コラム:自分が自分の主人公になる

全ての人間が望んでいることは幸福になることである。幸福とは何だろうか?

幸福とは無限の愛に満たされることである。沢山の人を愛し、沢山の人から愛されることである。そして、全てのものと一体になり、宇宙と合一することであると言える。幸福とはまた、自由自在を獲得することであり、全知全能を得ることだと言える。自由自在で全知全能、そして無限の愛に満たされた状態に、肉体をもって生きながら達成した聖者をジャイナ教ではアラハンという。アラハンになることが我々人間に生まれた目的・目標なので、アラハンというマントラを唱えるのである。アラハンとは人間としての最高の状態であり、それを達成した聖者は死んだ後、魂だけになってモークシャの世界に入り、二度と生き物に生まれることはない。

モークシャの世界に入り輪廻の環から外れた純粋なる魂をシッダという。アラハンのマントラを繰り返して唱えていくと、言葉の意味とかくありたいとの意識が結び付いて潜在意識化する。潜在意識化した願いや思いはある種の周波数をその人の周囲に放射するように働き始める。するとその周波数に応じて宇宙空間にある目に見えない、音に聞こえないレベルのエネルギーが引き寄せられて、目に見えるものが形づくられ現れてくるのである。

私たちの潜在意識と強い思いは常に結果を出そうと周囲に周波数を出し続けている。問題はどのような周波数を自分が放出しているかである。周波数に呼応して条件が整えば、善いことも悪いことも、どんなことでも結果として起こりうる。人間が自由に生きようとして自由に生きられない、誰かにコントロールされているかのように感じるのは、潜在意識の働きを知らないからである。私たちの背後で私たちを操っているものは偶然なる運命でもなければ、気まぐれな神の仕業でもない。私たちを操っているものはカルマと呼ばれる潜在意識である。これをコントロールしない限り、自分で自分の医者になることもできなければ、自分が自分の主人公になることもできない。

ヨガの修行と訓練と方法は自己をいかにコントロールするかである。瞑想法がヨガに含まれているのはカルマのコントロールが最も大事だからである。

私たちの潜在意識下には善いものと悪いものを結果として引起こす、原因としてのカルマがごちゃごちゃと蓄積されている。原因は条件・環境が整うと結果として現れてくる。自己の人生に善いことも悪いことも起こってくるのは、善い原因と悪い原因が潜在意識下にあるからである。悪いことが自分に起きたとき、悪いことだけが起きたのではない。善いことも同時に起きたのである。善悪一如。つまり、悪いことが起こったということは、過去の行為の原因としての悪いカルマが消滅したのである。結果が起こった時、過去の悪い原因は消滅した、つまり過去が善くなったのである。原因が起こって消滅したので二度と全く同様な結果は起こらない。同じように善いことが起こった時、善いことだけが起こったのではない、悪いことが同時に起こったのである。善いことが起こったときは善い原因が消滅している。二度と全く同じ善いことはもう起こらない。貯金を使って減らしているようなものだ。幸せになりたかったら、未来に貯金することである。今という一瞬に、悪いことを為さず善いことだけをする。いつもそのように意識し行動すれば、やがて悪い原因は出てい行って無くなるか、変質するから潜在意識は善い原因だけになってしまう。善い原因だけになれば、善いことしか起こらなくなる。それが、最高の幸せと喜びの心の状態、プラサード状態である。

善いこととは何か、それが般若心経などで言われている波羅蜜である。仏教では六波羅蜜という。波羅蜜とは本当の幸福に至る方法のことであり、六通りの方法がある。どれか一つでも徹底して行えば、悟りにいたるという方法である。私は六通り全部することが、自分が自分の主人公になる道だと思っている。六波羅蜜とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若(智慧)の六種をいう。布施波羅蜜とは他に親切にすることである。自分が持っていて他が持っていないもの(体力、能力、知識技、技術、お金)を他に分かち与えることである。あらゆる社会奉仕救済行は布施である。持戒とは言行一致で行動し約束は必ず守ることである。忍辱とは忍耐のことで怒りの心を堪え忍ぶことである。精進とは努力することそして努力を継続することである。一枚一枚日々の紙の積み重ねが年月を重ねると分厚い積層になるように努力することといえる。禅定は瞑想することを意味するのでなく、反省を意味する。後悔や悩みは感情であって反省ではない。反省は原因と結果を分析することである。般若波羅蜜は優れた人格を形成しようと努めることである。それには、因縁果の法則を知り、正しく行動することである。また、今現在に最善を尽くすことでもある。般若の意味は智慧ということであり、正しい生き方をするということでもある。

私たちの人生はカルマの鎖に縛られている。完全なる自由・モークシャへの道のりは果てしなく長い。モークシャに入ることが難しくとも、私たちは幸福になることはできる。自分のカルマに気づき、カルマをコントロールすることがその第一歩である。ジャイナ教も仏教も同じ教えであり『諸悪莫作、諸善奉行』という。全ての悪いことを為さず、善いことだけをするということだ。それがカルマを無くす道であり、心と魂を清らかにする方法であり、自分が自分の主人公になる方法である。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/2月第69号からの転載です)

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