コラム[動きを止める、動きが止まる]

宇宙に動きを生みだす力はプラスとマイナスという相反する性質を持った電磁気的エネルギーである。プラスとマイナスは2つで1セットになっている。そこに引合う力と反発する力が生まれ動きが起こる。陰と陽、暗い・明るい、重い・軽い、濃厚・希薄、寒い・暑い、上下、左右、高低、求心・遠心、ねばり・さらさら、等はプラスとマイナスが形を変えて宇宙に普遍的に起こっている働きである。拮抗する二つの性質が大きければ大きいほど動きは急速で激しいものとなる。これが宇宙に働いている力で瞬時も止まることはない。もし宇宙が動きを止める瞬間が有るとすれば、拮抗する二つの性質が完全に一方の性質になりきった時か、拮抗が無くなって均一化した時だと思う。万物はエネルギーで出来ていて、エネルギーは不滅である。形が変わるだけである。原子の中に電磁気的な力が働いていて電子は超スピードで動いている。あらゆる物が動き変化しているのが宇宙の本質である。

私達が生まれると云うことは、ダイナミックに動いている宇宙空間に放り出されることだと云える。呼吸が始まる。吸う息、吐く息の二つの相反する力が生命の成長、躍動を生みだす。私達は生まれてから死ぬまで呼吸し続けなければならない。同時に動き続けなければならない。呼吸を止めたり、身体の動きを止めると大変な苦痛がやってくる。体勢は常に変化させてバランスさせなければ苦痛がやって来て、じっとしていることなど出来ないのだ。なのに、過去の悟りを開いたシイダである先哲は「瞑想とは動きを止めることである」と云う。生きていて死んだように呼吸を微かにし、体の動きを止め、体の中の流れを鎮めることが瞑想だと云う。

多くの人が瞑想したくないのは、止めること、動かないことが苦痛だからだ。自由に動きたいことは生き物達の願いでもある。動物は何かに縛り付けられたり、閉じ込められたりするのは苦痛以外の何物でもない。罪びとを監獄に収監するのはそういう意味があるのだ。瞑想に対して嫌悪感のようなものを感じてしまうのは、動かないことに対する恐怖があるからだと思う。人々がスポーツやダンスに熱狂するのは動くことが快感だからだ。多くの人は快楽をもたらす動く事に興味惹かれ、苦痛をもたらすじっとしていることを厭う。

私達は病気や痛みを悪いものだと思っている。しかし良く考えてほしい、病気や痛みが無かったなら、私達は自分の命を継続させることは出来ない。病気や痛みは内在していたものが消えようとして外に現象になって現れたものだ。病気や痛みは変化する、変化するものは動いている、動いているものは本来存在していないものである。それを空と云い無とも云う。見方を変えれば痛みが宝であり、薬であり、病気は神様からのプレゼントなのだ。

瞑想のとき、初心者は1時間じっと座ることは苦痛で難しい。動かず座っていることが難しいので、瞑想は自分に向いていないと考えて挫折する人も多い。2時間じっと座ることが出来たら1時間座ることはなんでもない。そして1時間快適に座れて体の中の様々な流れや動きを観察できるようになれば、そこから快楽や喜びが生まれてくる。体を止めている時の快楽や喜びは、体を動かしている時の快楽や喜びの十倍、百倍にもなる。その事が理解出来たら新しい自分に生まれ変わる。

ヨガの様々な座法や身体的訓練は、長時間体をじっと動かさずにいられる安楽な身体を作ることに役立つものだ。カヨーウッサグ(完全なる身体のリラクゼーション)も身体をじっと動かさないようにするための瞑想の前提条件である。

身体の動きを止めること、呼吸を微かにすることが大きな快楽と喜びをもたらすのだと解れば多くの人がもっと瞑想が好きになるだろう。

宇宙も身体も止まることなく動いている。身体を完全に止めることなど出来ない。しかし身体の表面的な動きを止めて内的な動きや流れを知覚していくにつれ内的な流れや動きが鎮まっていき、動きや流れが止まったように観じられる瞬間がやってくる。極めてクリヤーで果てしなく広がり、方向も位置もなく、観じようとしている自分が一点になり、知覚する対象、観じていた対象が無くなってしまう。そんな時、静かな喜びと至福感に満たされる。止まるということの意味は苦痛でなく大いなる喜びでもあり快楽をはるかに凌駕していると理解される。身体の動きを止めることは苦痛ではないとの理解が、モクシャ(涅槃)、ニルバーナ(寂静)と云う目的地に向かっての長い旅の一里塚になっている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/5/25からの転載です)

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