コラム:火とは何か

火とは何かについてアヌプレクシャした。火について考察するとき私の脳裏に
まっさきに思い浮かぶのは焚火である。今の若い世代や私の孫たちは焚火の経
験が少ないか全くないといってよい。また、どのように薪を燃やすのか、その
技術を知らない。私は若いころ、北関東から東北北部の白神山地まで未知なる
渓谷を求めて沢登りに熱中した時期がある。道のない山を渓谷伝いに登るとき、
渓畔での野宿の友は焚火であった。山での焚火は調理のための燃料であり、体
を温めるための暖房であったが、それ以上に心の安心や暗闇を照らし、友との
語らいを引きだしてくれる媒体であった。薪を刈るための山道具として私は秋
田県角館の喜一鍛冶に特別注文の鉈を作らせたほど、渓流歩きと焚火の達人に
なった。

南アルプス北部の白岩岳に8月に登った時のこと、滝もない登りやすい門口沢
を登り予定より早く白岩岳に登頂し、前小屋沢に下った。登行記録のなかった
前小屋沢は、登りの時の門口沢とは全く違って険しい谷だった。下山途中で不
運にも雨になった。我々3人は誰も雨を予期していなかったので雨具を持って
いなかった。雨に打たれて全身びしょ濡れになった。雨に打たれているので下
山を急いだが夕暮れ時、どうにもならない大きく高い滝に遭遇した。無理して
滝を下降して滑落したら命にかかわる。3人で協議して滝の落ち口の安全な場
所でビバーグすることにした。我々は日帰りでベースキャンプまで降りてくる
予定だったので食料も持参していなかった。ひもじく、寒さに震えながらの長
い一夜を過ごした。遭難一歩手前の夏の夜が明けた。幸い雨が止み流木を集め
て焚火を盛大に起こし、濡れた衣服を乾かした。雨具や食料は持っていなかっ
たが、マッチと鉈だけはサブザックに入れていた。地図を焚きつけにして、火
を起こした。この時の焚火のありがたかったこと、一生の思い出である。

火を扱えるようになって人類はほんとうの意味で人類になれたのではないかと
私は思う。火は暗闇を照らす明かりであり、食物を食べやすくする煮炊きの燃
料であり、寒さから暖をとったり、獣から身を守るありがたいものとなった。
ホモサピエンスの登場以前、今から40~50万年以前、原人の時代から人類
はすでに日常的に焚火としての火を使っていた。

火を巧みに扱えるようになって初めて人類は文明を持つ余裕ができたと言える。
石炭や石油などの化石燃料が広く使われるようになる以前、人類史の長い間、
人間が火を作るための燃料は主に薪と炭であった。火は調理、照明、暖房、合
図として使われてきた。焚火で調理する方法として土器や金属器がなかったと
きには調理する物を串にさす、木の葉に包む、焼石を使う方法がとられた。火
を使うことが出来るようになって、食べることが困難だった豆や穀物、芋など
多くのものが食用可能となり農業が起こる礎となった。火を通すことで肉に付
着している寄生虫や病原菌を熱消毒できる利便性も得られた。

さらに火を扱うことに上達して土器が焼けるようになり、陶器や磁気まで焼け
るようになった。火が使えることで銅と錫を混ぜて青銅器をつくれるようにも
なった。文明とは火を上手に扱える技術のことだといえる。照明器具として菜
種油や魚油を燃やす行燈やランプが作り出され、化石燃料を安価に大量に扱え
るようになって、蒸気機関から自動車、航空機まで作れるようになった。さら
に現代ではエネルギー源として原子力や燃料電池、風力発電や太陽光まで火の
カテゴリーとして扱えるようになり、文明は加速度的に進歩発展している。

火という言葉の定義づけは、「熱と光を出す現象のこと」といえる。科学的に
は、「物質の燃焼に伴って発生する現象のこと」である。燃焼とは物質の急激
な酸化である。火が燃えるとき熱や光とともに様々な化学物質が生成される。
炎は煙が熱と光を持った状態になった気体の示す一形態である。それを科学的
にいうと、気体がイオン化してプラズマを生じている状態という。

火は大地の重力や引力、大気の対流や、湿度などとも関係している。ろうそく
の炎は炎心と内炎と外炎によって構成されている。最も明るいのは内炎である。
内炎では炭素(すす)が多く含まれていて不完全燃焼を起こしている。最も熱
いのは外炎で酸素と最も多く接している。ろうそくの炎の先端では1000℃
になっている。地球では火は地球独特の火の燃え方をしている。他の惑星では
火は違った燃え方をするだろう。宇宙船内部など無重力状態では対流が起きな
いので炎は球形になってしまうという。そして、完全燃焼するために青くなる
らしい。丸く燃える炎はゆっくり動かさないと消えてしまうらしい、丸く燃え
る炎の周りに発生した二酸化炭素が炎を包み込み酸素を遮断してしまうからで
ある。

火が燃え続けるには適正な温度と燃料と酸素の継続的な供給が必要となる。火
を消すにはその条件を奪えばよい。調理には炎が小さくて長くゆっくり燃える
小さな火が都合よい。燃えても炎が小さい炭はその点で使いやすく、灰をかけ
るなどの方法で燃料を長持ちさせることもできる。

火は人間に多大な恩恵を与えてくれる半面、時には大きな災いをもたらす。不
注意から家屋が火災で焼け、時には燃え広がって大火となり多くの家屋を焼き
尽くす。第二次世界大戦時、日本の主だった都会はB29による焼夷弾攻撃をう
け焼け野原となった。広島や長崎に落とされた原爆も人為的な火の大災害であ
る。火は善悪の両面がある。優しさと恐ろしさの両面を備えている不動明王の
ようだ。不動明王は体から火炎を放射した御姿をしている。それは究極的な火
の神像である。私の家の床の間には代々、慈覚大師が版木を彫って制作された
下総御瀧山の不動明王像の掛け軸が掛けられている。光背の炎は人間の血液で
彩色したものである。私はずっとこの掛け軸を見て育った。今でも毎日それを
見ている。

火は熱であり、光であり、エネルギーである。その根源、生まれたところは宇
宙の誕生とおなじ所である。今から138億年前、空間もなく、光も電波も物
質もなく、時間もない、点もないところにビックバンが起こった。天文学用語
でいう特異点から急激な膨張する動きを伴って宇宙は生まれた。なぜ急激な膨
張、天文学用語のインフレーションが起こったか?それは宇宙全体が急に加熱
された結果、急激に膨張が起こったのである。その熱は真の真空から現在の真
空に相転移することで想像を絶する高温が発生した。それが宇宙の誕生ビック
バンである。全ての元素やエネルギーや物質や星々や生物や火や水や風や地球
や我々一人ひとりの出発点がその特異点、ビックバンにある。

光も熱も火も、地球も大地も樹木も我々自身も、宇宙空間の膨張と共に時間が
始まり、時間の経過で継続する変化が起こり、その変化の中で最初の相転移の
熱が形を変えて今、このように違った形で違った場所に存在しているのである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/4月第70号からの転載です)

コラム:自分が自分の主人公になる

全ての人間が望んでいることは幸福になることである。幸福とは何だろうか?

幸福とは無限の愛に満たされることである。沢山の人を愛し、沢山の人から愛
されることである。そして、全てのものと一体になり、宇宙と合一することで
あると言える。幸福とはまた、自由自在を獲得することであり、全知全能を得
ることだと言える。自由自在で全知全能、そして無限の愛に満たされた状態に、
肉体をもって生きながら達成した聖者をジャイナ教ではアラハンという。アラ
ハンになることが我々人間に生まれた目的・目標なので、アラハンというマン
トラを唱えるのである。アラハンとは人間としての最高の状態であり、それを
達成した聖者は死んだ後、魂だけになってモークシャの世界に入り、二度と生
き物に生まれることはない。

モークシャの世界に入り輪廻の環から外れた純粋なる魂をシッダという。アラ
ハンのマントラを繰り返して唱えていくと、言葉の意味とかくありたいとの意
識が結び付いて潜在意識化する。潜在意識化した願いや思いはある種の周波数
をその人の周囲に放射するように働き始める。するとその周波数に応じて宇宙
空間にある目に見えない、音に聞こえないレベルのエネルギーが引き寄せられ
て、目に見えるものが形づくられ現れてくるのである。

私たちの潜在意識と強い思いは常に結果を出そうと周囲に周波数を出し続けて
いる。問題はどのような周波数を自分が放出しているかである。周波数に呼応
して条件が整えば、善いことも悪いことも、どんなことでも結果として起こり
うる。人間が自由に生きようとして自由に生きられない、誰かにコントロール
されているかのように感じるのは、潜在意識の働きを知らないからである。私
たちの背後で私たちを操っているものは偶然なる運命でもなければ、気まぐれ
な神の仕業でもない。私たちを操っているものはカルマと呼ばれる潜在意識で
ある。これをコントロールしない限り、自分で自分の医者になることもできな
ければ、自分が自分の主人公になることもできない。

ヨガの修行と訓練と方法は自己をいかにコントロールするかである。瞑想法が
ヨガに含まれているのはカルマのコントロールが最も大事だからである。

私たちの潜在意識下には善いものと悪いものを結果として引起こす、原因とし
てのカルマがごちゃごちゃと蓄積されている。原因は条件・環境が整うと結果
として現れてくる。自己の人生に善いことも悪いことも起こってくるのは、善
い原因と悪い原因が潜在意識下にあるからである。悪いことが自分に起きたと
き、悪いことだけが起きたのではない。善いことも同時に起きたのである。善
悪一如。つまり、悪いことが起こったということは、過去の行為の原因として
の悪いカルマが消滅したのである。結果が起こった時、過去の悪い原因は消滅
した、つまり過去が善くなったのである。原因が起こって消滅したので二度と
全く同様な結果は起こらない。同じように善いことが起こった時、善いことだ
けが起こったのではない、悪いことが同時に起こったのである。善いことが起
こったときは善い原因が消滅している。二度と全く同じ善いことはもう起こら
ない。貯金を使って減らしているようなものだ。幸せになりたかったら、未来
に貯金することである。今という一瞬に、悪いことを為さず善いことだけをす
る。いつもそのように意識し行動すれば、やがて悪い原因は出てい行って無く
なるか、変質するから潜在意識は善い原因だけになってしまう。善い原因だけ
になれば、善いことしか起こらなくなる。それが、最高の幸せと喜びの心の状
態、プラサード状態である。

善いこととは何か、それが般若心経などで言われている波羅蜜である。仏教で
は六波羅蜜という。波羅蜜とは本当の幸福に至る方法のことであり、六通りの
方法がある。どれか一つでも徹底して行えば、悟りにいたるという方法である。
私は六通り全部することが、自分が自分の主人公になる道だと思っている。六
波羅蜜とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若(智慧)の六種をいう。布施
波羅蜜とは他に親切にすることである。自分が持っていて他が持っていないも
の(体力、能力、知識技、技術、お金)を他に分かち与えることである。あら
ゆる社会奉仕救済行は布施である。持戒とは言行一致で行動し約束は必ず守る
ことである。忍辱とは忍耐のことで怒りの心を堪え忍ぶことである。精進とは
努力することそして努力を継続することである。一枚一枚日々の紙の積み重ね
が年月を重ねると分厚い積層になるように努力することといえる。禅定は瞑想
することを意味するのでなく、反省を意味する。後悔や悩みは感情であって反
省ではない。反省は原因と結果を分析することである。般若波羅蜜は優れた人
格を形成しようと努めることである。それには、因縁果の法則を知り、正しく
行動することである。また、今現在に最善を尽くすことでもある。般若の意味
は智慧ということであり、正しい生き方をするということでもある。

私たちの人生はカルマの鎖に縛られている。完全なる自由・モークシャへの道
のりは果てしなく長い。モークシャに入ることが難しくとも、私たちは幸福に
なることはできる。自分のカルマに気づき、カルマをコントロールすることが
その第一歩である。ジャイナ教も仏教も同じ教えであり『諸悪莫作、諸善奉行』
という。全ての悪いことを為さず、善いことだけをするということだ。それが
カルマを無くす道であり、心と魂を清らかにする方法であり、自分が自分の主
人公になる方法である。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/2月第69号からの転載です)

ご案内「インドツアー報告会&忘年会」

皆さま

今年も早いもので、師走も目の前に迫ってまいりました。

プレクシャ・インドツアーは大変充実した旅だったようです。

今年最後の西池袋のプレクシャクラスでは、坂本先生の瞑想クラス、合宿、インドツアーでご縁のあった方々と合同で忘年会をおこないます。

瞑想クラスとインドツアー報告会&忘年会の2部制とし、いつもより早めに瞑想クラスを行いますが、報告会と忘年会だけのご参加もOKですので、お時間にご都合のつくほうをお選びください。

なお、2部の会場はそのまま瞑想会場のHiraya・平舎で行います。

日程:12月20日(木)

時間:
18:00~19:00 瞑想 特別講座 参加費1000円
19:00~21:00 インドツアー報告会&忘年会

(インド・ベジお弁当 1000円~1500円程度、飲み物は各自持ち寄りでご持参ください。ソフトドリンクorアルコールなんでもOK)

1年を振り返りつつ、インドツアーのお話を伺ったり、親交を深めましょう。

ご参加をご希望の方は、担当:伊東真知子(machiko@kej.biglobe.ne.j)へ12月15日(土)までにご連絡をください。

皆様のご参加をお待ちしております。

日本プレクシャ・ディヤーナ協会のHPをリニューアルしました!

日本プレクシャ・ディヤーナ協会のHPをリニューアルしました!

今後順次過去のブログを新HPへ移行してまいります。

過去のブログを閲覧されたい方はこちらよりご覧ください。

コラム:虫たちのこと

プレクシャ・メディテーションの終わりに、「自分の内側に真実を探しましょう。
そして全ての生きもの達と仲良くしましょう。」と毎回唱えている。全ての生き
ものには当然害虫も含まれる。果たして私は害虫と仲良く出来るのか考えてみた。

家内も子供たちもあまり虫が好きでない。嫌いなので見ることも触ることも嫌が
る。私の家族は、子供が好きなカブトムシやトンボもあまり好きではないらしい。
私は子供のころから虫に親しんでいるのでどんな虫でも特に嫌いではない。ヤン
マやカブトムシ、玉虫、カミキリムシ、トノサマバッタなどは子供のころ良く捕
まえて遊んだので好きな虫である。子供のころ稲田でイナゴの大群をみた思い出
がある。沢山捕まえたイナゴをどうしたか覚えていないが佃煮にして食べたのか
もしれない。

小学生のころ夏の終わりに、ある日突然、家の周りに無数の赤とんぼが飛び回っ
ていた。母親に針に糸を通してもらって虫網で捕まえた赤とんぼを針糸に刺して、
赤とんぼのレイを作ったことがある。なんて残酷なと今の若者は思うだろう。私
が子供だった頃はおもちゃがない時代だったから、遊びも自分で工夫しなければ
ならなかった、虫たちは良い遊び相手だったのである。虫にしてみれば人間の子
供は天敵だっただろう。

昆虫と虫は厳密には違う。昆虫の定義は動物界に属し節足動物門、昆虫網に分類
される。節足動物門とは外骨格、つまり鎧のような固い外皮でその中に筋肉が詰
まっているものをいう。エビやカニやダンゴ虫のようなものを思い浮かべればよ
い。それに対し、脊椎動物は部分部分の中心に骨が通っていて、その周りに筋肉
がついているので、体のつくりが全く違う。昆虫は大まかに頭部と胸部と腹部で
体が出来ている。頭部は食べ物をとるための機能が集まっている。そこには目(
複眼と単眼)があり、触覚があり、咀嚼のための口や吸引器が付いている。胸部
は三節になっていて、そこに1対ずつ計6本の脚がある。腹部は10節に分かれて
いて、消化器や生殖、産卵、排泄の機能が詰まっている。昆虫の胸部には2対の
翅があって99パーセントの昆虫は飛ぶことができる。飛べない昆虫は少数派であ
る。また、昆虫の80パーセント以上が変態する。変態とは幼虫から繭の時期を
経て全く異なる成虫となる。完全変態(卵・幼虫・繭・成虫)繭(蛹)にならず
に成虫になるものを不完全変態という。蝉やトンボ、カメムシなどは不完全変態
である。蜘蛛は脚が8本で頭部と胸部が一体化しているので昆虫ではない。ムカ
デは各節に1対ずつ数十の足があるので昆虫ではない。その他にダンゴ虫、ヤス
デ、ダニ、サソリが昆虫でない虫である。

私も昆虫に含まれない虫はあまり好きではない。昆虫も2、3匹と少なければ不
快ではないけど大群になるととても不快感が起こる。季節感がはっきりしていて、
自然環境が豊かな只見は当然昆虫が多い。只見で毎年、大量発生して暮らしに影
響を与えているものにメジロアブとカメムシがいる。カメムシは卵から幼虫にな
り蛹や繭にならずにそのまま成虫になる。カメムシは夏に成虫になり、秋の晴れ
た日に越冬のために大挙して人家に入ってくる。壁や網戸の隙間から侵入して、
さらに押入れの中、布団や毛布などの隙間に潜り込む。本を取り出そうとすると
本棚の奥に数十匹のカメムシが身を寄せ合って潜んでいることもある。そのまま
にしておいても害を及ぼすことはないのだけれど、触ると臭いので、許せなくて
つい外へ掃きだしてしまう。カメムシは10月中旬ごろ人家に入り、越冬して5月
の中旬温かく晴れた日に戸外に飛び出していく生態をもっている。体力を使い切
って越冬できなかったものはカラカラに乾燥してミイラになって、ちょっと触れ
るだけで粉々になる。カメムシは危険を感じるととても臭い体液を放出する。カ
メムシの体液がちょっとでもかかると食べ物はまずくなってとても食べられたも
のではない。メジロアブは8月の中旬に水のきれいな渓流に大量に出現して、人
間をこまらせる。里にも出てきて噛みつかれるととても痛い。昆虫にたいして完
全なる非暴力を実践するなら、やはり、人間生活に多大な影響を及ぼす昆虫の生
息域に居住しないことである。また、害虫被害で困る農業にも従事しないことが
良いこととなる。魂の輪廻転生を信じるジャイナ教徒は何が何でも絶対に非暴力
を貫くことを義務づけられている。非暴力は不合理でも絶対的なものであり妥協
は全く許されず完全に履行されなければならないのである。昆虫を殺すことなど
もってのほか、いじめることすらしない。鳥インフルエンザに罹った鳥を全て殺
処分することなどジャイナ教徒には考えられないことなのだ。

昆虫は子孫を残すことだけが生きる目的である。そのために生まれて死ぬ。人間
のように脳が発達していないので、考えることなく、刺激と反応系が直接つなが
って行動している。体が小さいので重力の影響が少ないから、ハエなど敏捷なも
のや蚤などは跳躍能力に優れている。昆虫は生きている機械と言ってもよい存在
に思える。これから人間はさまざまな用途で昆虫型ロボットを作るに違いない。

カメムシを愛することが出来るようにと、いろいろ観察しているうちに、ふとあ
ることに気づいた。カメムシを上からよく見ると6角形の形に見える。そして昆
虫の脚が6脚だということが、バクテリア・ファージと呼ばれる細菌ウイルスの
姿に共通性があるのではないかと思った。

ウイルスは鉱物特有の結晶の側面があり、細胞がないので生物とはいいがたいが、
自己増殖するので一応生物としてみなされている。ウイルスの一種、バクテリア・
ファージは細菌に感染し菌体を溶かして増殖する。バクテリア・ファージは機械
的な6角形構造をしていて6脚の足がある。カメムシに良く似ている。カメムシ
は植物の栄養素をストローのような口で吸引しているが、バクテリア・ファージ
は脚のような尾部からRNAを細胞に注入する。侵入したRNA(リボ核酸)は細胞
内で自分のコピーをどんどん作り出す。作り出されたウイルスの構造物は外に飛
び出し、また別の細胞に侵入する。細菌ウイルスの6角形構造物は昆虫の外骨格
に極めて構造が似ているようにおもう。

ウイルスも昆虫も生きる目的は自分の遺伝子を存続させることだけである。ホモ
サピエンス・人類の歴史は16万年前からであるといわれる。人類は地上に?栄
し大都会を築き、今では地球は人類の惑星といった位置を占めているけれど、
地球が人類の惑星となったのはたかだか近、数百年に過ぎない。昆虫の出現は
4億年以上前のことである。植物が地上に進出した初期段階で昆虫が登場した
のだと思う。その時、宇宙空間から生命と鉱物の中間であるウイルスが胞子の
ように地上に降り注ぎ昆虫誕生に影響を及ぼしたのではないかと私は考えてい
る。鳥や翼竜よりもずっと以前、昆虫が地上の生き物として最初に空を飛行し
たのである。その飛行能力によって、広く生育域を拡大し、環境に適応して生
き残るために様々に工夫、進化した結果、今では1000万種以上に分化して
いる。たった一つの種である人類が滅亡しても地球はさまざまな昆虫の惑星で
あり続けるだろう。

日本のカメムシだけで55科に分類され1000種以上に上る。我々の遺伝子
をさかのぼれば昆虫からさらに先まで、魂の輪廻転生を遡れば昆虫として過ご
した時もあったのかもしれない。昆虫の生態を観察すれば、昆虫もかくありた
いと意志をもって生きていることは間違いない。カメムシの身になっていろい
ろ考えれば、仲間のような親しい感情が起こってくるのである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/1月第68号からの転載です)

コラム:皮膚と触覚と意識について

人間は他から侵害されたくない境界を持っている。集団としての国は国境を設け、

小集団では砦や城に堀をめぐらし、町村境を設けて自らの権益を守ってきた。家
族として家を構え塀や外壁で外と内を区別している。生物の個体である自己と世
界の境界は樹皮や皮膚である。皮膚の内側が自己で外側が他物すなわち世界であ
る。人間は触覚、味覚、視覚、聴覚、嗅覚の五感によって外側の世界を探ってい
る。味覚、視覚、聴覚、嗅覚は特別につくられた特殊感覚器官と呼ぶべきもので、
舌、目、耳、鼻がその役割を担っている。触覚は皮膚表面だけでなく内臓諸器官
にもそのセンサー機能がある基本的な感覚神経である。舌、目、耳、鼻の感覚受
容器にも触覚が備わっていることに注目したい。

植物は舌、目、耳、鼻を持っていないが、触られたことがわかる触覚を持ってい
る。根や樹皮、葉に存在する特殊な感知器で光や温度、水の存在を感じることが
できる。植物は一感しか持っていないが、その一感が触覚であることは注目すべ
きところである。地球上に生息する全ての生き物(植物を含めて)には触覚が備
わっている。触覚が受け取っている感覚こそ自己が外界を知り、自己を守り、生
存し、子孫を残すための根源的な感覚なのだ。生まれて間もないころの人間の子
供を観察してみると、主に触覚で環境や世界を把握しようとしていることがわか
る。

人間でいえば、自己と世界の境界は皮膚である。皮膚の表面には外界(自己以外
のもの)を探るセンサー機能が備えられている。皮膚は触覚の感覚器の役割を担っ
ている。皮膚が感じることが出来る刺激は、触られている(触覚)、押される(
圧覚)、痛み(痛覚)、かゆみ(痒覚)、温かさ(温覚)、冷たさ(冷覚)の6
種の刺激である。それぞれを圧点、痛点、温点、冷点が対応している。皮膚表面
の触覚は重さ軽さ、温かさ冷たさ、固さ柔らかさ、ザラザラ・つるつるなどであ
り、これらの感覚は好き嫌いの感情を招来し、心に影響を与えている。例えば、
初対面の人を堅い椅子に座らせると相手は座らせた人を固い奴だとおもう。自動
車の販売デーラーは顧客を固い椅子に座らせると値引きされないで済む。

PRESSURE(圧)、TOUCH(触)、VIBRATION(振動)、TICKLE(くすぐったさ)な
どの感覚を生理学用語で機械的感覚という。機械的感覚の受容器は指先と口唇に
多数分布していて、上腕、大腿上部、背部には少ない。肌があう肌が合わないな
どというように、触覚は人間にとって究極のコミュニケーションの手段でもあり、
触ってみなければ解らないというように、美術品や骨董品など見た目の印象と実
際触れて感じたものでは違うことが多い。インターネットで画像だけ見て商品を
購入して失敗するのも実際手に取って触らなかったからだ。

人間の皮膚の総面積は約1.6平方メートルでおおよそ畳一畳分に相当する。皮膚の
表面には1平方センチメートルあたり触点が25個、痛点が100~200個、温点
が0~3個、冷点が6~23個分布している。全皮膚表面には200~300万の
痛点があり、侵略刺激を受けて反応する。皮膚や粘膜に分布する3万点の温点が温
度に反応している。触点や痛点などの下には各種の感覚受容器があって、それら
受容器はそれぞれ固有の刺激に反応するようになっている。受容器が受けた反応・
興奮は1次知覚神経によって伝達され脊髄を上行して視床で中継され頭頂葉の体性
感覚野に到達する。体性感覚野には体の各部についての情報を取り扱うもののほか
に触れる対象の特徴を取り出せるようなニューロンがある。それらは、硬いものに
触れたときのみ反応したり、ザラザラしたものに触れたときのみ反応するもの、角
のあるものに触れたときのみ反応するものがある。体性感覚野でこれらの情報が統
合されて能動的に獲得する感覚をもっている。

意識とは考えることであり感じることも含んでいる。心を意識と言い換えてもよ
い。知覚とは考えることではなく感じることである。感覚と知覚の違いは感覚が
観られる対象であり、知覚は観る主体者の意識的な心である。熱いものに触れた
とき皮膚の温度受容体が作動し、電気信号として神経を通じて脊髄に到達する。
その時パッと手を離す行為が脊髄反射として起こる。これが感覚である。このと
き脳によって知覚されたわけではない。知覚とは情報が大脳皮質の皮膚の感覚に
対応する場所にとどいて「熱いと」感じることをいう。知覚には脳による意識が
必要である。脳のない生物は植物であれ、ゾウリムシやクラゲ、ウニなどは感覚
機能は持っているが知覚機能をもっていない。熟睡しているときに、誰かに触ら
れても感覚機能は作動しているが知覚されているわけではない。知覚には脳によ
る意識の働きが必要である。睡眠は脳の働きの休眠状態なので、知覚することが
できなくなる。より良い瞑想は意識がはっきりしていなければならない。脳が感
じようとして鋭敏に働いていなければならない。

人間には特殊感覚器官である舌、目、耳、鼻の他に触覚として身体の内側と外側
からの刺激信号をとらえて、中枢神経系に伝える働きをもった受容器(感覚器)
が皮膚の表面だけでなく、身体の全ての組織に存在している。これらの感覚系を
生理学で体性・内臓感覚という。体性感覚は皮膚の表面で感じる感覚の他、皮下
の筋肉や腱、関節などの受容器が内部感覚(深部感覚)としても感じている。そ
れから胃、腸、肝臓、肺、心臓などの内臓は内臓感覚をもっている。

人間が生きているとは、「生体を成長させ維持し動かすために外部からエネルギ
ーを取り込み、呼吸が継続し血液が流れ、神経系を電磁気的な信号が途切れなく
伝わっていき、その流れによってさまざまな身体組織と臓器に感覚が起こってい
て、生起している感覚の粗雑なものから精妙なものまで、意識的なレヴェルから
無意識レヴェルまで」、中枢神経系がさまざまな身体感覚を感じとって、それに
対応して命を守るために、身体が健全に動くように、適切な指令を身体各部に発
信していることをいう。

粗雑な感覚から精妙な感覚まで、我々は瞬間瞬間に生起する全触覚情報の数千万
分の一しか知覚できていない。知覚できない情報は全て無意識情報になっている。
その無意識情報が潜在意識化して我々の思考や行動に莫大な影響を及ぼしている
のである。プレクシャ・メディテーションは知覚することが難しいレヴェルの精
妙な感覚を、訓練によって知覚できるようになることを目指している。その達成
によって我々は深いレヴェルの自己認識に到達する。

皮膚の表面は自己と世界の境界になっているので、自己防衛のための兵士がたく
さん存在する場所である。その兵士が触覚器である。皮膚はアンテナのようにセ
ンサーとして働き、とても鋭敏である。そのような鋭敏な皮膚表面に感じようと
する心を向けるとき、高い集中力によって見逃していた精妙な感覚を知覚するこ
とができる。最も高度なダラーナ(集中のテクニック)は身体内部の精妙な感覚
の知覚である。これをヴィパッサナーといい、プレクシャという。好き嫌い、良
い悪いの判断を手放してありのままに感じ観察することを意味する。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2016/12月第67号からの転載です)

コラム:カルマヨギ・二宮金次郎

自己探求に偏りしすぎると宗教は理想主義の傾向が強くなり、社会救済を重視
すると宗教は現実主義、実用主義化する。宗教の理想は理想主義と現実主義が
フィフティ、フィフティに調和されたものが私は望ましい宗教だと考えている。
自己探求とは皮膚の内側に深く潜っていって真実の自己を見つけることである。
それがメディテーション(瞑想)である。瞑想によって「自分だと思っていた
ことが自分ではないとわかる」。真実の自己は神であるとの悟りを得ることが
できる。社会救済は愛、慈悲、菩薩行の実践である。社会救済は皮膚の外側に
自己を拡大していく行為であるということができる。社会救済、菩薩行、奉仕
行によって「自分ではないと思っていたことが全て自分だとわかる」。菩薩行
の実践によって、全てのものとの融合、宇宙との合一、神との合一が達成され
る。 沖正弘先生はそのことを真智聖愛と言った。真智が自己探求、聖愛が菩
薩行、二つ合わせたものが沖ヨガ行法でそれを冥想行法と呼んだ。自己探求だ
けの意味の瞑想でなく、沖ヨガは社会救済を含む意味の冥想行法と表現して両
者を区別したのである。

2600年前のインドは多くの出家僧が瞑想と苦行に取り組んでいた。当時の
シュラマナ系宗教は自己探求とカルマの解消、輪廻からの離脱にばかり目が向
いて理想主義、厳格主義に傾いていた。そのシュラマナ系宗教に対し、実用主
義、現実主義をとってシュラマナ系宗教を改革したのが仏陀だと私は考えてい
る。仏陀が現実主義(中道の教え)をとったため、厳しかった戒律が、後に仏
教徒によってだんだん戒律の数が増えていったのに反比例して安易なものにな
ってしまった。古代のシュラマナ系宗教の姿を今にとどめるジャイナ教は、魂
の存在を認め、非暴力、不殺生、無所有、無執着の戒律を、不合理でも現実離
れしていても何が何でも変更せずに堅持した。ジャイナ教が理想主義で仏教が
現実主義といってもよい。どちらが優れているかという問題ではなく、どちら
をより重視しているかの違いなのだ。

ヨガの部門は72部門あると言われている。その中で主要なものはバガバッド
ギータに説かれているジュニヤーナヨガ、カルマヨガ、バクティヨガである。
バクティヨガは信仰のヨガで全てに神を見ることで救い、救われを目指してい
る。ジュニヤーナヨガは自己探求の瞑想ヨガであり、カルマヨガが生活や仕事
を通じて社会救済をする菩薩行ヨガである。

カルマヨガとは何か、カルマとは日本語で業という意味である。業とは因縁果
のことであり因果律のことをいう。全てのものごとには起こってくる原因があ
り、原因と縁なくして結果はおこらないという考え方のことをいう。幸せにな
りたかったら幸せになるための行為をしなさいという実践である。それが社会
奉仕行、社会救済行である。仕事を通じ生活を通じて世のため人のためになる
奉仕行の実践がカルマヨガである。カルマヨガを実践したカルマヨギを思うと
き、私の頭に真っ先に思い浮かぶのは日本の偉大なるカルマヨギ・二宮金次郎
である。江戸時代後期から幕末にかけて日本はキラ星のごとく幾多の精神性の
高い人々を輩出した。武士階級だけでなく庶民階級からも優れた人物が現れた。
心学という道徳を教えた石田梅岩であり、船乗りの高田屋嘉兵衛や百姓出の二
宮金次郎もその一人である。

キリストや仏陀、親鸞、道元などすぐれた宗教的指導者になった人は、子供の
ころ父や母を亡くした例が多い。江戸時代後期小田原藩の百姓として生まれた
二宮金次郎も14歳で父を亡くし、16歳で母を亡くし、貧困という苦難に直面し
ている。そうした困難の中から世のため人のためになるという覚悟が生じてき
たのだから菩薩の出現と言ってもよい。金次郎は一般的に思想家、道徳家、農
村指導者というイメージで見られているが、大実業家であり現実的な商人、大
政治家、社会革命家などの側面をもっていて、一言では表現できない偉大な人
物である。身分制度が厳しかった江戸時代、百姓から武士に取り立てられ、財
政難に窮した各藩の改革を任せられ、それを見事にやり遂げていることに驚き
を禁じ得ない。

私が小学生だった時代、浦安小学校にも薪を背負って読書しながら歩く二宮金
次郎の石像が校庭の片隅にあった。努力と勤勉という道徳を教えていたのであ
る。二宮金次郎は理屈でなく実践で社会を向上させ多くの人々を幸せにした。
金次郎は徹底的な現実主義者、実用主義者だった。自然を良く観察し自然から
学び自分の体験を通して自分の思想を作り上げた人だった。私が金次郎を偉大
なるカルマヨギであるとする根拠は、日々の生活と実践を通じて無私の立場で
社会貢献をなした点を評価している。彼が亡くなった時、家も土地もお金も残
さなかった。すべてを他に捧げたのである。他に譲ることを金次郎は推譲(ス
イジョウ)といった。金次郎の教えを要約すると、天地自然の恵み、社会の恩
恵、父母祖先のおかげに報いるために徳行、報恩、感謝、積善をもってする実
践の道であるといえる。人間が働くのは、ただ自分の為に働くのではなく、他
の命のために働かねばならぬということであり、これを金次郎は「報徳」とい
った。私が金次郎を素晴らしいと思うのは、人間の道と天の道は違うと説いて
いることにある。「天の道は自然法則だから稲や雑草に善悪はない。自然法則
だけに任せると荒地になってしまう。人の道は自然法則に従うけれども雑草を
悪とし、稲や麦を善とする。人間にとって便利なものが善、不便なものが悪と
考える。この点で天の道(自然法則)と人間の正しい生き方は少し違う。人の
道は天の道に任せておくとたちまち廃れてしまう、行われなくなってしまう。」
自然法則に従うだけの理想主義ではなく、あくまで人間の生き方を現実主義、
実用主義としてとらえているのである。

金次郎は小さなことをこつこつ積み上げることを大事にした「積小為大の理法」。
金次郎は善悪、強弱、遠近、貧富、苦楽、禍福、寒暑など互いに対立している
ものを一つの円の中に入れ、常に総合的に物事を判断していた。因果律を重視
して積善を唱えた。万物は一つも同じところに止まっておらず、四季が循環す
るのと同じで陰極まれば一陽来復、厳冬だからこそもうすぐ春がそこに来てい
るのだと苦難に悩んでいる人を鼓舞した。天地の間で万物の道理は皆同じであ
る。善の種を撒いて悪の実がなることはない。悪の実がなったのは悪の種を撒
いたからである。困窮はその人自身の因果の上に成り立っている。他から救助
の手をさしのべる方法はない。本人の気づきが大事といった。本人がそのこと
に気づくようにして、それに気づけば惜しげもなく援助の手をさしのべたので
ある。

日本が生んだ偉大なるカルマヨギ・二宮金次郎のことをもう少し知りたい人は、
三戸岡道夫著『二宮金次郎の一生』(平成14年6月、栄光出版社刊)、及び現

代語抄訳『二宮翁夜話』(2005年2月、PHP研究所刊)を読まれることを勧めます。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/11月第66号からの転載です)

コラム:日本文化の精髄・露天風呂

夏休みに上越国境に近い群馬県の山の中にある、二軒の秘湯温泉宿に泊まった。
初日に泊まった宿は 「たんげ温泉美郷館」、この宿は5年前の正月休みに一度
泊まったことがある。和風木造の日本情緒あふれる建物の雰囲気や露天風呂の
作りにすっかり魅せられてしまった。そのときは外気温が寒くて、お湯の温度が
ぬるかったので、もう一度次回は夏に行きたいと思った。今夏、再訪して感じた
のは、6か所ある浴場の作りがいずれも上手にできていて高い美意識と完ぺきな
芸術性を感じた。地元の林業会社の社長が趣味で凝りに凝って作ったとしか言い
ようがない、手の込んだ作りになっている。渓流沿いに露天風呂は3か所あって、
うち一番大きなものは、使われている石も大きく上手に石組みされている。この
ような形よく美しい大きな庭石をどのように集めたのだろう、さらに現地で庭園
にするために石組みする技術にもすっかり感心してしまった。銘庭と呼ぶにふさ
わしい石組みの露天風呂に温泉が掛け流されている。
露天風呂から望む渓谷の流れも美しい。客室は18室しかないのでウイークデイ
に泊まればすいていて、どの浴室も貸し切りのように入れる。自然の中に融合して、
まったく違和感のない人の手でつくられたこの露天風呂に入るとき、日本人に生
まれた幸せをつくづく感じた。美郷館は平成3年に開業した比較的新しい温泉宿
である。露天風呂の設計や施工は多分群馬県内の業者が携わっていると思われるが、
その技術力の高さは称賛すべきものである。

二日目に泊まったのが法師温泉長寿館、新潟県境の三国峠に近い山中の秘湯だ。
長寿館は40年前、50年前の若いころに2度泊まっている。昔ながらの鄙びた
風情を感じさせる「法師の湯」は、湯船が4つに仕切られた大きな木造の浴場で
ある。湯船は川底につくられているので足元は卵大の大きさの川原石が敷き詰め
られている。湯船の底の丸石の隙間から新鮮な温泉がふつふつと湧き上がってくる。
印象深いこの温泉にもう一度入りたくなって二日目の宿に選んだ。40年ぶりに
訪れた法師温泉は新館が増設されて旅館の規模が大きくなっていた。旅館の玄関や
囲炉裏の間は全く昔のままだった。昔の雰囲気を壊さずに守り残そうとしている
旅館の経営方針に共感を覚える。建物も浴場も綺麗に掃除され磨きこまれて清らか
である。前回は本館に泊まったが今回は法隆殿に泊まった。混浴の時間帯だったが
家内を誘って、法師の湯に入った。湯船を仕切るように置かれた丸太を枕にして体
を湯に横たえると全ての筋肉から緊張が抜け出ていった。はじめ我々二人だけだった
が、一人二人と男性が入ってきた。昼間でも薄暗い、広い浴場に数人だけしか入浴
していないので、のんびりとした気分になる。丸太を枕にあお向けになって浴場の
太い丸太の小屋組みを見ていると、身も心もリラックスしていった。

時間制で男女別の入浴時間をもうけている「玉城の湯」は近年、新しく作られた
法師温泉の名物風呂である。内湯と露天風呂に分かれている。内風呂から望む露天
風呂の景色が実に美しいが、さらに外の露天風呂に出てみて驚嘆した。この露天風
呂に使われている石が形も色も模様も銘石ばかりで、大きく存在感があり、実に巧
みに石組みされていたのを見たからだ。どうやってここまで運んだのだろうかと思
うほど巨大な石の上から温泉の湯が滝になって落ちてくる。玉城の湯の露天風呂に
入って、使われている石を触ったり石組みを見ていると日本人はなんて素晴らしい
のだろうと思う。翌朝、滝となっている石組みの大石を後ろから見てみたいと思って
散歩に出た。背後から大石の石組みは良く見えなかったが、小さな石碑があって
「法師温泉 長寿館 玉城の湯 露天風呂造園工事一式施工 平成12年7月
設計・濵名造園設計研究室 施工・群馬庚申園株式会社」 と彫られてあった。

法師温泉に向かう途中時間があったので、旧三国街道の宿場だった須川宿にいった。
須川宿は宿場町全域を「たくみの里」というコンセプトでテーマパークのような
町づくりをしていることで知られている。その町はずれに桃山時代創建と伝わる
曹洞宗の古刹泰寧寺がある。山門と本堂の須弥檀が県の重要文化財になっている。
泰寧寺はアジサイと蛍の名所で、地元にも人気の寺らしい。
山門の前には小さな川が流れている。村道から川に降りて砂防堰堤と一体に作られた
橋をわたって対岸に作られた石段を登っていくと立派な山門が現れる。山門をくぐ
りさらに少し上ると本堂の立つ境内にでる。鐘楼もあり趣ある山寺である。ここで
私が興味惹かれたのは山門でもなければ、石段や山門の石垣でもない。堰堤と橋を
中心にした回遊式庭園の石組みである。寺に向かう橋は砂防堰堤の落ち口に堰堤と
一体的にコンクリートで作られている。コンクリートであるが太鼓橋のように優美
に緩やかに中央を膨らませて作られている。シンプルなデザインであるが趣がある。
コンクリートの橋は苔むして古びた良い雰囲気を出している。橋の下が堰堤の落ち
口になっていてそこから流が滝となって落ちている。堰堤の上流は池になっていて
池の水際から上手に石組みされている。人間が作ったとは感じさせないほど自然と
同化している。堰堤の下流の巨岩の石組みは驚嘆すべき巧みさである。堰堤を落ち
る滝はどう見ても自然に落下している滝に見える。庭園なのだがどう見ても自然
風景になっている。神の手が加わったかのように自然風景を超越した完璧な調和の
石組みとなっている。こんな巨大な石をどうやって運び入れ、どうやって組み立て
たのだろうか本当に素晴らしい。指摘されなければ人工物とは気づかない。そのよ
うな、石組みの中に座禅に手ごろな平らな大石がいくつも配置されている。その
一つに座ってみた。私の心の奥深くから、深い感動が湧き起ってきた。この庭園を
設計した名もない造園家、施工した名もない職人の美的感覚の凄さがわかった。
泰寧寺はこのような立派な庭園を造れるほど裕福な寺には到底思えない。多分街
づくりの公共工事の一環としてなされたものであろう。寺の住職か公共工事にか
かわる誰かが発案したのであろう。真相がわからないのでどのような経緯でいつ頃、
この庭園が造られたか調べてみたいと思う。

自宅に戻って泰寧寺のことをいろいろネットで調べてみた。沢山の記述投稿が
あったが、この庭園を称える記述や、誰がいつ作ったかについて触れた文章は皆無
だった。評価されないのか、忘れられてしまったのか私には解からないが、この
庭園こそ真に価値ある文化財である。
思い起こせば自然に流れていた川に庭師が手をいれて、庭園のようにしてしまった
川を私は過去にも見ている。一番印象に残っているのは厳島神社の側を流れる「紅
葉谷公園」である。谷の石組みは庭師が組んで調和した理想形に作られている。
もみじ谷はよく観察しないと人間が作ったものと感じさせないほど自然に溶け込み、
人工的な不自然さを感じさせない素晴らしい渓谷になっている。

奥多摩の御岳山近くのロックガーデンも自然の谷に人工的な手を加え、さらに自然
美を整えたものである。大型建築機械が入れないような場所で自然の雰囲気を損な
わないように大きな石をたくみに組み合わせ人が歩きやすいように整えている。
大きな石を適材適所に配置した技術に驚嘆する。

伊豆半島の湯ヶ島温泉に白壁荘という温泉宿がある。宿の敷地から掘り出された
巨石をくりぬいて露天風呂の湯船にしている。この巨石の湯船がユニークでみごと
である。石庭の美しさ、敷地内の巨石の石組みや、露天風呂の石組み、銘石など
日本の石の文化を堪能したかったら山梨県石和温泉「銘石の宿・かげつ」に行く
と良い。石庭が好きな人にとって「銘石の宿かげつ」はたまらない魅力の宿である。

私は石庭や露天風呂の石組みだけでなく、城の石垣が好きである。石垣を見ている
と古く忘れられた記憶は過去生まで辿れるような気がする。私が興味惹かれるもの
は石や石で作られたものである。石灯籠や石仏なども大好きだ。河原の石が私に
話しかけてくる。路傍の石が私に話しかけてくる。石とだったら私はいろいろ話が
できる。20歳のころ造園家になりたいと思ったことがあった。自分の中に熾火の
ように残っている「かくありたい」を探るとき来世で私は造園家を仕事に選択する
ような気がする。近いうち、静かな時を選んで再び泰寧寺の渓流庭園の坐禅石に
坐って瞑想してみたい。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/9月第65号からの転載です)

コラム:カラーセラピー・色彩療法

プレクシャ・メディテーションの第六段階はレーシャ・ディヤーナである。
レーシャとはジャイナ教哲学でいう魂から放射される「霊的な色彩光」のこと
である。レーシャは本来、魂から発せられた純粋無垢な光であるが、魂の周り
に付着したカシャーイと呼ばれる汚染物質の影響で色が付着する。着色した
レーシャは魂よりも外側のレヴェルにある電磁気体や肉体に影響を与え、肉体
の外側に広がって人それぞれのオーラの色になると考えられている。

オーラとは仏教で云う後光であり光背のことである。キリスト教ではオーレ
オールと言い、古代から人間の周囲には不思議な色彩をもつ何かがあると知ら
れていた。

身体を取り巻くオーラは特殊能力を持つ人にははっきり見えるらしい。現代で
はオーラを映像に写せるオーラカメラが開発されている。マハーヴィーラは長
期間の断食や瞑想修行により、オーラを見ることができ、その色の持つ意味を
極めて正確に解釈できたと考えられる。古代ジャイナ教聖典にはレーシャに関
す記述が多い。

ジャイナ教瞑想修行のレーシャ・ディヤーナというテクニックは、肉体の外側
にポジティブな色彩をイメージして、その色彩を魂の外側を雲のように取り囲
んでいるカルマ体レベルに流入させ、ネガティブな色とされる黒や灰色、その
他くすんだ色と置き換えることにより、カルマ(業)の浄化を目指すものである。
色彩は私たちの精神状態に影響を与えているが同時に、精神状態によって霊的
色彩光(レーシャ)が影響を受けていると考えられる。

色彩とは一体何なのだろうか。物理学的な解釈では「色彩とは電磁波における
可視光線のことである。」と定義する。私たちの周囲には光や電波など波の性
質をもった電磁波に溢れている。ガンマ線やX線、紫外線といった電磁波は可
視光線より波長が短く、赤外線やテレビ電波、ラジオ電波は可視光線より波長
が長い。赤の波長は700nm(ナノメートル)前後で、青は460nm前後、紫
は380nmである。

可視光線の波長が長いと赤に近づき短いと紫に近づく。可視光線をプリズムで
分解すると、彩度の一番高い純色の虹の七色となる。その色彩を波長の短い順
に並べると紫、藍、青、緑、黄、橙、赤になる。色彩の彩度は電磁波の振幅が
高く(大きく)なると明るくなり、振幅が低くなると暗くなる。光である電磁波
は物質のない真空中でも伝わっていくが、音は空気や鉄の棒などの伝える物質
がないと伝わらない。

我々は光の無い所では何も見ることが出来ない。光源から放たれた光が物体に
当たり反射され、それが人間の目の視細胞を刺激し脳によって変換され、はじ
めて私達は形や色を知覚することが出来る。物体色は物体そのものに色が備わ
っているわけではない。あくまで光のどの部分の波長を反射するかが、その物
体の色を決定する。物体が全ての光を反射すると白く見え、全ての光を吸収す
ると黒く見える。

色の見え方には2種類あって、反射の結果として見える色と、光が物体を通過
することで見える色がある。この場合透過した色だけが見え他の色は吸収され
てしまう。ステンドグラスの場合赤い波長だけを通すと赤く見え、他の色はガ
ラスに吸収されてしまう。色彩照射療法はその原理を使っている。レオナル
ド・ダビンチは教会で紫色のステンドグラスを透過した色彩を浴びて瞑想する
ことを好んだ。

古代ギリシャでは太陽神が信仰されていた。その中心地になっていたのがヘリ
オポリスの癒しの神殿である。癒しの神殿では太陽光を色に分けて、それぞれ
の色によって特定の治療を行っていた。そのヘリオセラピー(太陽色彩療法)の
父が有名なヘロドトスである。色彩療法は古代ギリシャや古代インドに起源が
ある。

光線療法やカラーセラピーは本質的には自己の内的空間を探求することを意味
する。それは色彩を観るビジュアライゼーション(瞑想)によっても可能である。
瞑想によって魂の汚れを取り除いていけば魂の純粋性が立ち現れる。自己の本
質である魂からの純粋な光によって自己を深いレヴェルで癒すことが出来る。
自分で自分の医者になる方法の一つである。人間の悟りや人格の向上は身体的
にも精神的にも外部から上手に光や色彩を取り入れてそれを活用することがで
きるかどうかにかかっていると言っても過言でない。

光は色の本質(親)であり、又、光は生命の根源・本質である。光はエネルギー
そのものである。全ての物質はエネルギーが形を変えたものである。人間もエ
ネルギーのかたまりによって出来ている。138億年前のビックバンの光エネ
ルギーが人間という形のエネルギーに変わって存在しているのである。私達は
光である。私たちの本質つまり親が光である。生き物の生命エネルギーの根元
は太陽光である。人間だけでなく地球上の生き物が食べている全ての食物の源
は太陽光である。光が神であるとはそのことを云う。光なくして人間は生存で
きない。又、色彩の本質も光である。だから人間の生命は色彩の影響を強く受
けていると言える。目を有する生物は皆何らかの色覚がある。昆虫、魚、鳥、
両生類、爬虫類は色彩を感じている。、世界は色彩にあふれている。自然界の
多彩な色彩を見ていると、この世はなんと美しい世界なのだろうといつも思う。
そして色彩は形とともに個別のものに個性を付与して、個性の情報元となって
いる。

人間は目だけでなく皮膚でも色を感じ取っている。皮膚には色を識別する特殊
なセンサーが備わっている。だから、皮膚に光線を照射する療法が生み出され
た。光線療法に照射する色彩は 赤、オレンジ、黄色、レモン、緑、青緑、青、
藍、スミレ、紫、マゼンダ、深紅である。レモン色は慢性病、青緑は急性病に。
紫色、深紅色、マゼンダは心臓病、循環器系、生殖器系をはじめとして全ての
症状に良い。活動過多の人に紫色を照射し、活動不活発の人には深紅色を使う。
マゼンダは両者のバランスをとる時に使用する。無気力の人に対してレモン色
とオレンジ色を合わせて使う。感覚麻痺の時にはこれに赤を加える。藍色は鎮
痛、出血、膿傷のある症状に使う。緑色とそれに近いレモン色や青緑は体のバ
ランスと関係しているので必ず照射(トネイション)に含めるようにする。19
79年マルティクとベレンジは酵素の反応速度を増やして活性化させる、ある
いは不活性化させる色彩や、細胞膜を通る物質の移動に関与する色彩があるこ
とを発見した。

赤は生命力を高める色で交感神経を刺激する色である。青は副交感神経を刺激
する。赤い色は瞬発力が高まり青い色は持久力を高める。不眠症の人は青い敷
布や毛布を使うと良い。赤やピンクでは寝つきにくい。ベージュ色はリラック
スさせる色、一番筋肉の緊張をほぐす色である。白い色が健康に一番良い。黒
い服ばかり着ているとシワが増えるし早く老け込む。明色の橙色をピーチとい
うが皮膚に不思議な効果があり、ピンクとともに若返りの色である。

色彩は私たちの精神性にも深く関係している。色彩は意識や感情に深い影響を
与える力がある。プレクシャ・メディテーションのレーシャ・ディヤーナはそ
うした理論を基にした瞑想法である。一例を挙げれば、頭頂に黄色をイメージ
することで知性が高まる。眉間の奥にオレンジと深紅の中間色をイメージする
ことで直感力が高まる。胸の中央でピンク色を観ることで友愛の情を育てるこ
とができる。色彩と精神性の関係については いまなお不統一で未知なること
も多く、更に研究の上、瞑想体験を深めて別の機会に詳述したいと思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/7月第64号からの転載です)

コラム:生命が病気を創る

身体の中で生命力は私たちを生かそう生かそう、長生きさせよう、効率よく元
気に身体が動くようにと働いている。それが生命のバランス維持回復運動とし
ての働きである。身体の病気や痛み、心の悩みは生命が命を存続するために起
こしている現象と言っても良い。病気や痛みがなかったら生命は命を維持し存
続させることは出来ない。病気は悪いものではなく生命のバランス回復運動と
して起こってきていると言える。原因がなくなりアンバランスが是正されれば
バランスを取るために必要だった重石としての病気は不要になる。重石として
の病気を取るためには、一時的に極端なアンバランスを身体内部に招来させて、
アンバランスの上にもっとアンバランスを起こさせて、命の働きが更に高まる
ように誘導する必要がある。動には静を静には動を加える反対刺激が必要であ
り、それが病気治しのコツである。

身体存続維持の働きは、身体内部に流れていく生命エネルギーと、流れに伴っ
て生起する感覚と、その感覚を受け取とって適切な対処法を指示する意識であ
る中枢神経系、末梢神経系の連携で起こっている。身体内部では生命エネル
ギーとしての電磁気的な流れが神経系を通して一つ一つの細胞に生命力を吹き
込んでいる。血液が細胞に必要な燃料(栄養と酸素)を供給しているだけでは
命は働かない。生命に感覚と意識がそなわっているから、命を守り存続させる
働きが起こるのである。その自覚意識で身体内部に生起している感覚を観じる
ことが、プレクシャ・メディテーションの原理である。

今から5億2000万年前、地球上でエビやカニ、昆虫の先祖である節足動物
が繁栄していた。その頃、魚が誕生した。魚はそれまでの生物が持っていなか
った中枢神経としての脳を持つようになった。魚の脳には外敵から身を守る装
置としての扁桃体も備わっていた。

扁桃体は脳が危険を察知すると活動を始める。扁桃体が働いてストレスホルモ
ンが分泌され、全身の筋肉が活性化されて運動能力がたかまり、天敵から素早
く逃げられる。危険が去るとストレスホルモンの分泌は収まる。

2億2000万年前に哺乳類が誕生すると扁桃体は外敵以外にも反応するよう
になった。人類は更に身体機能を発展させて複雑な自己防衛、自己保存維持機
能を持つようになった。天敵ばかりでなく孤独になると不安や恐怖を感じて扁
桃体が激しく活動する。過去のつらい記憶が呼び起こされたり、他からの言葉
の暴力によっても扁桃体が働き内分秘腺に働きかけてストレスホルモンが分泌
される。

その代表的なホルモンとして副腎皮質から分泌されるコレチゾールやアドレナ
リンがある。コレチゾールやアドレナリンは本来悪いものではなく、身体を守
るために生命が適切適量に分泌しているのである。

人間が生きていくとき心身にとって不快なこと嫌なことが身辺に沢山起こって
くる。それがストレスである。ストレスとなる刺激のことをストレッサーと言
うが、ストレッサーには様々なものがあり物理的なストレッサーとして気温、
湿度、騒音などがあり、化学的なストレッサーとしては栄養の過不足、カフェ
イン、薬物等がある。生物的ストレッサーとしては感染、痛み、炎症があり、
心理的ストレッサーとして不安、恐怖、怒り等がある。現代人特有のストレッ
サーとして、人間関係や仕事のプレッシャーや不規則な生活リズムが挙げられ
る。

人間にはストレッサーに応じて生命の働きとしての適応性、バランス維持能力
が備わっている。過剰なストレスや慢性的なストレスが加えられると心身のバ
ランスが崩れる。バランスが崩れるとその反応として身体はストレスホルモン
を分泌し血圧を上げ血流を増やす。また体温を調整して心身のバランスを回復
させようとする。強いストレスや継続的なストレスでこの反応が過剰になった
ときバランスが崩れて病気が起こる。体に現れれば目まい、頭痛、吐き気など
の自律神経失調症、胃や十二指腸潰瘍など過敏性腸症候群となる。心に現れれ
ば不眠症や欝となる。

心理的ストレスを長期間受け続けるとコレチゾールの分泌によって脳の一部、
海馬の神経細胞が破壊され海馬が萎縮してしまう。海馬は脳の記憶や空間学習
能力に関わる脳の器官であり、これが萎縮することで記憶喪失や認知症が起こ
ってくる。鬱病患者には海馬が萎縮していることが知られている。

強い不安や恐怖を感じると扁桃体が過剰に働く。すると全身にストレスホルモ
ンが大量に分泌され脳にまで及ぶ。このとき、脳の神経細胞に必要な栄養物質
が減少するので栄養不足で縮んでしまう。脳の萎縮が意欲や行動の低下を招来
する。それが欝状態である。

心の病である鬱病に対して近年の研究で瞑想や「マインドフルネス認知療法MB
CT」が有効であることが解ってきた。マインドフルネスは自分の身体や気分の
状態に気づく力を育む「心のエクササイズ」である。マインドフルネスとは自
覚的な心であり、深い気づきの心であり、強い心の集中力であり、覚醒された
意識のことである。マインドフルネスの反対のことが集中力欠如の状態である。
瞑想を実践すれば集中力が増し、創造性が高まり、幸福感、リラックス感が高
まる。瞑想することによってストレスが軽減され、免疫力が向上し心身の健康
に極めて有効である。瞑想することによって物事をいろいろな面から捉えられ、
不要物を有用物に変える能力も高まる。

ストレスを軽減する極めて有効な方法としてプレクシャ・メディテーションの
カーヨウッサグがある。古代インドから伝わる瞑想法で「完全なる心身のリラ
ックス法」である。完全に心身がリラックスすると心身分離が起こる。この時
ストレスは完全除去される。

ストレスを軽減する方法としてコーピングという気晴らし法も有効であること
が知られている。好きな音楽を聴いたり、歌ったり、踊ったりする。ストレッ
チや散歩など軽い運動をする。バランスの良い食事をとり、たっぷり睡眠をと
り、休む。動画や漫画などを見ておもいっきり笑う。海や山、森や川、木々や
草花、石や鉱物等の自然物には癒しの力が備わっている。自然の情景の中に身
を置くことで深い癒やしが起こる。自分が楽しいと思うこと気晴らしになるな
ら何でもしてみる。ストレスに応じて気晴らしをいろいろ工夫する。そうする
ことで現代人の最大の問題になっている心の病、欝の予防と欝からの回帰がで
きる。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/6月第63号からの転載です)