般若心経、正確には摩訶般若波羅蜜多心経は玄奘三蔵(七世紀)が訳した大乗経典で日本人にもっとも多く親しまれている仏教経典である。般若とは智慧のことであり、その智慧とは、全てのものは縁起しているから無常であり、有って無いようなものだから執着してはならないと説いている。般若心経で説かれている無常は、それ以前にインドにあった無我の思想を人間の問題だけでなく、大乗仏教的にあらゆる事物に拡大解釈したものでありその内容を「空の思想」という。
沖ヨガ行持集の般若心経の意訳を読むと、空について無と表現し、また空無と表現している。こういう観点から空とは何かと考察すれば空と無は同じであり、空無は無常のことを指していることが解る。無常とは時の流れの中であらゆるものが変化することであり、起こってくることの全ては諸縁(原因と条件)が関係しているのだから、どんなものでも独立して存在することが出来ないというものの見方の説明である。般若心経のなかで、観音菩薩がシャーリープッタに、全てのものは縁起していて独立して存在できないから実体がないのだと説明している。体や心も変化するものなので私という実体は無い、つまり無我である。般若心経は無常が解かれば無執着になれると教えているのである。
大乗仏教の空の思想はなぜ空の思想と言うのだろうかとの疑問がおこる。どうして無常の思想または無の思想ではいけないのだろうか。
私は空と無には違いがあるような気がする。空と無の違いについてアヌプレクシャしている時に内なる声のひらめきがあった。同じことの別な角度の表現の違いなのではないかと思った。無とは私たちが感覚的に有ると思っていたことが、深く考察すると実は無いということが解ることであり、「有即無」のことだと思う。陰陽で言えば陽でありプラスであり現れていることとなる。逆に空とはカラッポ、無いと思えることが実は満々と満ちていて有るのだと解ることだと思う。つまり空とは「無即有」のことではないだろうか。陰陽で言えば陰でありマイナスであり見えないことである。目に見えている形ある世界は、目に見えない形のない世界から現れてきたと言っているのだと思う。空無という時、それは有るものは無く、無いものは有り、満ち満ちているものは空っぽであり、空っぽは満ち満ちていることを言っている。陰陽一対、空無一対と考えればわかりやすい。
大乗仏教は出家の為でなく在家の信者のために易しく仏道修行ができる方法を提唱している。一般大衆に南無阿彌陀仏と唱えるだけで死後、阿彌陀仏のおられる仏国土に往生できるというのがこれに当たる。同じように、大乗経典である般若心経の最後の呪文、つまりマントラはこれを唱えるだけで、観音菩薩が到達した悟りの霊力を手に入れることができると言っているのである。多くの般若心経の解説書にはこの点の説明が完全に抜け落ちている。
「ぎやてい ぎやてい。はら ぎやてい。はらそう ぎやてい。ぼじそわか」このサンスクリット語をカタカナ表記にすると「ガテー ガテー パーラ ・ ガテー パーラ ・ サンガテー ボーディスヴァーハー」となりその意味は「往こう 往こう 彼岸に往こう。完全に彼岸に往こう。目覚め(悟り)に幸いあれ」である。(この日本語訳は私がマントラとは何かに焦点をあて独自に意訳したものである)
般若心経ではこのマントラが大事であり、このマントラをいつも唱えていると、そのマントラが潜在意識化して、その潜在意識の力によって必ずそうなりますよと説いているのである。
般若心経はともすると、我々には色即是空 空即是色に代表される空の思想を説いたものとの認識しかない。しかし、「だから知るべきである。潜在意識化した言葉の力の知恵を。これは偉大なマントラである。叡智のマントラである。これ以上無いマントラである。比類なきマントラである。これを唱えれば全ての苦しみが除かれる。それは真実で疑いないことである。このマントラは悟りの智慧と同じである。」と最後の部分で力説しているように、マントラを唱えることを奨励しているのである。
マントラの意味がわかってマントラを唱えればマントラの霊力を手に入れることができる。皆さん、もう一度般若心経を読んで深く味わってみてください。