コラム[極限状態]

 スマホやパソコンで何でも出来る大変便利な時代になった。通貨という数字さえ持っていれば、食べ物も衣類も住まいも安全もインターネットで居ながらにして通信機器の画面を見て手に入れることができる。50年前には考えられなかったことが日常になり、当たり前の生活になった。

 生活が便利で安易になった半面、私たちの生活はリアリテイを失い、バーチャル化している。私達は皮膚感覚(触覚)を使うことが少なくなり、視覚感覚に頼ることが多くなった。また、肉体を通しての濃厚な体験が少なくなって、目覚めていて眠っているような人生になりつつあるのかもしれない。

 そのような私達が今、何かの事情で絶海の無人島に漂着してしまった。あるいは人里から数百キロ離れたシベリアのタイガの中に投げ出されてしまった。他の人間と接触できない環境や理由で、孤独に生きていかなければならなくなったとき、私達は知恵を絞って生き抜くことができるであろうか?スマホもパソコンも役に立たない、水も食物も雨露しのぐ住まいのための資材も手に入らない極限の状態である。そんな地獄のような極限状態を希望を失わず生き抜いた日本人がいた。

 八丈島の南290キロのところに鳥島という火山島がある。直径2.9キロ程の小さな島である。鳥島は海底火山の頂上部だけが海面から突き出た島で、周囲をぐるりと断崖絶壁に囲まれているので船で近寄ることもできない険しい島である。木は一本も生育しておらず、茅のような草ばかりの島である。この島に江戸時代、たびたび漂流船が流れ着いた。その漂流者たちのサバイバル術と奇跡の帰国までの物語は感動と涙なくして読むことはできない。

 有名なのは井伏鱒二の小説『ジョン万次郎漂流記』であるが、彼ら5人の漂流は幸運にも近くを通りかかったアメリカの捕鯨船に救助されたので5か月間で済んだ。それは天保12年(1841年)万次郎15歳の時だった。万次郎はその後、アメリカで見聞を広め英会話に熟達して、幕末の歴史上の人物になった。

 ジョン万次郎らが漂着、救出された時を遡る56年前、天明5年(1785年)土佐の長平他3名が鳥島に漂着した。彼らは島に群がっていたアホウドリを捕まえて食料とした。火打石を持っていなかったので火食できず、アホウドリの生肉と干し肉を主食とした。また磯で貝を拾い、魚を釣って食料とした。彼らの住居は先人の漂流者が使った洞窟だった。鳥島には長平達以前にもたびたび遭難者が漂着していた。運よく帰国できた者がいたが病気になって島に歿した人も多かった。
長平の仲間3人は漂流から2年経たないうちに次々に病死して、長平一人きりになってしまった。

 鳥島は今も度々噴火を繰り返す活火山であり、流れる川もなければ湧き水も無かった。漂流者たちは一番、水に困った。穴を掘り石灰で固めて雨水を貯めて命をつないだ。鳥島の環境は例えるなら地獄の燃え盛る火の山であり、針の山であった。一人きりになった長平は仲間の死を弔い、遺言を伝える使命があり、何としても生国に帰還しようと思った。自分が生きるか死ぬかの瀬戸際にあっても、生きていることに感謝し、不幸な境遇を積極的に捉えて、創意工夫をこらし生きぬこうとしたのである。

 長平が一人っきりになって1年半ほどたったある日、天明8年1月29日(1788年)大坂の備前屋亀次郎が荷物運搬のため、肥前の船主からチャーターした船の乗組員11人が鳥島に漂着した。長平は彼らと合流したことで孤独から救われた。さらにその2年後、寛政2年(1790年)日向の国志布志の船一艘6人が鳥島に流れ着いた。彼らは本船を捨て小舟で上陸したが、小舟は荒波に翻弄されて座礁し粉々になってしまった。わずかに回収できたものは道具類や船材の一部だけだった。6人が加わったことで漂流者は合計18人になった。

 天明8年から5年の間に大阪船から2人、志布志船から2人の死者が出た。残った者14人は座して死を待つより船を造って島から脱出しようと決心した。運よく生き残ったものの中に鍛冶や船大工の経験者がいた。志布志船から回収した鋸や斧、キリやノミなどもあった。前の漂流者が洞窟に残した船釘もあった。彼らは90センチ程の船の模型を作り、必要とする木材の大きさや数量などを計算した。島のどこを探しても船を造るような木は生えていなかった。彼らは神仏に祈って島に流れ着く流木を集めた。運よく船底になる大きなクスの木の板材が流れ着いた。いざ造船作業にとりかかってみると、やはり道具が足りなかった。彼らはふいごを造って船釘を溶かし、斧の頭を打鉄代わりに使って金槌や釘抜を造った。古い鉄の錨を海岸から引き上げ不足していた船釘を造った。5年の歳月を費やして船は完成した。島の中腹の造船場から船を海岸までおろす道造りが困難を極めた。忍耐と創意工夫で船を海に降ろし、ついに帰国の日を迎えた。

 彼らは島を去るにあたって、後に続く漂流者のために鍋、火打石、道具類、ふいご、船の模型を箱に収め、漂着から脱出までの経緯の書置きを、後に続く漂流者のために洞窟に残した。彼らはまた、仲間や無縁仏の骨を集めて船で持ち帰った。遺骨は八丈島の宗福寺に埋葬されたという。

 鳥島をたって5日後。彼ら14人は寛政9年6月13日、青ヶ島にたどり着いた。鳥島での漂流生活は土佐の長平:12年4か月、大阪船の9人:9年5か月、志布志船の4人:7年5か月であった。

 長平らの漂流物語は吉村昭によって小説になった。新潮社1876年刊『漂流』である。

 どんに過酷な境遇に投げ出されたとしても創意工夫努力する力、それが真の丹田力である。丹田力は肉体の力ではなく精神的な力である。その力は机上の学問や知識ではない深い経験によって生まれてくるのだと思う。その人の人生は経験するためにある。だとすれば、生活体験の仮想現実化が進むことは精神的レヴェルの発達において善いこととは言えない。近年、鬱や適応性障害、潔癖症など軽微な精神疾患をもつ若者が増えているのも、このような生活のイージーさと仮想現実化が影響しているのかもしれない。

 私は若いころからの登山の趣味や海外旅行を通じてリアルな体験を沢山してきた。好んで辺境の国々を旅し、様々な場所や環境の中で寝てきた。国内では雪山で遭難しかかって雪洞に寝たこともある。雨でずぶ濡れになって、南アルプスの大きな滝の落ち口でビバーグしたこともある。山の中で一人で野宿したことも沢山あるし、廃屋や山のお堂、洞窟に寝たこともある。数軒しかない山奥の農家に泊めていただいたことも十指にあまる。テントや山小屋に寝たことも数多い。17回に及ぶインドの旅では南京虫が出るような安宿からマハラジャの宮殿をホテルにしたものまでいろいろ宿泊経験した。若かったころ秩父鉄道の終着駅のトイレに寝たこともあれば、会津の山村の共同浴場の脱衣場に寝たこともある。関東、甲信越、東北の温泉宿に泊まった経験は数百件になる。同世代で私のようにバラエティーに富んだ所に寝た体験を持つ人はきわめて少ないとおもう。高齢になった今でも私は風変わりなところで寝たいと思っている。何処でも、どんな状況でも寝ることができる適応性を身に着けることは、私の趣味のようなものになっている。

 今回の人生における私にとってのリアルな体験とは、仕事や家庭の事情で引っ越し出来なかった自宅から離れて、さまざまな場所に寝ることだったような気がする。鳥島の漂流者達、グァム島の横井庄一、ルバング島の小野田少尉、第二次世界大戦の生き残り、シベリア抑留帰還者達などの極限状態の体験には到底及ばないものの、平和な時代にさまざまな場所に寝るという私の工夫はリアリテイある生き方の実践だったように思う。その道程で私はヨガと瞑想に出会った。瞑想はバーチャルなものではなく、時間の無駄遣いでもなく、人間がしなければならない最重要課題であり、真の深い体験を伴うものなのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2021/5/31からの転載です)

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