ジャイナ教の昔話その6:人間の輪廻(まつい ちえこ)

3次元で一つの命が終わると、粗雑な塊・肉体を構成していたUは結合を解き、新しい集合体の素になっていきます。
本能のみで生きた生物や目覚めていなかった意識は直に、あるいは時間をかけて自然界に戻ります。

人間の意識(微細な活動領域のU集合体)は、それを包んでいた肉体が消えた後もそのまま留まります。
魂と呼ばれるその集合体は内に真我(宇宙)を包んだまま、自分に近いエネルギーに引きつけられていきます。
その行先は『自業自得』の法則により自動的に決定されます。

地獄・極楽と言いますが、与えられた賞罰ではなく、自分にあったところに自ら引きつけられていくのです。
因果応報は『類は友を呼ぶ』という法則にもつながります。
スエーデンボルグが「好んで地獄に行く魂がある」と言っているのは「同じ業の仲間のいる処にひかれる」ということでしょう。
業の重いものが集まったところが地獄になっていくようです。

転生は時代など3次元世界の流れに影響される事もありますが自分で選ぶのが基本だと思っています。
「それなら楽な方が良いに決まっている。厳しい人生など選ぶはずが無い」
と思うのは、肉体を持っているからです。

微細なエネルギーだけになった魂は、粗雑な肉体が要求する条件には無頓着で、
純粋に自分が体験したいことだけを求めて転生します。

現世でも、怠け心を律して勉学に励むこともあるし、自ら厳しいトレーニングをすることもあります。
自分の為です。
努力は喜びでもあります。

本当の喜びは何なのかを知っている魂は、高みを目指し、肉体や精神の苦痛に頓着せず次に進もうとします。
前世を償う一生も有るかも知れませんが、それも自分の選択です。罰ではありません。

カルマには利子が付くといいます。
重くなった業・カルマは大きな荷物を担いでいるのと一緒です。
自由な動きを妨げる業を早く返済するために、難しい人生にチャレンジすることも有るでしょう。
自らの進歩のためだけでなく、人間全体の為に、あえて辛い体験を選ぶ勇敢な魂もあるようです。

また『強く願ったことは実現する』という法則も働きます。

愛した芸術や身に着けた能力をもっと味わいたいと願えば、それを深める転生となります。
それを繰り返すと天才として産まれるでしょう。

今生で花開いても開かなくても体験や努力は貯蓄となり、次生での個性や境遇に影響します。
踊れないまま舞踏への愛を忘れず生き抜いた人がダンサーの家系に転生する、ということもありそうです。
 
蓄積を増やして好きな事を伸ばすのは、得意科目を追求して完成を目指す転生です。

逆に自分に足りない事を学ぶ転生や、未体験ゾーンを選ぶ魂も有りましょう。
「不得意科目の習得」が成長のチャンスになるからです。
人種、健弱、性別など肉体的なことから
貧富、身分、文化、体制など社会的な環境、その他、違う立場を生きる事で幅広く学ぶのです。

肉体として生きる悲痛もあり、輪廻は苦しみが強調されがちですがワクワクする冒険でもあります。

「私たちはこの世を観に、聞きに生まれてきました」は小説「あん」、
「この世に遠足に来ている」の一行は桜沢如一氏の著作にありました。

メーテルリンクの「青い鳥」では、これから生まれる子どもたちが、
次の人生の計画を病気や悲劇的な事まで楽しげに、誇らしげに語り合っています。

どれも様々な体験をしたいという魂の願いを直観的に表現しているように思います。

良し悪しを判じる向きもありますが「業」に区別はありません。
蒔いた種の芽が出るのです。
どう育てるかは今生の自分次第です。

他の生き物は本能に従って生きていきますが、人間だけは自分の生き方を自分で決められるのだといいます。
「自己責任」という立場は、前世の負債だと今の状態をあきらめることでも、
来世へ繋ぐために今生の喜びを享受しないことでもなく、
精いっぱい生きて命を使い切ることだと思います。

ジャイナ教の絵本には戒律を守るために死んでしまうお坊さんの話がいくつもあります。
命の使い方の一つなのかもしれませんが、私にはまだ理解できません。
そんなお話をひとつ。

****お話6・戒律(ジャイナ教の絵本より編集)****

2500年ほど前のお話です。
 
ラジェグリハという街でチャトラマス・雨季の滞在をしていたアチャリアのもとに、仲の良い四人の若者が使徒になりたいとやってきました。
四人は僧になり、そろって戒律を授かりました。

ある寒い日のことです。
第三時間になってから、四人はそれぞれ別の方向へ托鉢に出かけました。

ジャイナ教の僧は一日を4つの時間帯に分けて、
それぞれの間にしなくてはいけないこと、
してはいけないことが決められていました。

四人は施しを受けることができないまま、さまよっているうちに、
動き回ってはいけない第四時間になってしまいました。

若い僧たちは戒律通り動くことをやめ、
一人は洞窟の入り口で、二人目は公園の中で、
三人目は公園の外で、四人目は街の外側で、
それぞれカヨーサグに入りました。

仲間と離れている寂しさも空腹も彼らの邪魔をすることはありませんでした。

その日は本当に冷え込み、凍るような風も吹きました。
僧たちは一人、また一人とその命を失っていきました。

翌日、四人の訃報が伝えられました。

「彼らは避難所へ移動して、自分たちの命を守ることもできたのではないでしょうか? 
なぜ戻ろうともしなかったのでしょうか?」と、ある人がアチャリアに聞きました。

「ジャイナ教の正聖典であるアガムスの教えには
『どのような状態においても、結果がどのようであっても、
心穏やかに耐えること』と最初にあります。
僧侶の一番の目的は命をかけてでも解脱することにあるので、
彼らは戒律を守ったのです」とアチャリアは答えました。

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キリスト教でも聖人と呼ばれる殉教者が多数います。
このお話は死ぬことを肯定しているようにも読めますが
今生以上に大切なモノがあるとする世界観で見ると別の味わいがあるかもしれません。

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