実態はゴータマ・ブッダ(仏陀)が説いた仏教とは程遠いものだ。また、初期仏教を正しく継承していると言われているテーラワーダ仏教でさえ疑わしく思えることがある。

仏教の草創期、仏教の源流、つまり仏陀が生きていた時代から没後百年ぐらいまでの初期仏教がどのようなものであったかが解らないと、私たちは後世の人の創作を仏陀が説いた教えであると間違って受け容れてしまうことになる。

幸い私は仏陀と同時代から今日までインドに続いているジャイナ教を通して初期仏教との共通点や相違点を探って来たので、初期仏教がどのようなものであったか、又、ジャイナ教やヒンドウ教との比較の中で宗教とは何かがとても良く理解出来るようになった。日本仏教についても格段に理解が進んで本質的な事が良く解るようになった。

古来、インドにはバラモン教の流れと、シュラマナ系宗教の流れがあった。バラモン教はアーリヤ人の奉ずる宗教で本来寺院を持たなかった。バラモン教の伝統の中に自業自得の哲学があった。一方、シュラマナ系は土着的なインド先住民の奉ずる宗教で輪廻転生がその哲学の中にあった。紀元前八世紀ごろ、この二つの宗教哲学、自業自得と輪廻転生が出会い解脱思想が起こった。この解脱思想こそインドに起こった宗教の根幹をなしている。

解脱思想の流行でバラモン系からもシュラマナ系からも沢山の出家者が現れた。世俗の生活では解脱出来ないというのがその理由だった。世捨て人となって、世俗的なことを何もなさないことを理想とした。出家は家庭を持たず、仕事も持たず、食事の支度もせず、屋根の下に寝ず、ボロをまとい、中には素っ裸になった者もいた。

輪廻転生の原因であるところのカルマを根絶するために苦行と瞑想することが修行の中心だった。

こうしたなか、紀元前5、6世紀頃、シュラマナ系修行者の中からマハーヴィーラとゴータマ仏陀が現れた。マハーヴィーラは苦行(断食行)と瞑想を通じて解脱した。一方仏陀は瞑想しても苦行しても解脱に至らなかったので、修行法にどこか欠陥があるのではと思い因果律(カルマの法則)について徹底的に考察した。そして従来考えられていた因果律の欠陥を発見しそれを教えの基本とした。それがブッダの教え、根本仏教である。

マハーヴィーラグループもゴータマグループも哲学的に大きな差異はなかった。仏陀は理想主義者ではなく、現実主義者だった。現実主義者である仏陀は悟りを開いてから、在家信者からの寄進や布施に対して理想主義的な出家者のようにこだわりを持たなかった。

食事の接待を受けるようになり、常に綺麗な衣を纏うようになり、屋根のある大きな建物にも寝起きするようになった。その頃、発達し始めた都市国家の担い手、有力な商人がこぞってジャイナ教や仏陀等の自由思想家達に帰依したが、仏陀の教えがより多くの人々の心を捉えたのだと思う。仏陀が生きていた時代、ジャイナ教徒からは弟子のサーリープッタが仏教教団の代表のように思われていた。サーリープッタは仏陀に帰依する前、サンジャヤ(注:六師外道の一人、鰻論法で知られる懐疑論・不可知論者。シャーリプッタは仏陀が因果律を説くと聞き兄弟弟子のモンガラナーと共にサンジャヤの下を去り仏陀の弟子になった)の弟子であったので、経験的な事実に基づかない宗教哲学理論を師のサンジャヤと同じようにのらりくらりとした掴みどころのない戦法で否定したと思われる。ブッダも恐らく同じような考えを持っていた。それが十難無記である。十難無記の中に魂が有るか無いかの問題があった。

仏陀は魂が有るとも無いとも云わなかったのが真相だと思えてならない。なぜならその頃の出家修行者の間では魂があるのは当たり前の考え方であり、自業自得の因果律と輪廻転生の哲学、輪廻からの解脱とそのために出家するということは広く受け入れられた考え方だった。仏陀もマハーヴィーラも言っているように、出家しなければ解脱できないというのがその当時の共通した考え方だった。出家主義は今もジャイナ教や南伝仏教に生きている。

バラモン教は仏教とジャイナ教の影響を受けて、紀元前3世紀頃、その当時有ったインドの民間信仰を何でも採り入れて、インドのなんでもあり宗教に変化したが、その基本的な教えはベーダンタ哲学である。ベーダンタの修行体系、ジャイナ教の修行体系、初期仏教の修行体系はいずれも、出家を中心にしてカルマの根絶、輪廻転生からの解脱に取り組むものである。その方法は多少の相違はあっても瞑想と苦行(タパス)であった。仏陀は極端な苦行は無意味としたが、苦行は悟りや解脱に必要なものとして位置づけていた。共通項として他律を廃し自律を重んじた。

ヒンドウ教にあっても、修行とは自分で自分を助け救う悟りの希求だった。要約すると、自業自得で汚れた魂を清らかにする道、カルマを無くす方法が修行であり、その哲学がインドで生まれた宗教であり、輪廻転生からの解脱がその目的である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2014/8/27からの転載です)

コラム:生 カルマ 死 カルマ 生

ありとあらゆる物が自分のカルマと縁によって、やって来て次の瞬間去って行く。

まるで流れる川の中に立っているようだ。
その流れはまさに宇宙のエネルギーそのものだ。
体の外側も流れている。
体の内側も流れている。
それは高速の流れだ。

動いている身体をもって、僕は動いている世界に飛び込んで行く。
生きている世界は僕が立ち止まっても、押し寄せてくる。
それが生と云うものだ。

今日一日、いろいろな物や出来事が、僕の所へ引き寄せられ押し寄せて来て、超スピードで去って行った。

死とは自分の中の流れが止まって、別次元の止まっている外界を、意識だけが流れて行く状態だ。その時、世界は押し寄せて来ない。意識が動くので世界が動いているように想えるのだ。

純化できていない意識はやがてある特定の振動を持ったエネルギー(音、匂い、光、色彩)に強く引きつけられる。

鮭が故郷の川の水を知っているように、自分を思い出し、帰るべき世界、生まれるべき所に強く惹きつけられる。

そして人間は生まれてくるのだ。

純化出来ていない意識はどうしても成し遂げたい願を持っている。
それが良いカルマ仏性だ。

仏性発現を阻害するものが悪いカルマだ。

陰陽二つのエネルギーが人間の潜在意識から放射される。
一つの人生で遭遇するあらゆる出来事の源泉はそこにある。

カルマに対する洞察、カルマのコントロール、アカルマへの道が全ての人間の遠い旅路なのだ。

プレクシャ・ディヤーナはその旅の道しるべであり、地図でもある。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/10/25からの転載です)

コラム:瞑想・二つの流れ

アーリヤ人がアフガニスタンやパキスタン方面からインドに進出してきたのは紀元前13世紀から11世紀頃のことである。アーリア人は遊牧を生業とする人達であった。彼らが奉ずるのはヴェーダという宗教であり、司祭をバラモンと呼んだ。バラモンは施主から祭祀を頼まれると荒野に結界を作り祭壇を作った。結界に炉を作り火を燃やして火の中に生贄をくべ、施主の願いを叶えるべく呪文を唱え、神々を召喚した。ヴェーダというのは神々を召喚し願いを聞き届けてもらうための様々な呪文の事である。

祭祀が終わると祭壇は壊されて更地に戻された。遊牧民であったアーリア人は当初固定的な寺院を作らなかったのである。バラモンはインドに流入してくる以前には神々から天啓を受けるためにアムリタを使っていた。アムリタとは最近の研究によればベニテングダケだということがわかってきた。インドではベニテングダケが入手出来ないので、天啓を受けるための別な手段の必要性が出てきた。そこで彼らが採用した方法が苦行である。苦行によって天啓を得た。またアーリア人は自業自得の宗教哲学を持っていた。

一方インド在住の人々の間には長い伝統としてのシュラマナ系の宗教があった。シュラマナ系の起源は極めて古くインダス文明にまで遡ると言われる。シュラマナ系宗教では修行としてメディテーションが行われていた。そして教義として輪廻転生を信じていた。

紀元前8世紀頃、ヴェーダの流れとシュラマナ系の流れの宗教哲学が合流し、自業自得と輪廻転生の哲学が融合して解脱思想が起こった。何回も何回も生まれては死ぬのは嫌だと考えて大出家ブームが起こった。世俗的な生活ではどうしても沢山の業を作ってしまうので、業を作らないようにと世俗的な生活を捨て、行為をなさないようにと出家した。出家とは世捨て人、社会からドロップアウトした人の意味が強く、ぼろ布を纏っていた。ヴェーダの流れの中からも、シュラマナ系からも沢山の出家者が出た。

紀元前5世紀から6世紀頃、シュラマナ系出家者の中からマハビーラと仏陀が現れた。マハビーラや仏陀の時代、沢山の宗教哲学が起こり宗教論争が盛んであった。今日、世界中に見られる様々な宗教哲学がこの頃既に全て存在していたと言っても過言でない。六師外道が有名であるが、そのほかに沢山の宗教指導者が存在した。ジャイナ教の経典「スーヤガタ」では363の異なる宗教哲学があったとされる。マハビーラや仏陀以外では運命決定論・無因無縁論者のマッカリ・ゴーサーラ、快楽主義・唯物論者のアジタ・ケーサカンバリン、不可知論者のサンジャヤが主な思想家である。輪廻や魂を否定する彼らも又、出家であり質素な生活を営み苦行をしていたのである。

インドでは古代から輪廻転生が既定の事実として考えられていた。又、因果応報のカルマの支配も疑う余地のないものであり、仏教では六道輪廻からの解放を切に願った。ジャイナ教では地獄の7層、植物界、動物界、人間界、天界の26界に分かれるが、天界の最上階モークシャに入ることを理想とした。

修行によってカルマを根絶し輪廻の輪から離れてモークシャ(解脱)になるという点では仏教もジャイナ教も根本教義は同じである。見解の違うところはカルマがどこに蓄積されるかということと、輪廻の主体は何かということだけである。ジャイナ教は輪廻の主体として真我である魂を想定した。そしてカルマが魂に付着すると考えた。だから魂の汚れであるカルマを取り除けば魂は純粋になる。純粋になった魂がアラハンでアラハンが死んで肉体がなくなるとモークシャに入り、解脱してシッダとなり再生しないと説いた。

一方仏陀は実用主義者だったので証明できないものは有るとも無いとも断定しなかった。架空のはなしの論争を避け、そんなことに時間を費やさず心の安定に励めと弟子達を指導した。そして八正道の実践を奨励した。仏陀は体は私ではない、心は私ではないと言った。私は魂だとも云わなかった。

後世の仏教者たちは仏陀ともあろう人が曖昧な事を言うはずがないとして本来非我説であった仏陀の説を無我説(魂はない)にしてしまった。シャーリープッタやモンガラナーは初め懐疑論不可知論者のサンジャヤの弟子であったが、後にブッダが因果律を説くというので仏陀の弟子になった。仏陀が証明出来ない仮定の話にのらりくらりと断定を避ける姿勢をとったのは、シャーリープッタやモンガラナーをとおしてサンジャヤの影響を受けていたのかもしれない。

部派仏教の時代に仏教は「魂は無い」とする無我説を採用したので、輪廻の主体が不明確になり、カルマ論や輪廻転生からの解脱が曖昧になってしまった。現代のテーラワーダ仏教系は無我説の立場に立っている。

仏教にはニルヴァーナ寂静としての解脱があり、解脱の方法(実践方法・修行)があるが、無我説に立つと何のための修行かの説明が十分でなくなる。魂を否定するとそういう矛盾がおきてしまう。

ジャイナ教と初期仏教は教義や修行体系が驚く程よく似ていて、兄と弟、本家と分家、本店と支店のような類似性がある。小異を捨て大同につけば兄弟宗教と言っても良い。仏教側から見てジャイナ教を外道と蔑めば、ジャイナ教からは仏教が外道となる。

ジャイナ教は魂を認める宗教であり、カルマと輪廻転生を信ずる宗教である。プレクシャ・メディテーションの目的はアカルマ(無業)になることであり、魂を純粋にすることにある。そして魂があるか無いかに関係なく、瞑想修行の過程で健康と幸福を得る恩恵が間違いなくある。

古来ジャイナ教の出家者は自然法則を深く洞察し、今日でいう宇宙物理学や原子物理学のレベルの考察をしていた。それらの見解が古代のジャイナ教聖典に記述されている。現代科学に照らしてみて荒唐無稽なものも多いが、現代にも通ずる優れた見識も見受けられる。科学が発達していなかった古代において宗教哲学を科学的に説明しようとしていたジャイナ教僧侶の洞察は驚嘆すべきものがある。

私たちは本に書かれたものをまるごと信じたり、人の学説を鵜呑みにすることなく、あくまで自分で考え経験・体験し学ばなければならない。宗教哲学を論じる際にはアネカンタ、つまり非独善主義、無対立にならなければならない。他が信ずる宗教を否定してはならないし、侮辱してもいけない。他を尊重することが平和の道であり、争いを無くす道である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/1/28からの転載です)

コラム[瞑想をする、瞑想が起こる]

只見川と叶津川の合流点の瞑想に参加したS君が私に質問した。

「皆さん川の側で、じっと座っているけど、あれっていったい何してるんですか?」

S君は瞑想したことがないし、瞑想が何かまったくわからないらしい。そこで私はじっと座って何をしているかを説明した。

瞑想で一番大事なことは体の動きを止めることです。身体の動きは完全に止めることは出来ません。なぜなら地球が宇宙空間を動いているからであり、生きている身体も瞬間、瞬間に変化しているからです。私達の小腸の栄養吸収細胞は1500億個ありますが24時間で全て生まれ変わります。1秒間に170万個生まれかわっています。胃の粘膜細胞は2~3日で入れ替わり、肌の細胞は一ヶ月で入れ替わります。

どうしてじっとしていなければならないかというと、自分の皮膚の内側を観察しようとする場合、体を動かしていると内部感覚をあれこれ観察するのが難しいのです。体の動きを止めると、呼吸がリズミカルに落ち着きます。さらに目を閉じて外部からの情報を遮断すると心の動きが静まり、さらに意識的にゆっくりした深く長い呼吸をすると、思考(雑念や妄想)が静まって感じる心が強くなります。思考力が静まった分、知覚力(観じようとする心)が出てきます。

その観じようとする心で身体内部のさまざまな感覚を観じて行くのが瞑想の第一歩です。体を動かさないようにするとき、背筋を真っすぐにすることが肝心です。背筋が真っすぐでないと頭がボーとして眠くなります。背筋を真っすぐにして生命エネルギーの流れを良くすることが良い瞑想に入るために必要なことなのです。背筋を真っすぐに保つことが緊張です、体の動きを止めることが緊張です。随意筋はすべてリラックスさせます。

以上が内部感覚を観察する準備です。準備ができたら、外界からの音や光や風やコスミックエネルギーが内部感覚にどのように影響を及ぼしているのかを観察します。川の流れの音や鳥の囀りが内部感覚とどう結びついているかを観察します。観じようとする心で意識的に身体内部のさまざまな動きを知覚します。つまり、体全体を一つものと観じて、その内部で起こっているさまざまな変化を観じていきます。内部感覚として、どの部分が明るく感じるか、どの部分が暗く感じるか、明るさ暗さの部分が時間と共に変化して行くのを観じていきます。同じように暖かさ冷たさ、重さ軽さ、濃密さ希薄さ、等の感覚が変化し体のなかで動いていくのを観じてみます。細かな振動やバイブレーションがどこで起こりどこに広がり消えていくか等も観じるようにします。それが瞑想で「する」ことです。瞑想で私達がしなくてはならないことは体の中身が動いているということを感覚的に観じることです。出来るだけ細かく心を鋭敏にして観じていきます。

そこまでが「する」ということ、プラティヤハーラ(制感法)、ダラーナ(集中法)です。ディヤーナ(瞑想) サマージー(三昧) は整ったところに「起こる」ことです。瞑想は整えて行くとそこに現れ起こってきます。体の動きを止め、呼吸を整え、内部感覚と観じようとする意識的な心をしっかり結びつけるとディヤーナが起こります。

体が地球内部に高速エレベーターでストーンと落ちていく感覚、ロケットに乗って宇宙空間に飛び出していく感覚、三次元的な方向感覚がまったく消失した感覚、水平方向に身体感覚が無限に広がってゆく感覚、身体内部の動きが静止して全てが穏やかな光に満たされクリヤーに均一になった感覚、平和で静かな喜びに満たされている感覚等が起こります。本当の自分を少しだけ垣間見たような感じです。意識的な観じようとする心を内部感覚に結び付け、内部感覚に浸すようにしていると、感情や潜在意識がだんだん純粋になっていきます。そのとき、自分だと思っていたことが全部自分でなくなり、本当の自分に出会うでしょう。本当の自分に出会った時、不安や恐怖が消え、悩みや病が消え、真の健康を獲得し、平和と至福に満たされるでしょう。自己救済の道が瞑想の道です。なぜ多くの人は瞑想しないのでしょうか、人間としてしなくてもよい事ばかりしていて、しなくてはならないことをどうしてしないのでしょう? 明確な目的地を持って一歩、一歩、道を歩く者だけが目的地に到達できます。あなたは何処へ行きたいのですか? 何処に生まれたいのですか?


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/9/20からの転載です)

コラム[プレクシャ讃歌の魅力]

私がジャイナ教の瞑想法に魅せられたのは論理性の高さと、こうすればこうなると云う方法論が確立されていることにありました(日本の禅にはHOW TOが不足していると思っている)。

さらに、プレクシャ瞑想にはマントラや讃歌が具体的方法のなかに組み込まれていて、これが心身の深いレベルに影響を及ぼすと理解できたからです。私はテーラパンタ派のマントラや讃歌が大好きです。楽器を使わず声だけで讃歌を合唱しますが、メロディや旋律が心に響きます。

アラハト・バンダナやローガッサ・スートラの詠唱を初めて本拠地ラドヌーンで聞いたとき、私は言葉の意味や内容が解らないにもかかわらず魂をゆすられる感動を覚えました。もしプレクシャ瞑想の中に讃歌の詠唱がなかったなら、私はこれほどまでにプレクシャ瞑想に入り込まなかったかもしれません。そういう意味でヴィパッサナーとの出会いには魅力を感じなかったのだと思います。アラハト・バンダナやチャイテ・プルシャの意味は10年以上前から解明できていましたが、ローガッサ・スートラの意味がなかなか解明できなかった。それが最近になってようやく森山江美さんによって明らかにされ、私の長年の疑問が解消されました。

どのように唱えるかは、今年2月、ラドヌーンでニーラジ・ムニからいただいたCDがあるので、これを聴きこめば歌えるようになると思います。やっと日本でもプレクシャ合宿のときに讃歌を唱えることができるようになるでしょう。ニーラジ・ムニはテーラパンタ派で一番声が綺麗で歌が上手な出家僧です。CDを聴いていると歌声とメロディが深く心に浸透してきます。同時に悩みやストレスが抜け出てゆくように感じます。

仏教でもたぶん、仏陀の時代には御経が讃歌として詠われていたに違いありません。テーラパンタ派で朝に夕べに唱えられているマントラや讃歌は仏陀の時代の読典と同質なのだと思います。プレクシャ瞑想のHOW TO体系の内容はヨガのヤマ・ニヤマに相当するアヌブラタ戒律からアーサナ(身体のヨガ)、呼吸法、自己コントロールのバーバナ、プレクシャ・ディヤーナ、アヌプレクシャ、マントラ、讃歌まで多彩で総合的です。これら全てを含むのがプレクシャ瞑想なのです。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/5/20からの転載です)

コラム[清らかな心]

清らかな心とか、心を清らかにするとは、どういうことなのでしょう。それは宗教家や道徳を語る人が良く使う言葉です。そのような人が語る話を聞いても、書物で読んでも、清らかな心というものが理解できませんでした。なぜ、解らなかったかと云えば、心と云う言葉の意味する範囲が広すぎたからです。心という言葉を定義づければ、『心とは人間の生体内部で働く機能の総称である。また、人間の精神作用の基になるものと、その作用である。』となり、その意味するところが余りにも広範囲に亘っているからです。

 清らかな心と云う言葉で、若かった私が真っ先に思い描いたのは、神に使える巫女さんのような人でした。若くて容姿端麗で処女であり、両親からの愛に恵まれた幸せな家庭に育ち、人生上の困難な経験に乏しく、素直で従順な人を思い浮かべました。そんな、状態だったから清らかな心、清らかな人と云う概念が全く解らなかったのです。

 プレクシャ・メデティションを学び実践していくなかで、自分とは一体何かと云うことが、肉体の中で働く機能を含めて総合的に理解出来るようになってきたとき、やっと心の清らかさと云うものが解ってきました。

 心と云う言葉の範囲が広すぎて、心の清らかさが理解できないのだから、心の核心に迫るために、その意味する心の範囲を狭めれば良いのです。心を潜在意識と置き換えてみましょう。すると心の清らかな人は潜在意識が清らかな人だと云うことになります。

 潜在意識はジャイナ教哲学で云うドラビア・アートマン(純粋なる魂)に汚れが着いたパーヴァ・アートマン(汚染された魂)のことです。汚れた魂は、その人の個性であり、人格であり、精神性であり、癖づいた心でもあります。この汚れた心、つまり汚れである癖のことをカルマと云い、そのカルマが今、ある私たち全ての人間の人それぞれの現実を創っているのです。私たちの潜在意識であり、存在の大元である精妙な体のことをジャイナ教ではカルマ体、原因体と呼称します。日本語では霊体と呼称し精神性のことです。

 清らかな心と云う表現は本当は適切ではありません。清らかな魂と云うべきです。ジャイナ教の理想は魂に付着した汚れを振り払い、魂が純粋になることを目指しています。ジャイナ教では魂が純粋になった状態をモークシャと云い、それがもう生まれないもう死なないことで解脱と云います。解脱は全ての生き物に課されている課題であり最終目的地です。魂を完全に純粋にすることは、かなり難しいことなので、解脱の域に到達するのはほとんど不可能と云っても過言ではありません。解脱出来なくとも幸せになることは出来ます。それが潜在意識、カルマの浄化コントロールです。

 なぜ、生き物にカルマが付着するのか、それは宇宙全体に同じものごとの別の側面として、プラスとマイナス、陰と陽のエネルギー、バイブレーションが満ち満ちているからです。暖かい冷たい、好き嫌い、正しい間違いと云うのは同じことのレヴェルの差のことなのです。私たちは生きていたいという欲求を満たすために、自己中心的に行動しがちなので、それによって行動も考え方も癖づいてしいます。顕在的な意識は癖づきませんが、潜在意識は癖づきやすいのです。無自覚であれば誰でも癖づいた行動思考によって、同じようなものを引き寄せる悪循環に陥ってしまいます。

 善いものを引き寄せれば善いものが出てきます。悪いものを引き寄せれば悪いものが出てきます。生まれながらの天才的な才能も身体的な障害も病や悩みも潜在意識下の癖が原因となっているのです。この癖のことをカルマと云い業のことです。自ら創ったカルマによって我々は縛られて不自由になっています。カルマは人間の輪廻転生がわからないと理解できません。私たちが自由になりたかったら、幸せになりたかったら、このカルマの縛りをほどき、自分で自分をコントロールすればよいのです。

 カルマの法則とは、私たちが自ら幸、不幸を創っているのだから、全ては自己責任だということになります。カルマ論は外側から私たちをコントロールしている宇宙創造神のような賞罰を与える存在はいない事を示しています。そうで無ければ自由も平等もありません。カルマの法則の中で私たちは自由で平等で無差別なのです。私たちが日常的に繰り返す行動と思考の癖が潜在意識的にちょうどコンピユーターのハードデスクに打ち込まれたデーターのように機能して、私たちを操っているのです。ですから私たちはそのことを理解して、そのことを自己コントロールする必要があるのです。

 ジャイナ教ではカルマは超微細な物質であると考えています。これが素材としてのカルマです。素材である物質的なカルマの影響で、様々な感情や欲望が起こってきます。それらは善いものも有れば悪いものもあります。問題なのは悪い感情と欲望です。

 それは大きく分けると4つあります。一つは怒りです。不平不満 非難、嫉妬、羨望も怒りの一種と考えてよいでしょう。二つ目がプライドであり、傲慢さ、利己心です。三つ目が強欲です。強欲とは他人の物まで自分の物にしてしまう強い欲望です。四つ目が嘘、偽りを語る虚偽の心です。この4つの潜在意識下に癖づいている心であるところの怒り、自己中心的な心、強欲、欺瞞を取り除いていけば、かなりの部分私たちの潜在意識は健全で清らかになります。清らかな心とは潜在意識の清らかさであり、怒らない心、謙虚で利他心に満ちた心であり、足るを知る心であり、嘘、偽りのない正直な心だと云えます。

 今、起こっているウクライナ戦争の事を考えてみましょう。その真の原因がその国を指導する指導者達の心の汚れに起因していることがわかるでしょう。その指導者を選び出した国民一人一人の心の汚れの総和に起因していることが解るでしょう。だから、私たち一人一人の心の持ち方をコントロールことが大事なのです。潜在意識下に根付いた心の癖を善いものに替える事が心を清らかにする道です。

 潜在意識下の癖を知らないこと、日常生活が無自覚であること、それを無知と云うのです。唯物論では無知は治らない。宗教を否定する思想では無知は治りません。無知によって私たちに不幸がやってくると知るべきです。

 潜在意識下の心を清らかにする方法は、日常生活で求める心を止める事です。いろいろな物事を欲しい欲しいと求める心を止めて、他に捧げる心に切り替えることに尽きます。自分の持てる力や才能を他の人の喜びと幸せと友好、共存共栄のために使うのです。その実践こそが怒りを無くし、傲慢さが無くなり、欲望を少なくし、欺瞞に満ちた心を、友好と無条件の愛に溢れた清らかな心にしてくれるのです。一人一人の心の平和が国の平和になり世界の平和に繋がっています。

 魂(アートマン)を理解しカルマの法則が解り、生き物の輪廻転生が真実として確信出来るようになれば、私たちの自己認識は一変するでしょう。宇宙始まって以来の全てのご縁に感謝できるようになるでしょう。その全てのご縁に感謝できる心のことを清らかな心と言います。全ての人間の心が清らかになった時、地上がそのまま天国になるでしょう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

 

コラム[ジャイナ教僧侶がしているマスクの意味]

ジャイナ教白衣派の出家僧がしているマスクは我々日本人には馴染みがないので少し不気味に感じるかもしれません。今回はなぜ僧侶がマスクをしているか説明します。

私達が求めているのは幸福になることです。不幸になりたい人はいません。なのにどうして不幸になるのでしょう。私達が無知だからです。最大の無知は怒る事です。幸福になるには私達は怒りの心を無くさなくてはなりません。

何かに対して嫌だなぁと思う心が怒りの心です。怒りを言葉に出せば自分自身が傷つくし、相手をも不幸にします。誰かをけなす、脅す、陰口をきく、相手を怒る、非難する、侮辱するなどの言葉は言葉による暴力です。暴力を振るえば他の人や生き物達と仲良く出来ません。暴力を振るえば相手の心に怒りが起こります。それが争いです。

怒りの心は自分の方が正しいと思うエゴの心から起こってきます。執着することや適応性の欠如からも起こってきます。ジャイナ教ではアネカンタといって他の主張も否定しません。自分だけが正しいのではない、立場を変えて相手も正しいと思うことそれが非独善主義です。アネカンタの考えが争いを無くします。勝ち負けではなく、平和と幸福の為に他と争いません。

全ての生き物達と仲良くするというのがジャイナ教の一番大事な教えです。非暴力、絶対平和主義です。自分が殺されても相手を絶対に傷つけません。他に対して肉体的な暴力だけでなく言葉による精神的な暴力も決して振るいません。嫌だなぁと相手に思わせる言葉は全て暴力的な言葉です。

ジャイナ教の僧侶は一瞬一瞬の言葉と思考に、他に対する思いやりと友好の気持ちを育み、決して言葉による暴力を犯さないと実践しているのです。口先だけの理論でなく実行実践を重視しています。マスクをする事で言葉による暴力がなくなり、マスクがその実践を助けているのです。

マスクは「アヒンサー(非暴力)」、「アパリグラハ(無執着)」、「アネカンタ(非独善主義)」、「マイトゥリ(全生命との友好)」のシンボルなのです。マスクはジャイナ教の心であり、教え(哲学)であり、ジャイナ教そのものです。マスクを取ってしまえば、形態的にもゴータマ仏陀時代の仏教と区別できません。ジャイナ教は世界一全ての生き物達に優しい平和宗教です。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/4/25からの転載です)

コラム[平等心と無差別]

ロシアのプーチン政権が特別軍事作戦と称してウクライナに侵攻してから、2か月近くになる。

強大な軍事力を持つロシアが独善的な理論で、隣国の弱小国ウクライナを力ずくで侵略しているように見える。戦争の大義は侵略しているロシアによって歪曲され欺瞞と妄想、相手の立場を完全に無視した一方的な理屈で始まった。ウクライナの都市は砲弾やミサイルによってぼろぼろに破壊され多くの難民や市民の死者も出ている。戦争は激化と長期化の様相をみせている。

侵略されているクライナ側は既存のメデアのほかSNSなどの情報サイトを駆使し、いかに理不尽な戦争を仕掛けられたか全世界に情報発信し、共感を得ようと努めている。相互に民族のアイデンティティや利害、主義主張が違うので停戦の合意が見いだせないでいる。

21世紀になってまさかこのような理不尽な戦争が起こるとは、多くの人が予想も出来なかったであろう。さらにコロナ禍による世界的なパンデミックも未だに収束を見せていないし、地球温暖化による急激な気候変動も深刻化してきている。また世界的な資源高と食料不足によるインフレの進行が後進国の治安や政治経済情勢を悪化させている。加えてテクノロジーの急発展にモラルが追いついていない負の側面の問題多発など、人類社会には次から次へと試練が襲いかかって来ている昨今に思える。

このような世界に起こってくる様々な問題というのは、実は私たち一人一人の内なる精神性の問題なのである。マハーヴィーラや仏陀が亡くなってから今日まで2500年程になる。その間に人類史上で大きな戦争が10000回あったとも言われている。小さな戦争も含めれば数え切りないほどの戦争が繰り返された。なぜ人間はこのように愚かで間違ったことをしてしまうのだろうか、それは人間が本当の自分を知らないからである。知っていても完全に理解していないからである。

人間だけでなく全ての生き物は利己的な存在なのであり、自分が一番大事で他は二の次なのである。なぜそうなっているのかというと、一人一人の人間の内側の奥深いレベルに、根本欲がインプットされているからである。根本欲は好きか嫌いかの感情であり、心地よいか不快かの感覚である。この根本欲は制御が極めて困難である。この欲があるから私たちは生存出来るのである。もしこの欲が生き物になかったら生命は存在できない。食欲と云う自己保存欲、性欲という自己拡大欲、そして無限自由を求める自由欲が人間の三大欲望となって金銭欲、名誉欲、権力欲などの派生的な欲望を生じさせている。利己的で自己中心的な人間は他人の利益より自分の利益を第一に考える、次に家族や仲間、そして民族や国家と親しみを感ずる順に利害を考える。生き物の心はそのように出来ている。他と利害がぶつかったとき争いはそのようにして起こる。

ホモサピエンスという一種類の生き物でありながら、地球上に80億人に近い人類が生存している。現在に生きている一人の人間と同じものは、過去にもまた未来にもただ一人として同じ人間はいない。似ている人がいても、一人一人はこのように極めて個性的なのである。個性的だから一人一人の命、人生は尊いけれども、個性別と考え小さな違いを強調しすぎるとそこに差別心が生まれる。差別心と利己心、欲望が結びついて競争や対立ができると、不安や恐怖が生まれてくる。恐怖によって暴力的になり、国家間では戦争になる。

人間の心理状態、精神性、アイデンティテイは住んでいる地理環境に大きく影響される。ロシアのような寒い地域では、人々が生活していくために衣食住を調えるには厳しい環境であった。数千年にわたって同族、民族が生き残るために地域で受け継がれた知恵が、国民性として癖ずいている。国民性とは一人一人が刺激に対して反応する癖が、国家レヴェルになったものである。ウクライナ戦争が相互の国民性にもとずいて起こってきたものであることが理解できるだろう。

欲望が行動となり行動が原因となってカルマを引き寄せる。カルマは癖づいた心と体のシステムになり、私たちはそれに縛られコントロールされている。自分は自由に考え自由に行動していると思っているが、カルマが背後でその人を操っているのだから本当の自由ではなく奴隷のように操られているのである。個人のカルマが集まって国家的なカルマも出来てくる。

差別心が消えない限り人類社会に平和が訪れることはないと私は考えている。だから平和のために私たちは一人一人の中に平等心を育てなけならないのである。平等心とは外見は違って見えても命のおおもとで全ての生き物は同じなのだとの哲学を信仰しなければ達成できない。

平等心とは魂レヴェルで平等だということが理解できないと解らない。又、アートマンとカルマの哲学、輪廻転生が理解できないと解らない。物質主義者、共産主義者は宗教を否定するので平等心が乏しい。私たちはカルマの絶対真実のもとで平等なのである。そしてカルマがあるから私たちは自由なのである。もし、カルマや輪廻転生、清らかなアートマンの理論が無かったら平等も自由も平和もあり得ないと思う。残念ながら西洋や中東に起こった宗教哲学、大乗仏教、祖師仏教にはアートマンと云う概念や論理的なカルマ論に言及がないので、完全なる平等と絶対非暴力の理想に到達していないようにおもえてならない。

カルマについて深く考察すれば、全てが自業自得で自分に全責任があることが解る。自分にとって善きことも悪しきことも自分が作り主であることが解る。神のような人間一人一人をコントロールし支配する存在は居ないとマハーヴィーラや仏陀は教えている。全ては自己責任だから自由なのである。起こってくることには必ず原因があって、偶然は無く必然的に起こっているのである。遇然にしか見えないことを神の仕業だと思うのは間違った考え方である。起こってくることの原因が時空のはるか彼方にあるような場合、私たちの能力では原因を見つけるのが極めて難しい。しかし、全てのものには起こってくる原因があり、それが自然法則である。

私たちの生存も生まれてくるのも死ぬのも原因があるのである。原因と結果の法則が因果律であり、カルマの法則である。私たちはカルマによって輪廻転生を繰り返す。ジャイナ教では天界の住人である神々でさえ老死があると教える。

私たちがアートマンとカルマの哲学を理解し、平等心を確立した時、そこに真の友好心が出来る。上座心にもとずく慈悲心や愛を超えた真の平等心が平和の基礎である。完全なる非暴力とはそのことを云う。友好が有れば恐怖が無くなる。恐怖が無くなれば暴力が無くなる。暴力や争いが無くなって平和になる。だから、私たちは常に平等心と友好心を育てなければならないのである。個人個人の平等心に基づく平和が、所属する団体や企業、地域の平和に繋がりそれが国レヴェル、地球レヴェルに広がらないと人類に起こってくる様々な困難な問題を解決することは難しい。

ジャイナ教のテーラパンタ派の僧、尼僧、在家信者は聖人達の教えを讃歌として朝に夕に合唱している。『バーヴァビーニー・ヴァンダナー』は平等心を育むことの大切さを高らかに謳いあげている。また、『アヌブラタ・ギータ』は個人個人の友好、共存、調和、平等を国家レヴェルに広げていくように謳っている。繰り返し繰り返し毎日詠唱することで、平等心と非暴力の心を養っている。私たちは戦争を無くすために、人類史上最も平和な宗教であるジャイナ教に学ぶ必要があるとおもっている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

コラム[自分の生活と幸福感を何と比較するのか]

人は皆不幸を厭い幸福を求めている。

そして、私達は自分が他と比べて幸福なのか不幸なのかをいつも気にしている。私は多くの人が比べている対象が間違っているので、自分を不幸な存在に感じてしまうのではないかと思っている。比べる対象を現代の身近なところを対象にするのではなく、もっと時間も空間も広げて対象を探して今の自分と比べたら、いかに自分が物質的に恵まれて幸せかが解る。物質に恵まれた分だけ、逆に精神的に脆弱になり、心が不幸になっていることも解る。

日常的に感じて捉えている自分を取り巻く世界を瞑想的に広く深い視点で見てみよう。視点を替えて自分が江戸時代の人間で時空を超えて現代に迷い込んだと仮定してみる。

場所は只見の叶津番所

叶津番所の外観を見るとほとんど江戸時代と変わっていない。建物内に入ってまずびっくりしたのは、電気という仕組みだ。指で押すだけで行灯やロウソクの100倍も明るい光が天井から吊り下げられたギヤマンの玉から発せられることだ。又、この電気は目で見る事が出来ないが、紐のような中を通って炬燵の中の箱型の装置の中で炭の代わりに熱を出して暖かくしている。この便利な装置は温度を自在に調整できるので暖かく大変気持ち良い。テレビという驚くべき箱芝居があった。これも電気によって情景が映し出されるのだという。世の中で起こっていることの全ての瓦版が廻り灯篭のように紙芝居のように映し出されるのだ。テレビという装置はとても面白く、あたかもその場所にいるように事件や芝居や祭りが見れるし旅行まで出来る。だから何時間見ていても飽きない。この家には水屋(台所)があるが、とても便利に出来ている。水が水道という金属で出来た筒を通って来て簡単に出したり止めたりすることが出来るし、大雨の後でもとても水が綺麗なのには驚いた。

この家には竈がなく、不思議なガスというものを使って煮炊きしている。ガスは煙もでず、火加減も調整出来るようになっている。点火には付木を使わず、火花を散らすことで一瞬のうちに火が付いてしまう。風呂場に行ってみると、水道とガスをうまく組み合わせて簡単に風呂が沸かせるようになっている。厠に行って驚いた。全然臭くない、便槽がなくて、出した便が全部水で流されてしまう。驚くべきことに便を出すための腰掛けから水鉄砲のように水が出て紙を使うことなく尻を洗うようになっている。

石油ストーブというものがあって油を燃やして暖を取るようになっている。どこにでも簡単に持ち運べるので、暖かくしたい部屋に持っていけば良い。着物は我々の時代と全く違う形で動きやすいし丈夫で暖かい。糸は砿油から作るらしい。それにとても安く手に入る。一日か二日働いた給金で一揃いの衣服が手に入る。草鞋を履いている人は誰もいない。ゴム長靴という便利な履物があった、外から水が染み込まないので、雪の中を歩いても冷たくない。布団はとても軽くて暖かい、綿でなく砿油から作られた軽い糸が中綿の代わりになっている。中綿が軽い羽毛で作られた布団も多く出回っているらしい。羽毛が中綿になった袢纏のような衣類があったが、暖かく軽く水も通さない驚くべきものだ。遠くの人と話す事ができる手のひらに乗る程の大きさの道具は本当に不思議なものだ。どうなっているのかさっぱり見当もつかない。この小さな道具で手紙のやり取りもできるとのことだ。江戸や京、長州で起こっていることが遠く離れていても互いに話すことができるし、驚くべきことに手のひらの大きさなのにテレビのように実際にそこにいるように見ることが出来る。

建物の中で驚いたが外にはもっと驚くべきものがあった。道が3倍も広いのだ。そして、石と油を固めたようなアスファルトというもので敷き詰めてあって、凸凹がなく真平なのだ。その道を鉄で出来た篭のような物が勝手に動いていく。車が前後に四つ付いていて、篭のような中には人が腰掛けられるようになっているのだ。鉄篭を動かす人が一人中にいてこの人が巧みに鉄篭を動かしている。鉄篭は4人乗りが多く中には50人も乗れる家ぐらい大きい鉄篭まである。鉄篭は砿油を燃やして動かしているらしくとても巧妙に緻密に出来ている。只見から江戸まで平らな道は繋がっていて、僅か4時間で江戸に行けるとは本当に驚きだ。鉄篭は殿様の乗り物ではなく百姓、町人、下々の者誰もが普通に持っている。叶津村のどの家にも鉄篭があって、冬雪が降っても、とんでもない形の鉄篭が雪を吹き飛ばし道を除雪して、冬でも江戸まで出かけることが出来る。家々の屋根は茅葺きではなく、只見のような雪の降るところでは薄い鉄の板で葺かれている。鉄板の表面は錆びないように加工されていて滑らかである。雪が降っても屋根から簡単に落ちるように工夫されている。村人は落ちた雪だけ片付ければ良いのでとても楽だ。

役所や寺子屋のような多勢人が集まる大きな建物は、漆喰のようなセメントという石の粉を砂利と水で混ぜ合わせて作られている。石で出来た粉(セメント)を水と砂や小石で混ぜ合わせると、最初は田んぼの泥のようだが数日で固まって叩いても引いても壊れないコンクリートという大変丈夫な物が出来上がる。地震でもビクともしないこの石の建物はとても多く作られている。今や江戸の町ではほとんどがこのコンクリートと鉄の組合せで出来ていて、お城の天守閣よりはるかに高く大きい建物が隙間なくぎっしり建っている。高さは70階建て80階建てなのでびっくりだ。

百姓が米を作りたがらない。米は異国から安く買えるし、油で動かす鉄製の巧みな道具で田植えしたり刈り取りするので、楽に沢山できて国じゅうで余って処理に困っている。貧しい百姓には年貢がないので暮らしは楽だ。稼ぎが少ない人や体の不自由な人、年寄りには年貢免除だけでなく、お上からお助け金が貰える。誠に羨ましい。

食べ物は不思議なものが沢山ありどう説明したらいいのか解らない。酒の種類も豊富でどこでどう作られているのかさっぱりわからない。私が神隠しにあって迷い込んだ世の中は孫の孫が暮らしている世界だったらしいが年号で言うと平成26年ということだった。元の時代に戻っても誰も私のいう事を信じないので、神様から許可をもらってひとつだけ宝物を未来から持ち帰って来た。これがほらゴム長靴だよ。

叶津番所の役人だった保左衛門は、村人から夢物語を語るホラ役人、ホラ役と呼ばれて当時の人々に愛され親しまれた。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2014/7/31からの転載です)

コラム[食の非暴力 俗なる立場から]

台湾の友人、王さんから私のフェイス・ブックを見て、瞑想合宿最終日に熊肉を食べたこと、お酒を飲んだことに対して質問が来た。坂本がいつも提唱している非暴力・不殺生と矛盾しないかとの質問だった。

ちょうど良い機会なので食べ物の非暴力について私の考え方をまとめてみたいと思った。

人間の生き方は聖の立場と俗の立場があると思います。聖なる生き方は出家の生き方です。私たちがイメージする日本の宗教家や普通のお坊さんは出家であって出家ではないと思います。出家の顔をした俗人です。出家といわれる人が王様のような暮らしをして、企業経営者のような金儲けをしています。私はジャイナ教の出家僧に出会ったとき初めて本物の出家のことが解りました。彼らは本当に無所有を実践し、本物の非暴力を実践していました。

私達の生き方は俗の生き方です。結婚し家族がいて家族を養う為に仕事をしなくてはなりません。様々なしがらみに縛られているので完全なる聖の生き方は出来ません。世俗的生活では完全なる無所有も完全なる非暴力も実践出来ません。企業経営者であればライバルとの競争に勝ち抜かなくては企業を存続出来ません。競争に負ければ業績不振となり従業員に給料も出せなくなり倒産もありえます。倒産した会社の社員は失業し苦しむこととなります。スポーツ選手も勝ち抜かなければ栄光は得られません。俗世界は一にぎりの勝者と多くの敗者があって、良く考えれば競争と暴力うずまく社会といえます。

聖なる出家の世界には他との競争がありません。闘いは自分自身との闘いだけです。自分をいかに清らかにするかという実践が自分自身との闘いだから、他に対する完全なる非暴力が実践できるのです。仏陀もジナも出家しない世俗的生き方では解脱出来ないとして出家を勧めました。

出家の教えである完全なる非暴力は世俗的生活では困難です。そこで厳しい出家の戒律と緩やかな世俗の戒律が出来たのです。世俗の人間に対して出家の戒律をあてはめても無理があります。

私は世俗の立場の生活者なので、私に聖人に対するような要求をしても私には実践できません。沖ヨガの沖正弘先生は生前、弟子たちに「お前たちには俺のような聖なる生き方は無理だから、半俗半聖で行けよ」とよく言われていました。私の生き方は俗なる生き方の中に、聖なる生き方を取り入れて、バランスよく人間的に生きるというのが今生のテーマです。

私は俗人の立場で聖なる生き方を実践し提唱しているのであって、私は出家した聖者ではありません。ヨガや瞑想を実生活で生かすにはどうしたらいいかを実践し、俗の立場で提唱している単なる教師です。つまり私は「俗が聖をやっている」のです。世に聖人、出家といわれている人の多くが全くの俗人で「聖が俗をやっている」のがほとんどです。どちらがより善い生き方かと考えて私は「俗が聖を行じる」方を選択しているのです。

以下は食べ物に対する宗教的な非暴力の考え方を半俗半聖の立場で考察したものです。人間が食べ物を食べるとき、その食べ物は何らかの生命を殺しているか傷つけていることになります。植物も生き物です。完全なる食の非暴力は全く食べないことです。人間は生きている以上、何らかの食べ物を食べなくてはなりません。人間に近い哺乳動物を食べるのはなるべく避けて、穀物や野菜中心の菜食にすべきだという見解は非暴力の実践として説得力を持っています。そういう観点からすればバナナや果物、木の実だけを食べるのが一番善いことになります。

私は食べ物に善悪は無いと考えます。適応性拡大の為に食べ物の善い悪いの判断を止めることだと思います。食べ物を区別すると自由を失います。外国に行くと文化や食生活が違うので、時には食べた事の無いようなものを食べなければならないときがあります。何でも食べることが出来れば何処へでも行けます。子供のころ蛇が怖かったのですが、マムシを食べたら蛇に対する恐怖が無くなりました。それからは蛇の生息する山にも行くことが出来るようになり、蛇と出遭ったときには、私はお腹が空いていれば蛇を食糧とすることが出来るので蛇が私を見て逃げていきます。以前は私が蛇から逃げていました。

非暴力の観点から日本人に魚を殺してはいけない、魚を食べてはいけないとは云えないでしょう。魚を食べることは日本の文化であり伝統だからです。海に囲まれた日本は新鮮でおいしい魚が身近で容易にとれます。我々の先祖は米と野菜と魚を食べてきました。牛や豚など家畜を飼育して食べる習慣はありませんでした。明治以降西欧文化の影響を受けて肉食が始まったのです。

印度は暑い気候の国です。海から遠い印度の内陸では新鮮な魚は入手困難です。家畜の肉も暑さで食べる前に腐敗が進んでしまいます。健康の面からも魚や肉を食べる文化は育ちません。印度で魚や肉を食べてはいけないというのは道理に合っています。印度は暑い国なので香辛料を使った辛い料理、砂糖を沢山摂取しています。日本人が同じような食生活をしたら健康は保てないでしょう。同じように印度では気候が暑すぎて発酵食品の文化は育ちませんでした。発酵食品文化は日本で発達しました。日本は発酵食品の国といっても過言でありま
せん。台湾の食事は日本に比べて味付けが薄く、塩気が少ないのも気候の相違によるのです。台湾の人が日本人に比べて身体が柔軟なのは気候によるのです。日本人が風呂好き温泉好きなのは体の塩抜きの為に必要なのかもしれません。

草原の国の人々の肉食文化、エスキモーの人々のアザラシなど海獣の内臓まで食べる文化、それを暴力と責めることは出来ません。その土地に生きる人にとって必要なことであり、カルマなのです。ジャイナ教では印度に生まれて完全なる食の非暴力を実践しないと解脱は得られないとしています。ならば、日本人が解脱を願うなら来世で印度に生まれることを願うしかありません。

只見では江戸時代まで牛や豚は食べませんでした。古代から日本には鹿やイノシシ、カモシカ、熊などの野生動物を狩猟する狩人の食文化がありました。熊狩りする特別な狩人をマタギといいます。只見にもマタギの伝統がありました。今ではほとんどいなくなってしまったマタギの一人が、友人の長谷部義一さんです。

瞑想合宿の終わる前日、厳しかった修行の最終日の夜は、俗界に帰る準備です。今日まで7日間禁酒、ヨガ式自然食だったので、陰陽刺激の総仕上げとして、緊張の反対、緩めて放下する刺激の一つとして夕食時にお酒を出す予定でいました。マタギの義一さんとは一年近く会っていませんでした。丁度その日の午後、義一さんは坂本さんに会いたくなったと番所にやってきて、自ら仕留めた貴重な熊肉を差し入れてくれました。私から熊肉を食べたくて求めたのでなく、向こうからやってきたのです。チベットの聖者ミラレパがイラクサだけ食べて体が緑色になり生きているのが不思議なくらい骨と皮だけになって洞窟で瞑想修行していた時、猟師から獣の肉の喜捨を受けました。そのときミラレパは人間らしい食べ物だと言って喜んで獣の肉を食べたと言う伝説もあります。

食べ物はまずいより美味しいほうが良いと私は考えています。食べ物は舌で食べるのではなく、体を養う為に食べるのだとの主張は一見真実のようですが、半分真実で半分は嘘です。確かに美味しいものだけ追求し美食に偏ったら体を壊します。味はどうでもよく体に良いものを食べるというのも人間的でなく偏りの一種です。欲望をコントロールする意味で食をコントロールするのは良いことです。本当の出家は托鉢によってしか食べられません。食べ物を選択出来ません。現代仏教の托鉢は形骸化してミャンマーやタイの坊さんたちは毎日、在家から食べきれないほど沢山の美味しい食べ物の喜捨を受けて糖尿病や高血圧、肥満で苦労しています。皮肉なことに苦しくても沢山食べることが修行のようになっています。断食は食欲のコントロールと美食による弊害の体調回復にとても良いので、短期の絶食や断食を日常生活に取り入れることを勧めます。

料理人にとってはより美味しく食べ物を作ることが愛です。また、世俗の人が美味しいものを食べて味覚を満足させ人間的喜びを得ることは悪いことではありません。美味しさを追求しなかったらテレビの料理番組は成り立ちません。

美味しい料理はその国の文化です。私たちは俗人なのですから、出家の立場の非暴力・不殺生は困難です。現実というものを大事にしないと混乱し行き詰まってしまいます。完璧に非暴力・不殺生を実践したかったらジャイナ教の出家僧になるしかありません。

栄養補助剤・サプリメントはそのすべてが体の中で吸収されて栄養になるわけではありません。食べ物も同じです。身体が食べた物の養分を不要と判断すれば、それを排泄してしまいます。また、食べた物によって必要な栄養が得られない時には身体は栄養を合成する能力を備えています。その良い例として、50年ほど前まで、チベットの僧侶は麦粉がしを練ったツアンパとバター茶だけしか食べていませんでした。それでも元気に生きていけたのです。身体を効率よく機能させるために微量元素も必要とされているわけですから、サプリメントに頼るばかりでなく、いろいろな食べ物を食べるのが良いとされています。飲用に適した温泉水を少量飲用すれば免疫力やアレルギーの予防になると思います。

食品添加物の問題は深刻です。これからの時代は自分の食べる物を自分でつくるのが最高の食の贅沢になるでしょう。ヨガの実践と食の自給自足が時代のテーマになりつつあります。ジャイナ教哲学では農業が出来ないので、私達は現実的、実際的な江戸後期の哲人・二宮尊徳の教えをあわせ学ばなければならないと思います。

不殺生は殺すなという意味ですが、積極的には生かしなさい、活用しなさいということです。見捨てられて死んだものを活用することが本当の非暴力だと私は考えます。人間や生き物だけでなく、食べ物を含めてあらゆる物を粗末にしないということも非暴力です。

私たちは他の命をいただいて生きていけるのだから、その御恩に報いる生き方、恩返しの生き方をしなければならないというのが沖正弘先生の食養の言葉です。感謝、懺悔、下座、奉仕、愛行が食べ物をいただく姿勢です。それが正しい生き方であると信じています。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2013/8/23からの転載です)