コラム「勝利者の瞑想法」一覧

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コラム:プレクシャ讃歌の魅力
コラム:あなたは何処に行きたいですか?
コラム:自殺を無くす道
コラム:瞑想をする、瞑想が起こる
コラム:生 カルマ 死 カルマ 生
コラム:所有と無所有
コラム:自己防御の砦
コラム:静と動
コラム:アヒンサー(非暴力主義)
コラム:活用する喜び
コラム:ジャイナ教僧侶がしているマスクの意味
コラム:動きを止める、動きが止まる
コラム:雰囲気と人格
コラム:エコ的生活は新しい非暴力運動です
コラム:非対立主義について
コラム:なぜ瞑想したくない、出来ない、解らないのか
コラム:カルマを無くす瞑想
コラム:ジャイナ教と仏教は兄弟宗教
コラム:別れと出会い
コラム:来世不動産
コラム:資格
コラム:言葉(言霊)の力
コラム:純粋とは何か
コラム:忍耐と無執着
コラム:呼吸の奥義
コラム:食の非暴力 俗なる立場から
コラム:憎しみと愛
コラム:魂を観る瞑想
コラム:魂について
コラム:何もしない行為
コラム:植物に心は有るか
コラム:絶体絶命、崖っぷち、究極の選択・ 非暴力と義務どっち
コラム:水は偉大なる教師であり、尊崇すべき恩人である
コラム:地球温暖化の脅威
コラム:悟りとは
コラム:無常と空
コラム:自分の生活と幸福感を何と比較するのか
コラム:仏教の源流・ジャイナ教との類似
コラム:瞑想登山
コラム:沖ヨガ冥想行法とプレクシャ瞑想
コラム:瞑想における緊張と弛緩
コラム:沈思黙考「おかげさまで」
コラム:瞑想・二つの流れ
コラム:完全なるリラックス
コラム:利己心と依頼心
コラム:身体とは何か
コラム:空の思想とマントラ
コラム:自己コントロールの道
コラム:哲学論争
コラム:ラーナクプールのジャイナ教寺院
コラム:『シッダールタ』を読んで
コラム:生かされて生きている
コラム:美しき日本刀と非暴力
コラム:アンベードカルと仏教改宗
コラム:無限の自由とは
コラム:生命が病気を創る
コラム:カラーセラピー・色彩療法
コラム:日本文化の精髄・露天風呂
コラム:カルマヨギ・二宮金次郎
コラム:皮膚と触覚と意識について
コラム:虫たちのこと
コラム:自分が自分の主人公になる
コラム:火とは何か
コラム:2017年3月19日(日) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演「ジャイナ教のカルマ論と輪廻転生」
コラム:アカルマへの道・モークシャとサンミャク・ダルシャン 2017年3月20日(月) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演
コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか
コラム:アートマン 魂 本当の自己とは何か
コラム:欲望とは何か
コラム:私のヴァーサナー
コラム:自分で自分の医者になる・無病の道
コラム:四つの身体と霊的色彩光
コラム:肉体はリサイクル品
コラム:人類のカルマ・人類存亡の瀬戸際
コラム:2018年インド瞑想研修の旅 印象記 その1 ラドヌーン編
コラム:2018年インド瞑想研修の旅 印象記 その2 聖地アルナチャラ編
コラム:南インドの聖なる篝火の山・アルナチャラ その1
コラム:オンライン瞑想と師資相承
コラム:魂の休息・サマイク
コラム:「迷い」と「無知」
コラム:徹底的に考える智慧の瞑想
コラム:限状態
コラム:洗脳と世界の分断
コラム:平等心と無差別
コラム:清らかな心
コラム病気の宗教哲学的な受け止め方
コラム:我即全宇宙  私の因果は全宇宙と響きあっている
コラム:人間は弱みを突かれると騙されやすい
コラム:ジャイナ教の特徴は魂とカルマの詳細な説明
コラム:洞察力を養いアカルマをめざすアヌ・プレクシャ
コラム:真実の自分を観る ジーバ・魂霊の二重性を理解する
コラム:流れて時が過ぎれば
コラム:正しい認識を持つことは難しい【科学と哲学の間の問題】
コラム:カーヤウッサグの本当の意味

コラム[カーヤウッサグの本当の意味]

プレクシャ・メディテーションの基本的な瞑想法6種の第一段階はカーヤウッサグです。プレクシャ・メディテーションはカーヤウッサグに始まり、カーヤウッサグに終るというほど重要な瞑想テクニックです。カーヤはインドの言葉で肉体であり、ウッサグは離れ去ると云う意味です。何が肉体から離れ去るのか?意識が肉体から離れ去るのです。

意識が肉体から離れるとは何を意味しているのでしょうか?私の経験ではその時、五つの感覚器官の働きが完全に停止しています。そして思考も停止して、五感を超えた超感覚的知覚だけで自己を観じています。この様な状態は例えて言うなら、生きていて死んでいる状態だと云えるでしょう。また、深い瞑想状態とも云えるでしょう。

生きていて死んでいるような肉体の状態になった時、完全なる心身のリラックス状態が訪れます。カーヤウッサグの実習は日常のストレスを軽減する最も有効な手段です。この方法を応用したのが心理療法の自律訓練法であり、瞑想法の一つとしてヨガ・ニードラとして広まっています。完全なるリラクゼーション瞑想、それがカーヤウッサグです。

カーヤウッサグの歴史は非常に古く、3000年以上の昔まで遡ることができます。ジャイナ教の24代、最後のテールタンカラは2600年ほど前のマハーヴィーラであり、23代が2800年ほど前に歴史上実在の人物とされるパルシュヴァナータです。初代のテールタンカラはリシュバ・アディナータとされています。その息子であったゴーマテシュワーラ・バーフバリはカーヤウッサグを修行していたと伝説されています。

バンガルールとマイソールの中間に、南インド最大のジャイナ教の聖地シュラバァナ・ヴェルゴラがあります。ここは、緑豊かなマイソール高原に一か所だけ突き出た花崗岩の岩山になっています。岩山はヴィンデヤギリ1020mとチャンドラギリ930mの二つの峰に別れていて、間に聖なる四角い池があります。チャンドラギリは2000年以上前の有名なチャンドラ・グプタ王と聖者バドラバーフゆかりの修行聖地です。高い方の峰、ヴィンデヤギリの頂上は、巨大な花崗岩を彫刻した高さ18mのバーフバリの巨大なカーヤウッサグ立像が聳立しています。バーフバリは12か月間立ち続けたので、両足に蔦がからみ、足元には蟻塚が出来たと伝わっています。この巨大石像の完成は西暦981年です。

カーヤウッサグは行為を止めると云う意味もあると私は考えています。行動しない、生活しない、つまり生きていて死んだような状態となることです。バーフバリのカーヤウッサグは行為を止める瞑想だったのでしょう。カーヤウッサグは目的に応じて、立禅、坐禅、臥禅として行う事が出来ます。

カーヤウッサグを現代テクノロジー機器を使って行うのが、アイソレーション・タンクです。アイソレーション・タンクは自律訓練法と同様の効果をもたらすリラックス法として、1954年アメリカ人のジョン・リリーに依って考案され製品化されました。アイソレーション・タンクはフローテング・カプセルとも呼ばれます。底が100cm×200cmほどのカプセルボックスの中に、25cm程の高さに濃いマグネシュウム水溶液が入っています。その中に全裸になって入り、入り口を閉ざすと、外部と完全に遮断されます。カプセルの中は真っ暗で何も見えません。外部の音も全く聞こえません。

耳の中に水が入らないように耳栓をつけて水溶液に横たわると、塩分濃度が高いので体が木材のように水に浮かびます。水温はほぼ体温と同じぐらいに設定されているので、裸でも寒くも暑くもありません。水の中で体の動きを静止すると、皮膚の温点、冷点、圧点、痛点に何も刺激がありません。アイソレーション・タンクに横たわると脳は視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚が情報を受け取ることが出来なくなります。体が水面に浮いているので重力からも解放されています。四六時中活動している脳と脊髄に、感覚神経からの情報が何も来なくなるので、脳が戸惑って誤作動を起こすのです。

フローテング・タンクの中では、ヨガの屍のポーズになって、体を完全に静止させます。肉体を確認しようとして、手や足を動かさないようにします。少しでも動くと脳が反応してしまいます。じっと動かさないようにしていると、面白い内部感覚がいろいろ起こります。私の体験では、まず、自分のしている呼吸の音や心臓の鼓動がとても大きく感じられました。しばらくすると自分の手足から始まり身体が無限の彼方に広がり伸びていくような感覚が起こりました。宇宙と自己が一体になったような感覚でした。また、深い沈黙の世界に入っていくような感覚もありました。

アイソレーション・タンクでのリラクゼーションは他物の助けを借りるものですが、瞑想実践としてのカーヤウッサグは自分の身体と観じようとする意識だけを使って、出来るだけアイソレーションタンクのような環境、条件になるように工夫を凝らして自己暗示するのです。リラックス感が高まると睡魔がやってきますが、眠ないように注意して意識を明瞭にして行えば、それが瞑想になります。途中で寝てしまっても何の問題もありません。

カーヤウッサグはストレスを軽減し、身体機能を回復し、心身の健康に対して絶大の効果があります。日常的に実践して行ってください。45分ほどのカーヤウッサグが3時間の睡眠に匹敵する疲労回復効果があるとされます。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/11/30からの転載です)

コラム[正しい認識を持つことは難しい【科学と哲学の間の問題】]

 「正しい認識を持つことは難しい」とはプレクシャ・メディテーションの技法の一つ、アヌ・プレクシャ(徹底的に考える、智慧の瞑想)のテーマの一つになっている。2600年前のマハーヴィーラの時代には瞑想法は「智慧の瞑想」が主流だったらしい。マハーヴィーラが弟子に語ったとされるアーガマ経典の「アーヤーランガ」では出家者を「黙考の修行者」と呼称しでいる。
私はここで、以下に意識と認識とカルマと私達の関係性にいろいろ考察の光をあてて見ようと思う。

 生命体のことをインドの言葉でジーヴァと言う。ジーヴァはまた日本語に訳せば霊魂となる。霊魂と云うのはジャイナ教哲学では魂の二面性として説明する。魂はアートマンと称され、純粋な魂と汚染された魂とに別けて考えている。全て生き物の魂は純粋な魂にカルマ的物質の付いた汚れた魂となっている。汚れた魂は輪廻している魂で清らかな魂は輪廻から外れた魂である。

 カルマによって汚染された魂から、汚れであるカルマ物質を取りのぞけば、後に残るのは純粋なる魂だけとなる。汚れた魂の汚れをとることが私たちが生きている究極の目的なのだと、ジャイナ教は主張する。魂を清らかにすることが修行であり、完全に清らかになればそれが解脱である。解脱とは苦しみからの解放であり、もう生命体に生まれない、輪廻転生からの離脱である。

 霊魂は本当は魂霊と訳すべきである。魂はジーヴァの畢竟の浄(汚れてもいなければ、清らかでもない究極の純粋さ)のことで、霊とはジーヴァの汚れた魂の部分で、個性別のことである。

魂霊に備わっている本質的なものが意識である。
その意識によって物質的カルマが引き寄せられて、私達の今ある姿が出来上がっているのだとジャイナ教は主張する。

 純粋な魂は共通性であり普遍性であり、非物質的なものてある。非物質はエネルギーではないから変化しないので常住(生じるものでもなく滅するものでもなく、永遠不変の実在体)であると云われる。これが私達の本質であり真我と呼ぶべきものである。こういう認識、知識、哲学は五感や思考、科学性を超えた深い認識によってもたらされる。

 霊とは物質的なカルマの汚れを含んで、私たちの原因体を形成している個我である。物質的なものはエネルギーであるし、変化するから常住ではない。様々なカルマに汚染されているから、それぞれの魂は個性と特殊能力を持っているのである。個別性と特殊性を有するカルマ物質の影響で、私達の霊体は原因体でもあるから、原因と結果の微細なバイブレーションを常に周囲に放射している。その内から出ているエネルギー波動に応じて、外から様々な超微細なカルマ物質を霊体に引き寄せている。これが私たちの命のシステムである。カルマ物質はエネルギーであるし、変化するから、取りのぞくことが出来るのである。

意識とは何か?
意識とは気付いていることであり、外の世界や自分自身の身体の状態が解ってる状態である。又、自分が今、体験している感覚、感情、思考、記憶などの総体でもある。何かを経験しているという主観的な感覚そのものが意識であり、その経験の全てが意識を構成している。意識を持っているから生命体は、自他を認識出来るのである。

認識とは何か?
認識とは対象をはっきりと区別が出来て、理解し知ることが出来る事である。さらには知ったことの知識のことでもある。だから、私達の魂霊には意識が備わっているから認識でき知性があると云えるのである。

認識の出発点は感覚である。
苦楽の感覚によって好き嫌いが起こり、欲しいと云う欲望と遠ざけたいという怒りが起こってくる。生きているとき、必ずそれが起こっている。苦楽も好嫌も同じことのレヴェルの違いのことであるから、受け手によって評価が違ってくる。評価の違いが認識の違いになり体験と反応(行動)の違いになる。反応が違えば結果も違ってくる。行動が原因となっていて、その原因の中に既に結果が入っている、とジャイナ教は主張する。原因と結果は一つの事であるから、結果がまた原因になる。起こったことに対してどのように反応したかが、次の結果を生み出す原因になっている。そこに、条件と環境である縁を加えたものが因果律である。因果律を理解するためにカルマについて認識を深める必要性がある。

正しく行動するためには正しい認識をもつ必要がある。
正しい認識と正しい知識を持つことが悟りへの道に一番必要な基本要素なのだと思う。

中世ジャイナ教の考え方では5種類の認識について解説している。五種類の認識とは次のようなものである。

間接的な認識二つ・思考が伴っている  

①感覚器官によって得られる認識
②聖典・言葉の教え(これらも感覚器官に依る) 現代では検査器機による認識も含む

直接的な認識三つ

③直感
④他人の心や思想に関する認識
⑤全知

 直感による認識や他人の心が解る認識は、五感や心の機能を介さないで、時間空間を隔てていても、認識できる直接的な認識であるが、誤りを含んでいることがある。透視や千里眼のような認識はカルマの減少によって発現するが、魂が完全なアカルマになっていないから限定的なものである。読心術は憎悪や嫉妬心が少なくなると発現すると云われている。これも限定的なものである。一方、全知は、魂に付着したカルマが私達の認識の障害になっているのだから、その障害が完全に無くなれば全知に至るのである。

 全知は常に正しく、誤りを犯すことが無い。全知は認識と知識に何の制約も無く絶対的なものだと云われている。全知とは全能と同義であり、アカルマになって完全解放されたアラハンの認識・知識である。全知こそが正しい認識なのである、アラハンになるのが難しいのだから正しい認識を持つのが難しいのである。非物質を完全に認識できるのは全知の認識でなければ不可能なのだと思う。

 プレクシャ・メデテーションで目指すのは全知になることであるが、その前に直観力を高めるために自己を損ねるカルマを少なくしなければならない。

それには五感の知覚を超えた知覚の超感覚的感知を高める必要性がある。プレクシャ・メディテーションを訳して知覚瞑想と呼んでいるが、本当は『直感的知覚瞑想』と云うべきなのである。

 直感的知覚瞑想では感覚器官に依る知覚を介さず、思考に依る判断識別を停止して、純粋意識で自己の内部を観察するのである。このような理論に基づいて構成されたシステマチックな瞑想がプレクシャ・メディテーションである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/10/31からの転載です)

コラム[雰囲気と人格]

私達の潜在意識はコンピューターのハードディスクのような機能を持っている。私達の体験や日常生活でどの様に反応したかが潜在意識にインプットされている。インプットされているものは知識や記憶ではない。出来事に対してどの様に反応したかが性格や人格となって根付いている。それらは外部情報に対してのどの様に反応するかという心の癖のようなものだ。知識や記憶は身体機能としての脳が行っていて、それは例えれば取り外しできるパソコンのメモリーのようなものである。身体の死とともに知識や記憶は消滅する。

しかし、性格や人格、嗜好は潜在意識にインプットされていて肉体が死滅した後、次の生に引き継がれていくものと云える。同時に性格や人格、嗜好は次の生を引き寄せる原動力になっている。それがカルマである。人はカルマによってそこに生まれ、そのような身体を持ち、そのように生活し、奴隷のように操られ、カルマによって死ぬ。カルマは肉体の死によって終わるものでもない。カルマは命や魂に付いて変化しながら継続する。

カルマは因縁とも云い、原因である種が、縁である土や水、気温、光によって発芽し成長し実を結ぶと例えられる。リンゴの種にはリンゴが稔り、かぼちゃの種にはかぼちゃが稔る。リンゴの種にかぼちゃは成らないという自然法則の事である。さらにカルマは意志であり行為でもある。意志や行為によって結果が変わるからだ。又、結果(受業)の事をカルマという。その結果が潜在意識にインプットされると原因としてのカルマ(因業)になる。カルマは輪廻転生の原動力であり、私達に自業自得と自己責任、全肯定の生き方を教えてくれている。自然界や人間社会を良く観察するとカルマの法則があらゆるところに浸透していることが理解できる。

全ての人間は個性的である。まったく同じ人は過去にも現在も未来も存在しない。人生は一度だけというのがそういう意味だ。人間は個別で大変ユニークな存在である。つまり、全ての人のカルマは違うということである。人それぞれに雰囲気や人格が異なるのもカルマがあるからだ。いやしく愚鈍な雰囲気、清らかで崇高な雰囲気、それらは肉体レベルを超えた内部からのカルマの放射であるところのある種のエネルギーである。カルマとしてのエネルギー放射は身体を繭のように取り囲むオーラになる。近年、オーラカメラによってそのエネルギーを写真に映すことが不完全ながら出来るようになった。

オーラは肉眼では見ることが出来ない霊的な色彩光である。私達の叡智はその霊的な色彩光を感知して人格や人の雰囲気として解釈している。人の印象、雰囲気、気が合う合わないは、叡智が知覚しているだ。類は類を呼ぶの喩えではないが、同質なものの中では居心地が良い。一方、カルマは条件が整うと解消されるべく現れてくる。解消されるために、都合の悪い人と出会わなければならないし、時には好きでない条件や嫌いな環境が与えられるのだ。条件や環境は誰かによって与えられるのではなく、自らがカルマの解消のために叡智が選択しているのである。時が来て条件が整えば、受け止めなければならないことは受け止めざるを得ないし、やらなければならないことはやらざるを得ないのです。

ジャイナ教哲学では魂をカルマ体が覆っていて、魂からの霊的放射はカルマ体を通過するときに善い悪いの霊的な色彩が付いて、それが電磁気的な身体、そして肉体へと広がってゆき肉体外部への霊的エネルギー放射となると考えられている。そのエネルギーには霊的色彩がついている。この内部から外部への霊的色彩光の放射をレーシャという。レーシャと云う概念を使うとカルマや人格、雰囲気など矛盾なく説明できる。又、外部から内部へと向かう反対のレーシャを使えば、その人の雰囲気と共に性格やカルマ云った潜在意識下のインプットを書き換えることが出来る。これを応用したのがレーシャ・ディヤーナであ
り、アヌプレクシャである。

カルマの改善、コントロールこそ仏教とジャイナ教が目指す修行であり、それが解脱への道である。仏陀は一瞬一瞬変化しつつ継続していく命はあるが、不変の魂は無いといった。命がカルマによって輪廻転生すると説明した。心を観ている叡智が命であるなら、命と魂は言葉の定義の問題で同じことを云っているのではないだろうか。瞑想している時に自分の身体や心、意識を観じているのは心ではなく叡智である。心で心を観ることは出来ない。カルマで汚れた不純な心を、叡智である純粋意識が観ることは出来る。叡智を命といえば命になるし魂といえば魂になる。カルマが清められて変化する不純な心が純粋になって消滅したとき魂の理想状態が現れる。「アカルマの道」は金鉱石を精錬して純金にする過程にも似ている。心を清らかにする方法の事を、「魂の汚れをとる」と表現したほうが多くの人々に解りやすい。不滅の魂があるかないかは古代から続く未決着の論争だ。正しい間違いの問題ではない。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/6/25からの転載です)

コラム[流れて時が過ぎれば]

他の人に接しその人を見る時、お金持ちを,お金持ちと見てはならない。又、貧乏人を見る時、貧乏人と見てはならない

健全なアスリートを見ても,健康だと見てはならないし、精神障害者を見ても, 精神障害者と見てはならない。

社会的地位の高い人、立派な人格者を見ても、地位の高い人、人格者と見てはならない。

幼子を見た時に, 幼子と見てはならないし、老人を見た時、老人だと見てはならない。
 
犯罪者を見た時犯罪者だとみてはならないし、有名人、善行者或いは英雄を見た時に、今ある姿だけを見てはならない。

この世に生まれた人で欠点の無い人はいないし、何も才能を有しない人もいない。
超の付く美人やイケメンはそれだけの才能で、姿形が美しくない人は沢山の才能を持っている。

女性は有る時男性だったし、男性は有る時女性になるだろう。地獄の住人が天界に生まれることもあるだろう。またその逆も。

今ある個性や才能、人格は一時的なものである。流れて時が過ぎれば、全ての人、全てのものは、違う場所で違うものになっているのである。

現在、人間として生まれてきた生命は、これまでに沢山の輪廻転生を経験してきた。その沢山の体験は霊体の中に書き込まれているのである。その書き込みを聖なる智慧と行動で消去すれば、原因の体としての幻のような霊体が無くなって、つまり霊魂の霊の部分が無くなって純粋なる魂だけになるのである。それが自己解放の悟りであり解脱である。何から解放されるのか特殊性、個別性の自己から解放されて共通性、普遍性になるのである。特殊性、個別性を生み出している汚れが無いから、生き物に生まれる原因がなくなって結果として輪廻から解脱するのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/8/31からの転載です)

コラム[真実の自分を観る ジーバ・魂霊の二重性を理解する]

真実の自分を観る ジーバ・魂霊の二重性を理解する

プレクシャ・メディテーションの始めに、毎回、
サンピッカ エーエー    アッパアー ガー    マッパエーエー ナンムー
と唱えますが、その意味は、自分自身を通して自分を観てください、そして真実の自分を観てくださいです。

 真実の自分とは何でしょうか?それは本当に実在している自分と云うことです。では、私たちが常日頃、自分自身だと感じている肉体や心は自分自身とは異なったものなのでしょうか。

 プレクシャ・メディテーションのアヌ・プレクシャの中に沈思黙考という瞑想法があります。沈思黙考は考える瞑想、智慧の瞑想とも言われ、古代ジャイナ教の出家僧は黙考の修行者と呼ばれていたようです。アーヤランガと云う最古の聖典では出家者をそのように表現しているので、その時代の瞑想は無思考型の瞑想ではなく、積極的に考える瞑想だったのでしょう。

 智慧の瞑想としてのアヌ・プレクシャには12種類の重要な対象がありますが、中でも①魂とは何か・生命体とは何か、②世界とは何か、③輪廻とカルマの関係について、はとても重要だったらしく多くの黙考修行者に考察されて、後年極めて緻密な哲学となっていったようです。

 宇宙は永遠の昔から5種の実在体によって構成されていて、創造神によって作られたものではないとしています。【5種の実在体については、細分化して詳述されているがここでは触れない】

 世界は大きく2つに別けてジーバと呼ばれる生命体(実在体の一つ)と、それ以外のジーバでないもの4種類の実在体で構成されていると考えられました。

 ジーバは宇宙の始まりの無い始まりから、終わりの無い終わりまで、無数にあって、純粋なるアートマンがカルマと云う物質の汚れと結びついたものだと考えられています。ジーバを日本語に訳せば霊魂です。本当は魂霊と訳すべきでしょう。

魂はジーバの本質部分で浄、不浄を超えた究極の清らかさです。それをシッダ・アートマンと呼ぶことがあります。

霊は清らかな魂にカルマの汚れが付いているレヴェルのことでジーバ・アートマンと云います。ジーバ・アートマンは特殊性、個性別になった魂霊(魂プラス霊)のことです。霊を別な言い方で云えば潜在意識であり、個性、人格、カルマが付着して汚れた魂です。又、霊は行為の結果のカルマが原因を包含している原因体であると同時に、カルマの報いを受けている現在の心身と生活とも云えます。だからジーバは因果律によって輪廻している魂だと云えるのです。このようにジーバは原因のカルマを作る行為の主体者であり、同時にカルマの結果を受ける享受者なのです。

 全てのジーバには感覚がある。その感覚が根本欲で苦楽であり好嫌です。好き嫌いが命を守っているのです。苦楽と好き嫌いが無ければジーバは生命体になれません。その好き嫌いが大元で様々なカルマが結びついて、カルマが原因でジーバは輪廻転生していると考えています。ジーバ・アートマンを特長付けるカルマとの結びつきにおいて、カルマは物質だと解されています。物質は時間とともに変化し一時的で生滅の形をとります。だからカルマで汚染された魂から汚れを取れば、魂(カルマ体、ジーバ)から物質のカルマが無くなって非物質の究極の浄としてのシッダ・アートマンになるのです。

 シッダ・アートマン(魂)は非物質で、常住で、その有るという状態(実在性)が消え失せないものです。ジーバの常住性と云う一面に注目すれば、それは普遍性であり共通性になります。純粋なるアートマンとしてジーバを観れば、それは無形体であり、解脱しているものであると云うことができます。これが、真実の自分、本当の自分です。

 プレクシャ・メディテーションをする究極の目的は、個性を形成しているカルマを全て取り除き、モークシャ(解脱)になることにあります。モークシャとは、もうジーバ・生命体に生まれないと云うことです。モークシャの状態を言葉で表現することは出来ませんが、概念としては全知全能、無限の自由、無限の歓喜、無限の平和に満たされている状態です。この状態になった魂をシッダと呼んでいます。

 ジーバではない非魂霊の四つの実在体の一つに虚空(アーカーサ)があります。虚空は他の四つの実在体に場所を与えています。虚空は一つしかない単一なもので、形が無く、活動力が無いと定義されています。また、虚空は世界と非世界を含んでいて二つを合わせて全宇宙と云います。非世界は世界の外側に広がっていて、カルマ物質の付着が無くなった魂は、軽くなって非世界に入るのだと説かれています。

 このような思想から、運命の造り主は自分自身である。世の中に起こっていることの全ては必然であって偶然に起こっていることは一つもない。自分が選択した行為の結果によって、全てのことが自分に起こるのだから、これこそが本当の自由の意味です。神様のような存在が人間をコントロールしているなら隷属であって自由は無いでしょう。自分自身が不自由に感じられるのはカルマの汚染によって縛られているからです。

 人間として生まれたジーバは尊いものだけど、全ての人間は生まれながらにして病人であり健康な人など誰もいないと思います。また、生まれながらにすでに精神障害者なのだと思います。なぜなら最大の病は輪廻転生病に罹っているからです。このことをマハービーラも仏陀も『苦』と観たのです。苦の消滅が解脱でありニルバーナです。仏陀はアートマン論者では無かったので、マハービーラのように魂に付着する物質的なカルマは想定しませんでした。カルマを精神的なものと解釈してそれを煩悩と言いました。仏教には唯物論者の一面があります。
ジャイナ教でも仏教の煩悩と同じ意味でカルマ体(霊体)のレベルにカシャーイがあります。

 魂に付着した悪いカルマと善いカルマ、全てのカルマを取り除くことはかなり困難で難しいことです。ジャイナ教の出家僧は現在でも完全にアカルマ(無業)になるために苦行をしています。

 私達は出家の身ではないから行為をしないことは不可能ですし、厳しく困難な苦行も無理です。世界の性質と魂とカルマの法則と輪廻転生の理屈をよく知って、自分を損ねるカルマを入れず、自分を助けるカルマを入れるように行動、行為していけば善いのだと思います。それが幸せの道であり、非暴力・無執着・平等・無差別・世界平和の道となると思っています。

 付記:アートマンやジーバ、魂などの形而上学的テーマを研究している学者達の論文を読んでいると、魂と霊を区別せず混同して記述しているので、とても理解しにくいです。スピリチュアルなことに言及している人の多くは、心と霊魂や感情の区別さえ出来ていないものも多く見かけます。これが宗教哲学の理解に混乱を生じさせています。正しい洞察力を得るために、今回私が書いたこの小論文『魂霊の二重性』を参考にしていただければ嬉しいです。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/7/30からの転載です)

コラム[洞察力を養いアカルマをめざすアヌ・プレクシャ]

プレクシャ・メディテーションの基本的な6種類の瞑想法ではないが、アヌ・プレクシャはマントラ・メディテーションと共に重要なプレクシャ・メディテーションのテクニックである。

アヌと云う言葉の意味は二つあって、一つが真実とか本当のことと云う意味であり、もう一つが何回も繰り返すと云う意味である。

沈思黙考・智慧の瞑想

 何が真実かを徹底的に考える沈思黙考型の瞑想は「智慧の瞑想」とも呼ばれている。ゴータマ・ブッダは菩提樹下で、無思考型の瞑想から離れて、考える「智慧の瞑想」によって、12縁起の悟りを得たと伝わっている。一生懸命、徹底的に論理的に考えれば考えることが瞑想になる。徹底的に考えれば内なる智慧が開かれる。その智慧によって洞察力が出てくるのである。
洞察力が出てこなければ、本当のことと嘘のことの見分けがつかない。正しいものの見方が出来なければ間違ったことをしてしまう。正しいものの見方、正見・正知の出発点が洞察力なのである。洞察力無くして正見は無いと思う。

自己暗示法・繰り返しの善い想いと言葉

 善い言葉と想いを繰り返せば潜在意識下に善いものが定着する。繰り返された行動は善いものも悪いものもやがては潜在意識に定着し、内なる深いレベルから我々の思考や行動に影響を及ぼすようになってくる。善い言葉等を繰り返し唱えるのは、潜在意識を変革するテクニックである。システムとして機能している内部の仕組みを変えない限り、私たちの人格の変容は期待できないと私は考える。その有効なテクニックの一つが繰り返しの言葉やマントラ、霊的色彩光による瞑想である。

洞察力の獲得・アヌプレクシャ

 ジャイナ教聖典に記述がある、12種類の真理に対する考察瞑想の対象の中で、最初に取り組まなければならない事は「無常」である。

 無常を理解することは洞察力を獲得する最も大事な基本である。全ての問題を解決するマスターキーであると云っても過言でない。物質的な現象世界は全てが変化する。一瞬一瞬大きな変化が起こっていると完全に身体を通して理解しなければならない。その上で変わるものと変わらないもの、非物質の究極のアートマンを理解しなければならない。究極の清らかさ、シッダ・アートマンと生命体として汚れたジーヴァ・アートマンの二面性のアートマンを理解しなければならない。

 アートマンの秘密が解ると潜在意識のカルマの秘密が解る。カルマの仕組みが解ると、なぜ生き物が輪廻転生しているかが解る。それらが解ると因果律が完全に理解できるようになり、智慧が起こって洞察力が出てくる。全ての生き物はアートマンのレヴェルで平等であり無差別であり自由であることを完全に理解する。平等、無差別観が確定して恐怖が無くなり平和になる。これが非暴力と云うことである。

 無常と云うことを本当に理解できれば、自分の身体を含めて何も所有出来ない、執着できないことが解る。そのことが心底解ると欲望が少なくなり、自己中心のエゴ的な心から離れる事ができる。
所有と執着が我々を不自由にしているのだから、無所有、無執着が解れば、自由感が増して欲望が少なくなり、怒りが減少して、他との争いが無くなる。怒りが無くなれば恐怖も無くなり非暴力、不殺生が実践できる。平和になる。

①無常についてしっかり理解できれば困難や不都合な事を耐え忍ぶ事ができる。どんなに辛いことも困難なことも悲しみも忍耐することができる。現象世界は全てが一時的で変化してしまうからである。無常の理解によって、時の流れを待つ事ができる忍耐力が出てくるのである。人生とは忍耐そのものである。善い事も悪い事も起こってくることの全てはカルマに関係しているのである。忍耐はまた、アパリグラハ(無所有、無執着)、アヒンサー(非暴力、不殺生)の基礎でもある。忍耐によって平和になる。

②無常の次なるアヌプレクシャの対象は、魂(アートマン)とジーバ(生命体)、それから魂ではないものとジーバではないものを熟考する。

③ジーバはカルマに束縛されて無限に輪廻転生していることについて

④輪廻転生に於ける、自分の行為に対する自己責任が、自己救済の唯一の道であることについて

⑤魂について、魂は非物質であること、魂以外のもの(身体や心など)と違っていること

⑥カルマの流入、カルマによる束縛、カルマ流入の防止、カルマの根絶について

⑦世界の性質とは

⑧正しい信仰、正見、正しい行為、その認識の難しさについて

⑨ティールタンカラによって語られた、解脱への正しい道への基本原理について

以上のことを対象にアヌプレクシャすれば、やがて内なる智慧の扉が開き洞察力が出てくる。
その洞察力が自分に起こってくるあらゆる問題を解決するマスターキーになり、モークシャに続いている道なのだと思っている。プレクシャ・メディテーションはそうした哲学を包含する優れた瞑想法なのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/6/28からの転載です)

コラム[ジャイナ教の特徴は魂とカルマの詳細な説明]

近世ヨーロッパでジャイナ教哲学が研究され始めた時、ジャイナ教は仏教の一つの分派であると考えられた。それほどジャイナ教と仏教の教義が類似していたのである。今ではジャイナ教と仏教は別の宗教であると確定している。しかし、修行法も開祖の生い立ちや境遇、宗教が成立した時代背景などに共通点が多く、兄弟宗教と考えられている。

ジャイナ教と仏教の根本的な共通点は何であるのか。

 初期仏教とジャイナ教の共通点は、生きとし生けるものは生滅を繰り返し輪廻転生していて、生存そのものを苦しみであると解釈した。人間はその生存の苦しみになっている輪廻から離脱して理想の状態(涅槃・モークシャ・解脱)を目指すべきであると教説している。

では、何処が根本的に異なっているのか。

 それはアートマン(魂霊)の解釈の違いである。マハヴィーラはアートマンについて克明に説いて輪廻からの解脱を教えた。一方、仏陀は実用現実主義、唯物主義的観点に立ち、実在を証明できないから、アートマンについて説明を避けて涅槃を説いた。アートマンを説明すると極端な非暴力主義に陥り、人間生活が非現実的で不便になると云う理屈からであった。仏陀の時代、ジャイナ教はニガンタ宗と呼ばれ裸形派(ディガンバラ)だけだった。仏陀はニガンタの修行者を見て、極端な苦行で自虐することに疑問を抱き中道を唱えたのである。

 マハーヴィーラは現象世界、自然界を徹底観察し、思考の上に思考を重ねる論理的思想家であった。彼は物質的なものだけではこの世の中を完璧に説明できないとして、非物質的な物の見方を加えて解脱を説いたのである。彼は理想主義者、厳格主義者、非唯物論者だったと私は考えている。マハヴィーラは以前から有った自我説(アートマン)とカルマ論を発達させ精緻なものにした。その結果としてジャイナ教は不殺生・非暴力、無所有・無執着の厳しい修行体系となっていったのだと思う。

 ジャイナ教聖典の中で、最も古代のものであるとされる聖典に『アーヤーランガ』がある。
この聖典は幸いなる方、バガヴァン・マハヴィーラの弟子であるスハンマ (50歳でマハヴィーラとの論争に敗れて弟子となり、80歳まで師と共に過ごし、92歳で一切智者となり、100歳でモークシャに入った。) が、直弟子のジャンブー (マハヴィーラがモークシャになった64年後に一切智者になった) に語った記録である。
 この聖典はマハヴィーラが出家修行者の為に向けて語ったものであって、在家に向けられたものではないと云う特徴がある。

その中の第1章、第3節の3に次のような記述がある。

みずから、世間を決して誣いるべきではない。アートマンを決して誣いるべきではない。
世間を誣いるものはアートマンを誣いる。アートマンを誣いるものは世間を誣いる。

と語っている。

◆世間は世の中と云う意味で、誣いるという言葉は事実と違うことを云ったり、事実を曲げて人に話すことである。マハーヴィーラはこの様にアートマンの考え方を大事にしていたことが伺える。

 アートマンの哲学はマハヴィーラよりも100年以上古い時代に既にインドでは知られていた。ヤージュニヤ・ヴァルキヤはバラモン教の思想家であったが、アートマンはこの世界の外側別次元に属し、輪廻転生の原動力はカルマであると説いている。輪廻転生思想と瞑想修行はインダス文明まで遡るとされ、インド先住民族ドラヴィダ人に伝承されていた。ドラヴィダ人の宗教はシュラマナ系の流れと云われ、その中から、BC6世紀、ジャイナ教と仏教がほぼ同時代に起こったのである。時代は少し遡るが、バラモン系宗教とシュラマナ系宗教の思想的、修行的な合流があって、BC8世紀ごろ、インドの宗教思想の核心、解脱思想が起こったのである。

 解脱とは輪廻転生からの離脱である。カルマを無くすことによって、輪廻転生は止まるとその時代の人々は考えた。

 仏陀は従来から一般に信じられていたアートマンに対する信仰に疑問を抱き、アートマンに言及せず、縁起論(カルマ論)と輪廻転生からの涅槃を説いた。仏陀の菩提樹下での、考える瞑想の悟りは『12縁起』として知られている。「これがあれば、これがある。これが生ずれば、これが生ずる。これが無ければ、これが無い。これが滅すれば、これが滅する。」順にたどっていって、出発点にあるのが無明だと気付いた。無明が滅すれば、輪廻も滅すると解釈したのである。無明と云うのは、いろいろな欲望の基であり、言葉を変えるなら、苦楽の感覚、そして好き嫌いの感情の大元である。生きていたい、永く健康でいたいと云う命の働きの中にインプットされた根本的な生存欲である。これを無知と云い、渇愛と呼び、ほとんど制御できないから無明と云った。初期仏教の涅槃は無明を滅することだったから、ことさらアートマンやカルマについて詳しく説明しなくても済んだのだと思う。

 一方、マハヴィーラはアートマンを説き、全ての生きとし生ける物はアートマンのレヴェルで平等であり、無差別であり、輪廻転生の中で親兄弟であり、友であると説いた。生き物たちは生きたくて生きていて死にたくないし、いじめられるのは嫌なのだから、決して他に対して暴力をふるったり、殺してはならないとした。ジャイナ教は不殺生・非暴力、無所有・無執着の宗教である。仏教にもそのような教えがあるがジャイナ教はそれらが徹底している。魂の哲学を発展させ強調すると人間生活が不便になるきらいがある。仏陀は人間生活に不便であり、現実的ではないアートマンに対する考え方を避けたのだと私は推察する。

 ジャイナ教はマハヴィーラ以降もアートマンの哲学とカルマ論を発達させていった。特にジャイナ教の修行はいかにアートマンから物質的なカルマの染着を取り除いていって、純粋になるかに絞られるようになった。

 ジャイナ教のカルマは素粒子のような超微細な物質である。超純粋なるアートマンにカルマが付着するとジーバと呼ばれる生命体になる。その生命体は行為することによって微細なバイブレーションが起こり、それに、部質的なカルマが引き寄せられて流入・アースラヴァが起こる。カルマのアースラヴァによって魂(アートマン)は束縛・バンダされる。束縛を受けて不自由になり自己を見失いカルマによってコントロールされる。魂の本質は無限の自由であり、歓喜にあふれ全知全能であるが、束縛によってそれらが覆い隠されて誤解と迷いと苦しみの人生になる。

 ジャイナ教修行と云うのは、そのカルマの流入を防止・サンバァラして、蓄積されているカルマは解放・ニルジャーラして完全なるアカルマ・無業を目指すものである。
 解放・ニルジャーラは残存するカルマを除去するには苦行と禁欲によって可能であるとしている。ジャイナ教の極端と思える苦行や禁欲主義、厳しい戒律はこのようにして出来上がってきたのである。
 ジャイナ教の解脱、モークシャは全知全能、完全なる自由、歓喜に溢れている。究極の清らかさである。仏教の涅槃、ニルバーナは蠟燭の火を吹き消すように何も残らない。虚無的である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/5/29からの転載です)

コラム[人間は弱みを突かれると騙されやすい]

現代はネット通販での物品購入が盛んである。ウェブ上には沢山の広告が溢れている。世の中のほとんど全ての商品をスマホやパソコンで検索し、購入できると云っても過言でない。

商品を売りたい方からすれば、いかに上手に消費者の購買意欲に訴えるか智慧を絞っている。広告が上手であれば、価値に乏しい物も高くよく売れる。

ネット通販で商品を購入して、イメージした物と、届いた実物が大きく違っていて、失敗したと思った人も多いだろう。また逆にネットオークションで、とても素晴らしい物を安価に入手して喜ぶ人もいるでしょう。

なぜこのようなことが起こるのかは、ウェブ上では視覚を中心にした画像と文字情報が主であるからだ。そこには、触覚による情報が無い。触覚を欠いた情報はバーチャルであると云えるだろう。そこには体験が欠けている。生き物の根源的な感覚器官は触覚である。触覚が備わっていない生き物は、物質的なこの世には存在しない。触覚の大切さをもう一度しっかり思い起こしてほしいと思う。

私はここ2-3年、視力が衰えて老眼も進んだ。読書が今の私の最大の愉しみなのだけれど、大きめの虫眼鏡を使って、小さな文字を読んでいる。不便極まりない日常である。今や視力の衰えは私の最大の弱点になった。

その弱点を上手に突かれた。ドウー・アクティブという老眼鏡がある。左右のレンズが二重になっていて、フレームに付いている調整ねじを回すことで、前のレンズが左右にスライドし焦点が適正に調整されるものである。「なるほど、うまいことを考えたものだな」と思ってネットで注文した。

ネットでしか買えない視力を改善するというサプリメントを注文して、試してみた。しばらく続けたが何の効果も現われなかったので、「もう、ネットで買い物は止めよう」と思ったはずなのに、「これは」と期待してしまったのだ。

届いた商品の老眼鏡の性能に嘘は無かった。使い方の問題、商品に対する期待感の問題だった。購入前に衣類を試着するように、体験出来ればよかった。返品も出来たが面倒だったので、今後の教訓にしようと考えて返品しないことにした。

老眼鏡購入で失敗した数日後、ビル風に煽られで、10年ほど大事に使ってきた70センチの雨傘が壊れてしまった。ネット通販はこりごりしたので、銀座の松屋に出かけて実物を見て、手で触り納得できるものを買い求めた。値段はネットで買う通常の物より、2倍も高価だった。慌てて行動すると、注意深さに欠けて間違えることが多い。便利さとスピードと安価さはネット通販業者の武器であるが、その利便性が逆に我々の弱点を示しているのである。

似たようなことで、特殊詐欺の被害者になる人は、その人の弱点を詐欺師に突かれるからだと思う。気になっていた宗教的な詐欺まがいも同様にして起こってくることに気付いた。

仏陀やジナ(マハーヴィーラ)の教えは本来、完全な自力であった。自力と云うのは全てが自己責任ですよ、と意味している。しかし、大乗仏教はヒンドゥー教の成立を受けて、その他力主義を取り入れて変化したものであり、仏陀が提唱した仏教ではない。後世のジャイナ教でも、ある一派ではジナの偶像を崇拝し、寺院を作るように変化した。

大乗仏教では救い救われを説き、衆生に対する慈悲である菩薩行を強調する。出家も在家も菩薩行を実践する人は慈悲としての救いに邁進する。一方で心身に悩み、苦しむ衆生は、それに対して救われを求める。救われたいと云う需要があるから、救い手が現われてくる。相互依存の関係になっている。騙されたい人がいるから、騙し手が現われる。これも相互依存であると云える。

私は弱者と自己責任感の少ない人は別けて考えるべきと思う。弱者は助けなければならない。怠け者や自己責任感に欠ける人に対しては救いではなく、教育が必要なのだと思う。二宮金次郎は慈悲をそのように別けて実行した。弱者と怠け心の無責任者を混同して助けようとするから、嘘ではないけれど、本当ではないことが必要になってくるのではないかと考える。そこには救い手側の都合や欲も含まれていると考える。自己責任が強い人は、救いを求めない。救いを求める依頼心の強い人は、責任を他に転化しがちな人だと私は考える。

「依頼心はエゴイズムと共に世の中を悪くしている根本原因だ。」と沖正弘先生も言及している。いらないところまで、救い救われ理論を持ち込むから騙した騙されたのような詐欺まがいの問題が起こっているのではないかと考える。肉体の病気治療もヒーリングも効果は一時的なものだと考えるべきである。根本的な解決法は別の所に有るからだ。問題が起こる根本原因は救い手と救われ手の相互間でのもっと、もっと、もっと、と云う渇愛(根本欲)に起因しているのだと思う。そこを解決しなさいと仏陀が説いています。

大乗仏教では仏道に易行道と難行道があるとして、自力道である難行を廃して、救い救われの道である易行、つまり他力を勧めた。本当に価値あるものが簡単に手に入るはずがない。このことは少し考えれば道理に合わないとすぐ解るだろう。楽な事、簡単なことの概念に、自分の欲と期待が引っかかると体験に乏しい人は騙されてしまうのである。騙されたい人が欲を持っているから、騙す方はそれを上手に利用する。

【救われたい人間の欲】
仏陀の時代から過去仏と未来仏という考え方があった。釈迦牟尼仏陀は入滅したので未来仏としての弥勒如来が生まれるまでは、仏のいない時代となる。それでは人間は救われない時代なので困るではないか、と云うことで現代仏が求められた。

【救い手の対応】
その要請に答えるように、造り出されたのが現代仏としての数々の如来や菩薩である。代表的なものが観音菩薩、地蔵菩薩である。大無量寿経に記された法蔵菩薩の大願、西方極楽世界の阿弥陀仏。東方浄瑠璃世界の薬師如来。維摩経に出てくる妙義国のアシュク如来。華厳世界の毘盧遮那仏。おとぎ話のような壮大な物語として現在仏のいます世界と架空の仏が造り出されたのである。 

【更なる対応とその理論】
方便はその時代の人が救いを求める人々の解決策として、作られた理論、理窟である。小さな嘘は直ぐバレル。大きな嘘は検証しようがない、信ずるか信じないかになってしまう。方便は嘘ではないけど本当ではない。厳密にいえば本当でなければ嘘なのである。方便によって救われるのであれば、それは騙したということではなく、助けたということである。その理屈は助けた方の言い訳ともとれる。本当に必要性があったか検証されなければならないと思う。方便と云うのは真理に近づくために、その人のレヴェルに必要に合わせた処方箋みたいなものである。善い方便もあるが、私たち一人一人は方便を超えて真理を探す旅を継続すべきと考える。それが自力の道である。私は他力は人の精神性を高める効果として乏しいのではないかと考えている。

方便によって救われるためには、その物語が真実真理だと信じて塵ほどの疑いを持ってはならないと云うのである。仏教用語で疑蓋と云うのは、99%信じていても救われない、100%信じないとだめだという。法蔵菩薩が全ての衆生の悟りの後、誓願が成就して悟りの本願を成就したのだから、全ての人間は既に悟っている。だから『南無阿弥陀仏』と唱えれば誰でも救われる。「そうであるなら疑っている人は救われないと云うのは、二枚舌で矛盾ではないのか。」「信じていない人も悪人も極楽往生できるのですから。既に全ての衆生は救われているのでしょう。」 人間はもともと悟っていた、救われていた。なのに、好んで遊戯の旅に出た。遊戯の旅に飽きたら、もとの真実に戻りたくなるだろう。それが、南無阿弥陀仏だよ。「それなら、理屈っぽい私にも理解できる。だけど、そのような説明は聞いたことが無い。」真実の内なる自己を探求していけば、外なる何者かに頼ることは無くなるだろう。頼れるものは自分自身だけであると云う考え方を私は支持する。でなければ、自由は無いことになる。救いを求める人に対して、ただ救うのではなく、他に頼ることなく自分自身で問題を解決する方法を教えるべきである。それが真の菩薩道であると思う。

【大乗仏教も真理、智慧を説いている】
私は大乗仏教が真理ではないと云うのではない。真理を説いている事も沢山ある。私は大乗仏教全ての宗祖であるとされる龍樹を尊敬している。龍樹が『中論』で説く空の教えの信奉者でもある。空の教えは仏陀の無常、縁起論を発達させたものである。龍樹は説く、この世・現象物質世界に固定不変の実体はない。この世の全てのことは原因と御縁が結びついて起こっている。それを『空』と云う。

不生不滅、不常不断、不一不異、不来不出。

生ずることもなく、滅することもない。常に変化しているが途切れることなく続いている。前後として同じではないが全く違うわけでもない。来ることもなければ去ることもない、と空を説明している。龍樹にとって空の説明はアートマンの説明でもあった。

常に変化しているが、途切れるんことなく続いている。とは常見でもなければ、断見でもないということである。常見は不変の実体であるアートマンがあるということ、断見は全てのものは存在しない、死んだら無になって終わることである。空は無ではないというのが龍樹の教えである。空は輪廻転生を否定しているのではない。

【注記】
ここで言うアートマンは汚染されたアートマンと究極浄のアートマンを別けて説明していないから理解が難しい。

変化するアートマンをジーヴァ・アートマンと云う。大乗仏教瑜伽行派のヴァスバンドウはジャイナ教のジーヴァ・アトマンを阿頼耶識と説明している。別けることは出来ないけれど変化しない普遍的なアートマンの一側面をシッダ・アートマンと云う。

大乗系のあるグループは龍樹は自力では悟れなかった、絶対他力で救われたのである、とグループの理屈に合うように主張している。外道を含めて当時の宗教全てを探求し、深い思索を繰り返し、論理的に矛盾なく考察した龍樹ともあろう人が、完全他力によって救われた等と云う話を私は信じがたいのである。大乗仏教は非常に難解である。私にもまだまだ理解できない理論・理屈が多い。

沖正弘先生は「信ずるな、疑うな、確かめよ」と説かれた。私は「信ずる前に疑って、熟考して間違えが無いか確かめて、最後に自分に必要なら受け入れなさい。」と教えたい。宗教を只、盲目的に信じてはならない。でないと、「カルトや宗教的な詐欺に騙されるよ。」「宗教がどうして必要なのかが正しく理解できないよ。」と云いたい。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/4/29からの転載です)

 

コラム[動きを止める、動きが止まる]

宇宙に動きを生みだす力はプラスとマイナスという相反する性質を持った電磁気的エネルギーである。プラスとマイナスは2つで1セットになっている。そこに引合う力と反発する力が生まれ動きが起こる。陰と陽、暗い・明るい、重い・軽い、濃厚・希薄、寒い・暑い、上下、左右、高低、求心・遠心、ねばり・さらさら、等はプラスとマイナスが形を変えて宇宙に普遍的に起こっている働きである。拮抗する二つの性質が大きければ大きいほど動きは急速で激しいものとなる。これが宇宙に働いている力で瞬時も止まることはない。もし宇宙が動きを止める瞬間が有るとすれば、拮抗する二つの性質が完全に一方の性質になりきった時か、拮抗が無くなって均一化した時だと思う。万物はエネルギーで出来ていて、エネルギーは不滅である。形が変わるだけである。原子の中に電磁気的な力が働いていて電子は超スピードで動いている。あらゆる物が動き変化しているのが宇宙の本質である。

私達が生まれると云うことは、ダイナミックに動いている宇宙空間に放り出されることだと云える。呼吸が始まる。吸う息、吐く息の二つの相反する力が生命の成長、躍動を生みだす。私達は生まれてから死ぬまで呼吸し続けなければならない。同時に動き続けなければならない。呼吸を止めたり、身体の動きを止めると大変な苦痛がやってくる。体勢は常に変化させてバランスさせなければ苦痛がやって来て、じっとしていることなど出来ないのだ。なのに、過去の悟りを開いたシイダである先哲は「瞑想とは動きを止めることである」と云う。生きていて死んだように呼吸を微かにし、体の動きを止め、体の中の流れを鎮めることが瞑想だと云う。

多くの人が瞑想したくないのは、止めること、動かないことが苦痛だからだ。自由に動きたいことは生き物達の願いでもある。動物は何かに縛り付けられたり、閉じ込められたりするのは苦痛以外の何物でもない。罪びとを監獄に収監するのはそういう意味があるのだ。瞑想に対して嫌悪感のようなものを感じてしまうのは、動かないことに対する恐怖があるからだと思う。人々がスポーツやダンスに熱狂するのは動くことが快感だからだ。多くの人は快楽をもたらす動く事に興味惹かれ、苦痛をもたらすじっとしていることを厭う。

私達は病気や痛みを悪いものだと思っている。しかし良く考えてほしい、病気や痛みが無かったなら、私達は自分の命を継続させることは出来ない。病気や痛みは内在していたものが消えようとして外に現象になって現れたものだ。病気や痛みは変化する、変化するものは動いている、動いているものは本来存在していないものである。それを空と云い無とも云う。見方を変えれば痛みが宝であり、薬であり、病気は神様からのプレゼントなのだ。

瞑想のとき、初心者は1時間じっと座ることは苦痛で難しい。動かず座っていることが難しいので、瞑想は自分に向いていないと考えて挫折する人も多い。2時間じっと座ることが出来たら1時間座ることはなんでもない。そして1時間快適に座れて体の中の様々な流れや動きを観察できるようになれば、そこから快楽や喜びが生まれてくる。体を止めている時の快楽や喜びは、体を動かしている時の快楽や喜びの十倍、百倍にもなる。その事が理解出来たら新しい自分に生まれ変わる。

ヨガの様々な座法や身体的訓練は、長時間体をじっと動かさずにいられる安楽な身体を作ることに役立つものだ。カヨーウッサグ(完全なる身体のリラクゼーション)も身体をじっと動かさないようにするための瞑想の前提条件である。

身体の動きを止めること、呼吸を微かにすることが大きな快楽と喜びをもたらすのだと解れば多くの人がもっと瞑想が好きになるだろう。

宇宙も身体も止まることなく動いている。身体を完全に止めることなど出来ない。しかし身体の表面的な動きを止めて内的な動きや流れを知覚していくにつれ内的な流れや動きが鎮まっていき、動きや流れが止まったように観じられる瞬間がやってくる。極めてクリヤーで果てしなく広がり、方向も位置もなく、観じようとしている自分が一点になり、知覚する対象、観じていた対象が無くなってしまう。そんな時、静かな喜びと至福感に満たされる。止まるということの意味は苦痛でなく大いなる喜びでもあり快楽をはるかに凌駕していると理解される。身体の動きを止めることは苦痛ではないとの理解が、モクシャ(涅槃)、ニルバーナ(寂静)と云う目的地に向かっての長い旅の一里塚になっている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/5/25からの転載です)