コラム[生かされて生きている]

メディテーションとは皮膚よりも内側の内部深くに本当の自分を探求すること
である。人間は物質的な身体と非物質的な心や意識との結合によって存在して
いる。私たちが生まれて生き続けることが出来るのは、身体内部に生命エネル
ギーが流れているからである。生命エネルギーは一つ一つの細胞に浸透して活
力を与えている。生命エネルギーは呼吸と伴にあり、意識と伴にある。呼吸が
止まれば生命エネルギーの流れは止まる。生命エネルギーの流れが止まると身
体内部で生起していた感覚も止まる。感覚が止まれば意識は身体と伴にある必
然性がなくなって身体から離れる。意識の本性は純粋性であり完全性である。

しかし私たちの個々の意識は過去の行為によって色が付き純粋でなくなってい
る。意識の性質である完全性と純粋性を求める衝動によって輪廻転生が起こる。
私たちの身体や心は死によって滅するが、意識だけは生き通しである。長い時
が流れて過ぎれば、意識は今とは全く違った場所で違ったもの(人間、生命)
と結びついている。

生き物は身体外部から食物やエネルギーを身体内部に取り込み内部エネルギー
に変換し、それを身体の維持や成長、活動のために使っている。その一連のエ
ネルギー変換作用を統括するものが意識である。私たち人間は生きている間は
身体内部に生命エネルギーが流れている。生命エネルギーが流れているから身
体内部にさまざまな感覚が起こってくる。粗雑なものから微細なものまでさま
ざまな身体感覚は深いレベルのほとんど自覚できないレベルの意識によってキ
ャッチされる。意識によって捉えられた感覚としての情報が神経系を通して瞬
間瞬間脳に伝わっている。脳は感覚を感じて身体に適切な指示をする。空腹を
感じれば食べ、疲れれば休み、眠たくなれば眠る。身体を守り命を継続させる
ために、時には心が悩み身体そのものが不調になって病気になることもある。
病気や悩みは身体を継続させる働きとして起こってくるものだ。だから本来、
悩みや病気は悪いものではなく原因があって起こっているだけである。私たち
の生き方が間違っていると深いレベルの意識が教えてくれているのだと理解し
なければならない。

脳は物質的な身体機能そのものであるが、中枢神経の中で機能して命の働きを
統括しているのは非物質的な意識である。脳そのものの働きも深いレベルで意
識が統括していると言える。物質的な脳の機能と非物質的な意識が結びついて
命を守る働きとして感情が発生し、さまざまな心の働きが起こってくる。私た
ちの意識は誕生前からすでに色付いていて純粋でないから、感情も影響を受け
て、さらに意思や行動にも影響を与えている。私たちが正しく生きようと思っ
ても間違ったことをしてしまう原因は身体内部の深い意識レベルにある。意識
の働きというものを想定しないと、脳の機能だけでは、なぜ我々は間違った選
択をしてしまうか説明がつかない。

私たちの身体も心も、そしてこの世の森羅万象すべてが刻一刻、時間とともに
変化している。すべては変化するエネルギーの流れである。二度と同じ川の流
れの中に足を浸せないと同じように、私たちの身体も心も変化してしまうので、
1秒前の私と今の私は違ったものだし、今の私と1秒後の私は違ったものであ
る。1秒間に人間の小腸栄養吸収細胞は170万個生まれ変わり、24時間で1500
億個ある小腸の栄養吸収細胞はすべて生まれ変わってしまう。身体内部は激し
く一瞬一瞬変化している。身体と心を捉えようとしても変化してしまうので、
そこに恒常的な私を見つけることはできない。

私とは観ている者、感じている主体であり、客体ではない。意識についた色や
汚れは客体であるが意識そのものは主体である。主体的な意識が純粋性と完全
性を取り戻した時、私たちは長い旅を終えて普遍的なものになる。普遍的にな
った意識はもう生き物に生まれることはない。それが解脱だと思う。

宇宙の草創期、宇宙全体に均一に広がった温度の中に、ほんの少しだけ温度差
が起こった。その温度差によってプラスとマイナスの電磁気的な流れが起こっ
た。その電磁気的な流れがあらゆる物質的なものを生み出す根本的な力となっ
た。陰と陽、拡散と収縮、引き合う力と反発する力があらゆる場所に起こった。
宇宙という物質変化の流れそのものが目に見えない宇宙の意識・カルマによっ
て出現したというのがジャイナ教や仏教の基本的な宇宙観である。宇宙は神の
創造によるものではなく、始めのない始めから、終わりのない終わりまでカル
マによって輪廻しているというものだ。

今、なぜ自分はここに存在しているのかと問えば、原因と結果の法則が連綿と
遠い過去まで続き宇宙の始めまで続いていることがわかる。宇宙の始めが始め
でなく、もっと前まで繋がっていることもわかる。反発する力と引き合う力が
姿形を変えてさまざまな場所で起こった。原因と条件の組み合わせによってい
ろいろなことが継続的におこった。偶然のように奇跡のように思える確率の低
い出来事も、必ず由ってくる原因があるのである。しかし、宇宙が始まって以
来、継続的に起こってきたことのどれか一つでも起こらなかったら今の自分は
存在しなかった。星星を含めて森羅万象すべてのものは相互に関連しあって存
在しているのであり、孤立して存在できるものなど何一つない。私たちは引き
合う力と反発する力である無数無限の縁によって存在しているのである。私た
ちは存在していて存在させられている。生きていて生かされている。あなたが
生まれたから私が生まれたのであり、私がいるからあなたがいるのである。私
たちは全体として一つであり、生かされて生きているのである。

地球の周りに月がなかったと仮定してみよう。月がなければ地球の自転速度が
早まると科学的に推察されている、月がブレーキの役割を果たし地球の自転が
遅くなっている。もし月が地球の周りになければ、一日は8時間になる。潮の
満ち引きも起こらない。地上は今よりも強い風が吹き、植物や動物が存在でき
ても今の生き物と全く違った生き物の姿になるだろう。月を生み出した原因と
なったグレートインパクト、小惑星による地球との衝突がなかったら、地軸の
傾きがなくなり、季節の変化が起こらなくなる。地球環境は厳しくて今ある地
球上の生き物は全く別の形態になっている。

少なくとも私たちは太陽に感謝しなければならない。グレートインパクトが起
こったことに感謝しなくてはならない。月の存在に感謝しなければならない。
そしてすべすべてのご縁に感謝しなければならない。

「すべてのものと繋がっている、すべてのご縁によって生かされている。」と
考えて、生きている瞬間瞬間にすべてがその思いで満たされればそれがサマー
ジーである。宇宙があって私が存在できている。尊いご縁によって深くつなが
っている。私の身体を作っているすべての元素はかって宇宙のどこかで他物が
使っていたものだ。宇宙の始めから在ったものと、そのものの形を変えたもの
の再利用である。私が呼吸している空気も地球上にかって存在した植物、動物、
生き物、マハーヴィーラ、ブッダ達が呼吸に使った空気の再利用である。私達
は好きな人の吐いた息だけでなく嫌いな人の吐いた息をも使っている。すべて
は循環して繋がっている。空気だけでなく私たちが飲む水もかって誰かが飲ん
で使ったものの分子を含んでいる。私たちは一人一人過去にも繋がり未来にも
繋がり、同時に空間的に全方向に繋がっているのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

ディープな旅 ネパール・インド瞑想の旅 <特別編> (伊東真知子)

昨年11月18日~28日の11日間「ディープな旅 ネパール・インド瞑想の旅」は、
初めてネパールで開催されるジャイナ教国際瞑想キャンプに参加したあと、ネ
パールとチベット、中国に囲まれている北インドを訪れてきました。

成田に集まったのは、キャンプ参加経験者5名、初参加6名、そのうちインド初
めて3名、海外旅行も初めてという人もいたため、出発前に現地の情報やジャ
イナ教の地を訪れる際の注意点などを事前にお知らせしました。

まずはデリーで1泊。翌朝、カトマンズへ向けてまたすぐに飛行場へ。
カトマンズはトランジットの時間が少々あったので、目玉寺で有名なネパール
仏教寺院スワヤンブナートを訪れました。参道の頭上には、願いをのせた5色
の旗タルチョが絡まりそうなくらいに、たくさん交差して、ああ~ネパールに
来たなぁという実感が涌きました。タルチョは、ただの飾りではなく、そこで
暮らす人たちの願いがいっぱい込められています。

お猿さんもたくさんいるスワヤンブナートからまた飛行場に移動。ビラトナ
ガールへの国内線のプロペラ機の胴体には「buddha Air」とあり、ありがたそ
うな飛行機です。飛行中、夕暮れ時に飛行機の窓から見ると、夕日に赤く染ま
ったエベレストの山々が見えました。感激!

ビラトナガールに到着したころは日がすでに落ち、飛行場も周囲も真っ暗、車
でしばらく走っても真っ暗で、不安になるほどの田舎でした。それでもカトマ
ンズの次の大きな街と後で聞いて、随分驚きました。

キャンプでは一部のムニ(男性僧侶)達が来ており、2年ぶりでしたがとても
元気そうです。小さかったムニも背が伸びて大きくなっていました。一昨年は
かなりのハードスケジュールだったので、今回は少しゆったりスケジュールを
お願いしました。するとかなりゆったりになり、午前中と午後と2クラスずつ
の受講。自分たちで早朝にヨガをやりました。

一昨年ムニ・ジャイ・クマールジに教えてもらった「幸せの雨が降る」という
瞑想をリクエストしました。それは唯一体を自由に揺らせることができる瞑想
法で、とても楽しい気分になります。

3日目に坂本先生のアワード賞の受賞式があり、ロシアからのキャンプ参加者1
1名が「プレクシャ・ソング」でお祝いをしてくださいました。アチャリアか
らは、今後、日本でのさらなるプレクシャ・ディヤーナの拡大をという課題が
出され、頑張らねば!

翌早朝にキャンプをあとにし、車で再入国してダージリンを目指します。
ダージリンは標高2000mにあり、紅茶で有名ですが、イギリス統治下では避暑
地として繁栄を極めた街です。急な勾配のところにへばりつくようにしてでき
ている街は、実に感動ものでした。よくこんなところに街を作ったなぁ・・・
と。そこから見える世界第3位の高峰カンチェンジュンガは神々しく、この神
宿る高い峰が朝日を浴びてピンク色に輝くさまは、「無理してでも来てよかっ
た」「これを見られただけでも・・・」と幸福感でいっぱいになりました。

ダージリンからガントクへ。
シッキム地方は、インドとは言え、そこに住む人や文化、宗教が違い、インド
にいることを忘れそうになります。ネパール人ガイドのスメダさんも観た感じ
日本人とほとんど見分けがつかないくらいで、控えめで、誠実で素晴らしい方
でした。ガントクは中村天風がカリアッパ氏に連れられて、ヨガと瞑想の修行
をしたところです。

チベット仏教寺院やチベット難民センターを訪れました。難民センターではチ
ベットの国と難民の人々に対して、様々な思いを胸にいただきつつ、せめても
の気持ちと、お土産をたくさん買い込みました。

ガントクのあとは、カリンポンへ。
カリンポン最大のドゥルピン僧院を訪れたら、えび茶色の僧衣を身につけた若
い僧たちが本堂で一堂に会し、マントラを唱えていました。ジャイナ教とはま
た違う味わいのマントラです。この僧院が建つ丘の上からは、遠くエベレスト
山群が見渡せます。

旧シッキム王国の交易路上の宿場町として栄えたカリンポンは、後に英領イン
ドの西ベンガル州となり、キリスト教布教のため教会が建てられました。その
教会は、建物はネパール・ヒンドゥー様式、壁画はチベット風(イエス様がチ
ベット仏教ゲルク派の黄帽をかぶって袈裟を着ていたり、マリア様が蓮の上で
説法をしていたり…)のとてもユニークなカトリック教会です。

今回いろんなことで驚いたことはたくさんありましたが、一番驚いたのは、す
ごい山奥の掘立小屋のような物売りのお店の軒先に、携帯会社なのか、オレン
ジ色のバナーがどこにでもあったこと。そしてどんな田舎でも携帯をみんなが
持っていること。坂本先生は、「固定電話が浸透する前に、携帯が広まったか
らでしょうね」とお話しされていました。

さらにチベット仏教の若いお坊さんたちがスマホを持っていたことには、本当
に驚かされました。ジャイナ教のムニたちは、今もって、お金も触らなければ、
電話もしないでしょうに。それとも固定電話で「もし、もし・・・」とかやっ
ているのでしょうか? ちょっと想像がつきません。

カリンポンからまた飛行機でデリーに飛び、11日目の朝に全員無事に成田に到
着しました。今回は旅行中、喉の調子が悪いという人がいましたが、病気やケ
ガもなく、飛行場以外で日本人に会うこともなく、本当に充実したまさにデ
ィープな旅でした。

一緒に行くはずだったWさんは、残念ながら病気になってしまい行けませんで
したが、次回は元気になってぜひ一緒に行けたらいいですね。
頑張れ! Wさん。

コラム[ラーナクプールのジャイナ教寺院]

ジャイナ教は一世紀頃、大きく裸形派と白衣派に分かれ、さらに偶像崇拝する
派と寺院を持たず偶像崇拝しない派に分かれている。白衣派の中から17世紀
に偶像崇拝を否定し寺院を持たない、スターナックヴァーシン派が出現した。
それに対して寺院に参拝しジナ像を崇拝する派はムールティプージャカと呼ん
でいる。私たちがプレクシャ・メディテーションを学んでいるテーラパンタ派
はスターナックヴァーシンから分派して1761年にアチャリヤ・ビークシュによ
って始められた。現在のアチャリヤ・マハーシュラマン師は11代目のアチャリ
ヤ(ダライラマのような宗派の最高指導者)である。テーラパンタ派は古代の
ジャイナ教への復帰を目指す復古主義グループであり、教団と在家信者の関係
及び宗教的形態や活動が古代ジャイナ教の姿を今にとどめている。

ジャイナ教の戒律であるアヒンサー(非暴力、不殺生)とアパリグラハ(無所
有、無執着)の実践は徹底したものであり、一切の妥協を許さぬ厳しいもので
ある。これに対して同じ戒律を持ち兄弟宗教とされる仏教各派の非暴力、無所
有の実践は中道といって中途半端で生ぬるい。ジャイナ教は魂を清らかにする
ための実践宗教と言える。輪廻転生の原動力になっている魂の汚れであるカル
マの浄化が修行の基本となっている。全ての生き物に魂を認めているので、他
の命を奪うことを厳しく諌めている。世界一平和な宗教であるといえる。

アチャリヤ・マハーシュラマン師は、世界平和のために2014年、テーラパンタ
派の根拠地ラジャスタン州のラドヌーンを出発してアヒンサー・ヤートラ(非
暴力の旅)に出られた。古代の伝統に基づく布教伝道の旅である。車や鉄道、
飛行機に乗れないので完全に徒歩による巡行である。5月にアチャリヤ一行は
ネパールのカトマンズで地震に遭遇したが、幸い一行の中から怪我人は出なか
った。さらに一行は巡行を重ね、11月15日から22日までの間、ネパールの4番
目に大きな街ビルトナガールで、プレクシャ・メディテーション国際キャンプ
が開かれた。この国際キャンプに私を含めて11名が日本から部分参加した。

テーラパンタ派は1年に一回、各地で活動している出家僧、尼僧、在家信徒が
一堂に会し家族的な団結を確認しあうという伝統守ってきた。2002年からは海
外に普及したプレクシャ・メディテーションの仲間もその会合に合わせて参加
し学ぶという国際キャンプが始まった。

会場がネパールだったということもあり、今年の国際キャンプはインド国内か
らの参加者は少なく、また海外からの参加者も極めて少なく盛り上がりに欠け
ていた。

ビルトナガールはインド国境に近いネパール東部の街で、インド系ネパール人
が多い。ネパールというイメージではなく、観光地でないインドの埃っぽい普
通の田舎町といった風情だった。ビルトナガールにはネパールでも有数な富豪
の実家があり、その富豪一族が有力なスポンサーになって今回の国際キャンプ
は開かれた。街全体がお祭りのような歓迎ムードに包まれていた。アチャリヤ
一行は、ネパールの後、再びインドに入り、ブータンを巡幸し、さらにインド
各地を7年間かけて15000キロを歩いて旅をされるという。

アヒンサー・ヤートラの巡行を終えれば、偉業を成し遂げたアチャリヤ・マ
ハーシュラマン師は9代目アチャリヤ・トウルシー師のように全信徒から心よ
り尊敬される偉大なる指導者になるに違いない。

私はお寺を持たない偶像崇拝しないというジャイナ教復古主義グループのテー
ラパンタ派で瞑想を学んでいるが、ジャイナ教の寺院やジナ像にも多大な感心
を持っている。初めて(1989年)ラーナクプールのアディナータ寺院やグジャ
ラート州のシャトルンジャヤ山の山岳寺院群に参拝したとき、白大理石で作ら
れたジャイナ教寺院に強く魅せられた。シャトルンジャヤ山は宇宙都市のよう
な異彩を放っており、ラーナクプールの寺院は瞑想空間として、その独創的な
立体的構成に驚嘆した。その後、ラーナクプールのアディナータ寺院やシャト
ルンジャヤ山にもう一度行きたいという思いが強まり、2000年に再訪する機会
を得た。

今も私の心の中にはラーナクプールのアディナータ寺院がある。神谷武夫著
『インド建築案内』(TOTO出版、1996年刊)は、全インドの古代から現代に至
るあらゆる様式の主だった建築について調査論考した労作で、甚大な労力と時
間を費やして著された大変優れた著作である。神谷武夫がその著書の中で「こ
れこそがインド建築の最高傑作というべきものである」と述べているのが、
ラーナクプールのアディナータ寺院である。「世界で一番好きな建築物はなん
ですか」と問われれば、迷わず私はラーナクプールのアディナータ寺院をあげ
る。伝承によると寺院は天才的な建築家であるデパーカという人物が瞑想によ
って啓示を受け、1439年に建てられた。

寺院は基壇となっている床部分を除いてすべて白大理石で造られている。建築
材料に使われている高品質の白大理石の産地が比較的近いところにあった。こ
の白大理石を使ったことで寺院の内部が清浄で荘厳な雰囲気になった。白大理
石で作られた柱や梁、壁やドーム型の天井全てが微細なまでに緻密な彫刻をび
っしりと彫り込んである。全く妥協を許さない完璧度である。寺院全体に使わ
れている大理石の柱が1444本、ドーム型天井は大小24作られている。24は
マハーヴィーラを含めて24人のテールタンカラ(救済者であり解脱者)を表
している。アディナータとはジャイナ教の最初のテールタンカラで始祖のリシ
ャバのことである。

ドーム天井は極めて音の響きが良く、ドームの下でマントラを唱えたり、賛歌
を歌えば身体内部にパワフルなバイブレーションが起こる。回廊を取り巻くよ
うに沢山の瞑想のための小祀祠が作られてある。どの小祀祠も一坪ほどの空間
で、中に3体のジナ像を祀っている。寺院全体が立体的な変化に富んだ構成と
なっていて、内部を回遊するように出来ている。寺院の屋上に上がってみたら、
そこにさらに驚くべき風景が広がっていた。屋上は屋根を構成する塔やドーム
によって、変化に富んだ魅力的な立体空間となっていて、そこかしこに瞑想の
ための理想的な場所があった。寺院を取り巻く丘のような山々も木々に覆われ
て美しかった。私が追い求めていた全ての理想がここにあった。今でこそ、こ
の寺院はあまり実際的に使われていないようであるが、600年前の創建当時、
ジャイナ教徒が寺院に参詣し賛歌を歌い、瞑想に使われていた光景を想像して
みると、これこそ地上に出現した天国だったのではないかと思う。しかし長い
年月の間にソフトとしての教団や瞑想の実践が失われてしまった。もしこの寺
院が往時のように修行の場として生きて使われたら、どんなにか素晴らしかっ
たことだろう。

私は今もこのアディナータ寺院を思い出すと胸が熱くなる。もう一度あの場所
に行って、今度は長く滞在してじっくり瞑想したいと思う。私の来世はラーナ
クプールのアディナータ寺院に関係したものになるのかもしれない。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

インド瞑想キャンプから帰国しました! (伊東真知子)

28日(土)に「ディープな印度 プレクシャ・メディテーション研修」11日間
の旅を無事に終え、成田に全員元気に帰国しました。

今回のジャイナ教国際瞑想キャンプは、インド国境に近いネパールのビラトナ
ガールという観光地ではない本当に素朴な田舎町で開催されました。
11月18日に成田を出発して10時間近くかかってデリーで1泊。翌朝早くまた飛
行機に乗りカトマンズを経由して、国内線に乗り換え2日がかりで夜ようやく
現地に到着。キャンプそのものは、ネパールという地域的なことがあったのか、

海外からも国内からの参加者も少なく、小規模なものでした。一昨年の超ハー
ドな講座の連続ではなく、ゆったりとしたスケジュールで初参加の人たちもホ
ッとひと安心。坂本先生の受賞式も無事終了し、6日目にビラトナガールから
は、バスが通れないほどの細い山道を3台の乗用車で延々と行き、紅茶で有名
なインドのダージリンに。そこでは世界第3位の高峰カンチェンジュンガを畏
敬の念を持って眺め、8日目はシッキム王国だったガントックへ。さらに最終
目的地の中村天風さんが修行されたというカリンポンを廻ってきました。ガン
トックやカリンポンでは、これまでのラジャスタン州とは打って変わって文化
が全く違うように感じました。

チベット仏教のお寺が多く、お坊さんもずいぶんたくさん見かけました。
カリンポンのチベット仏教のお寺で、瞑想をしたのはとても素晴らしい体験で
した。

次回の12月7日(月)19:00からのプレクシャ研究会は、「お釈迦様の脳科学」
を基に仏教の話題をみなさんと交わしながら楽しい時間を共有したいと思いま
す。
みなさまのご参加をお待ちしております。

コラム[空の思想とマントラ]

般若心経、正確には摩訶般若波羅蜜多心経は玄奘三蔵(七世紀)が訳した大乗
経典で日本人にもっとも多く親しまれている仏教経典である。般若とは智慧の
ことであり、その智慧とは、全てのものは縁起しているから無常であり、有っ
て無いようなものだから執着してはならないと説いている。般若心経で説かれ
ている無常は、それ以前にインドにあった無我の思想を人間の問題だけでなく、
大乗仏教的にあらゆる事物に拡大解釈したものでありその内容を「空の思想」
という。

沖ヨガ行持集の般若心経の意訳を読むと、空について無と表現し、また空無と
表現している。こういう観点から空とは何かと考察すれば空と無は同じであり、
空無は無常のことを指していることが解る。無常とは時の流れの中であらゆる
ものが変化することであり、起こってくることの全ては諸縁(原因と条件)が
関係しているのだから、どんなものでも独立して存在することが出来ないとい
うものの見方の説明である。般若心経のなかで、観音菩薩がシャーリープッタ
に、全てのものは縁起していて独立して存在できないから実体がないのだと説
明している。体や心も変化するものなので私という実体は無い、つまり無我で
ある。般若心経は無常が解かれば無執着になれると教えているのである。

大乗仏教の空の思想はなぜ空の思想と言うのだろうかとの疑問がおこる。どう
して無常の思想または無の思想ではいけないのだろうか。

私は空と無には違いがあるような気がする。空と無の違いについてアヌプレク
シャしている時に内なる声のひらめきがあった。同じことの別な角度の表現の
違いなのではないかと思った。無とは私たちが感覚的に有ると思っていたこと
が、深く考察すると実は無いということが解ることであり、「有即無」のこと
だと思う。陰陽で言えば陽でありプラスであり現れていることとなる。逆に空
とはカラッポ、無いと思えることが実は満々と満ちていて有るのだと解ること
だと思う。つまり空とは「無即有」のことではないだろうか。陰陽で言えば陰
でありマイナスであり見えないことである。目に見えている形ある世界は、目
に見えない形のない世界から現れてきたと言っているのだと思う。空無という
時、それは有るものは無く、無いものは有り、満ち満ちているものは空っぽで
あり、空っぽは満ち満ちていることを言っている。陰陽一対、空無一対と考え
ればわかりやすい。

大乗仏教は出家の為でなく在家の信者のために易しく仏道修行ができる方法を
提唱している。一般大衆に南無阿彌陀仏と唱えるだけで死後、阿彌陀仏のおら
れる仏国土に往生できるというのがこれに当たる。同じように、大乗経典であ
る般若心経の最後の呪文、つまりマントラはこれを唱えるだけで、観音菩薩が
到達した悟りの霊力を手に入れることができると言っているのである。多くの
般若心経の解説書にはこの点の説明が完全に抜け落ちている。

「ぎやてい ぎやてい。はら ぎやてい。はらそう ぎやてい。ぼじそわか」
このサンスクリット語をカタカナ表記にすると
「ガテー ガテー パーラ ・ ガテー パーラ ・ サンガテー ボーディ
スヴァーハー」
となりその意味は
「往こう 往こう 彼岸に往こう。完全に彼岸に往こう。目覚め(悟り)に
幸いあれ」
である。
(この日本語訳は私がマントラとは何かに焦点をあて独自に意訳したものであ
る)

般若心経ではこのマントラが大事であり、このマントラをいつも唱えていると、
そのマントラが潜在意識化して、その潜在意識の力によって必ずそうなります
よと説いているのである。

般若心経はともすると、我々には色即是空 空即是色に代表される空の思想を
説いたものとの認識しかない。しかし、「だから知るべきである。潜在意識化
した言葉の力の知恵を。これは偉大なマントラである。叡智のマントラである。
これ以上無いマントラである。比類なきマントラである。これを唱えれば全て
の苦しみが除かれる。それは真実で疑いないことである。このマントラは悟り
の智慧と同じである。」と最後の部分で力説しているように、マントラを唱え
ることを奨励しているのである。

マントラの意味がわかってマントラを唱えればマントラの霊力を手に入れるこ
とができる。皆さん、もう一度般若心経を読んで深く味わってみてください。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

只見沖ヨガ国際キャンプ開催のお知らせ 9月19日(土)~23日(水)

9月のシルバーウイークに、只見(福島県)にて『みずなら・ユイ道場』の開
設10周年記念イベントが開催されます。特別ゲストとして、イタリアで「瞑想
指圧」を指導されご活躍中の八尋雄二先生をお迎えし、日本とイタリア、さら
にはオーストラリアからリンダさんを 交えてのワークショップも行われます。
また、映画『ガイアシンフォニー第六番』に出演された奈良裕之さんによる演
奏会もあります。

定員まで、残り2名です。先着順で参加を受け付けます。

参加料:50,000円(部分参加不可)
(現地での宿泊料や食事代、各種ワークショップ参加料などを含みます)

開催日時:9月19日(土)~23日(水)
9月19日(土)現地集合
11:30~受付開始、14:00~オリエンテーション
9月23日(木)昼頃解散予定

お問い合わせ・申込先
協会事務局:japan@preksha.com
坂本知忠:tomotada@icnet.ne.jp

インド瞑想ツアーについてのお知らせ(速報)

今年のプレクシャ・メディテーション国際キャンプはネパールのヴィラトナ
ガールで11月15日から22日に開催されます。国際的にプレクシャを広め
ることに多大な貢献があった人に授与されるプレクシャ・アウオード賞が、今
年は坂本会長に授与されることが決まりました。そこで、この期間にあわせて
久しぶりに国際瞑想キャンプに参加することを計画しています。授賞式に出席
し、後半4日間に僧侶たちから直接瞑想を学ぶセミナーに参加します。キャン
プ終了後は、ダージリンとシッキム王国の首都だったガントク地方を旅行しま
す。日程は11月18日成田発、28日帰国になります。ジャイナ教の本物の
聖者に会い、驚くようなジャイナ教哲学やプレクシャメディテーションを学ぶ
貴重な機会です。まったくはじめての方も参加できますので、ふるってご参加
ください。10名以上の参加表明で催行いたします。

コラム[身体とは何か]

宇宙は目に見える物質的なものと、目に見えないエネルギーや情報の結合に
よって成り立っている。人間の身体も物質的な目に見える肉体と目に見えない
心や精神、意識や生命エネルギーの結合によって出来ている。現代テクノロ
ジーが発達したことで、目に見えない様々な宇宙エネルギー等の検知器が開発
され、今までわからなかった宇宙の成り立ちがだんだん解ってきた。私たちの
身体についても様々な検知器が開発され電磁気的な身体の仕組みなどもだんだ
ん検査できるようになってきた。しかし、心や精神、意識や魂等の精妙なもの
は検知器で捉えることはどんなにテクノロジーが発達しても不可能だろう。

私たちの身体は宇宙の法則が身体になったものと言える。身体の発生の起源は
目に見えない部分から目に見える肉体が発生したのであり、成長、変化してい
く過程で目に見えないものが深く肉体に影響している。現代医療は身体の目に
見える物質的な肉体そのものだけが対象で、症状を肉体レベルで検査して病気
を特定することは出来る。原因が細菌やウイルスの感染症や短期的に急激に起
こった毒物中毒や怪我等のような場合は極めて有効で価値ある治療法が確立さ
れている。

しかし、原因が身体内部の深いレベルの次元の異なる目に見えない極めて微細
なものであった場合、原因と結果を結びつけて根本的な適切な治療は出来ない。
つまり、感情的な問題が原因となっている病気や意識のあり方、潜在意識下の
カルマのようなものが原因になっている病気については精神科医といえども現
代医学はその治療法を持っていない。症状となって現れてきた病気のうち半数
程度は、原因を特定出来ない身体内部の極めて微細なものから起こって来てい
ると考えられる。

私たちが幸せになるために、より自由に精神的に高まるために、全ての責任を
自己に見なければならないと思う。幸せや自由を人任せにして本当の幸せや自
由は手に入らない。病気についても全て人任せにしないで、出来るだけ自分で
自分の医者になる道を探るべきであり、必要、適切な時だけ専門医師の手助け
を受けたら良いと思う。自分で自分の医者になる方法はヨガや瞑想の実践にあ
る。

そのためには、自分の身体に対する理解を深めることが不可欠である。その身
体の目に見えない部分を深く知るための方法がプレクシャ・メディテーション
(知覚瞑想)である。私たちの観じようとする心が宿る中枢神経系は極めて優れ
た検知器であり、その検知器、自己意識を使って身体内部のさまざまな感覚を
観じていくのが知覚瞑想である。意識的な心、感じようとする心、意識を使っ
て内部感覚を細かく観察すると、命の働きが外部刺激に反応し変化してバラン
ス状態を求めて流れていくので、それとともに生起している内部感覚に気づく
ことができる。内部感覚を細かく、より微細に知覚していくことで、深いレベ
ルで身体の気づきが私たちに起こる。生命エネルギーと内部感覚は一体のもの
であり、感覚を観ることは命を観ることになる。生命エネルギーはいつも意識
とともに有り、意識があるから生命があるのであり、生命は意識そのものと言
える。内部感覚を観じるとは生命そのものを観ることである。そのことを意識
で純粋意識を観るという。また、魂で魂を観るともいう。自己意識で内部感覚
を観じることがプレクシャ・メディテーションである。

徹底的に細かく身体内部を探ることが本当の自分を知ることであり、本当の自
分を見つけることが自分で自分の医者になる方法である。瞑想によって身体内
部の変化や流れを理解することは、原因と結果の法則の理解を深める。自分の
生活や身体に起こってくるさまざまな現象が身体内部のカルマ(業)に起因して
いることが解る。私たちが不幸になるのも幸福になるのも、病気になるのも健
康に生きることができるのも、生まれることができるのも死ぬのも、カルマに
よって起きていることが解ってくる。

どうして生き物は身体を必要としているかといえば、身体が精神的発達のため
に必要だからである。身体を宗教哲学的に解釈すると、身体は精神的成長のた
めの道具であると定義できる。精神修行のためには身体以外の道具は何も必要
としない。身体だけが必要であり、身体がなかったら私達は修行できない。身
体がなければ私達は見ることも聞くことも話すことも食べることも考えること
も触れることも出来ない。苦楽の感覚を感じることも出来ない。苦楽の相反す
る感覚が身体内部に起こるから身体が生存できるのであり、身体が生存できる
から私達は修行できるのである。

私達が生まれてくるのは修行のためである。カルマが深いレベルで私たちを必
要な修行に導いている。修行に良い悪いはない。ただその人に必要で資格があ
るから起こってくるのである。そして地球は人間だけでなく全ての身体ある生
き物たちの修行道場なっている。全ての生き物たちは相互に関わりながら修行
しているのである。

自分が自分の主人公になるために、自分自身を知らなくてはならない。本当の
自分を知るために、自分の身体の仕組みを肉体レベルだけでなく、電磁気体・
エネルギー体のレベルで、カルマ体(業の体、原因体)のレベルで理解する必要
がある。それを可能にするのがプレクシャ・メディテーションである。プレク
シャ・メディテーションによって私達は深い自己認識のレベルに到達すること
ができる。

プレクシャ・メディテーションは自己認識の高度な技法であると同時に、自己
コントロールの高度なテクニックでもある。自己コントロールによって神経系
や内分泌系のシステムまでコントロールして変化させることができる。私たち
の感情はホルモン分泌と一体のものであり、真の健康状態も神経系を通して内
的生命エネルギーの流れが大きく関係している。このようなことがわからない
と心身の本当の健康は達成されない。

プレクシャ・メディテーションの技法は単なる知覚を超えて高度な自己コント
ロールをともなうものである。ヨガとは何か、瞑想とは何かと問われれば、そ
れは自己コントロールの道であるといえる。自分が自分の主人公になって無限
の自由に到達する道であるといえる。無限の自由に至るために必要な道具が身
体であり、身体を観察し知覚し本当の自分を知ることがプレクシャ。メディ
テーションである。解脱とは自己が消えてなくなることではない、無限の自由
と歓喜に満たされることである

身体の知覚を通じて自分とは何かが解った分だけ病気や死に対する不安が消え、
たとえ病気になってもその原因が解るので平常心で受け入れ、対処することが
できるようになる。深いレベルの自己認識によって自分の死までコントロール
できるようになるだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)