コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか

インドには古代から続く宗教的流れとして、バラモン系(アーリア文化系)の流れと、シュラマナ系(土着的クシャトリヤ系)の流れがあった。バラモン系宗教の修行の主たるものは苦行であり、シュラマナ系宗教の修行の主たるものが瞑想であった。そしてシュラマナ系の宗教の中に輪廻転生思想が伝わっていた。BC8世紀後半、ウッダーラカ・アールニーなどの思想家の登場によりバラモン系宗教の流れとシュラマナ系宗教の流れに思想的な合流が起こった。苦行と瞑想、自業自得と輪廻思想が結びついて、その後、インドに発生した宗教を特徴付ける解脱思想が起こった。解脱思想が広まることで出家が流行した。そのような時代背景があって、輪廻からの解脱を求めて、BC6~5世紀ごろ、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラと仏教の開祖ゴータマ・ブッダが登場した。

仏陀はマハーヴィーラと同じく、シュラマナ系の出家修行者であった。出家してから仏陀はアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとで瞑想修行をしたが、悟りは開けなかった。仏陀は瞑想修行を捨て、次に苦行の道に入った。仏陀の苦行は断食行と止息行が中心だったと伝わっている。しかしどんなに苦行をしても悟りは開けなかった。苦行を止めた後、仏陀は考察瞑想を行って、徹底的に原因と結果の法則について考えた。仏陀以前のカルマ論は原因があれば結果は必ず起こるというものであったが、仏陀は原因と結果の間にある縁としての条件や環境が重要な因果律の要素であることを発見した。『いくら原因があっても環境や条件が整わない限り結果は起こらない。』と従来のカルマ論を修正した。また従来の輪廻説では欲望が原因となって輪廻が起こると考えられていたが、たんなる欲望ではなく、もっと深いところにある人間としての根本的な生存欲にあることを発見した。この二点の新発見が従来の宗教哲学になかったものであり、仏陀の悟りの核心だと考えられている。

仏陀は苦行は何の意味もないとして排除した。仏陀は 『人間として正しい生き方はどうあるべきか』 について考察したときに、ジャイナ教のように魂を強調してしまうと極端な非暴力、不殺生の考え方に陥り、人間としての現実生活に合わなくなると考えた。ジャイナ教では全ての生き物に魂があり、皆生きたいと思っているのだから、人間生活を脅かす害虫の命でさえ奪ってはならないとした。ジャイナ教哲学では植物にも魂があるのだから、農業は出来ない。実ったコメや麦を刈り取ることも出来ないし、種籾は生きているのだから煮炊きすることは出来ないことになる。雑草を抜くことも樹木を伐採することも出来なくなる。輪廻の中の生き物は皆、魂を持っているという考え方だ。その考えは真実かもしれない。しかしそうだとすれば非暴力を徹底して、自分が生きるためには殺生を他にしてもらわなければならなくなる。そういう行為は卑怯だという批判になる。だから、仏陀は「あまり魂、魂と言うなよ」との立場をとったのだと思う。そして苦行を排して苦楽中道を提唱したのだと思う。

仏陀が魂についてあまり語らなかったので、「ミリンダ王の問」(紀元前2世紀頃書かれた仏典、最初に無我説を説いた。)などの論調に見られるように、後の世の仏教徒は仏陀ともあろう人が魂を語らなかったのだから、きっと仏陀は魂はないと説いたのだろうと解釈して、仏教が無我説(魂は無い)になってしまった。

仏陀は魂についてよく理解していたと思う。なぜなら、仏教の根本思想は因果律の教えであり、輪廻転生からの解脱がその中心思想であるからだ。仏陀の悟りは「縁起の法」として知られる。縁起の法とは原因と結果の法則であり、「カルマによって輪廻転生が起こっている。」との思想はジャイナ教やヴェーダンタ哲学とほぼ共通のものである。

仏陀が魂について無記(言及を避ける)の立場をとったので、本来、非我(体や心は私ではない)であったものが後の仏教徒に無我(魂は無い)と解釈されてしまった。そこで、行為の結果を受ける輪廻の主体があいまいになって、仏教が他からの論争攻撃の対象になってしまった。仏陀在世の時は仏陀は形而上学的な論争は無駄だとして論争を避けることが出来たが、仏陀亡き後はその攻撃に対して苦し紛れの理論武装をしなければならなくなった。そんな理由で、仏教理論が複雑化し解りにくくなり、今に続く混乱のもとになったと私は推察している。無我説では自業自得や因果応報の説明がつかないので、輪廻転生説がなりたたなくなるからだ。

仏陀は現実主義者であり実用主義者だった。一方、マハーヴィーラ・ジナは極端な苦行を通してカルマを根絶し悟りを開いた厳格主義者であり理想主義者だった。ジナは魂を重要視して決して他の命を奪ってはならないとした。ジャイナ教は非暴力・不殺生、無所有・無執着を徹底することを悟りに至る最重要課題にした。絶対非暴力だから、他の命を奪うことはない。他と争うこともない。自分の命が奪われようと他の命を害することはない。それがジャイナ教の理想主義である。ジャイナ教は宗教の名のもとに他の宗教と戦争したことのない唯一の平和宗教といってよい。仏教にも非暴力の考えがあるが現実主義をとるので非徹底にならざるを得ない。ジャイナ教の無執着は無所有と同義語であり、魂の清らかさに重点をおいて、物質的なものや肉体的レベルのもの、快楽原理に従う世俗的なもの等の価値に執着するな、との教えのことである。人は家族や財産や地位や名誉や知識など、自分のものだと思うものに、どうしても執着しがちである。その執着を手放せ、つまり所有してはならないと戒律で厳しく制限した。ジャイナ教は執着しない所有しないことで輪廻の原因となる欲望から離れようとしたのである。

仏陀の無執着は無執着にも執着するなとの教えであって、ジャイナ教の無執着とは少し意味が違う。仏陀は苦行を排して苦楽中道を立てた。中道とは世俗的な安楽な道と苦行的な厳格さの中間、つまりいい加減にしたのである。中道とは厳格な人から見ればハードルを下げた堕落に見える。

仏陀は当時の出家者の厳格さを排して、屋根のある建物の中で起居するようになり、綺麗な衣を身にまとい、食事の接待を受けるようになった。従来の出家者の常識であった厳格な戒律などに執着するな、こだわるな、とらわれてはならないと主張した。

仏陀のこのような革新的で実用的、現実的な思想が当時台頭してきた新しい都市国家の裕福な商工業階級の人達に絶大な支持を受けて仏教教団が大きくなっていったと考えられる。

ジャイナ教と仏教はシュラマナ系の父母を同じくする兄弟宗教である。基本的な哲学もほとんど同じと言ってよい。一つだけ違うところがあるとすれば永遠で不変で無限で偏在で純粋なる魂を認めるか認めないかである。仏教は現実主義、実用主義だから、非物質的なものは認めていない。仏教の世界観は基本的に物質世界のみのことである。物質世界では変化しないものは無いのだから非物質であると定義されている魂は無いことになる。

ジャイナ教やヴェーダンタ哲学では非物質なものの特徴として、始まりもなければ終わりもない。永遠に存在し不変である。何時でも何処にでもあって偏在している。無限であって時間と空間に制約されない。時空を超えていて次元も超えている。そして穢れなき純粋なものであると定義している。それが真我、魂であるとしている。

仏陀が沙羅双樹のもとで涅槃に入られるとき、弟子たちは「仏陀入滅の後、私たちはどのようにしたら良いのでしょうかと」と質問した。仏陀は答えて曰く「これからは法灯明、自灯明あるいは法帰依、自帰依でいきなさい。」と最後の教えを残された。「私は充分お前たちに教えてきた、もう教えることは何もない、私の教え【真実】を頼りに、他に頼ることなく自分で道を歩んでいきなさい。」と言った。仏陀の法とは縁起の法のことである。つまり、「因果律の教えが真実なのだから、そのことを生活の全ての羅針盤にして、全て自己責任で生きていきなさい。」と教えたのである。それが仏教の核心的教えだと私は考えている。自分が神であり、全ての人が神である要素を持っている。仏陀は自己の内側に神聖をみて自業自得、全責任を自分に見なさいと教えているのである。

仏教のカルマ論(因果律の教え)とジャイナ教のカルマ論、ヴェーダンタ哲学のカルマ論はそれぞれ少し違うところがあるけれど、要約すれば、ーーー【この世の中に偶然は無く、原因と結果の法則に従って必然的に起こっている。そして、今自分が存在していることの全て、受け取っていることの全ては過去の自分が為した行為の結果によるものだ。だから自業自得であり全責任が自分にあるのだ。】ーーーとの基本哲学は同じものである。

ヴェーダンタ哲学は創造神としての神を認めていた。マハヴィーラの時代のジャイナ教、初期仏教では創造神というものはなく宇宙はカルマによって始めもない始めから、終わりのない終わりまでただ変化が継続しているのだと説いていた。BC2世紀の後半ごろ仏教がヒンドゥー教の影響を受けて大乗仏教が起こった。同じころ、ジャイナ教でもジナ像が作られ神様の概念のようなものが登場した。救い、救われといった他力救済の概念が起こったのである。

およそ2000年以上に亘って、仏教もジャイナ教もヒンドゥー教も互いに影響しながらその教義を発展させていった。原点に帰っていろいろ考えないと、宗教とは何か、なぜ瞑想が必要かなどのことは良く理解できないのである。


<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/11月第74号からの転載です)

コラム:アカルマへの道・モークシャとサンミャク・ダルシャン 2017年3月20日(月) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演

今日はカルマから自由になる話をしたいと思います。ジャイナ教哲学では人間にとって最高の理想状態になることをモークシャと言います。私たちはモークシャになることを目指すべきであり、そして、モークシャになる努力をすべきです。モークシャになることはマハーヴィーラだけでなく偉大な教祖の示す道でもあります。モークシャになることは印度哲学の最高の目標であり、仏教もジャイナ教もヴェーダンタも同じです。それら、どの哲学も人間にとって最高の理想状態をモークシャといいます。モークシャになるには語るだけではだめで、モークシャになるための訓練、修行を始めなければなりません。我々一人ひとりがモークシャになることを最終目的とすべきです。

モークシャになるには3つの道があります。ずっと昔の古代の聖者の中には4つの道を歩いた人もいます。しかし、一般的には3つの道を歩くことで実現されます。モークシャを目指すなら、それに値する人にならなければなりません。解脱(モークシャ)するには、解脱するための資格が必要です。それには、まず真実・本当のことと、嘘・間違いを見分けることが出来る力が必要です。

1.正見―正しいものの見方が必要です。偏見や妄想でないものの見方が必要です。知識によってものを見るのではなく、言葉を変えるなら開けた目で全てを観ることです。

2.正しい知識―正しく観て 、正しく受け取ること(正知)です。

3.正しい行動―正しく学び、正しい訓練、修行をする必要があります。

正しく見、正しく知り、正しく行動するとはどういうことかというと:

正しく見るとは真実を信じられるということです。正しく見るとは物事を妄想を抱かないで見ることをいいます。この世の中を正しく観るとはそういうことで、この世の中を正しく観、そして我々自身を正しく観れば、我々は世の中を知ることができるし、全てのことを理解できます。そして、私たちは世の中を理解し、私たち自身を理解して、そのつながりを理解しようと努力することができます。そこには迷いや妄想は生じて来ません。誤解も生まれて来ません。それをサンミャク・ダルシャン(正しく観る)といいます。正しく観るとは真実を信じられるということです。

「サンミャク(Samyak)」 とは、正しいこと、真実、迷いがない悟りの状態を表す言葉です。

「ダルシャン(Darshan)」とは、観ること、運命という意味もあります。

サンミャク・ダルシャンとは揺るぎもない、迷いもない状態のことで、正しい見方、正しい生き方、正しい哲学のことをいいます。サンミャク・ダルシャンは本当のことと、嘘のことを見分ける見方(知力)のことです。

何が正しくて何が正しくないかを見分けられるから、そこから全てが始まります。まず、正しいものの見方は、本当の意味での明確な人間の目的を示してくれます。そして、それは世界中の人間に共通していることです。それこそが人類が体験すべきことで、その方向が自分の修行、訓練の方向で、力を得る方向です。

世の中にはいろいろな悲惨なことや悪いことがありますが、その根底にあるものは何が正しくて何が間違っているかが解からないところにあります。もしサンミャク・ダルシャンが自分の中に整ったと思ったら、次の6つのことについて自分自身に問いかけてみてください。

1.魂は有る。

2.魂は永遠。魂は死なない。輪廻転生する。
魂は永遠でないという考え方や魂はないという考え方もあるが魂は永遠と信じられないと自分を律することが出来ないし、好き勝手に生きても構わないという生き方になります。

3.魂はカルマに従っていて、カルマに拘束されています。

4.魂は為したことを受け取ります。
私たちは原因と結果の法則の中に生きています。何を考え、何を為したかで結果が起ります。今このようにある自分は、全て自分自身に責任があります。善因善果、悪因悪果。

5.魂はモークシャ(解脱)になれます。

6.モークシャの道を歩きたいと思っているか。
我々は全てのカルマを打ち砕き、解消してモークシャになることが出来ます。それがモークシャへの道です。

以上6つのことを理解していれば正しいものの見方が出来ていると言えます。モークシャに至るには基本としてサンミャク・ダルシャン、正しいものの見方を持っていることが必須で、6つのことを理解し信じていればその人をサンミャク・ダルシャーニといいます。サンミャク・ダルシャーニとなることがモークシャに至る基本で、建物でいえば基礎にあたります。

次にモークシャに至るには正しいマスター(導師)、正しいグル(教師)、正しい宗教が必要です。

正しい指導者と真実の宗教によって我々は真のサンミャク・ダルシャーニになれます。

では正しいマスター、正しいグルとはどのような人でしょうか?

本当の智慧を授けてくれるマスターは完全に無執着です。好き嫌いが全然ない。人間だけでなく、全ての生き物に対しても好き嫌いが全然ありません。全てを平等に無差別に見ることが出来る人です。マスターは本当の智慧を授けてくれる人ですが、グルはそれを人々に教えてくれる人です。

正しいグルとはどのような人でしょうか?

本当のグルは無所有を実践している人で、結婚していないし、お金を触りません。貯金通帳も持っていないし、土地も家屋も財産もありません。自分のものを何も持っていない人です。世俗生活から完全に離れた出家です。そのようなマスターやグルを見つけることは大変難しいことであるがとても大切なことです。日本にいなければ地球は狭いので旅をしてグルを探すのも善いでしょう。ジャイナ教では出家と在家の支え合いシステムが出来ています。日本でもそのようなシステムを作ることは可能でしょう。

間違ったマスターやグルを選んでしまったらどうなるでしょう。正しくないグルについてしまうと人生を無駄にしてしまいます。そしてモークシャに至る正しい道を歩くことが出来ません。だから、本当のマスターやグルを見つけるのに注意深く慎重でなければなりません。

正しい宗教とは完全なる非暴力を実践するものです。どんなものにも生き物たちにも暴力を加えないものです。我々は生きていくために食、衣、住、仕事(活動するところ)の4つはどうしても必要ですが、その必要なものに対してアヒンサー(非暴力)、サイグルタ(忍耐)、サンヤム(節度、制限、慎み深さ)が必要だと思います。それが正しい宗教の基本です。

正しいマスター、正しいグル、正しい宗教をもつことが本当の意味でのサンミャク・ダルシャーニであり、モークシャへの道の基本になります。修行しても努力してもサンミャク・ダルシャーニになっていなければ、得るものは少ないと思います。

サンミャク・ダルシャーニになると、恐れ、怒り、執着、混乱から離れられます。多くの善くない習慣から離れられます。鬱や自殺から離れられます。サンミャク・ダルシャーニになることで、多くの病気から私たちは守られます。

サンミャク・ダルシャーニになると、それがその人の行動に現れてきます。

1.シャムが出来るようになります。
シャムとはネガティブな気持ちをちゃんとコントロールできることをいいます。なので、ネガティブな感情はほとんど起こって来ません。

2.悟り(モークシャ)に対する強いあこがれを持っています。

3.全ての執着から離れることが出来ていて、完全なる無執着が実行できます。

4.慈悲の心が絶えることがありません。慈悲の心は全てのものに対してであり、その心が自然に備わっています。

5.真実、真理を信じています。

だから、サンミャク・ダルシャーニは困難、否定的なこともポジティブに肯定的に解決できます。どのような苦しい状態の時も気持ちは沈まないし、その困難を突き抜けていくことが出来ます。本当の意味で真実を追求していけば薬物中毒にはまるようなこともありません。サンミャク・ダルシャーニにならないとアカルマになることはできません。

カルマから解放されることの障害になること、つまりサンミャク・ダルシャニーの障害物は何でしょうか。

1.疑い
精神的なものに対して疑い深い人。人間の頭は常に疑いを作り出しています。

2.間違ったことを期待してしまうこと
他力本願、資格がないのに救いを求めてしまうことです。

3.自分の修行に対する結果に疑いを持ってしまうこと。例えば、この方法でモークシャに至ることができるかと疑ってしまうことです。

4.人々に間違ったことを教えてしまうこと。

5.間違った信念を持ってしまうこと。

これらのことがモークシャへの道の障害となるのです。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/10月第74号からの転載です)

コラム:2017年3月19日(日) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演「ジャイナ教のカルマ論と輪廻転生」

ジャイナ教のカルマ論はヴェーダーンタ哲学や仏教とは少し違っている。ジャイナ教でカルマのことを考える理論では5つの事柄を中心に考えている。その5つのこととは:

1.魂
2.カルマ的な要素
3.バイブレーション
4.物質的カルマの解放
5.魂が純粋になった状態

カルマの理解の基本は魂(輪廻の主体となる魂つまりジーバ)について知ることが大切である。魂が無ければカルマは無い。宗教によっては魂はないと考える宗教もある。ある宗教哲学では宇宙の5大要素が集まった時、魂が出来て、肉体が死ぬと5大要素はバラバラになって魂は消滅すると説くものもある。ジャイナ教の魂はそのように消滅する物ではなく、永遠のものである。永遠なる魂がベースになってそこにカルマが付いたときジーバと呼ばれる。宗教によっては魂は無いという考え方がある。仏陀は魂を語らず説明しなかった。ジャイナ教では魂は説明できるという立場をとっている。魂とカルマが結びついたとき、その魂をジーバと呼ぶ。ジーバとは輪廻の中にある魂のことである。

魂のことをアートマンともいう。魂(アートマン)は一つのことであるが、二つの性質側面がある。それはドラビア・アートマンとパーヴァ・アートマンである。ドラビア・アートマンは基本的な魂のことで、まったく純粋な魂のことである。パーヴァ・アートマンはカルマ体によって影響を受けた魂をそのように呼んでいる。愛とか怒りとか感情や意識によって作り出された汚れのようなものが魂に付着している。魂の中にいろいろ感情的なものの凝りとか、活動したことの結果によるものとかが付着している、それらを含めてパーヴァ・アートマンと呼ぶ。基本的な純粋な魂ドラビア・アートマンは永遠。輪廻の中にある汚れた魂パーヴァ・アートマンも永遠なものである。パーヴァ・アートマンはそれぞれ違う体に宿りながら輪廻の中を動いている。

カルマもアートマンと同じように二つに考えることができる。ドラビア・カルマは宇宙全体に広がっていて、ずっと私たちの魂にくっついてくる素材のカルマである。宇宙のどこにでもある。ここにもある。あそこにもある。しかし我々には見ることは出来ない。意識的なものではなく、生きているものではなく、物質のようなものだが我々には見ることができない、宇宙全体に満ちている原材料のようなものである。ドラビア・カルマの中には色、匂い、味、触覚が含まれている。それは、肉体的なものに関係する。本当のカルマとは言えないがカルマの素材になっている、生き物ではない物質である。パーヴァ・カルマはカルマによって実った結果をいう。

(注:物質は魂に付着して、その下降性ゆえに魂を身体のうちに押しとどめ、魂の本来の特徴である上昇性が発揮できないようにしている。渡辺研二「ジャイナ教p171」)

アートマンにカルマが結びつくとバイブレーションが生ずる。私たち人間、生き物はカルマとアートマンを持っているから、魂は四六時中いつも、寝ている時もバイブレーションを起こしている。バイブレーションが起こることで、色々なものを引き寄せている。しかし通常意識ではこのバイブレーションは感じることはできない。魂にカルマが付くことで二つが一つになり波動が起こり、その波動によってさまざまなものを引き付ける力が生まれる。波動によって宇宙に漂っている、充満している小さな粒々、カルマのもととなるドラビア・カルマを引き付けている。ちょうど、磁石が砂鉄を引き付けるように。魂はドラビア・カルマを全方向から、魂に一番近いところからより沢山、受け取っている。思考だけでも宇宙からカルマを引き寄せている。肉体はスカスカである。そのスカスカの空間に物質を引き付けている。

なぜ、魂が縛られてしまっているのか。それは、カルマがあるから。ではカルマは何によって縛られてしまうのか。それは迷いによってである。なぜカルマを引き寄せてしまうのか。マーハーヴィーラはゴータマに話した。それには二つ理由があって、一つは無知と行為によっておこるのだ。もう一つは執着と精神的な誤解、妄想、混乱によっておこると説いた。また、プロマーダとカシャーイも身(行動)、口(言葉)、意(意識、マインド)によってカルマを引き寄せている。引き寄せられたものがまた、新しいカルマを引き寄せている。

1.プロマーダ (Pramaad)
惑わすもの(迷い、妄想、誘惑)。永遠なる喜びでなく、一時的な快楽を本当のものと思ってしまうこと。魂(スピリチュアル)なことでなく、肉体的な喜びの迷い。肉体は永遠でなく、魂は永遠。

2.カシャーイ(Kasaay)
もう一つの惑わすもの。4つの情欲のこと。
1、怒り・アンガー 2、慢心・エゴ
3、強欲、貪り・グリード 4、偽り、虚偽、騙す・デシード

カシャーイすなわち情欲がなくなれば、物質は付着する可能性が少なくなる。

カルマによって我々の行動は違ったものとなる。いろいろな人の違い、個性別はカルマによって起こる。アートマン(魂)の性質は、生まれることも死ぬこともないというもの。永遠の智慧と永遠の理解と永遠の至福が備わっている。魂は苦しみがない。魂は形がない。魂に高いとか低いとかはない。皆同じである。そして、魂の奥には永遠の力が備わっている。その力は私たちの魂が持っている自然のものである。もとからあるものである。しかし、我々はそれをなかなか信じられないし、感じることは出来ない。なぜなら、我々の知識は極めて限られたものであるからだ。例えれば、それは大海の中の一滴の水でしかない。我々は極めて少ない知識しか持っていない。それぞれの知識は又、違っている。知識を沢山持っている人もいれば、持っていない人もいる。知識の理解度も人それぞれ違う。ある人はすぐ理解できるし、ある人はなかなか理解できない。我々の苦しみも違う。沢山苦しむ人もいる。そうでない人もいる。我々の呼吸もみな違う。社会的に高い地位にある人も、低い地位にある人もいる。我々は生まれたり死んだりする肉体を持っているので限られた時間しか持っていない。魂は永遠なのに、なぜ私たちはこんなに限られた生き方をしているのか?この違いはどこに原因があるのか? それがカルマというもので、カルマがそれを生じさせている。

ジャイナ教の8カルマ
1.ギャーナ・ヴァラニーヤ・カルマ
知識障害や知識の容量に関係している。魂の持つ知の能力、理解力を覆い隠してしまう。

2.ダルシャナ・ヴァラニーヤ・カルマ
信仰障害。魂に備わる見(信仰)の能力を覆い隠してしまう。

3.ヴェーダニーヤ・カルマ
感受の障害。

4.モーハニーヤ・カルマ
迷妄によって執着心を生じさせる。信仰と行為を惑わすカルマ。

以上4つのカルマは善くないカルマで、善くない結果を生じさせる。

以下の4つのカルマは善いことをすれば善くなり、悪いことをすれば悪くなる。

5.アーユシュ・カルマ
寿命に関係している。

6.ナーマ・カルマ
身体上の相違をもたらすカルマ。男女に生まれる違い。健康に恵まれる恵まれない。肉体的な不調和、美醜。尊敬される、されない。

7.ゴートラ・カルマ

社会的なステータスに関係している。生まれる家柄の上下貴賤を決定する。

8.アンターラヤ・カルマ
内部障害に関係している。目的に到達できることの困難度に関係している。ある人は目標達成が簡単であるが、ある人にとっては大変困難である。

我々は悪いカルマに気づき、カルマに縛られないようにしなければならない。ジャイナ教では苦行者は苦行の実修によってカルマが結果を作る前に原因を除去できるとしている。

カルマ体にカルマ(物質)が結びつくとカシャーイ(4つの情欲)が生まれる。そのカシャーイがもとになってアドバシャーイ(感情)的動きを作っている。

魂はバイブレーション波動のようなものを起こしている。周波数が高い極めて微細なものである。カルマ体からアドバシャーイまではとても微細なものである。バイブレーションはレーシャの領域に来ると、色がつけられているわけではないが、我々が色として知覚できるレヴェル(段階)となる。ここからは色が力になっていく、色の力が我々に影響する。肉体的にホルモンが出る。ホルモンが脳の機能に影響し科学物質が生成される。頭に浮かんだことで行動する。そのプロセスが逆に内側に影響する。魂から外へのプロセスと逆の外から魂へのプロセスがある。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/9月第72号からの転載です)

コラム:火とは何か

火とは何かについてアヌプレクシャした。火について考察するとき私の脳裏にまっさきに思い浮かぶのは焚火である。今の若い世代や私の孫たちは焚火の経験が少ないか全くないといってよい。また、どのように薪を燃やすのか、その技術を知らない。私は若いころ、北関東から東北北部の白神山地まで未知なる渓谷を求めて沢登りに熱中した時期がある。道のない山を渓谷伝いに登るとき、渓畔での野宿の友は焚火であった。山での焚火は調理のための燃料であり、体を温めるための暖房であったが、それ以上に心の安心や暗闇を照らし、友との語らいを引きだしてくれる媒体であった。薪を刈るための山道具として私は秋田県角館の喜一鍛冶に特別注文の鉈を作らせたほど、渓流歩きと焚火の達人になった。

南アルプス北部の白岩岳に8月に登った時のこと、滝もない登りやすい門口沢を登り予定より早く白岩岳に登頂し、前小屋沢に下った。登行記録のなかった前小屋沢は、登りの時の門口沢とは全く違って険しい谷だった。下山途中で不運にも雨になった。我々3人は誰も雨を予期していなかったので雨具を持っていなかった。雨に打たれて全身びしょ濡れになった。雨に打たれているので下山を急いだが夕暮れ時、どうにもならない大きく高い滝に遭遇した。無理して滝を下降して滑落したら命にかかわる。3人で協議して滝の落ち口の安全な場所でビバーグすることにした。我々は日帰りでベースキャンプまで降りてくる予定だったので食料も持参していなかった。ひもじく、寒さに震えながらの長い一夜を過ごした。遭難一歩手前の夏の夜が明けた。幸い雨が止み流木を集めて焚火を盛大に起こし、濡れた衣服を乾かした。雨具や食料は持っていなかったが、マッチと鉈だけはサブザックに入れていた。地図を焚きつけにして、火を起こした。この時の焚火のありがたかったこと、一生の思い出である。

火を扱えるようになって人類はほんとうの意味で人類になれたのではないかと私は思う。火は暗闇を照らす明かりであり、食物を食べやすくする煮炊きの燃料であり、寒さから暖をとったり、獣から身を守るありがたいものとなった。ホモサピエンスの登場以前、今から40~50万年以前、原人の時代から人類はすでに日常的に焚火としての火を使っていた。

火を巧みに扱えるようになって初めて人類は文明を持つ余裕ができたと言える。石炭や石油などの化石燃料が広く使われるようになる以前、人類史の長い間、人間が火を作るための燃料は主に薪と炭であった。火は調理、照明、暖房、合図として使われてきた。焚火で調理する方法として土器や金属器がなかったときには調理する物を串にさす、木の葉に包む、焼石を使う方法がとられた。火を使うことが出来るようになって、食べることが困難だった豆や穀物、芋など多くのものが食用可能となり農業が起こる礎となった。火を通すことで肉に付着している寄生虫や病原菌を熱消毒できる利便性も得られた。

さらに火を扱うことに上達して土器が焼けるようになり、陶器や磁気まで焼けるようになった。火が使えることで銅と錫を混ぜて青銅器をつくれるようにもなった。文明とは火を上手に扱える技術のことだといえる。照明器具として菜種油や魚油を燃やす行燈やランプが作り出され、化石燃料を安価に大量に扱えるようになって、蒸気機関から自動車、航空機まで作れるようになった。さらに現代ではエネルギー源として原子力や燃料電池、風力発電や太陽光まで火のカテゴリーとして扱えるようになり、文明は加速度的に進歩発展している。

火という言葉の定義づけは、「熱と光を出す現象のこと」といえる。科学的には、「物質の燃焼に伴って発生する現象のこと」である。燃焼とは物質の急激な酸化である。火が燃えるとき熱や光とともに様々な化学物質が生成される。炎は煙が熱と光を持った状態になった気体の示す一形態である。それを科学的にいうと、気体がイオン化してプラズマを生じている状態という。

火は大地の重力や引力、大気の対流や、湿度などとも関係している。ろうそくの炎は炎心と内炎と外炎によって構成されている。最も明るいのは内炎である。内炎では炭素(すす)が多く含まれていて不完全燃焼を起こしている。最も熱いのは外炎で酸素と最も多く接している。ろうそくの炎の先端では1000℃になっている。地球では火は地球独特の火の燃え方をしている。他の惑星では火は違った燃え方をするだろう。宇宙船内部など無重力状態では対流が起きないので炎は球形になってしまうという。そして、完全燃焼するために青くなるらしい。丸く燃える炎はゆっくり動かさないと消えてしまうらしい、丸く燃える炎の周りに発生した二酸化炭素が炎を包み込み酸素を遮断してしまうからである。

火が燃え続けるには適正な温度と燃料と酸素の継続的な供給が必要となる。火を消すにはその条件を奪えばよい。調理には炎が小さくて長くゆっくり燃える小さな火が都合よい。燃えても炎が小さい炭はその点で使いやすく、灰をかけるなどの方法で燃料を長持ちさせることもできる。

火は人間に多大な恩恵を与えてくれる半面、時には大きな災いをもたらす。不注意から家屋が火災で焼け、時には燃え広がって大火となり多くの家屋を焼き尽くす。第二次世界大戦時、日本の主だった都会はB29による焼夷弾攻撃をうけ焼け野原となった。広島や長崎に落とされた原爆も人為的な火の大災害である。火は善悪の両面がある。優しさと恐ろしさの両面を備えている不動明王のようだ。不動明王は体から火炎を放射した御姿をしている。それは究極的な火の神像である。私の家の床の間には代々、慈覚大師が版木を彫って制作された下総御瀧山の不動明王像の掛け軸が掛けられている。光背の炎は人間の血液で彩色したものである。私はずっとこの掛け軸を見て育った。今でも毎日それを
見ている。

火は熱であり、光であり、エネルギーである。その根源、生まれたところは宇宙の誕生とおなじ所である。今から138億年前、空間もなく、光も電波も物質もなく、時間もない、点もないところにビックバンが起こった。天文学用語でいう特異点から急激な膨張する動きを伴って宇宙は生まれた。なぜ急激な膨張、天文学用語のインフレーションが起こったか?それは宇宙全体が急に加熱された結果、急激に膨張が起こったのである。その熱は真の真空から現在の真空に相転移することで想像を絶する高温が発生した。それが宇宙の誕生ビックバンである。全ての元素やエネルギーや物質や星々や生物や火や水や風や地球や我々一人ひとりの出発点がその特異点、ビックバンにある。

光も熱も火も、地球も大地も樹木も我々自身も、宇宙空間の膨張と共に時間が始まり、時間の経過で継続する変化が起こり、その変化の中で最初の相転移の熱が形を変えて今、このように違った形で違った場所に存在しているのである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/4月第70号からの転載です)

コラム:自分が自分の主人公になる

全ての人間が望んでいることは幸福になることである。幸福とは何だろうか?

幸福とは無限の愛に満たされることである。沢山の人を愛し、沢山の人から愛されることである。そして、全てのものと一体になり、宇宙と合一することであると言える。幸福とはまた、自由自在を獲得することであり、全知全能を得ることだと言える。自由自在で全知全能、そして無限の愛に満たされた状態に、肉体をもって生きながら達成した聖者をジャイナ教ではアラハンという。アラハンになることが我々人間に生まれた目的・目標なので、アラハンというマントラを唱えるのである。アラハンとは人間としての最高の状態であり、それを達成した聖者は死んだ後、魂だけになってモークシャの世界に入り、二度と生き物に生まれることはない。

モークシャの世界に入り輪廻の環から外れた純粋なる魂をシッダという。アラハンのマントラを繰り返して唱えていくと、言葉の意味とかくありたいとの意識が結び付いて潜在意識化する。潜在意識化した願いや思いはある種の周波数をその人の周囲に放射するように働き始める。するとその周波数に応じて宇宙空間にある目に見えない、音に聞こえないレベルのエネルギーが引き寄せられて、目に見えるものが形づくられ現れてくるのである。

私たちの潜在意識と強い思いは常に結果を出そうと周囲に周波数を出し続けている。問題はどのような周波数を自分が放出しているかである。周波数に呼応して条件が整えば、善いことも悪いことも、どんなことでも結果として起こりうる。人間が自由に生きようとして自由に生きられない、誰かにコントロールされているかのように感じるのは、潜在意識の働きを知らないからである。私たちの背後で私たちを操っているものは偶然なる運命でもなければ、気まぐれな神の仕業でもない。私たちを操っているものはカルマと呼ばれる潜在意識である。これをコントロールしない限り、自分で自分の医者になることもできなければ、自分が自分の主人公になることもできない。

ヨガの修行と訓練と方法は自己をいかにコントロールするかである。瞑想法がヨガに含まれているのはカルマのコントロールが最も大事だからである。

私たちの潜在意識下には善いものと悪いものを結果として引起こす、原因としてのカルマがごちゃごちゃと蓄積されている。原因は条件・環境が整うと結果として現れてくる。自己の人生に善いことも悪いことも起こってくるのは、善い原因と悪い原因が潜在意識下にあるからである。悪いことが自分に起きたとき、悪いことだけが起きたのではない。善いことも同時に起きたのである。善悪一如。つまり、悪いことが起こったということは、過去の行為の原因としての悪いカルマが消滅したのである。結果が起こった時、過去の悪い原因は消滅した、つまり過去が善くなったのである。原因が起こって消滅したので二度と全く同様な結果は起こらない。同じように善いことが起こった時、善いことだけが起こったのではない、悪いことが同時に起こったのである。善いことが起こったときは善い原因が消滅している。二度と全く同じ善いことはもう起こらない。貯金を使って減らしているようなものだ。幸せになりたかったら、未来に貯金することである。今という一瞬に、悪いことを為さず善いことだけをする。いつもそのように意識し行動すれば、やがて悪い原因は出てい行って無くなるか、変質するから潜在意識は善い原因だけになってしまう。善い原因だけになれば、善いことしか起こらなくなる。それが、最高の幸せと喜びの心の状態、プラサード状態である。

善いこととは何か、それが般若心経などで言われている波羅蜜である。仏教では六波羅蜜という。波羅蜜とは本当の幸福に至る方法のことであり、六通りの方法がある。どれか一つでも徹底して行えば、悟りにいたるという方法である。私は六通り全部することが、自分が自分の主人公になる道だと思っている。六波羅蜜とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若(智慧)の六種をいう。布施波羅蜜とは他に親切にすることである。自分が持っていて他が持っていないもの(体力、能力、知識技、技術、お金)を他に分かち与えることである。あらゆる社会奉仕救済行は布施である。持戒とは言行一致で行動し約束は必ず守ることである。忍辱とは忍耐のことで怒りの心を堪え忍ぶことである。精進とは努力することそして努力を継続することである。一枚一枚日々の紙の積み重ねが年月を重ねると分厚い積層になるように努力することといえる。禅定は瞑想することを意味するのでなく、反省を意味する。後悔や悩みは感情であって反省ではない。反省は原因と結果を分析することである。般若波羅蜜は優れた人格を形成しようと努めることである。それには、因縁果の法則を知り、正しく行動することである。また、今現在に最善を尽くすことでもある。般若の意味は智慧ということであり、正しい生き方をするということでもある。

私たちの人生はカルマの鎖に縛られている。完全なる自由・モークシャへの道のりは果てしなく長い。モークシャに入ることが難しくとも、私たちは幸福になることはできる。自分のカルマに気づき、カルマをコントロールすることがその第一歩である。ジャイナ教も仏教も同じ教えであり『諸悪莫作、諸善奉行』という。全ての悪いことを為さず、善いことだけをするということだ。それがカルマを無くす道であり、心と魂を清らかにする方法であり、自分が自分の主人公になる方法である。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/2月第69号からの転載です)

ご案内「インドツアー報告会&忘年会」

皆さま

今年も早いもので、師走も目の前に迫ってまいりました。

プレクシャ・インドツアーは大変充実した旅だったようです。

今年最後の西池袋のプレクシャクラスでは、坂本先生の瞑想クラス、合宿、インドツアーでご縁のあった方々と合同で忘年会をおこないます。

瞑想クラスとインドツアー報告会&忘年会の2部制とし、いつもより早めに瞑想クラスを行いますが、報告会と忘年会だけのご参加もOKですので、お時間にご都合のつくほうをお選びください。

なお、2部の会場はそのまま瞑想会場のHiraya・平舎で行います。

日程:12月20日(木)

時間:
18:00~19:00 瞑想 特別講座 参加費1000円
19:00~21:00 インドツアー報告会&忘年会

(インド・ベジお弁当 1000円~1500円程度、飲み物は各自持ち寄りでご持参ください。ソフトドリンクorアルコールなんでもOK)

1年を振り返りつつ、インドツアーのお話を伺ったり、親交を深めましょう。

ご参加をご希望の方は、担当:伊東真知子(machiko@kej.biglobe.ne.j)へ12月15日(土)までにご連絡をください。

皆様のご参加をお待ちしております。

コラム:虫たちのこと

プレクシャ・メディテーションの終わりに、「自分の内側に真実を探しましょう。そして全ての生きもの達と仲良くしましょう。」と毎回唱えている。全ての生きものには当然害虫も含まれる。果たして私は害虫と仲良く出来るのか考えてみた。

家内も子供たちもあまり虫が好きでない。嫌いなので見ることも触ることも嫌がる。私の家族は、子供が好きなカブトムシやトンボもあまり好きではないらしい。私は子供のころから虫に親しんでいるのでどんな虫でも特に嫌いではない。ヤンマやカブトムシ、玉虫、カミキリムシ、トノサマバッタなどは子供のころ良く捕まえて遊んだので好きな虫である。子供のころ稲田でイナゴの大群をみた思い出がある。沢山捕まえたイナゴをどうしたか覚えていないが佃煮にして食べたのかもしれない。

小学生のころ夏の終わりに、ある日突然、家の周りに無数の赤とんぼが飛び回っていた。母親に針に糸を通してもらって虫網で捕まえた赤とんぼを針糸に刺して、赤とんぼのレイを作ったことがある。なんて残酷なと今の若者は思うだろう。私が子供だった頃はおもちゃがない時代だったから、遊びも自分で工夫しなければならなかった、虫たちは良い遊び相手だったのである。虫にしてみれば人間の子供は天敵だっただろう。

昆虫と虫は厳密には違う。昆虫の定義は動物界に属し節足動物門、昆虫網に分類される。節足動物門とは外骨格、つまり鎧のような固い外皮でその中に筋肉が詰まっているものをいう。エビやカニやダンゴ虫のようなものを思い浮かべればよい。それに対し、脊椎動物は部分部分の中心に骨が通っていて、その周りに筋肉がついているので、体のつくりが全く違う。昆虫は大まかに頭部と胸部と腹部で
体が出来ている。頭部は食べ物をとるための機能が集まっている。そこには目(複眼と単眼)があり、触覚があり、咀嚼のための口や吸引器が付いている。胸部は三節になっていて、そこに1対ずつ計6本の脚がある。腹部は10節に分かれていて、消化器や生殖、産卵、排泄の機能が詰まっている。昆虫の胸部には2対の翅があって99パーセントの昆虫は飛ぶことができる。飛べない昆虫は少数派である。また、昆虫の80パーセント以上が変態する。変態とは幼虫から繭の時期を経て全く異なる成虫となる。完全変態(卵・幼虫・繭・成虫)繭(蛹)にならずに成虫になるものを不完全変態という。蝉やトンボ、カメムシなどは不完全変態である。蜘蛛は脚が8本で頭部と胸部が一体化しているので昆虫ではない。ムカデは各節に1対ずつ数十の足があるので昆虫ではない。その他にダンゴ虫、ヤスデ、ダニ、サソリが昆虫でない虫である。

私も昆虫に含まれない虫はあまり好きではない。昆虫も2、3匹と少なければ不快ではないけど大群になるととても不快感が起こる。季節感がはっきりしていて、自然環境が豊かな只見は当然昆虫が多い。只見で毎年、大量発生して暮らしに影響を与えているものにメジロアブとカメムシがいる。カメムシは卵から幼虫になり蛹や繭にならずにそのまま成虫になる。カメムシは夏に成虫になり、秋の晴れた日に越冬のために大挙して人家に入ってくる。壁や網戸の隙間から侵入して、さらに押入れの中、布団や毛布などの隙間に潜り込む。本を取り出そうとすると本棚の奥に数十匹のカメムシが身を寄せ合って潜んでいることもある。そのままにしておいても害を及ぼすことはないのだけれど、触ると臭いので、許せなくてつい外へ掃きだしてしまう。カメムシは10月中旬ごろ人家に入り、越冬して5月の中旬温かく晴れた日に戸外に飛び出していく生態をもっている。体力を使い切って越冬できなかったものはカラカラに乾燥してミイラになって、ちょっと触れるだけで粉々になる。カメムシは危険を感じるととても臭い体液を放出する。カメムシの体液がちょっとでもかかると食べ物はまずくなってとても食べられたものではない。メジロアブは8月の中旬に水のきれいな渓流に大量に出現して、人間をこまらせる。里にも出てきて噛みつかれるととても痛い。昆虫にたいして完全なる非暴力を実践するなら、やはり、人間生活に多大な影響を及ぼす昆虫の生息域に居住しないことである。また、害虫被害で困る農業にも従事しないことが良いこととなる。魂の輪廻転生を信じるジャイナ教徒は何が何でも絶対に非暴力を貫くことを義務づけられている。非暴力は不合理でも絶対的なものであり妥協は全く許されず完全に履行されなければならないのである。昆虫を殺すことなどもってのほか、いじめることすらしない。鳥インフルエンザに罹った鳥を全て殺処分することなどジャイナ教徒には考えられないことなのだ。

昆虫は子孫を残すことだけが生きる目的である。そのために生まれて死ぬ。人間のように脳が発達していないので、考えることなく、刺激と反応系が直接つながって行動している。体が小さいので重力の影響が少ないから、ハエなど敏捷なものや蚤などは跳躍能力に優れている。昆虫は生きている機械と言ってもよい存在に思える。これから人間はさまざまな用途で昆虫型ロボットを作るに違いない。

カメムシを愛することが出来るようにと、いろいろ観察しているうちに、ふとあることに気づいた。カメムシを上からよく見ると6角形の形に見える。そして昆虫の脚が6脚だということが、バクテリア・ファージと呼ばれる細菌ウイルスの姿に共通性があるのではないかと思った。

ウイルスは鉱物特有の結晶の側面があり、細胞がないので生物とはいいがたいが、自己増殖するので一応生物としてみなされている。ウイルスの一種、バクテリア・ファージは細菌に感染し菌体を溶かして増殖する。バクテリア・ファージは機械的な6角形構造をしていて6脚の足がある。カメムシに良く似ている。カメムシは植物の栄養素をストローのような口で吸引しているが、バクテリア・ファージは脚のような尾部からRNAを細胞に注入する。侵入したRNA(リボ核酸)は細胞内で自分のコピーをどんどん作り出す。作り出されたウイルスの構造物は外に飛び出し、また別の細胞に侵入する。細菌ウイルスの6角形構造物は昆虫の外骨格に極めて構造が似ているようにおもう。

ウイルスも昆虫も生きる目的は自分の遺伝子を存続させることだけである。ホモサピエンス・人類の歴史は16万年前からであるといわれる。人類は地上に栄し大都会を築き、今では地球は人類の惑星といった位置を占めているけれど、地球が人類の惑星となったのはたかだか近、数百年に過ぎない。昆虫の出現は4億年以上前のことである。植物が地上に進出した初期段階で昆虫が登場したのだと思う。その時、宇宙空間から生命と鉱物の中間であるウイルスが胞子のように地上に降り注ぎ昆虫誕生に影響を及ぼしたのではないかと私は考えている。鳥や翼竜よりもずっと以前、昆虫が地上の生き物として最初に空を飛行したのである。その飛行能力によって、広く生育域を拡大し、環境に適応して生き残るために様々に工夫、進化した結果、今では1000万種以上に分化している。たった一つの種である人類が滅亡しても地球はさまざまな昆虫の惑星であり続けるだろう。

日本のカメムシだけで55科に分類され1000種以上に上る。我々の遺伝子をさかのぼれば昆虫からさらに先まで、魂の輪廻転生を遡れば昆虫として過ごした時もあったのかもしれない。昆虫の生態を観察すれば、昆虫もかくありたいと意志をもって生きていることは間違いない。カメムシの身になっていろいろ考えれば、仲間のような親しい感情が起こってくるのである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/1月第68号からの転載です)

コラム:皮膚と触覚と意識について

人間は他から侵害されたくない境界を持っている。集団としての国は国境を設け、小集団では砦や城に堀をめぐらし、町村境を設けて自らの権益を守ってきた。家族として家を構え塀や外壁で外と内を区別している。生物の個体である自己と世界の境界は樹皮や皮膚である。皮膚の内側が自己で外側が他物すなわち世界である。人間は触覚、味覚、視覚、聴覚、嗅覚の五感によって外側の世界を探っている。味覚、視覚、聴覚、嗅覚は特別につくられた特殊感覚器官と呼ぶべきもので、舌、目、耳、鼻がその役割を担っている。触覚は皮膚表面だけでなく内臓諸器官にもそのセンサー機能がある基本的な感覚神経である。舌、目、耳、鼻の感覚受容器にも触覚が備わっていることに注目したい。

植物は舌、目、耳、鼻を持っていないが、触られたことがわかる触覚を持っている。根や樹皮、葉に存在する特殊な感知器で光や温度、水の存在を感じることができる。植物は一感しか持っていないが、その一感が触覚であることは注目すべきところである。地球上に生息する全ての生き物(植物を含めて)には触覚が備わっている。触覚が受け取っている感覚こそ自己が外界を知り、自己を守り、生存し、子孫を残すための根源的な感覚なのだ。生まれて間もないころの人間の子供を観察してみると、主に触覚で環境や世界を把握しようとしていることがわかる。

人間でいえば、自己と世界の境界は皮膚である。皮膚の表面には外界(自己以外のもの)を探るセンサー機能が備えられている。皮膚は触覚の感覚器の役割を担っている。皮膚が感じることが出来る刺激は、触られている(触覚)、押される(圧覚)、痛み(痛覚)、かゆみ(痒覚)、温かさ(温覚)、冷たさ(冷覚)の6種の刺激である。それぞれを圧点、痛点、温点、冷点が対応している。皮膚表面の触覚は重さ軽さ、温かさ冷たさ、固さ柔らかさ、ザラザラ・つるつるなどであり、これらの感覚は好き嫌いの感情を招来し、心に影響を与えている。例えば、初対面の人を堅い椅子に座らせると相手は座らせた人を固い奴だとおもう。自動車の販売デーラーは顧客を固い椅子に座らせると値引きされないで済む。

PRESSURE(圧)、TOUCH(触)、VIBRATION(振動)、TICKLE(くすぐったさ)などの感覚を生理学用語で機械的感覚という。機械的感覚の受容器は指先と口唇に多数分布していて、上腕、大腿上部、背部には少ない。肌があう肌が合わないなどというように、触覚は人間にとって究極のコミュニケーションの手段でもあり、触ってみなければ解らないというように、美術品や骨董品など見た目の印象と実際触れて感じたものでは違うことが多い。インターネットで画像だけ見て商品を購入して失敗するのも実際手に取って触らなかったからだ。

人間の皮膚の総面積は約1.6平方メートルでおおよそ畳一畳分に相当する。皮膚の表面には1平方センチメートルあたり触点が25個、痛点が100~200個、温点が0~3個、冷点が6~23個分布している。全皮膚表面には200~300万の痛点があり、侵略刺激を受けて反応する。皮膚や粘膜に分布する3万点の温点が温度に反応している。触点や痛点などの下には各種の感覚受容器があって、それら受容器はそれぞれ固有の刺激に反応するようになっている。受容器が受けた反応・興奮は1次知覚神経によって伝達され脊髄を上行して視床で中継され頭頂葉の体性感覚野に到達する。体性感覚野には体の各部についての情報を取り扱うもののほかに触れる対象の特徴を取り出せるようなニューロンがある。それらは、硬いものに触れたときのみ反応したり、ザラザラしたものに触れたときのみ反応するもの、角のあるものに触れたときのみ反応するものがある。体性感覚野でこれらの情報が統合されて能動的に獲得する感覚をもっている。

意識とは考えることであり感じることも含んでいる。心を意識と言い換えてもよい。知覚とは考えることではなく感じることである。感覚と知覚の違いは感覚が観られる対象であり、知覚は観る主体者の意識的な心である。熱いものに触れたとき皮膚の温度受容体が作動し、電気信号として神経を通じて脊髄に到達する。その時パッと手を離す行為が脊髄反射として起こる。これが感覚である。このとき脳によって知覚されたわけではない。知覚とは情報が大脳皮質の皮膚の感覚に対応する場所にとどいて「熱いと」感じることをいう。知覚には脳による意識が必要である。脳のない生物は植物であれ、ゾウリムシやクラゲ、ウニなどは感覚機能は持っているが知覚機能をもっていない。熟睡しているときに、誰かに触られても感覚機能は作動しているが知覚されているわけではない。知覚には脳による意識の働きが必要である。睡眠は脳の働きの休眠状態なので、知覚することができなくなる。より良い瞑想は意識がはっきりしていなければならない。脳が感じようとして鋭敏に働いていなければならない。

人間には特殊感覚器官である舌、目、耳、鼻の他に触覚として身体の内側と外側からの刺激信号をとらえて、中枢神経系に伝える働きをもった受容器(感覚器)が皮膚の表面だけでなく、身体の全ての組織に存在している。これらの感覚系を生理学で体性・内臓感覚という。体性感覚は皮膚の表面で感じる感覚の他、皮下の筋肉や腱、関節などの受容器が内部感覚(深部感覚)としても感じている。それから胃、腸、肝臓、肺、心臓などの内臓は内臓感覚をもっている。

人間が生きているとは、「生体を成長させ維持し動かすために外部からエネルギーを取り込み、呼吸が継続し血液が流れ、神経系を電磁気的な信号が途切れなく伝わっていき、その流れによってさまざまな身体組織と臓器に感覚が起こっていて、生起している感覚の粗雑なものから精妙なものまで、意識的なレヴェルから無意識レヴェルまで」、中枢神経系がさまざまな身体感覚を感じとって、それに対応して命を守るために、身体が健全に動くように、適切な指令を身体各部に発信していることをいう。

粗雑な感覚から精妙な感覚まで、我々は瞬間瞬間に生起する全触覚情報の数千万分の一しか知覚できていない。知覚できない情報は全て無意識情報になっている。その無意識情報が潜在意識化して我々の思考や行動に莫大な影響を及ぼしているのである。プレクシャ・メディテーションは知覚することが難しいレヴェルの精妙な感覚を、訓練によって知覚できるようになることを目指している。その達成によって我々は深いレヴェルの自己認識に到達する。

皮膚の表面は自己と世界の境界になっているので、自己防衛のための兵士がたくさん存在する場所である。その兵士が触覚器である。皮膚はアンテナのようにセンサーとして働き、とても鋭敏である。そのような鋭敏な皮膚表面に感じようとする心を向けるとき、高い集中力によって見逃していた精妙な感覚を知覚することができる。最も高度なダラーナ(集中のテクニック)は身体内部の精妙な感覚の知覚である。これをヴィパッサナーといい、プレクシャという。好き嫌い、良い悪いの判断を手放してありのままに感じ観察することを意味する。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2016/12月第67号からの転載です)

コラム:カルマヨギ・二宮金次郎

自己探求に偏りしすぎると宗教は理想主義の傾向が強くなり、社会救済を重視すると宗教は現実主義、実用主義化する。宗教の理想は理想主義と現実主義がフィフティ、フィフティに調和されたものが私は望ましい宗教だと考えている。自己探求とは皮膚の内側に深く潜っていって真実の自己を見つけることである。それがメディテーション(瞑想)である。瞑想によって「自分だと思っていたことが自分ではないとわかる」。真実の自己は神であるとの悟りを得ることができる。社会救済は愛、慈悲、菩薩行の実践である。社会救済は皮膚の外側に自己を拡大していく行為であるということができる。社会救済、菩薩行、奉仕行によって「自分ではないと思っていたことが全て自分だとわかる」。菩薩行の実践によって、全てのものとの融合、宇宙との合一、神との合一が達成される。 沖正弘先生はそのことを真智聖愛と言った。真智が自己探求、聖愛が菩薩行、二つ合わせたものが沖ヨガ行法でそれを冥想行法と呼んだ。自己探求だけの意味の瞑想でなく、沖ヨガは社会救済を含む意味の冥想行法と表現して両者を区別したのである。

2600年前のインドは多くの出家僧が瞑想と苦行に取り組んでいた。当時のシュラマナ系宗教は自己探求とカルマの解消、輪廻からの離脱にばかり目が向いて理想主義、厳格主義に傾いていた。そのシュラマナ系宗教に対し、実用主義、現実主義をとってシュラマナ系宗教を改革したのが仏陀だと私は考えている。仏陀が現実主義(中道の教え)をとったため、厳しかった戒律が、後に仏教徒によってだんだん戒律の数が増えていったのに反比例して安易なものになってしまった。古代のシュラマナ系宗教の姿を今にとどめるジャイナ教は、魂の存在を認め、非暴力、不殺生、無所有、無執着の戒律を、不合理でも現実離れしていても何が何でも変更せずに堅持した。ジャイナ教が理想主義で仏教が現実主義といってもよい。どちらが優れているかという問題ではなく、どちらをより重視しているかの違いなのだ。

ヨガの部門は72部門あると言われている。その中で主要なものはバガバッドギータに説かれているジュニヤーナヨガ、カルマヨガ、バクティヨガである。バクティヨガは信仰のヨガで全てに神を見ることで救い、救われを目指している。ジュニヤーナヨガは自己探求の瞑想ヨガであり、カルマヨガが生活や仕事を通じて社会救済をする菩薩行ヨガである。

カルマヨガとは何か、カルマとは日本語で業という意味である。業とは因縁果のことであり因果律のことをいう。全てのものごとには起こってくる原因があり、原因と縁なくして結果はおこらないという考え方のことをいう。幸せになりたかったら幸せになるための行為をしなさいという実践である。それが社会奉仕行、社会救済行である。仕事を通じ生活を通じて世のため人のためになる奉仕行の実践がカルマヨガである。カルマヨガを実践したカルマヨギを思うとき、私の頭に真っ先に思い浮かぶのは日本の偉大なるカルマヨギ・二宮金次郎である。江戸時代後期から幕末にかけて日本はキラ星のごとく幾多の精神性の高い人々を輩出した。武士階級だけでなく庶民階級からも優れた人物が現れた。心学という道徳を教えた石田梅岩であり、船乗りの高田屋嘉兵衛や百姓出の二宮金次郎もその一人である。

キリストや仏陀、親鸞、道元などすぐれた宗教的指導者になった人は、子供のころ父や母を亡くした例が多い。江戸時代後期小田原藩の百姓として生まれた二宮金次郎も14歳で父を亡くし、16歳で母を亡くし、貧困という苦難に直面している。そうした困難の中から世のため人のためになるという覚悟が生じてきたのだから菩薩の出現と言ってもよい。金次郎は一般的に思想家、道徳家、農村指導者というイメージで見られているが、大実業家であり現実的な商人、大政治家、社会革命家などの側面をもっていて、一言では表現できない偉大な人物である。身分制度が厳しかった江戸時代、百姓から武士に取り立てられ、財政難に窮した各藩の改革を任せられ、それを見事にやり遂げていることに驚き
を禁じ得ない。

私が小学生だった時代、浦安小学校にも薪を背負って読書しながら歩く二宮金次郎の石像が校庭の片隅にあった。努力と勤勉という道徳を教えていたのである。二宮金次郎は理屈でなく実践で社会を向上させ多くの人々を幸せにした。金次郎は徹底的な現実主義者、実用主義者だった。自然を良く観察し自然から学び自分の体験を通して自分の思想を作り上げた人だった。私が金次郎を偉大なるカルマヨギであるとする根拠は、日々の生活と実践を通じて無私の立場で社会貢献をなした点を評価している。彼が亡くなった時、家も土地もお金も残さなかった。すべてを他に捧げたのである。他に譲ることを金次郎は推譲(スイジョウ)といった。金次郎の教えを要約すると、天地自然の恵み、社会の恩恵、父母祖先のおかげに報いるために徳行、報恩、感謝、積善をもってする実践の道であるといえる。人間が働くのは、ただ自分の為に働くのではなく、他の命のために働かねばならぬということであり、これを金次郎は「報徳」といった。私が金次郎を素晴らしいと思うのは、人間の道と天の道は違うと説いていることにある。「天の道は自然法則だから稲や雑草に善悪はない。自然法則だけに任せると荒地になってしまう。人の道は自然法則に従うけれども雑草を悪とし、稲や麦を善とする。人間にとって便利なものが善、不便なものが悪と考える。この点で天の道(自然法則)と人間の正しい生き方は少し違う。人の道は天の道に任せておくとたちまち廃れてしまう、行われなくなってしまう。」自然法則に従うだけの理想主義ではなく、あくまで人間の生き方を現実主義、実用主義としてとらえているのである。

金次郎は小さなことをこつこつ積み上げることを大事にした「積小為大の理法」。金次郎は善悪、強弱、遠近、貧富、苦楽、禍福、寒暑など互いに対立しているものを一つの円の中に入れ、常に総合的に物事を判断していた。因果律を重視して積善を唱えた。万物は一つも同じところに止まっておらず、四季が循環するのと同じで陰極まれば一陽来復、厳冬だからこそもうすぐ春がそこに来ているのだと苦難に悩んでいる人を鼓舞した。天地の間で万物の道理は皆同じである。善の種を撒いて悪の実がなることはない。悪の実がなったのは悪の種を撒いたからである。困窮はその人自身の因果の上に成り立っている。他から救助の手をさしのべる方法はない。本人の気づきが大事といった。本人がそのことに気づくようにして、それに気づけば惜しげもなく援助の手をさしのべたのである。

日本が生んだ偉大なるカルマヨギ・二宮金次郎のことをもう少し知りたい人は、三戸岡道夫著『二宮金次郎の一生』(平成14年6月、栄光出版社刊)、及び現代語抄訳『二宮翁夜話』(2005年2月、PHP研究所刊)を読まれることを勧めます。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/11月第66号からの転載です)

コラム:日本文化の精髄・露天風呂

夏休みに上越国境に近い群馬県の山の中にある、二軒の秘湯温泉宿に泊まった。初日に泊まった宿は 「たんげ温泉美郷館」、この宿は5年前の正月休みに一度泊まったことがある。和風木造の日本情緒あふれる建物の雰囲気や露天風呂の作りにすっかり魅せられてしまった。そのときは外気温が寒くて、お湯の温度がぬるかったので、もう一度次回は夏に行きたいと思った。今夏、再訪して感じたのは、6か所ある浴場の作りがいずれも上手にできていて高い美意識と完ぺきな芸術性を感じた。地元の林業会社の社長が趣味で凝りに凝って作ったとしか言いようがない、手の込んだ作りになっている。渓流沿いに露天風呂は3か所あって、うち一番大きなものは、使われている石も大きく上手に石組みされている。このような形よく美しい大きな庭石をどのように集めたのだろう、さらに現地で庭園にするために石組みする技術にもすっかり感心してしまった。銘庭と呼ぶにふさわしい石組みの露天風呂に温泉が掛け流されている。露天風呂から望む渓谷の流れも美しい。客室は18室しかないのでウイークデイに泊まればすいていて、どの浴室も貸し切りのように入れる。自然の中に融合して、まったく違和感のない人の手でつくられたこの露天風呂に入るとき、日本人に生まれた幸せをつくづく感じた。美郷館は平成3年に開業した比較的新しい温泉宿である。露天風呂の設計や施工は多分群馬県内の業者が携わっていると思われるが、その技術力の高さは称賛すべきものである。

二日目に泊まったのが法師温泉長寿館、新潟県境の三国峠に近い山中の秘湯だ。長寿館は40年前、50年前の若いころに2度泊まっている。昔ながらの鄙びた風情を感じさせる「法師の湯」は、湯船が4つに仕切られた大きな木造の浴場である。湯船は川底につくられているので足元は卵大の大きさの川原石が敷き詰められている。湯船の底の丸石の隙間から新鮮な温泉がふつふつと湧き上がってくる。印象深いこの温泉にもう一度入りたくなって二日目の宿に選んだ。40年ぶりに訪れた法師温泉は新館が増設されて旅館の規模が大きくなっていた。旅館の玄関や囲炉裏の間は全く昔のままだった。昔の雰囲気を壊さずに守り残そうとしている旅館の経営方針に共感を覚える。建物も浴場も綺麗に掃除され磨きこまれて清らかである。前回は本館に泊まったが今回は法隆殿に泊まった。混浴の時間帯だったが家内を誘って、法師の湯に入った。湯船を仕切るように置かれた丸太を枕にして体を湯に横たえると全ての筋肉から緊張が抜け出ていった。はじめ我々二人だけだったが、一人二人と男性が入ってきた。昼間でも薄暗い、広い浴場に数人だけしか入浴していないので、のんびりとした気分になる。丸太を枕にあお向けになって浴場の太い丸太の小屋組みを見ていると、身も心もリラックスしていった。

時間制で男女別の入浴時間をもうけている「玉城の湯」は近年、新しく作られた法師温泉の名物風呂である。内湯と露天風呂に分かれている。内風呂から望む露天風呂の景色が実に美しいが、さらに外の露天風呂に出てみて驚嘆した。この露天風呂に使われている石が形も色も模様も銘石ばかりで、大きく存在感があり、実に巧みに石組みされていたのを見たからだ。どうやってここまで運んだのだろうかと思うほど巨大な石の上から温泉の湯が滝になって落ちてくる。玉城の湯の露天風呂に入って、使われている石を触ったり石組みを見ていると日本人はなんて素晴らしいのだろうと思う。翌朝、滝となっている石組みの大石を後ろから見てみたいと思って散歩に出た。背後から大石の石組みは良く見えなかったが、小さな石碑があって「法師温泉 長寿館 玉城の湯 露天風呂造園工事一式施工 平成12年7月設計・濵名造園設計研究室 施工・群馬庚申園株式会社」 と彫られてあった。

法師温泉に向かう途中時間があったので、旧三国街道の宿場だった須川宿にいった。須川宿は宿場町全域を「たくみの里」というコンセプトでテーマパークのような町づくりをしていることで知られている。その町はずれに桃山時代創建と伝わる曹洞宗の古刹泰寧寺がある。山門と本堂の須弥檀が県の重要文化財になっている。泰寧寺はアジサイと蛍の名所で、地元にも人気の寺らしい。山門の前には小さな川が流れている。村道から川に降りて砂防堰堤と一体に作られた橋をわたって対岸に作られた石段を登っていくと立派な山門が現れる。山門をくぐりさらに少し上ると本堂の立つ境内にでる。鐘楼もあり趣ある山寺である。ここで私が興味惹かれたのは山門でもなければ、石段や山門の石垣でもない。堰堤と橋を中心にした回遊式庭園の石組みである。寺に向かう橋は砂防堰堤の落ち口に堰堤と一体的にコンクリートで作られている。コンクリートであるが太鼓橋のように優美に緩やかに中央を膨らませて作られている。シンプルなデザインであるが趣がある。コンクリートの橋は苔むして古びた良い雰囲気を出している。橋の下が堰堤の落ち口になっていてそこから流が滝となって落ちている。堰堤の上流は池になっていて池の水際から上手に石組みされている。人間が作ったとは感じさせないほど自然と同化している。堰堤の下流の巨岩の石組みは驚嘆すべき巧みさである。堰堤を落ちる滝はどう見ても自然に落下している滝に見える。庭園なのだがどう見ても自然風景になっている。神の手が加わったかのように自然風景を超越した完璧な調和の石組みとなっている。こんな巨大な石をどうやって運び入れ、どうやって組み立てたのだろうか本当に素晴らしい。指摘されなければ人工物とは気づかない。そのような、石組みの中に座禅に手ごろな平らな大石がいくつも配置されている。その一つに座ってみた。私の心の奥深くから、深い感動が湧き起ってきた。この庭園を設計した名もない造園家、施工した名もない職人の美的感覚の凄さがわかった。泰寧寺はこのような立派な庭園を造れるほど裕福な寺には到底思えない。多分街づくりの公共工事の一環としてなされたものであろう。寺の住職か公共工事にかかわる誰かが発案したのであろう。真相がわからないのでどのような経緯でいつ頃、この庭園が造られたか調べてみたいと思う。

自宅に戻って泰寧寺のことをいろいろネットで調べてみた。沢山の記述投稿があったが、この庭園を称える記述や、誰がいつ作ったかについて触れた文章は皆無だった。評価されないのか、忘れられてしまったのか私には解からないが、この庭園こそ真に価値ある文化財である。思い起こせば自然に流れていた川に庭師が手をいれて、庭園のようにしてしまった川を私は過去にも見ている。一番印象に残っているのは厳島神社の側を流れる「紅葉谷公園」である。谷の石組みは庭師が組んで調和した理想形に作られている。もみじ谷はよく観察しないと人間が作ったものと感じさせないほど自然に溶け込み、人工的な不自然さを感じさせない素晴らしい渓谷になっている。

奥多摩の御岳山近くのロックガーデンも自然の谷に人工的な手を加え、さらに自然美を整えたものである。大型建築機械が入れないような場所で自然の雰囲気を損なわないように大きな石をたくみに組み合わせ人が歩きやすいように整えている。大きな石を適材適所に配置した技術に驚嘆する。

伊豆半島の湯ヶ島温泉に白壁荘という温泉宿がある。宿の敷地から掘り出された巨石をくりぬいて露天風呂の湯船にしている。この巨石の湯船がユニークでみごとである。石庭の美しさ、敷地内の巨石の石組みや、露天風呂の石組み、銘石など日本の石の文化を堪能したかったら山梨県石和温泉「銘石の宿・かげつ」に行くと良い。石庭が好きな人にとって「銘石の宿かげつ」はたまらない魅力の宿である。

私は石庭や露天風呂の石組みだけでなく、城の石垣が好きである。石垣を見ていると古く忘れられた記憶は過去生まで辿れるような気がする。私が興味惹かれるものは石や石で作られたものである。石灯籠や石仏なども大好きだ。河原の石が私に話しかけてくる。路傍の石が私に話しかけてくる。石とだったら私はいろいろ話ができる。20歳のころ造園家になりたいと思ったことがあった。自分の中に熾火のように残っている「かくありたい」を探るとき来世で私は造園家を仕事に選択するような気がする。近いうち、静かな時を選んで再び泰寧寺の渓流庭園の坐禅石に坐って瞑想してみたい。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/9月第65号からの転載です)