自己探求に偏りしすぎると宗教は理想主義の傾向が強くなり、社会救済を重視すると宗教は現実主義、実用主義化する。宗教の理想は理想主義と現実主義がフィフティ、フィフティに調和されたものが私は望ましい宗教だと考えている。自己探求とは皮膚の内側に深く潜っていって真実の自己を見つけることである。それがメディテーション(瞑想)である。瞑想によって「自分だと思っていたことが自分ではないとわかる」。真実の自己は神であるとの悟りを得ることができる。社会救済は愛、慈悲、菩薩行の実践である。社会救済は皮膚の外側に自己を拡大していく行為であるということができる。社会救済、菩薩行、奉仕行によって「自分ではないと思っていたことが全て自分だとわかる」。菩薩行の実践によって、全てのものとの融合、宇宙との合一、神との合一が達成される。 沖正弘先生はそのことを真智聖愛と言った。真智が自己探求、聖愛が菩薩行、二つ合わせたものが沖ヨガ行法でそれを冥想行法と呼んだ。自己探求だけの意味の瞑想でなく、沖ヨガは社会救済を含む意味の冥想行法と表現して両者を区別したのである。
2600年前のインドは多くの出家僧が瞑想と苦行に取り組んでいた。当時のシュラマナ系宗教は自己探求とカルマの解消、輪廻からの離脱にばかり目が向いて理想主義、厳格主義に傾いていた。そのシュラマナ系宗教に対し、実用主義、現実主義をとってシュラマナ系宗教を改革したのが仏陀だと私は考えている。仏陀が現実主義(中道の教え)をとったため、厳しかった戒律が、後に仏教徒によってだんだん戒律の数が増えていったのに反比例して安易なものになってしまった。古代のシュラマナ系宗教の姿を今にとどめるジャイナ教は、魂の存在を認め、非暴力、不殺生、無所有、無執着の戒律を、不合理でも現実離れしていても何が何でも変更せずに堅持した。ジャイナ教が理想主義で仏教が現実主義といってもよい。どちらが優れているかという問題ではなく、どちらをより重視しているかの違いなのだ。
ヨガの部門は72部門あると言われている。その中で主要なものはバガバッドギータに説かれているジュニヤーナヨガ、カルマヨガ、バクティヨガである。バクティヨガは信仰のヨガで全てに神を見ることで救い、救われを目指している。ジュニヤーナヨガは自己探求の瞑想ヨガであり、カルマヨガが生活や仕事を通じて社会救済をする菩薩行ヨガである。
カルマヨガとは何か、カルマとは日本語で業という意味である。業とは因縁果のことであり因果律のことをいう。全てのものごとには起こってくる原因があり、原因と縁なくして結果はおこらないという考え方のことをいう。幸せになりたかったら幸せになるための行為をしなさいという実践である。それが社会奉仕行、社会救済行である。仕事を通じ生活を通じて世のため人のためになる奉仕行の実践がカルマヨガである。カルマヨガを実践したカルマヨギを思うとき、私の頭に真っ先に思い浮かぶのは日本の偉大なるカルマヨギ・二宮金次郎である。江戸時代後期から幕末にかけて日本はキラ星のごとく幾多の精神性の高い人々を輩出した。武士階級だけでなく庶民階級からも優れた人物が現れた。心学という道徳を教えた石田梅岩であり、船乗りの高田屋嘉兵衛や百姓出の二宮金次郎もその一人である。
キリストや仏陀、親鸞、道元などすぐれた宗教的指導者になった人は、子供のころ父や母を亡くした例が多い。江戸時代後期小田原藩の百姓として生まれた二宮金次郎も14歳で父を亡くし、16歳で母を亡くし、貧困という苦難に直面している。そうした困難の中から世のため人のためになるという覚悟が生じてきたのだから菩薩の出現と言ってもよい。金次郎は一般的に思想家、道徳家、農村指導者というイメージで見られているが、大実業家であり現実的な商人、大政治家、社会革命家などの側面をもっていて、一言では表現できない偉大な人物である。身分制度が厳しかった江戸時代、百姓から武士に取り立てられ、財政難に窮した各藩の改革を任せられ、それを見事にやり遂げていることに驚き
を禁じ得ない。
私が小学生だった時代、浦安小学校にも薪を背負って読書しながら歩く二宮金次郎の石像が校庭の片隅にあった。努力と勤勉という道徳を教えていたのである。二宮金次郎は理屈でなく実践で社会を向上させ多くの人々を幸せにした。金次郎は徹底的な現実主義者、実用主義者だった。自然を良く観察し自然から学び自分の体験を通して自分の思想を作り上げた人だった。私が金次郎を偉大なるカルマヨギであるとする根拠は、日々の生活と実践を通じて無私の立場で社会貢献をなした点を評価している。彼が亡くなった時、家も土地もお金も残さなかった。すべてを他に捧げたのである。他に譲ることを金次郎は推譲(スイジョウ)といった。金次郎の教えを要約すると、天地自然の恵み、社会の恩恵、父母祖先のおかげに報いるために徳行、報恩、感謝、積善をもってする実践の道であるといえる。人間が働くのは、ただ自分の為に働くのではなく、他の命のために働かねばならぬということであり、これを金次郎は「報徳」といった。私が金次郎を素晴らしいと思うのは、人間の道と天の道は違うと説いていることにある。「天の道は自然法則だから稲や雑草に善悪はない。自然法則だけに任せると荒地になってしまう。人の道は自然法則に従うけれども雑草を悪とし、稲や麦を善とする。人間にとって便利なものが善、不便なものが悪と考える。この点で天の道(自然法則)と人間の正しい生き方は少し違う。人の道は天の道に任せておくとたちまち廃れてしまう、行われなくなってしまう。」自然法則に従うだけの理想主義ではなく、あくまで人間の生き方を現実主義、実用主義としてとらえているのである。
金次郎は小さなことをこつこつ積み上げることを大事にした「積小為大の理法」。金次郎は善悪、強弱、遠近、貧富、苦楽、禍福、寒暑など互いに対立しているものを一つの円の中に入れ、常に総合的に物事を判断していた。因果律を重視して積善を唱えた。万物は一つも同じところに止まっておらず、四季が循環するのと同じで陰極まれば一陽来復、厳冬だからこそもうすぐ春がそこに来ているのだと苦難に悩んでいる人を鼓舞した。天地の間で万物の道理は皆同じである。善の種を撒いて悪の実がなることはない。悪の実がなったのは悪の種を撒いたからである。困窮はその人自身の因果の上に成り立っている。他から救助の手をさしのべる方法はない。本人の気づきが大事といった。本人がそのことに気づくようにして、それに気づけば惜しげもなく援助の手をさしのべたのである。
日本が生んだ偉大なるカルマヨギ・二宮金次郎のことをもう少し知りたい人は、三戸岡道夫著『二宮金次郎の一生』(平成14年6月、栄光出版社刊)、及び現代語抄訳『二宮翁夜話』(2005年2月、PHP研究所刊)を読まれることを勧めます。