コラム[清らかな心]

清らかな心とか、心を清らかにするとは、どういうことなのでしょう。それは宗教家や道徳を語る人が良く使う言葉です。そのような人が語る話を聞いても、書物で読んでも、清らかな心というものが理解できませんでした。なぜ、解らなかったかと云えば、心と云う言葉の意味する範囲が広すぎたからです。心という言葉を定義づければ、『心とは人間の生体内部で働く機能の総称である。また、人間の精神作用の基になるものと、その作用である。』となり、その意味するところが余りにも広範囲に亘っているからです。

 清らかな心と云う言葉で、若かった私が真っ先に思い描いたのは、神に使える巫女さんのような人でした。若くて容姿端麗で処女であり、両親からの愛に恵まれた幸せな家庭に育ち、人生上の困難な経験に乏しく、素直で従順な人を思い浮かべました。そんな、状態だったから清らかな心、清らかな人と云う概念が全く解らなかったのです。

 プレクシャ・メデティションを学び実践していくなかで、自分とは一体何かと云うことが、肉体の中で働く機能を含めて総合的に理解出来るようになってきたとき、やっと心の清らかさと云うものが解ってきました。

 心と云う言葉の範囲が広すぎて、心の清らかさが理解できないのだから、心の核心に迫るために、その意味する心の範囲を狭めれば良いのです。心を潜在意識と置き換えてみましょう。すると心の清らかな人は潜在意識が清らかな人だと云うことになります。

 潜在意識はジャイナ教哲学で云うドラビア・アートマン(純粋なる魂)に汚れが着いたパーヴァ・アートマン(汚染された魂)のことです。汚れた魂は、その人の個性であり、人格であり、精神性であり、癖づいた心でもあります。この汚れた心、つまり汚れである癖のことをカルマと云い、そのカルマが今、ある私たち全ての人間の人それぞれの現実を創っているのです。私たちの潜在意識であり、存在の大元である精妙な体のことをジャイナ教ではカルマ体、原因体と呼称します。日本語では霊体と呼称し精神性のことです。

 清らかな心と云う表現は本当は適切ではありません。清らかな魂と云うべきです。ジャイナ教の理想は魂に付着した汚れを振り払い、魂が純粋になることを目指しています。ジャイナ教では魂が純粋になった状態をモークシャと云い、それがもう生まれないもう死なないことで解脱と云います。解脱は全ての生き物に課されている課題であり最終目的地です。魂を完全に純粋にすることは、かなり難しいことなので、解脱の域に到達するのはほとんど不可能と云っても過言ではありません。解脱出来なくとも幸せになることは出来ます。それが潜在意識、カルマの浄化コントロールです。

 なぜ、生き物にカルマが付着するのか、それは宇宙全体に同じものごとの別の側面として、プラスとマイナス、陰と陽のエネルギー、バイブレーションが満ち満ちているからです。暖かい冷たい、好き嫌い、正しい間違いと云うのは同じことのレヴェルの差のことなのです。私たちは生きていたいという欲求を満たすために、自己中心的に行動しがちなので、それによって行動も考え方も癖づいてしいます。顕在的な意識は癖づきませんが、潜在意識は癖づきやすいのです。無自覚であれば誰でも癖づいた行動思考によって、同じようなものを引き寄せる悪循環に陥ってしまいます。

 善いものを引き寄せれば善いものが出てきます。悪いものを引き寄せれば悪いものが出てきます。生まれながらの天才的な才能も身体的な障害も病や悩みも潜在意識下の癖が原因となっているのです。この癖のことをカルマと云い業のことです。自ら創ったカルマによって我々は縛られて不自由になっています。カルマは人間の輪廻転生がわからないと理解できません。私たちが自由になりたかったら、幸せになりたかったら、このカルマの縛りをほどき、自分で自分をコントロールすればよいのです。

 カルマの法則とは、私たちが自ら幸、不幸を創っているのだから、全ては自己責任だということになります。カルマ論は外側から私たちをコントロールしている宇宙創造神のような賞罰を与える存在はいない事を示しています。そうで無ければ自由も平等もありません。カルマの法則の中で私たちは自由で平等で無差別なのです。私たちが日常的に繰り返す行動と思考の癖が潜在意識的にちょうどコンピユーターのハードデスクに打ち込まれたデーターのように機能して、私たちを操っているのです。ですから私たちはそのことを理解して、そのことを自己コントロールする必要があるのです。

 ジャイナ教ではカルマは超微細な物質であると考えています。これが素材としてのカルマです。素材である物質的なカルマの影響で、様々な感情や欲望が起こってきます。それらは善いものも有れば悪いものもあります。問題なのは悪い感情と欲望です。

 それは大きく分けると4つあります。一つは怒りです。不平不満 非難、嫉妬、羨望も怒りの一種と考えてよいでしょう。二つ目がプライドであり、傲慢さ、利己心です。三つ目が強欲です。強欲とは他人の物まで自分の物にしてしまう強い欲望です。四つ目が嘘、偽りを語る虚偽の心です。この4つの潜在意識下に癖づいている心であるところの怒り、自己中心的な心、強欲、欺瞞を取り除いていけば、かなりの部分私たちの潜在意識は健全で清らかになります。清らかな心とは潜在意識の清らかさであり、怒らない心、謙虚で利他心に満ちた心であり、足るを知る心であり、嘘、偽りのない正直な心だと云えます。

 今、起こっているウクライナ戦争の事を考えてみましょう。その真の原因がその国を指導する指導者達の心の汚れに起因していることがわかるでしょう。その指導者を選び出した国民一人一人の心の汚れの総和に起因していることが解るでしょう。だから、私たち一人一人の心の持ち方をコントロールことが大事なのです。潜在意識下に根付いた心の癖を善いものに替える事が心を清らかにする道です。

 潜在意識下の癖を知らないこと、日常生活が無自覚であること、それを無知と云うのです。唯物論では無知は治らない。宗教を否定する思想では無知は治りません。無知によって私たちに不幸がやってくると知るべきです。

 潜在意識下の心を清らかにする方法は、日常生活で求める心を止める事です。いろいろな物事を欲しい欲しいと求める心を止めて、他に捧げる心に切り替えることに尽きます。自分の持てる力や才能を他の人の喜びと幸せと友好、共存共栄のために使うのです。その実践こそが怒りを無くし、傲慢さが無くなり、欲望を少なくし、欺瞞に満ちた心を、友好と無条件の愛に溢れた清らかな心にしてくれるのです。一人一人の心の平和が国の平和になり世界の平和に繋がっています。

 魂(アートマン)を理解しカルマの法則が解り、生き物の輪廻転生が真実として確信出来るようになれば、私たちの自己認識は一変するでしょう。宇宙始まって以来の全てのご縁に感謝できるようになるでしょう。その全てのご縁に感謝できる心のことを清らかな心と言います。全ての人間の心が清らかになった時、地上がそのまま天国になるでしょう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

 

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