コラム:瞑想・二つの流れ

アーリヤ人がアフガニスタンやパキスタン方面からインドに進出してきたのは紀元前13世紀から11世紀頃のことである。アーリア人は遊牧を生業とする人達であった。彼らが奉ずるのはヴェーダという宗教であり、司祭をバラモンと呼んだ。バラモンは施主から祭祀を頼まれると荒野に結界を作り祭壇を作った。結界に炉を作り火を燃やして火の中に生贄をくべ、施主の願いを叶えるべく呪文を唱え、神々を召喚した。ヴェーダというのは神々を召喚し願いを聞き届けてもらうための様々な呪文の事である。

祭祀が終わると祭壇は壊されて更地に戻された。遊牧民であったアーリア人は当初固定的な寺院を作らなかったのである。バラモンはインドに流入してくる以前には神々から天啓を受けるためにアムリタを使っていた。アムリタとは最近の研究によればベニテングダケだということがわかってきた。インドではベニテングダケが入手出来ないので、天啓を受けるための別な手段の必要性が出てきた。そこで彼らが採用した方法が苦行である。苦行によって天啓を得た。またアーリア人は自業自得の宗教哲学を持っていた。

一方インド在住の人々の間には長い伝統としてのシュラマナ系の宗教があった。シュラマナ系の起源は極めて古くインダス文明にまで遡ると言われる。シュラマナ系宗教では修行としてメディテーションが行われていた。そして教義として輪廻転生を信じていた。

紀元前8世紀頃、ヴェーダの流れとシュラマナ系の流れの宗教哲学が合流し、自業自得と輪廻転生の哲学が融合して解脱思想が起こった。何回も何回も生まれては死ぬのは嫌だと考えて大出家ブームが起こった。世俗的な生活ではどうしても沢山の業を作ってしまうので、業を作らないようにと世俗的な生活を捨て、行為をなさないようにと出家した。出家とは世捨て人、社会からドロップアウトした人の意味が強く、ぼろ布を纏っていた。ヴェーダの流れの中からも、シュラマナ系からも沢山の出家者が出た。

紀元前5世紀から6世紀頃、シュラマナ系出家者の中からマハビーラと仏陀が現れた。マハビーラや仏陀の時代、沢山の宗教哲学が起こり宗教論争が盛んであった。今日、世界中に見られる様々な宗教哲学がこの頃既に全て存在していたと言っても過言でない。六師外道が有名であるが、そのほかに沢山の宗教指導者が存在した。ジャイナ教の経典「スーヤガタ」では363の異なる宗教哲学があったとされる。マハビーラや仏陀以外では運命決定論・無因無縁論者のマッカリ・ゴーサーラ、快楽主義・唯物論者のアジタ・ケーサカンバリン、不可知論者のサンジャヤが主な思想家である。輪廻や魂を否定する彼らも又、出家であり質素な生活を営み苦行をしていたのである。

インドでは古代から輪廻転生が既定の事実として考えられていた。又、因果応報のカルマの支配も疑う余地のないものであり、仏教では六道輪廻からの解放を切に願った。ジャイナ教では地獄の7層、植物界、動物界、人間界、天界の26界に分かれるが、天界の最上階モークシャに入ることを理想とした。

修行によってカルマを根絶し輪廻の輪から離れてモークシャ(解脱)になるという点では仏教もジャイナ教も根本教義は同じである。見解の違うところはカルマがどこに蓄積されるかということと、輪廻の主体は何かということだけである。ジャイナ教は輪廻の主体として真我である魂を想定した。そしてカルマが魂に付着すると考えた。だから魂の汚れであるカルマを取り除けば魂は純粋になる。純粋になった魂がアラハンでアラハンが死んで肉体がなくなるとモークシャに入り、解脱してシッダとなり再生しないと説いた。

一方仏陀は実用主義者だったので証明できないものは有るとも無いとも断定しなかった。架空のはなしの論争を避け、そんなことに時間を費やさず心の安定に励めと弟子達を指導した。そして八正道の実践を奨励した。仏陀は体は私ではない、心は私ではないと言った。私は魂だとも云わなかった。

後世の仏教者たちは仏陀ともあろう人が曖昧な事を言うはずがないとして本来非我説であった仏陀の説を無我説(魂はない)にしてしまった。シャーリープッタやモンガラナーは初め懐疑論不可知論者のサンジャヤの弟子であったが、後にブッダが因果律を説くというので仏陀の弟子になった。仏陀が証明出来ない仮定の話にのらりくらりと断定を避ける姿勢をとったのは、シャーリープッタやモンガラナーをとおしてサンジャヤの影響を受けていたのかもしれない。

部派仏教の時代に仏教は「魂は無い」とする無我説を採用したので、輪廻の主体が不明確になり、カルマ論や輪廻転生からの解脱が曖昧になってしまった。現代のテーラワーダ仏教系は無我説の立場に立っている。

仏教にはニルヴァーナ寂静としての解脱があり、解脱の方法(実践方法・修行)があるが、無我説に立つと何のための修行かの説明が十分でなくなる。魂を否定するとそういう矛盾がおきてしまう。

ジャイナ教と初期仏教は教義や修行体系が驚く程よく似ていて、兄と弟、本家と分家、本店と支店のような類似性がある。小異を捨て大同につけば兄弟宗教と言っても良い。仏教側から見てジャイナ教を外道と蔑めば、ジャイナ教からは仏教が外道となる。

ジャイナ教は魂を認める宗教であり、カルマと輪廻転生を信ずる宗教である。プレクシャ・メディテーションの目的はアカルマ(無業)になることであり、魂を純粋にすることにある。そして魂があるか無いかに関係なく、瞑想修行の過程で健康と幸福を得る恩恵が間違いなくある。

古来ジャイナ教の出家者は自然法則を深く洞察し、今日でいう宇宙物理学や原子物理学のレベルの考察をしていた。それらの見解が古代のジャイナ教聖典に記述されている。現代科学に照らしてみて荒唐無稽なものも多いが、現代にも通ずる優れた見識も見受けられる。科学が発達していなかった古代において宗教哲学を科学的に説明しようとしていたジャイナ教僧侶の洞察は驚嘆すべきものがある。

私たちは本に書かれたものをまるごと信じたり、人の学説を鵜呑みにすることなく、あくまで自分で考え経験・体験し学ばなければならない。宗教哲学を論じる際にはアネカンタ、つまり非独善主義、無対立にならなければならない。他が信ずる宗教を否定してはならないし、侮辱してもいけない。他を尊重することが平和の道であり、争いを無くす道である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/1/28からの転載です)

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