私の最近の“マイ・プレクシャライフ”をひとことで言うと、「このコロナ禍を活用して『集中的な研究・学び』にシフトしたここ数年」です。これまでの経験で『集中的な取り組み』は私にとって転機や進化の大きなカギをにぎっているので、「コロナ禍で何ができるだろう?」ということを家庭の状況も考慮してまとめたときに、自然と今の状況になりました。そのほかにもいろいろと目的がありますし、オンライン中心のプレクシャ瞑想クラスに力を入れているのにも目的があります。
〈はじめての瞑想体験〉
「そうか、感じ・観じることがポイントなんだ!」
そう気づかせてくれたのがヴィパッサナー瞑想10日間研修でした。あれから約10年が経ったと思います。これが私の“ちゃんとした”初の瞑想体験でした。最終日の一本通った何とも言えないととのった感じは、今でも覚えています。それまで教えてきたヨガのスタイルがガラッと変わりました。感じ・観じることが中心になりました。私にとっての大きな転機でした。
〈プレクシャ瞑想には興味がわかず…〉
もうひとつの瞑想に関する大きな出会いはプレクシャ瞑想です。正直言うと、はじめは講義の内容も実習もしっくりときませんでした。一応ひととおり受講しましたが、「心ここにあらず」みたいな感じであまり身が入らなかったのです。とにかくイマイチよくわからなかったです。今振り返ると、「なぜ瞑想をするのか?」に対する自分の答えが不明確で、自分自身の活動とその答えが一致していなかったのが大きな要因だったと思っています。自分の活動は『ふくヨガ~Holistic Health for Peace & Happiness~』って掲げているんですけどね(「幸福と平和のため」)。。。
そんな私でも、身が入らないなりに続けていくうちに講義が頭に入るようになり、それなりに体調等が良くなる体験もしていたので実技も少しづつ進展していきました。やっぱり「継続は力なり」ですし、芽は出ずともしっかりと水やりをする期間は大切ですね。そうこうしているうちに瞑想に関する大きな転機その2がやってきます。
〈プレクシャ瞑想にハマる①〉
幸運なことに、インド瞑想研修旅行に参加できたのです。ヴィパッサナー瞑想研修もそうですが、『瞑想漬け』、つまり集中的に瞑想を学ぶ効果は大きいですね。しかも現地で直接体験できるのはとても幸せなことです。厳格な修行を重ねているお坊さんたちの人格に直接触れることのできる体験はそれ自体が何よりの教えでした。インドでは『サマイク』という48分間カルマを流入させない時間をつくる、というのを教わり体験しました。このサマイクからも集中的に学ぶことの意義みたいなものを教わりました。優れたお坊さんたち、ともにプレクシャ瞑想を学びあう各国からの参加者、信者の方々など、そこにいる人や食事、雰囲気などが私の学ぶ意欲をインスパイアしてくれました(もう1週間そこにいたいくらいでした)。日本で学んだ『アヒㇺサー(非暴力・不殺生)』『アパリグラハ(無所有)』『アネカーンタ(非独善)』や『バーバクリヤ(マインドフル)』『プラティクリヤ・ヴィラティ(反応しない)』『マイトゥリ(友好)』『ミット・アハー(食の自制)』『ミット・バㇵーシャン(発話の自制)』など、幸福や平和という目的地へ至るための指針が肌感覚でそこでの生活から学べた気がします(食事がおいしかったのでちょっと食べすぎちゃいましたが)。
〈プレクシャ瞑想にハマる②〉
数年前に、月に一度日曜日に開催している坂本師の講座の復習会をオンラインで開催していました。担当が私になり、坂本師からは「実技だけでいいんじゃない」とアドヴァイスを受けましたが、講義の内容を要約しそれをレクチャーして実習もやるのを1時間程度にまとめる、という自分の納得できるスタイルでやらせていただきました。実はそれまでスライドなんてほとんど作ったことがありませんでした。この約1年間は、スライドをはじめ要約することや短時間で講座を進めていく技術を身につけさせていただきました。毎日録音した講義を繰り返し繰り返し聴いて、「あ~まとまんねぇ~」とぼやきながらも、やはり集中的な学びの機会だと自覚しながら楽しめました。特に『無常についてのアヌ・プレクシャ(沈思黙考の瞑想法)』の回は感動もので、以前の私なら意味不明なアヌ・プレクシャの講義と実習が身に染み入り感動できました。「そうか!そうだよな!!」って感じでした。継続の効果もそうですが、インドに行ったからこそのアヌ・プレクシャの理解だったと思います。この時点で、「あとは自分で研究・実践していくんだなぁ~」と悟りました。
〈まだコロナ禍が続く現在〉
コロナ禍に入ってから時間がたつにつれ「幸福と平和のためにプレクシャ瞑想を広めよう」との思いが強くなりました。SNSで頻繁に発信しているのはそのためです。もちろん自分の認知度を高め、より広めやすくする目的もあります。ここ数年はプレクシャ瞑想の講座をオンラインで開催していますが、これも多くの人に広めるためであり、その試みです。オンライン講座用のプラットフォームを構築できれば、ネット環境さえあればどこにいても学びあえます。いつなんどき我が家も引っ越すかもしれないですしね。私もいいオジサンですし、今後出てくるかもしれない若手に何か良いものを提供したいですし。インドのプレクシャインターナショナルはその点力を入れていて進んでいるようですし、そこは大いに見習っています。
オンライン講座用のテキスト作りが今や私の月間の大きな仕事となっていますが、これもプラットフォームづくりの一環です。また、プレクシャ瞑想の研究にもなっています。毎日ジャイナ教哲学と格闘し(=理解実践できていない自分自身と格闘し)触れあう、これも集中的な学びになっています。こうしてテキスト作りや研究に集中できるのは、いつも講座に参加し講座を待ってくださっている方のお陰です。いつもありがとうございます!
SNSでの発信を続けているうちに、インドの方が色々と情報を送ってくださるようになりました。ジャイナ教のことやインドの祭典や観光地、遺産のこと、イギリスの大学でジャイナ教のことが取り上げられていることや、おすすめのジャイナ教研究者のことなど、ありがたい限りです。今年プレクシャ瞑想の研修でインドに行った女子お2人からはプレクシャ瞑想に関する本をお土産でいただきました。早速活用させていただいています。ありがとうございます!
良いものを丁寧に作っていきたいという自分の信条は子供のころから変わらないようです。時間はかかりますが、いずれ良いものをお返しできればと思っています。
(2023年4月137号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 指導士・福元朗
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【フェスティーナー・レンテー】
「リラ~ックス・リラ~ックス・リラ~ックス。。。ぜんぜんリラックスしないじゃん」
これまでほとんど言ってきませんでしたが、これがカヨーッツアルグ(自己暗示による身体の完全リラクゼーション)をやったときの初めの感想でした。私にとってカヨーッツアルグという技法はず~っととても難解な技法で、「あ、リラックスしてきたなぁ~」と感じられるようになってきたのは、実は最近になってのことです、ってことをここに懺悔いたします。プレークシャー瞑想を教える立場にいながら大変お恥ずかしいのですが。。。
学生の頃に精神的に病んだのがきっかけでヨガや瞑想の道に入りましたが、ヨガや瞑想の道に入る前には心理学や心理療法の本を読み漁っていたのもあって、自己暗示を使った心理療法の自律訓練法なんかも試したことがありました。当時は八幡洋氏の『立ち直るための心理療法』(ちくま新書)を繰り返し読んでは試していました。お察しの通り、まったく効果というか反応はなく、その他の本にも自律訓練法はよく出てきていましたがスルーするようになりました。
その昔、私のヨガクラスから開脚のポーズが消えた時期がありました。これもお恥ずかしいのですが、開脚の練習が楽しくて調子に乗って脚を痛めてしまったのです。そういうことで私のクラスから一時期開脚のポーズが消えていたわけですが、約1年後に再登場することとなります。しかも痛める前よりも脚は開くし腰は立つし前屈も深くなってるしと、いいことずくめ!約1年間開脚のポーズを封印していましたが、その間に取り組んでいたこと(ポーズだけではない)が私を総合的に高めてくれたのだと理解しています。
さて、お話が飛び飛びになりましたが、何が言いたいのかというと、一見遠回りに見えるかもしれないけれど、できるだけ総合的に取り組んでいくと、上手くいかなかったことが上手くいくようになったり想像以上に進歩・進化していったりするんじゃないかなぁということです。(欲望のまま手あたり次第やっていけばいいってのとはちょっと違うかなとは思いますが)
ご存じの通りプレークシャー瞑想は基本的に7つの段階というか技法があり(マントラメディテーションを入れると8つ)、単独でも取り組めますが、やはりチャイタニヤケーンドラ・プレークシャーあたりからは毛色というかレベルが違ってくるところに『段階』を感じます。ですが、わからないなりにもまんべんなく技法に触れたり、ある時には一つの技法に没頭したり、それに付随する哲学を学んだり、それらを日常で適用・応用したりするプロセスで、その人にとってのペースや順序で進歩・進化していくのだと今では感じています。とりあえず続けて進めてみる。
プレークシャー瞑想のサブコンポーネントにはヨガのポーズや呼吸法なども含まれていて、プレークシャー瞑想は総合的なパッケージとして構成されているのがわかります。学びを進めていくと、プレークシャー瞑想が安心して安全に取り組めるのはこの総合性に起因しているというのがうかがえます。特に哲学はものの見方やとらえ方を変容してくれるので、たとえわからなくてもとりあえず触れておくことがものすごく重要かと。
幸いにも再び投稿の機会をいただいたのでこれまでをあらためて振り返ってきましたが、「やっぱり続けるもんだなぁ~」とつくづく感じる今日この頃です。
「フェスティーナー・レンテー」、20年以上前の18歳の時に出会ったこの言葉。時には忘れることもありますが大切にしている言葉のひとつです。せっかちだけどマイペースで探求していきたい自分にはぴったりのこのラテン語は「ゆっくり急げ」という意味です。
(2023年10月143号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 指導士・福元朗