コラム[真実の自分を観る ジーバ・魂霊の二重性を理解する]

真実の自分を観る ジーバ・魂霊の二重性を理解する

プレクシャ・メディテーションの始めに、毎回、
サンピッカ エーエー    アッパアー ガー    マッパエーエー ナンムー
と唱えますが、その意味は、自分自身を通して自分を観てください、そして真実の自分を観てくださいです。

 真実の自分とは何でしょうか?それは本当に実在している自分と云うことです。では、私たちが常日頃、自分自身だと感じている肉体や心は自分自身とは異なったものなのでしょうか。

 プレクシャ・メディテーションのアヌ・プレクシャの中に沈思黙考という瞑想法があります。沈思黙考は考える瞑想、智慧の瞑想とも言われ、古代ジャイナ教の出家僧は黙考の修行者と呼ばれていたようです。アーヤランガと云う最古の聖典では出家者をそのように表現しているので、その時代の瞑想は無思考型の瞑想ではなく、積極的に考える瞑想だったのでしょう。

 智慧の瞑想としてのアヌ・プレクシャには12種類の重要な対象がありますが、中でも①魂とは何か・生命体とは何か、②世界とは何か、③輪廻とカルマの関係について、はとても重要だったらしく多くの黙考修行者に考察されて、後年極めて緻密な哲学となっていったようです。

 宇宙は永遠の昔から5種の実在体によって構成されていて、創造神によって作られたものではないとしています。【5種の実在体については、細分化して詳述されているがここでは触れない】

 世界は大きく2つに別けてジーバと呼ばれる生命体(実在体の一つ)と、それ以外のジーバでないもの4種類の実在体で構成されていると考えられました。

 ジーバは宇宙の始まりの無い始まりから、終わりの無い終わりまで、無数にあって、純粋なるアートマンがカルマと云う物質の汚れと結びついたものだと考えられています。ジーバを日本語に訳せば霊魂です。本当は魂霊と訳すべきでしょう。

魂はジーバの本質部分で浄、不浄を超えた究極の清らかさです。それをシッダ・アートマンと呼ぶことがあります。

霊は清らかな魂にカルマの汚れが付いているレヴェルのことでジーバ・アートマンと云います。ジーバ・アートマンは特殊性、個性別になった魂霊(魂プラス霊)のことです。霊を別な言い方で云えば潜在意識であり、個性、人格、カルマが付着して汚れた魂です。又、霊は行為の結果のカルマが原因を包含している原因体であると同時に、カルマの報いを受けている現在の心身と生活とも云えます。だからジーバは因果律によって輪廻している魂だと云えるのです。このようにジーバは原因のカルマを作る行為の主体者であり、同時にカルマの結果を受ける享受者なのです。

 全てのジーバには感覚がある。その感覚が根本欲で苦楽であり好嫌です。好き嫌いが命を守っているのです。苦楽と好き嫌いが無ければジーバは生命体になれません。その好き嫌いが大元で様々なカルマが結びついて、カルマが原因でジーバは輪廻転生していると考えています。ジーバ・アートマンを特長付けるカルマとの結びつきにおいて、カルマは物質だと解されています。物質は時間とともに変化し一時的で生滅の形をとります。だからカルマで汚染された魂から汚れを取れば、魂(カルマ体、ジーバ)から物質のカルマが無くなって非物質の究極の浄としてのシッダ・アートマンになるのです。

 シッダ・アートマン(魂)は非物質で、常住で、その有るという状態(実在性)が消え失せないものです。ジーバの常住性と云う一面に注目すれば、それは普遍性であり共通性になります。純粋なるアートマンとしてジーバを観れば、それは無形体であり、解脱しているものであると云うことができます。これが、真実の自分、本当の自分です。

 プレクシャ・メディテーションをする究極の目的は、個性を形成しているカルマを全て取り除き、モークシャ(解脱)になることにあります。モークシャとは、もうジーバ・生命体に生まれないと云うことです。モークシャの状態を言葉で表現することは出来ませんが、概念としては全知全能、無限の自由、無限の歓喜、無限の平和に満たされている状態です。この状態になった魂をシッダと呼んでいます。

 ジーバではない非魂霊の四つの実在体の一つに虚空(アーカーサ)があります。虚空は他の四つの実在体に場所を与えています。虚空は一つしかない単一なもので、形が無く、活動力が無いと定義されています。また、虚空は世界と非世界を含んでいて二つを合わせて全宇宙と云います。非世界は世界の外側に広がっていて、カルマ物質の付着が無くなった魂は、軽くなって非世界に入るのだと説かれています。

 このような思想から、運命の造り主は自分自身である。世の中に起こっていることの全ては必然であって偶然に起こっていることは一つもない。自分が選択した行為の結果によって、全てのことが自分に起こるのだから、これこそが本当の自由の意味です。神様のような存在が人間をコントロールしているなら隷属であって自由は無いでしょう。自分自身が不自由に感じられるのはカルマの汚染によって縛られているからです。

 人間として生まれたジーバは尊いものだけど、全ての人間は生まれながらにして病人であり健康な人など誰もいないと思います。また、生まれながらにすでに精神障害者なのだと思います。なぜなら最大の病は輪廻転生病に罹っているからです。このことをマハービーラも仏陀も『苦』と観たのです。苦の消滅が解脱でありニルバーナです。仏陀はアートマン論者では無かったので、マハービーラのように魂に付着する物質的なカルマは想定しませんでした。カルマを精神的なものと解釈してそれを煩悩と言いました。仏教には唯物論者の一面があります。
ジャイナ教でも仏教の煩悩と同じ意味でカルマ体(霊体)のレベルにカシャーイがあります。

 魂に付着した悪いカルマと善いカルマ、全てのカルマを取り除くことはかなり困難で難しいことです。ジャイナ教の出家僧は現在でも完全にアカルマ(無業)になるために苦行をしています。

 私達は出家の身ではないから行為をしないことは不可能ですし、厳しく困難な苦行も無理です。世界の性質と魂とカルマの法則と輪廻転生の理屈をよく知って、自分を損ねるカルマを入れず、自分を助けるカルマを入れるように行動、行為していけば善いのだと思います。それが幸せの道であり、非暴力・無執着・平等・無差別・世界平和の道となると思っています。

 付記:アートマンやジーバ、魂などの形而上学的テーマを研究している学者達の論文を読んでいると、魂と霊を区別せず混同して記述しているので、とても理解しにくいです。スピリチュアルなことに言及している人の多くは、心と霊魂や感情の区別さえ出来ていないものも多く見かけます。これが宗教哲学の理解に混乱を生じさせています。正しい洞察力を得るために、今回私が書いたこの小論文『魂霊の二重性』を参考にしていただければ嬉しいです。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/7/30からの転載です)

プレクシャな生活(日本プレクシャ・ディヤーナ協会 指導士・高山知子)

2011年2月にインド、ラジャンスタン研修旅行に瞑想、ヨガ、ホリスティック療法、国際シンポジウムに坂本先生がご招待を受け、沖ヨガの方達と初めてのインドに行きました。日本では考えられない贅沢な宮殿に泊まり、テーマパークでの食事会など、坂本先生のおかげを被って個人で行く旅とは別格でした。

ジャイプールでの4日間、ホリスティック療法、瞑想、ヨガ国際シンポジウムで6か国の素晴らしい人たちの中にジャイナ教のサマニ―(尼僧)もいらっしゃっていました。そして最終日、坂本先生が日本に広めてらっしゃるジャイナ教瞑想のセンターに向かいました。砂漠に近いラドヌーンの町の外れに、全く別世界で広大な敷地の中には学校や、図書館、博物館、集会場、大ホール、僧侶の宿泊施設、信徒の宿泊施設、瞑想場、テーラパンタ派のきれいな本拠地でした。

その時に初めてムニ キシャンラールジにお目にかかれる機会を頂きました。年老いているはずのムニは気高く溢れるばかりのオーラに包まれており、そして眼差しに慈愛に満ちたエネルギーが私の中に入ってきました。

この場の雰囲気はなにか惹かれるものがあり、ムニ キシャンラールジと坂本先生も親しげで、先生も凄いと思いました。

日本に帰って、この旅をきっかけに坂本先生のもとで、ジャイナ教瞑想を真剣に学びました。2013年に再びインドの瞑想キャンプ「アチャリアトゥルーシー生誕100周年」に参加致しました。

この時はセンターでのお勉強のスケジュールがハードでランジット博士の瞑想から始まり、それも早朝5時半から、この時瞑想をしながらクジャクの鳴き声を初めて聞きました。

次から次へと教えて下さるムニやサマニ、ヨガの先生、お医者様とあらゆる方が教えてくださった、とても素晴らしいキャンプでした。お昼は最高指導者アチャーリアとの瞑想時間があり、そしていよいよ私の衝撃を受けたムニ キシャンラールジの「プレクシャーメディテーション」を受けた時、瞬きをしないで私を見ていなさいと言われ、目を凝らしてじっと見ていると年をとっているはずのムニがドンドン若くなって、光が出て輝き始めました。目が点になったのを今でも忘れられない思い出となっています。

瞑想は人間の持つエネルギーを活発にし、光明を放つものなのだと、目の当たりにした私でした。

ランジット博士のお勉強の中に真理、真実の探査に二つの方向性がある一つは皮膚の外側月や星、宇宙、エネルギーが外にでていく。もう一つは内側、エネルギーが中に入る。私たちは、一番身近にあるもの体の中にあるものを、一生懸命外に探し、遠くまで探している。真実を内側に探すのが瞑想です。心の中に残りました。

それで色々教えていただき、終るのが夜の10時でした。へとへとになりながら何日間続きました。

それからアチャリアトゥルーシージの生まれ育ったお家、博物館、そして動けなくなったときにいらした場所、そこに座っていたのですね。とハッキリわかるぐらい、そしてどの場所も亡くなった後でも、エネルギーに満ち溢れていました。

プレクシャーメディテーションのインド旅は私の人生観をかえました。

私の今の元になっているのはこういった経験ができ、プレクシャ瞑想のお勉強ができたからです。

長い間、私はヨガや太極拳、気功、エナジーヒーリング、瞑想、呼吸法などを教えてきて、高齢になって、ふと自分の内側に目を向けた時、若い時とは違うアンバランスなことが起きていることに気が付き始めました。心と身体のアンバランスに気付いて何かをしなければと悩み始めた時期に瞑想を中心に本来の自分の再発見、周りに左右されない今の自分にとってなにが必要なのかそして自分と長く関わってきたヨガクラスの生徒さん達も自分と同じように老いていく人達がたくさんいること。皆さんもアンバランスを感じて辞めていく人、そして亡くなった人もいる。

まずは自分を立て直すことがいかに大切か、時代の流れ文化が変化していくことの気づきがありました。

誰にでもできる瞑想、エネルギーを養うことを今までお勉強したことを一つにできないか思考錯誤していく中で瞑想、呼吸法、ストレッチ、気功、太極の部分を一つにしたような現代人にあった気を開発する若返り法「タオヨガアーツ」に巡り合いました。

まさしく老いていく今の自分、そして私の周りの人、現代社会に必要な東洋の知恵が入っているエクササイズだと思いました。

瞑想というと難しそう、もう年だからできない、敷居が高い、日常的でない苦行のようなイメージをもっている人もなんとなくできてしまう、瞑想エクササイズは体を気持ちよく動かしながら、瞑想していく方法です。

今までやってきたことを一度手放していくことも大切とこの時思いました。そして一から始めていきました。少しずつ続けているうち、自分自身が元気になっていくのが、よくわかり、今は違った形の誰にでもできるシニアクラスになり、楽しくにぎやかに励んでいます。

タオヨガは今までの瞑想法にプラス動く瞑想が入ってきます。

そして内側の経絡を開き、気の流れを良くする経絡ストレッチをしていきます。

瞑想はエネルギーの言い分を聞き、エネルギーを活性化させる方法です。凝り固まったエネルギーを解きほぐし、体の内側、外側に循環し、バランスさせてくれます。そして本当に大切な事は、楽しく、気軽に、おしゃれにやること、そして優しく自分を抱いてやること、見守ること、許すこと、微笑むことそうやって自分にアプローチし続けていくと、先ずはお肌が美しく、強く、優しく豊かな自分に変容していくことに気が付くでしょう。

そうそう若返ります( ´艸`)

私は坂本先生に次ぐ二番目の高齢者になります。

かつてこの年になったら。引退のことも考えていました。でも今は以前よりも元気になっていることに自分自身驚いています。

でも「無理はしません。無駄はしません。」あれ?かつての沖ヨガの加藤真知子先生のお言葉でした。この言葉大好きです。いつも生徒さんに言ってます。「無理はしません。」ストイックにならなくていい。自分らしく、より健やかに。

毎月第一水曜日に千葉県本八幡プレクシャ瞑想研究会の一日リトリートを坂本先生と楽しくムドラー瞑想、タオヨガムドラー瞑想、と共通したり(笑)、賛歌を歌ったり、大いに笑ったり、最近では坂本先生の光の瞑想に続いて、シンギンボウルでカヨウッサグのリラクゼーションタイムを楽しんでます。そしてアンタールヤートラの呼吸法から瞑想、たまにシンギングボウルのアーティストの方をお呼びしてシンギングボウルセラピーもとりいれて癒すことを大切にしています。こうしたことをやっていてバランスが取れてきているのも事実、そしてプレクシャとの相性がとてもいい。以前より瞑想が深くなったと自分では思います。

心も体も円く円くなりますように。自身への呼びかけです。そして私は年をとっても幸せな気持ちで毎日過ごすことができています。瞑想は人生を喜びに変えてくれます。

きっかけを作ってくださった坂本先生に深く感謝しています。

(2024年7月152号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 指導士・高山知子

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「奥会津只見ユイ道場での合宿生活の思い出」

2010年から沖ヨガ協会で坂本先生からジャイナ教瞑想を学ぶきっかけがありました。

2011年に初めてのインドに行くことになり、そこからちゃんとした瞑想を学ぶことがはじまりました。そして2年に1度の割で3回渡印し、プレクシャーを学び、普段は浦安の教室や坂本先生が所有する只見のユイ道場にて、たびたび長期、短期合宿をし、奥会津の自然の中、只見川と叶津川との分岐点で毎朝の瞑想、お仲間のふれあいが楽しくプレクシャー瞑想も当たり前にヨガと瞑想、私の生活の一部として、私の中に溶け込んでいきました。只見は行くたびにストレスが抜け、元気の源になっていたように思います。

そして一番印象にのこっているのが、一週間の予定の合宿の時行ったその日の夜、大雨が降り、道場での瞑想が終わり、番所に移動し、裏口から上がるとき足を滑らせ上がり口の石の間に足の指がはまってしまい、骨折してしまいました。後でわかったのですが、2か所骨折していました。ひどい痛みで、次の日に帰ろうと思っていました。

とりあえず食事作り担当でいらしてたマクロビオティックの森山さんが里芋のすりおろした湿布をして、お湯で温めてくださいました。少し痛みはやわらぎ、次の日ユイ道場でプレクシャーマントラ、沖先生の誓いの言葉など、坂本先生の誘導で、私のために皆さんが輪になって座り、私は大きなシンギングボウルを鳴らし皆さんはアエイオウの聖なる音それぞれに和音を奏でるように音の響きを循環させていきました。音のバイブレーションや其のあともプレクシャー瞑想が続き、終わった頃はすっかり痛みがどこへやら?そのまま帰らなくても大丈夫と思い、合宿を継続しました。

夜も皆さんと一緒に温泉にはいって、足を温め(只見の温泉で治療)普通に一週間ヨガと瞑想合宿生活を終え、帰りは先生の車で浦安まで送っていただき電車に乗って歩いて帰り、整形外科に行ったのでした。普通一週間もたつと歩くのに体重を支えるので骨と骨がずれていておかしくないのにずれていないとドクターに言われました。一週間たってから受診したことにもびっくりされていました。次の日からギブスをはめてヨガクラスにもレッスンさせていただきました。

この時は、坂本先生をはじめプレクシャー仲間の人たち、ヨガクラスの方々に本当に助けられ、自分は皆さんに生かされているなとつくづく感謝の心でいっぱいでした。今思えばマントラの波動、シンギングボウルの波動、プレクシャー瞑想のエネルギーの循環、般若心経、只見の温泉のすべてが生命エネルギーを活性し、向上したのだと確信します。

只見の環境は冬は雪でとざされ、大変きびしい環境です。そして台風の影響で川が氾濫し、周りの家や畑が流され後日訪れた時はあまりのすごさに息をのみましたが、それでも時がたつと何事もなかったかのように自然の美しさがすばらしく、エネルギー溢れる最高の場所でもあります。川のふちで座って「無常」について瞑想をしなさい。と坂本先生の言葉がいつも聞こえてくるような気がします。

今も私は過ぎ去った日々を思いながら、さらさらと流されながら、前を向いて歩くことを意識しています。月一の坂本先生の瞑想で、感じることは先生はこれはと思うことはすぐに体験され、いろいろなことの探求心にあふれています。少年のように時代の流れの変化とともに日々進化していく先生に目を見開くことが多いです。

私は坂本先生をとおしての瞑想に培われています。ムドラーを組み電磁気的なテジャス体、カルマ体を探求し、自分を通して自分を見ることの探求心を続け、そしてよいと思うこと実践して、惜しみなくだしていけたらとも思っています。年を重ねるごとにアラハトヴンダナ讃歌を聞いたり唄ったりしていると洗い清められる気が拡大して涙がこみあげてきます。日々生かされていることに深く感謝いたします。

(2025年3月160号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 指導士・高山知子

コラム[洞察力を養いアカルマをめざすアヌ・プレクシャ]

プレクシャ・メディテーションの基本的な6種類の瞑想法ではないが、アヌ・プレクシャはマントラ・メディテーションと共に重要なプレクシャ・メディテーションのテクニックである。

アヌと云う言葉の意味は二つあって、一つが真実とか本当のことと云う意味であり、もう一つが何回も繰り返すと云う意味である。

沈思黙考・智慧の瞑想

 何が真実かを徹底的に考える沈思黙考型の瞑想は「智慧の瞑想」とも呼ばれている。ゴータマ・ブッダは菩提樹下で、無思考型の瞑想から離れて、考える「智慧の瞑想」によって、12縁起の悟りを得たと伝わっている。一生懸命、徹底的に論理的に考えれば考えることが瞑想になる。徹底的に考えれば内なる智慧が開かれる。その智慧によって洞察力が出てくるのである。
洞察力が出てこなければ、本当のことと嘘のことの見分けがつかない。正しいものの見方が出来なければ間違ったことをしてしまう。正しいものの見方、正見・正知の出発点が洞察力なのである。洞察力無くして正見は無いと思う。

自己暗示法・繰り返しの善い想いと言葉

 善い言葉と想いを繰り返せば潜在意識下に善いものが定着する。繰り返された行動は善いものも悪いものもやがては潜在意識に定着し、内なる深いレベルから我々の思考や行動に影響を及ぼすようになってくる。善い言葉等を繰り返し唱えるのは、潜在意識を変革するテクニックである。システムとして機能している内部の仕組みを変えない限り、私たちの人格の変容は期待できないと私は考える。その有効なテクニックの一つが繰り返しの言葉やマントラ、霊的色彩光による瞑想である。

洞察力の獲得・アヌプレクシャ

 ジャイナ教聖典に記述がある、12種類の真理に対する考察瞑想の対象の中で、最初に取り組まなければならない事は「無常」である。

 無常を理解することは洞察力を獲得する最も大事な基本である。全ての問題を解決するマスターキーであると云っても過言でない。物質的な現象世界は全てが変化する。一瞬一瞬大きな変化が起こっていると完全に身体を通して理解しなければならない。その上で変わるものと変わらないもの、非物質の究極のアートマンを理解しなければならない。究極の清らかさ、シッダ・アートマンと生命体として汚れたジーヴァ・アートマンの二面性のアートマンを理解しなければならない。

 アートマンの秘密が解ると潜在意識のカルマの秘密が解る。カルマの仕組みが解ると、なぜ生き物が輪廻転生しているかが解る。それらが解ると因果律が完全に理解できるようになり、智慧が起こって洞察力が出てくる。全ての生き物はアートマンのレヴェルで平等であり無差別であり自由であることを完全に理解する。平等、無差別観が確定して恐怖が無くなり平和になる。これが非暴力と云うことである。

 無常と云うことを本当に理解できれば、自分の身体を含めて何も所有出来ない、執着できないことが解る。そのことが心底解ると欲望が少なくなり、自己中心のエゴ的な心から離れる事ができる。
所有と執着が我々を不自由にしているのだから、無所有、無執着が解れば、自由感が増して欲望が少なくなり、怒りが減少して、他との争いが無くなる。怒りが無くなれば恐怖も無くなり非暴力、不殺生が実践できる。平和になる。

①無常についてしっかり理解できれば困難や不都合な事を耐え忍ぶ事ができる。どんなに辛いことも困難なことも悲しみも忍耐することができる。現象世界は全てが一時的で変化してしまうからである。無常の理解によって、時の流れを待つ事ができる忍耐力が出てくるのである。人生とは忍耐そのものである。善い事も悪い事も起こってくることの全てはカルマに関係しているのである。忍耐はまた、アパリグラハ(無所有、無執着)、アヒンサー(非暴力、不殺生)の基礎でもある。忍耐によって平和になる。

②無常の次なるアヌプレクシャの対象は、魂(アートマン)とジーバ(生命体)、それから魂ではないものとジーバではないものを熟考する。

③ジーバはカルマに束縛されて無限に輪廻転生していることについて

④輪廻転生に於ける、自分の行為に対する自己責任が、自己救済の唯一の道であることについて

⑤魂について、魂は非物質であること、魂以外のもの(身体や心など)と違っていること

⑥カルマの流入、カルマによる束縛、カルマ流入の防止、カルマの根絶について

⑦世界の性質とは

⑧正しい信仰、正見、正しい行為、その認識の難しさについて

⑨ティールタンカラによって語られた、解脱への正しい道への基本原理について

以上のことを対象にアヌプレクシャすれば、やがて内なる智慧の扉が開き洞察力が出てくる。
その洞察力が自分に起こってくるあらゆる問題を解決するマスターキーになり、モークシャに続いている道なのだと思っている。プレクシャ・メディテーションはそうした哲学を包含する優れた瞑想法なのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/6/28からの転載です)

2025.7月開催 坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-プレクシャ・ヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス-

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容)
ヨガ:瞑想できる体づくりヨガ
讃歌:「プレクシャ・メディテーション 讃歌・マントラ・スートラ集」から1-2歌
講義・瞑想:中~上級者向け内容

日時:2025年7月6日(日)10-12時(開場:9時半)

会場:茗荷谷中央大学キャンパス2階(住所:大塚1丁目4番地)
*丸の内線茗荷谷駅前の春日通りを左に行くと、新設の中央大学茗荷谷キャンパスがあり、その2階になります。中央大学正面入り口の手前左側に階段、右側にエレベーターがあります。お間違いのないようご注意ください。2階に上がって頂き、入り口に入り、左に進み、受付窓口先を右に曲がった正面扉に、「元気アップヨガ」の貼紙がございまして会場になります。施設の関係上「プレクシャ・メディテーション」の記載ではありませんので、ご了承ください。


会場参加受講料:2000円
アーカイブ動画視聴:1000円
*アーカイブ動画視聴の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

指導者:伊東真知子(指導ランク:講師)*ヨガ担当*

日本プレクシャ・ディヤーナ協会 役員
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印5回(2019年3月時点)
1980年沖ヨガ入門
1982年ヨガ指導開始
2008年プレクシャ・メディテーション指導開始
月2回神保町区民館にてヨガと瞑想クラス開催

指導者:坂本知忠(指導ランク:教師)*讃歌、講義、瞑想担当*

 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。 

コラム[ジャイナ教の特徴は魂とカルマの詳細な説明]

近世ヨーロッパでジャイナ教哲学が研究され始めた時、ジャイナ教は仏教の一つの分派であると考えられた。それほどジャイナ教と仏教の教義が類似していたのである。今ではジャイナ教と仏教は別の宗教であると確定している。しかし、修行法も開祖の生い立ちや境遇、宗教が成立した時代背景などに共通点が多く、兄弟宗教と考えられている。

ジャイナ教と仏教の根本的な共通点は何であるのか。

 初期仏教とジャイナ教の共通点は、生きとし生けるものは生滅を繰り返し輪廻転生していて、生存そのものを苦しみであると解釈した。人間はその生存の苦しみになっている輪廻から離脱して理想の状態(涅槃・モークシャ・解脱)を目指すべきであると教説している。

では、何処が根本的に異なっているのか。

 それはアートマン(魂霊)の解釈の違いである。マハヴィーラはアートマンについて克明に説いて輪廻からの解脱を教えた。一方、仏陀は実用現実主義、唯物主義的観点に立ち、実在を証明できないから、アートマンについて説明を避けて涅槃を説いた。アートマンを説明すると極端な非暴力主義に陥り、人間生活が非現実的で不便になると云う理屈からであった。仏陀の時代、ジャイナ教はニガンタ宗と呼ばれ裸形派(ディガンバラ)だけだった。仏陀はニガンタの修行者を見て、極端な苦行で自虐することに疑問を抱き中道を唱えたのである。

 マハーヴィーラは現象世界、自然界を徹底観察し、思考の上に思考を重ねる論理的思想家であった。彼は物質的なものだけではこの世の中を完璧に説明できないとして、非物質的な物の見方を加えて解脱を説いたのである。彼は理想主義者、厳格主義者、非唯物論者だったと私は考えている。マハヴィーラは以前から有った自我説(アートマン)とカルマ論を発達させ精緻なものにした。その結果としてジャイナ教は不殺生・非暴力、無所有・無執着の厳しい修行体系となっていったのだと思う。

 ジャイナ教聖典の中で、最も古代のものであるとされる聖典に『アーヤーランガ』がある。
この聖典は幸いなる方、バガヴァン・マハヴィーラの弟子であるスハンマ (50歳でマハヴィーラとの論争に敗れて弟子となり、80歳まで師と共に過ごし、92歳で一切智者となり、100歳でモークシャに入った。) が、直弟子のジャンブー (マハヴィーラがモークシャになった64年後に一切智者になった) に語った記録である。
 この聖典はマハヴィーラが出家修行者の為に向けて語ったものであって、在家に向けられたものではないと云う特徴がある。

その中の第1章、第3節の3に次のような記述がある。

みずから、世間を決して誣いるべきではない。アートマンを決して誣いるべきではない。
世間を誣いるものはアートマンを誣いる。アートマンを誣いるものは世間を誣いる。

と語っている。

◆世間は世の中と云う意味で、誣いるという言葉は事実と違うことを云ったり、事実を曲げて人に話すことである。マハーヴィーラはこの様にアートマンの考え方を大事にしていたことが伺える。

 アートマンの哲学はマハヴィーラよりも100年以上古い時代に既にインドでは知られていた。ヤージュニヤ・ヴァルキヤはバラモン教の思想家であったが、アートマンはこの世界の外側別次元に属し、輪廻転生の原動力はカルマであると説いている。輪廻転生思想と瞑想修行はインダス文明まで遡るとされ、インド先住民族ドラヴィダ人に伝承されていた。ドラヴィダ人の宗教はシュラマナ系の流れと云われ、その中から、BC6世紀、ジャイナ教と仏教がほぼ同時代に起こったのである。時代は少し遡るが、バラモン系宗教とシュラマナ系宗教の思想的、修行的な合流があって、BC8世紀ごろ、インドの宗教思想の核心、解脱思想が起こったのである。

 解脱とは輪廻転生からの離脱である。カルマを無くすことによって、輪廻転生は止まるとその時代の人々は考えた。

 仏陀は従来から一般に信じられていたアートマンに対する信仰に疑問を抱き、アートマンに言及せず、縁起論(カルマ論)と輪廻転生からの涅槃を説いた。仏陀の菩提樹下での、考える瞑想の悟りは『12縁起』として知られている。「これがあれば、これがある。これが生ずれば、これが生ずる。これが無ければ、これが無い。これが滅すれば、これが滅する。」順にたどっていって、出発点にあるのが無明だと気付いた。無明が滅すれば、輪廻も滅すると解釈したのである。無明と云うのは、いろいろな欲望の基であり、言葉を変えるなら、苦楽の感覚、そして好き嫌いの感情の大元である。生きていたい、永く健康でいたいと云う命の働きの中にインプットされた根本的な生存欲である。これを無知と云い、渇愛と呼び、ほとんど制御できないから無明と云った。初期仏教の涅槃は無明を滅することだったから、ことさらアートマンやカルマについて詳しく説明しなくても済んだのだと思う。

 一方、マハヴィーラはアートマンを説き、全ての生きとし生ける物はアートマンのレヴェルで平等であり、無差別であり、輪廻転生の中で親兄弟であり、友であると説いた。生き物たちは生きたくて生きていて死にたくないし、いじめられるのは嫌なのだから、決して他に対して暴力をふるったり、殺してはならないとした。ジャイナ教は不殺生・非暴力、無所有・無執着の宗教である。仏教にもそのような教えがあるがジャイナ教はそれらが徹底している。魂の哲学を発展させ強調すると人間生活が不便になるきらいがある。仏陀は人間生活に不便であり、現実的ではないアートマンに対する考え方を避けたのだと私は推察する。

 ジャイナ教はマハヴィーラ以降もアートマンの哲学とカルマ論を発達させていった。特にジャイナ教の修行はいかにアートマンから物質的なカルマの染着を取り除いていって、純粋になるかに絞られるようになった。

 ジャイナ教のカルマは素粒子のような超微細な物質である。超純粋なるアートマンにカルマが付着するとジーバと呼ばれる生命体になる。その生命体は行為することによって微細なバイブレーションが起こり、それに、部質的なカルマが引き寄せられて流入・アースラヴァが起こる。カルマのアースラヴァによって魂(アートマン)は束縛・バンダされる。束縛を受けて不自由になり自己を見失いカルマによってコントロールされる。魂の本質は無限の自由であり、歓喜にあふれ全知全能であるが、束縛によってそれらが覆い隠されて誤解と迷いと苦しみの人生になる。

 ジャイナ教修行と云うのは、そのカルマの流入を防止・サンバァラして、蓄積されているカルマは解放・ニルジャーラして完全なるアカルマ・無業を目指すものである。
 解放・ニルジャーラは残存するカルマを除去するには苦行と禁欲によって可能であるとしている。ジャイナ教の極端と思える苦行や禁欲主義、厳しい戒律はこのようにして出来上がってきたのである。
 ジャイナ教の解脱、モークシャは全知全能、完全なる自由、歓喜に溢れている。究極の清らかさである。仏教の涅槃、ニルバーナは蠟燭の火を吹き消すように何も残らない。虚無的である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/5/29からの転載です)

コラム[人間は弱みを突かれると騙されやすい]

現代はネット通販での物品購入が盛んである。ウェブ上には沢山の広告が溢れている。世の中のほとんど全ての商品をスマホやパソコンで検索し、購入できると云っても過言でない。

商品を売りたい方からすれば、いかに上手に消費者の購買意欲に訴えるか智慧を絞っている。広告が上手であれば、価値に乏しい物も高くよく売れる。

ネット通販で商品を購入して、イメージした物と、届いた実物が大きく違っていて、失敗したと思った人も多いだろう。また逆にネットオークションで、とても素晴らしい物を安価に入手して喜ぶ人もいるでしょう。

なぜこのようなことが起こるのかは、ウェブ上では視覚を中心にした画像と文字情報が主であるからだ。そこには、触覚による情報が無い。触覚を欠いた情報はバーチャルであると云えるだろう。そこには体験が欠けている。生き物の根源的な感覚器官は触覚である。触覚が備わっていない生き物は、物質的なこの世には存在しない。触覚の大切さをもう一度しっかり思い起こしてほしいと思う。

私はここ2-3年、視力が衰えて老眼も進んだ。読書が今の私の最大の愉しみなのだけれど、大きめの虫眼鏡を使って、小さな文字を読んでいる。不便極まりない日常である。今や視力の衰えは私の最大の弱点になった。

その弱点を上手に突かれた。ドウー・アクティブという老眼鏡がある。左右のレンズが二重になっていて、フレームに付いている調整ねじを回すことで、前のレンズが左右にスライドし焦点が適正に調整されるものである。「なるほど、うまいことを考えたものだな」と思ってネットで注文した。

ネットでしか買えない視力を改善するというサプリメントを注文して、試してみた。しばらく続けたが何の効果も現われなかったので、「もう、ネットで買い物は止めよう」と思ったはずなのに、「これは」と期待してしまったのだ。

届いた商品の老眼鏡の性能に嘘は無かった。使い方の問題、商品に対する期待感の問題だった。購入前に衣類を試着するように、体験出来ればよかった。返品も出来たが面倒だったので、今後の教訓にしようと考えて返品しないことにした。

老眼鏡購入で失敗した数日後、ビル風に煽られで、10年ほど大事に使ってきた70センチの雨傘が壊れてしまった。ネット通販はこりごりしたので、銀座の松屋に出かけて実物を見て、手で触り納得できるものを買い求めた。値段はネットで買う通常の物より、2倍も高価だった。慌てて行動すると、注意深さに欠けて間違えることが多い。便利さとスピードと安価さはネット通販業者の武器であるが、その利便性が逆に我々の弱点を示しているのである。

似たようなことで、特殊詐欺の被害者になる人は、その人の弱点を詐欺師に突かれるからだと思う。気になっていた宗教的な詐欺まがいも同様にして起こってくることに気付いた。

仏陀やジナ(マハーヴィーラ)の教えは本来、完全な自力であった。自力と云うのは全てが自己責任ですよ、と意味している。しかし、大乗仏教はヒンドゥー教の成立を受けて、その他力主義を取り入れて変化したものであり、仏陀が提唱した仏教ではない。後世のジャイナ教でも、ある一派ではジナの偶像を崇拝し、寺院を作るように変化した。

大乗仏教では救い救われを説き、衆生に対する慈悲である菩薩行を強調する。出家も在家も菩薩行を実践する人は慈悲としての救いに邁進する。一方で心身に悩み、苦しむ衆生は、それに対して救われを求める。救われたいと云う需要があるから、救い手が現われてくる。相互依存の関係になっている。騙されたい人がいるから、騙し手が現われる。これも相互依存であると云える。

私は弱者と自己責任感の少ない人は別けて考えるべきと思う。弱者は助けなければならない。怠け者や自己責任感に欠ける人に対しては救いではなく、教育が必要なのだと思う。二宮金次郎は慈悲をそのように別けて実行した。弱者と怠け心の無責任者を混同して助けようとするから、嘘ではないけれど、本当ではないことが必要になってくるのではないかと考える。そこには救い手側の都合や欲も含まれていると考える。自己責任が強い人は、救いを求めない。救いを求める依頼心の強い人は、責任を他に転化しがちな人だと私は考える。

「依頼心はエゴイズムと共に世の中を悪くしている根本原因だ。」と沖正弘先生も言及している。いらないところまで、救い救われ理論を持ち込むから騙した騙されたのような詐欺まがいの問題が起こっているのではないかと考える。肉体の病気治療もヒーリングも効果は一時的なものだと考えるべきである。根本的な解決法は別の所に有るからだ。問題が起こる根本原因は救い手と救われ手の相互間でのもっと、もっと、もっと、と云う渇愛(根本欲)に起因しているのだと思う。そこを解決しなさいと仏陀が説いています。

大乗仏教では仏道に易行道と難行道があるとして、自力道である難行を廃して、救い救われの道である易行、つまり他力を勧めた。本当に価値あるものが簡単に手に入るはずがない。このことは少し考えれば道理に合わないとすぐ解るだろう。楽な事、簡単なことの概念に、自分の欲と期待が引っかかると体験に乏しい人は騙されてしまうのである。騙されたい人が欲を持っているから、騙す方はそれを上手に利用する。

【救われたい人間の欲】
仏陀の時代から過去仏と未来仏という考え方があった。釈迦牟尼仏陀は入滅したので未来仏としての弥勒如来が生まれるまでは、仏のいない時代となる。それでは人間は救われない時代なので困るではないか、と云うことで現代仏が求められた。

【救い手の対応】
その要請に答えるように、造り出されたのが現代仏としての数々の如来や菩薩である。代表的なものが観音菩薩、地蔵菩薩である。大無量寿経に記された法蔵菩薩の大願、西方極楽世界の阿弥陀仏。東方浄瑠璃世界の薬師如来。維摩経に出てくる妙義国のアシュク如来。華厳世界の毘盧遮那仏。おとぎ話のような壮大な物語として現在仏のいます世界と架空の仏が造り出されたのである。 

【更なる対応とその理論】
方便はその時代の人が救いを求める人々の解決策として、作られた理論、理窟である。小さな嘘は直ぐバレル。大きな嘘は検証しようがない、信ずるか信じないかになってしまう。方便は嘘ではないけど本当ではない。厳密にいえば本当でなければ嘘なのである。方便によって救われるのであれば、それは騙したということではなく、助けたということである。その理屈は助けた方の言い訳ともとれる。本当に必要性があったか検証されなければならないと思う。方便と云うのは真理に近づくために、その人のレヴェルに必要に合わせた処方箋みたいなものである。善い方便もあるが、私たち一人一人は方便を超えて真理を探す旅を継続すべきと考える。それが自力の道である。私は他力は人の精神性を高める効果として乏しいのではないかと考えている。

方便によって救われるためには、その物語が真実真理だと信じて塵ほどの疑いを持ってはならないと云うのである。仏教用語で疑蓋と云うのは、99%信じていても救われない、100%信じないとだめだという。法蔵菩薩が全ての衆生の悟りの後、誓願が成就して悟りの本願を成就したのだから、全ての人間は既に悟っている。だから『南無阿弥陀仏』と唱えれば誰でも救われる。「そうであるなら疑っている人は救われないと云うのは、二枚舌で矛盾ではないのか。」「信じていない人も悪人も極楽往生できるのですから。既に全ての衆生は救われているのでしょう。」 人間はもともと悟っていた、救われていた。なのに、好んで遊戯の旅に出た。遊戯の旅に飽きたら、もとの真実に戻りたくなるだろう。それが、南無阿弥陀仏だよ。「それなら、理屈っぽい私にも理解できる。だけど、そのような説明は聞いたことが無い。」真実の内なる自己を探求していけば、外なる何者かに頼ることは無くなるだろう。頼れるものは自分自身だけであると云う考え方を私は支持する。でなければ、自由は無いことになる。救いを求める人に対して、ただ救うのではなく、他に頼ることなく自分自身で問題を解決する方法を教えるべきである。それが真の菩薩道であると思う。

【大乗仏教も真理、智慧を説いている】
私は大乗仏教が真理ではないと云うのではない。真理を説いている事も沢山ある。私は大乗仏教全ての宗祖であるとされる龍樹を尊敬している。龍樹が『中論』で説く空の教えの信奉者でもある。空の教えは仏陀の無常、縁起論を発達させたものである。龍樹は説く、この世・現象物質世界に固定不変の実体はない。この世の全てのことは原因と御縁が結びついて起こっている。それを『空』と云う。

不生不滅、不常不断、不一不異、不来不出。

生ずることもなく、滅することもない。常に変化しているが途切れることなく続いている。前後として同じではないが全く違うわけでもない。来ることもなければ去ることもない、と空を説明している。龍樹にとって空の説明はアートマンの説明でもあった。

常に変化しているが、途切れるんことなく続いている。とは常見でもなければ、断見でもないということである。常見は不変の実体であるアートマンがあるということ、断見は全てのものは存在しない、死んだら無になって終わることである。空は無ではないというのが龍樹の教えである。空は輪廻転生を否定しているのではない。

【注記】
ここで言うアートマンは汚染されたアートマンと究極浄のアートマンを別けて説明していないから理解が難しい。

変化するアートマンをジーヴァ・アートマンと云う。大乗仏教瑜伽行派のヴァスバンドウはジャイナ教のジーヴァ・アトマンを阿頼耶識と説明している。別けることは出来ないけれど変化しない普遍的なアートマンの一側面をシッダ・アートマンと云う。

大乗系のあるグループは龍樹は自力では悟れなかった、絶対他力で救われたのである、とグループの理屈に合うように主張している。外道を含めて当時の宗教全てを探求し、深い思索を繰り返し、論理的に矛盾なく考察した龍樹ともあろう人が、完全他力によって救われた等と云う話を私は信じがたいのである。大乗仏教は非常に難解である。私にもまだまだ理解できない理論・理屈が多い。

沖正弘先生は「信ずるな、疑うな、確かめよ」と説かれた。私は「信ずる前に疑って、熟考して間違えが無いか確かめて、最後に自分に必要なら受け入れなさい。」と教えたい。宗教を只、盲目的に信じてはならない。でないと、「カルトや宗教的な詐欺に騙されるよ。」「宗教がどうして必要なのかが正しく理解できないよ。」と云いたい。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/4/29からの転載です)

 

コラム[動きを止める、動きが止まる]

宇宙に動きを生みだす力はプラスとマイナスという相反する性質を持った電磁気的エネルギーである。プラスとマイナスは2つで1セットになっている。そこに引合う力と反発する力が生まれ動きが起こる。陰と陽、暗い・明るい、重い・軽い、濃厚・希薄、寒い・暑い、上下、左右、高低、求心・遠心、ねばり・さらさら、等はプラスとマイナスが形を変えて宇宙に普遍的に起こっている働きである。拮抗する二つの性質が大きければ大きいほど動きは急速で激しいものとなる。これが宇宙に働いている力で瞬時も止まることはない。もし宇宙が動きを止める瞬間が有るとすれば、拮抗する二つの性質が完全に一方の性質になりきった時か、拮抗が無くなって均一化した時だと思う。万物はエネルギーで出来ていて、エネルギーは不滅である。形が変わるだけである。原子の中に電磁気的な力が働いていて電子は超スピードで動いている。あらゆる物が動き変化しているのが宇宙の本質である。

私達が生まれると云うことは、ダイナミックに動いている宇宙空間に放り出されることだと云える。呼吸が始まる。吸う息、吐く息の二つの相反する力が生命の成長、躍動を生みだす。私達は生まれてから死ぬまで呼吸し続けなければならない。同時に動き続けなければならない。呼吸を止めたり、身体の動きを止めると大変な苦痛がやってくる。体勢は常に変化させてバランスさせなければ苦痛がやって来て、じっとしていることなど出来ないのだ。なのに、過去の悟りを開いたシイダである先哲は「瞑想とは動きを止めることである」と云う。生きていて死んだように呼吸を微かにし、体の動きを止め、体の中の流れを鎮めることが瞑想だと云う。

多くの人が瞑想したくないのは、止めること、動かないことが苦痛だからだ。自由に動きたいことは生き物達の願いでもある。動物は何かに縛り付けられたり、閉じ込められたりするのは苦痛以外の何物でもない。罪びとを監獄に収監するのはそういう意味があるのだ。瞑想に対して嫌悪感のようなものを感じてしまうのは、動かないことに対する恐怖があるからだと思う。人々がスポーツやダンスに熱狂するのは動くことが快感だからだ。多くの人は快楽をもたらす動く事に興味惹かれ、苦痛をもたらすじっとしていることを厭う。

私達は病気や痛みを悪いものだと思っている。しかし良く考えてほしい、病気や痛みが無かったなら、私達は自分の命を継続させることは出来ない。病気や痛みは内在していたものが消えようとして外に現象になって現れたものだ。病気や痛みは変化する、変化するものは動いている、動いているものは本来存在していないものである。それを空と云い無とも云う。見方を変えれば痛みが宝であり、薬であり、病気は神様からのプレゼントなのだ。

瞑想のとき、初心者は1時間じっと座ることは苦痛で難しい。動かず座っていることが難しいので、瞑想は自分に向いていないと考えて挫折する人も多い。2時間じっと座ることが出来たら1時間座ることはなんでもない。そして1時間快適に座れて体の中の様々な流れや動きを観察できるようになれば、そこから快楽や喜びが生まれてくる。体を止めている時の快楽や喜びは、体を動かしている時の快楽や喜びの十倍、百倍にもなる。その事が理解出来たら新しい自分に生まれ変わる。

ヨガの様々な座法や身体的訓練は、長時間体をじっと動かさずにいられる安楽な身体を作ることに役立つものだ。カヨーウッサグ(完全なる身体のリラクゼーション)も身体をじっと動かさないようにするための瞑想の前提条件である。

身体の動きを止めること、呼吸を微かにすることが大きな快楽と喜びをもたらすのだと解れば多くの人がもっと瞑想が好きになるだろう。

宇宙も身体も止まることなく動いている。身体を完全に止めることなど出来ない。しかし身体の表面的な動きを止めて内的な動きや流れを知覚していくにつれ内的な流れや動きが鎮まっていき、動きや流れが止まったように観じられる瞬間がやってくる。極めてクリヤーで果てしなく広がり、方向も位置もなく、観じようとしている自分が一点になり、知覚する対象、観じていた対象が無くなってしまう。そんな時、静かな喜びと至福感に満たされる。止まるということの意味は苦痛でなく大いなる喜びでもあり快楽をはるかに凌駕していると理解される。身体の動きを止めることは苦痛ではないとの理解が、モクシャ(涅槃)、ニルバーナ(寂静)と云う目的地に向かっての長い旅の一里塚になっている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/5/25からの転載です)

2025.5月開催 坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-プレクシャ・ヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス-

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容)
ヨガ:瞑想できる体づくりヨガ
讃歌:「プレクシャ・メディテーション 讃歌・マントラ・スートラ集」から1-2歌
講義・瞑想:中~上級者向け内容

日時:2025年5月11日(日)10-12時(開場:9時半)

会場:茗荷谷中央大学キャンパス2階(住所:大塚1丁目4番地)
*丸の内線茗荷谷駅前の春日通りを左に行くと、新設の中央大学茗荷谷キャンパスがあり、その2階になります。中央大学正面入り口の手前左側に階段、右側にエレベーターがあります。お間違いのないようご注意ください。2階に上がって頂き、入り口に入り、左に進み、受付窓口先を右に曲がった正面扉に、「元気アップヨガ」の貼紙がございまして会場になります。施設の関係上「プレクシャ・メディテーション」の記載ではありませんので、ご了承ください。


会場参加受講料:2000円
アーカイブ動画視聴:1000円
*アーカイブ動画視聴の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

指導者:伊東真知子(指導ランク:講師)*ヨガ担当*

日本プレクシャ・ディヤーナ協会 役員
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印5回(2019年3月時点)
1980年沖ヨガ入門
1982年ヨガ指導開始
2008年プレクシャ・メディテーション指導開始
月2回神保町区民館にてヨガと瞑想クラス開催

指導者:坂本知忠(指導ランク:教師)*讃歌、講義、瞑想担当*

 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。 

コラム[我即全宇宙  私の因果は全宇宙と響きあっている]

どのように現象世界を認識するか、どのように本当の自分を認識するのか
『この世の中にあるもの全ては、単独では存在することが出来ない。全てのものは相対的な関係と御縁によって存在できるのである。』と見抜いたのは、他ならぬゴータマ・ブッダである。仏陀はまた、『天上天下唯我独尊』と唱語し、人間の本性は一人一人が全て、神のような尊い価値ある存在なのであると教えた。この二つが、極めて重要な考え方・思想であると私は気づいた。しかし今でも私は、身体の病苦や物事が思い通りに進まないなど、心の悩みに引っかかって、自己の本当の尊さを見失いがちである。

狂った世界と国家指導者
 今、世界中で起こっている経済・社会情勢のことを考えてみよう。これが、まともな人間社会とは到底思えないと感じている人も多いだろう。自己中心的な思考と欺瞞と強欲の極みと思われるのがロシアによるウクライナ侵攻であり、差別と恐怖と憎しみの連鎖がイスラエルによるパレスチナに対する殲滅戦である。
 世界の国々を見回せば、自国優先で他国はどうなってもよい、とのエゴイズム的な傾向が強まっている。大国は強大な武力で国際法を無視し、近隣の弱小国を脅迫したり、嘘のことをあたかも本当のように既成事実化し、力ずくで資源や領土を奪おうとしている。
 アメリカのトランプ政権はパリ協定を離脱して、地球温暖化危機を嘘だと云って欺瞞に満ちている。北朝鮮の独裁体制も漫画のような話なのに、実際に今、現代に起こっていることである。
 タイと国境を接するミャンマーの無法地帯、中国人マフィアが大規模な特殊詐欺組織を作って、多国籍の外国人を1万人以上、強制労働させていた。なぜ、この様な不正、不義が次から次に起こってくるのであろうか。
 物質文明が発達して、私達は便利で快適な暮らしができるようになった。しかし半面、便利なものがもたらす危険性や人間の欲望の増大と自分さへ良ければよいというエゴの心も増大している。生成AIがもたらす利便性の裏に潜む、極めて有害な一面も見落とすことは出来ない。

なぜ人類社会は狂ったのか
 この様な世界情勢を顧みるに、何かが狂っているとしか思いようがない。人間には生存欲と自己拡大欲、自由欲がある。私達の内部深くに、今よりもっと愉しく、もっと楽に、もっと快適に、もっと安心して暮らしたいとの根本欲が、好き嫌い・苦楽の感覚として魂に結びついてしまっている。
 その、もっと、もっと、と云う願望と欲望を仏教では渇愛又は無明と云う。好き嫌い・苦楽の感覚は怒りの根源でもある。ジャイナ教哲学ではカルマであるが、中でも怒り、エゴ、傲慢さ、欺瞞、強欲はカシャーイに相当する。
 それらの欲望は人類社会を発展させる原動力になっているが、一人一人の人間の中にある自己中心的なエゴ、自分さえよければ他はどうなっても良い、と考える人が多くなったので、人類社会に不幸と危険が増大しているのではないかと思う。

自分をどうみるか、世界をどう見るか
 華厳経の中に『重々無尽事々無礙の法界』と云う考え方がある。世界中の全ての存在は人間だけでなく、お互いに全ての存在を原因として、御縁として欠かすことができない結び付きによって存在している。つまり世界中の全ての物事を因縁的に含んでいるから存在出来るのである。
 このことを言葉を替えれば一即一切、我即全宇宙、自己不異他、他即自己、自他不二である。世界を変えようと思ってもなかなか変わらない。ではどうすれば良いのか。自分を変えれば良い。自分を善い方向に変える人が増えれば増えるほど世界は善くなるだろう。自他一如だから。
 その大前提が自分を正しく認識し、世界を正しく認識することにある。世界中の人間が自分を正しく見ていない、世界を正しく見ることができていないから戦争や苦しみが無くならないのだと思う。

一粒の米 奇跡の地球、宇宙の始まりまで縁が繋がっている
 私は今までに自分を正しく見る事についてはジャイナ教の魂の哲学として、幾度となく語ってきた。自分を正しく認識するには、物質的な事と非物質的なことが理解できないと、正しい認識は得られない。本当の私はアートマンである。アートマンは非部質のものである。非物質だから探しても見つからない。見つからないから無いのかと云えば、そうではない。
 非物質だから不変であり、生滅しないのである。清くも無く、汚れてもいない・究極の清らかさ・畢竟の浄、と言われるものがアートマンであり、私たち生き物の魂は『畢竟の浄』なのである。畢竟の浄にカルマである汚れがついて、輪廻する生存になっている。正しい認識が無ければ正しい見解は生まれない。

 今回は世界の正しい認識の仕方について少し話してみよう。目の前に茶碗いっぱいに盛られた御飯がある。その御飯によって私は生きることができる。一粒の米が私の所に来るまで、どれだけの御縁が有ったのだろう。
 家内が米を買った店の人がいる。店までトラックで運んだ運転士さんがいる。トラックが無ければ店に米を運ぶことは出来なかった。そこに、トラックを作った大勢の人が御縁として関与している。トラック一つ一つの部品を作った人々、その背後にある無数の人々。ガソリンが無ければトラックは動かない。そのガソリンを採掘した人々、精製した人々、海上を運ぶためのタンカー、タンカーを作るために関与した人々、ガソリンを貯蔵するタンクに関わった人々もいる。米を流通させている業者、生産者。用水路を引き、田圃を開いた過去の人々、ご先祖様。品種改良に努力した先人達。肥料を与えたならば、その肥料を作ったり運んだ無数の人々。耕作道具や機械を作った無数の人々。
 土が無ければ、水が無ければ、地球そのものが無ければ、月が無ければ、太陽が無ければ、宇宙そのものが無ければ、一粒の米だって存在できないのである。
 それらは全て御縁である。この様に考えれば、私と云う存在は、無限の過去から現在に続く、無限の御縁の連鎖の行きつく先に、無常の存在として存在していることが理解できるだろう。全世界によって、私と云う存在が支えられていることが解るだろう。さすれば感謝という気持ちしか起こり得ないはずだ。自分だけよければよい、他人はどうなってもよいなどとの考えは起こらないはずだ。

私が有るから世界がある、私が無ければ世界は無い。
世界があるから私がある、世界が無ければ私は無い。
我即全宇宙、宇宙我不二、宇宙我一如。
 この様に現象世界を認識出来たなら、それが正しい認識だろう。正しい認識によって、自己と世界を正しく見ることができる。正しく見ることができれば、正しく行動ができるし、正しい生活となる。
正しく行動出来て、正しく生活できれば、やがて自分が自由に平和になるだろう。より多くの人が正しい認識を獲得して、行動と生活が正しくなれば、世界も正しくなって、争いごとが少なくなり平和が実現するだろう。人類の総和が人類社会を作っているのだか、大勢の人々が、変化して精神性が高まれば、狂った人類社会は是正されるに違いない。そのために私達は瞑想が必要なのである。私は世界平和の為に共に瞑想する仲間を増やしたいと願っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/3/27からの転載です)

プレクシャ・メディテーション&タオ・ヨガ 集中キャンプ2025

3月に予定していたサマニー来日特別瞑想キャンプは、サマニーに入国VISAが下りず、残念ながら中止になってしまいました。出家であるサマニーは厳しい戒律でクレジットカードや現金が持てない事から、滞在費用などの問題が指摘されたようです。大勢の方々から参加申し込みを頂き満席状態でした。申し込まれた皆様、気を取り直して例年の通りの瞑想合宿に参加ください。

内容:協会指導士による講話(世界と自分を平和にする道。アートマン・因果律・輪廻転生の哲学等。)

実習:プレクシャ・メディテーション、ムドラ瞑想、讃歌の練習、タオヨガなど

【テーマ】本当の自分を観て、世界を正しく認識する

【日時】2025年5月30日(金)~6月1日(日)
【会場】いりあい村YOGA道場(住所:静岡県賀茂郡河津町見高812-2)

【集合時間】30日14時 (昼食を済ませてお越しください)
【解散】1日12時(昼食後解散になります)

【講師】坂本知忠、松井智恵子、高山知子、伊東真知子、他指導士

【参加費】
2泊3日:32,000円
1泊2日:22,000円
*年会員割引 各2,000円(年会費2000円分そのまま割引に充てられます)
*宿泊費、食事5回、講習費を含みます。
*現地までの交通費、温泉入浴料は別途になります。
*1泊2日でご参加希望の方は下記どちらかお書き沿いの上お申し込み下さい
①5/30~5/31参加  ②5/31~6/1参加

【持ち物】
ヨガの出来る服装、散策用スニーカー、タオル、洗面化粧道具、パジャマ、筆記具、『ジャイナ教讃歌集』(お持ちでない方は当日500円で購入できます。)

【申込先】こちらからお申込みください
*リンク先へ移行できない方は下記「問合先」まで氏名、携帯電話、2025年会員登録有無、希望参加日、交通手段、テキスト要不要、前後伯要不要、サマニーへの質問、をご明記の上、お申込みください。

必要情報(氏名、住所、携帯電話番号、メールアドレスを記入の上、件名を「プレクシャ・メディテーション・キャンプ2025」として、協会メールアドレス(japan@preksha.com)へお願いします。

【参加費振込先】ゆうちょ銀行  普通預金 名義:日本プレクシャ・ディヤーナ協会
ゆうちょ銀行からの振込み⇒記号:10580     番号:71299071  他行からの振込み⇒店名:058ゼロゴハチ  番号:7129907

【交通】熱海駅から伊豆急で今井浜海岸駅下車が便利です
<電車で来られる方へのご案内>
熱海駅発 11:32/12:24 - JR伊東線・伊豆急下田行き 今井浜海岸着 12:58/13:49

上記いずれかの列車に合わせて乗車下さい。スタッフが今井浜海岸駅に車で出迎える為、列車に乗ったら坂本会長までご連絡下さい。
メール:tomotada0919@docomo.ne.jp / TEL:090-8844-4009

今井浜海岸にはタクシー乗り場は有りません。タクシー利用の場合は一つ先の河津駅下車となります。上記以外の列車をご利用の方は、今井浜海岸駅の隣駅、河津駅まで来てください。出迎えは有りません。河津駅からタクシーを利用ください。行先は『いりあい村』とお伝えください。

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)