プレクシャな生活(日本プレクシャ・ディヤーナ協会 指導士・福元朗)

私の最近の“マイ・プレクシャライフ”をひとことで言うと、「このコロナ禍を活用して『集中的な研究・学び』にシフトしたここ数年」です。これまでの経験で『集中的な取り組み』は私にとって転機や進化の大きなカギをにぎっているので、「コロナ禍で何ができるだろう?」ということを家庭の状況も考慮してまとめたときに、自然と今の状況になりました。そのほかにもいろいろと目的がありますし、オンライン中心のプレクシャ瞑想クラスに力を入れているのにも目的があります。

〈はじめての瞑想体験〉
「そうか、感じ・観じることがポイントなんだ!」
そう気づかせてくれたのがヴィパッサナー瞑想10日間研修でした。あれから約10年が経ったと思います。これが私の“ちゃんとした”初の瞑想体験でした。最終日の一本通った何とも言えないととのった感じは、今でも覚えています。それまで教えてきたヨガのスタイルがガラッと変わりました。感じ・観じることが中心になりました。私にとっての大きな転機でした。

〈プレクシャ瞑想には興味がわかず…〉
もうひとつの瞑想に関する大きな出会いはプレクシャ瞑想です。正直言うと、はじめは講義の内容も実習もしっくりときませんでした。一応ひととおり受講しましたが、「心ここにあらず」みたいな感じであまり身が入らなかったのです。とにかくイマイチよくわからなかったです。今振り返ると、「なぜ瞑想をするのか?」に対する自分の答えが不明確で、自分自身の活動とその答えが一致していなかったのが大きな要因だったと思っています。自分の活動は『ふくヨガ~Holistic Health for Peace & Happiness~』って掲げているんですけどね(「幸福と平和のため」)。。。
 そんな私でも、身が入らないなりに続けていくうちに講義が頭に入るようになり、それなりに体調等が良くなる体験もしていたので実技も少しづつ進展していきました。やっぱり「継続は力なり」ですし、芽は出ずともしっかりと水やりをする期間は大切ですね。そうこうしているうちに瞑想に関する大きな転機その2がやってきます。

〈プレクシャ瞑想にハマる①〉
幸運なことに、インド瞑想研修旅行に参加できたのです。ヴィパッサナー瞑想研修もそうですが、『瞑想漬け』、つまり集中的に瞑想を学ぶ効果は大きいですね。しかも現地で直接体験できるのはとても幸せなことです。厳格な修行を重ねているお坊さんたちの人格に直接触れることのできる体験はそれ自体が何よりの教えでした。インドでは『サマイク』という48分間カルマを流入させない時間をつくる、というのを教わり体験しました。このサマイクからも集中的に学ぶことの意義みたいなものを教わりました。優れたお坊さんたち、ともにプレクシャ瞑想を学びあう各国からの参加者、信者の方々など、そこにいる人や食事、雰囲気などが私の学ぶ意欲をインスパイアしてくれました(もう1週間そこにいたいくらいでした)。日本で学んだ『アヒㇺサー(非暴力・不殺生)』『アパリグラハ(無所有)』『アネカーンタ(非独善)』や『バーバクリヤ(マインドフル)』『プラティクリヤ・ヴィラティ(反応しない)』『マイトゥリ(友好)』『ミット・アハー(食の自制)』『ミット・バㇵーシャン(発話の自制)』など、幸福や平和という目的地へ至るための指針が肌感覚でそこでの生活から学べた気がします(食事がおいしかったのでちょっと食べすぎちゃいましたが)。

〈プレクシャ瞑想にハマる②〉
数年前に、月に一度日曜日に開催している坂本師の講座の復習会をオンラインで開催していました。担当が私になり、坂本師からは「実技だけでいいんじゃない」とアドヴァイスを受けましたが、講義の内容を要約しそれをレクチャーして実習もやるのを1時間程度にまとめる、という自分の納得できるスタイルでやらせていただきました。実はそれまでスライドなんてほとんど作ったことがありませんでした。この約1年間は、スライドをはじめ要約することや短時間で講座を進めていく技術を身につけさせていただきました。毎日録音した講義を繰り返し繰り返し聴いて、「あ~まとまんねぇ~」とぼやきながらも、やはり集中的な学びの機会だと自覚しながら楽しめました。特に『無常についてのアヌ・プレクシャ(沈思黙考の瞑想法)』の回は感動もので、以前の私なら意味不明なアヌ・プレクシャの講義と実習が身に染み入り感動できました。「そうか!そうだよな!!」って感じでした。継続の効果もそうですが、インドに行ったからこそのアヌ・プレクシャの理解だったと思います。この時点で、「あとは自分で研究・実践していくんだなぁ~」と悟りました。

〈まだコロナ禍が続く現在〉
コロナ禍に入ってから時間がたつにつれ「幸福と平和のためにプレクシャ瞑想を広めよう」との思いが強くなりました。SNSで頻繁に発信しているのはそのためです。もちろん自分の認知度を高め、より広めやすくする目的もあります。ここ数年はプレクシャ瞑想の講座をオンラインで開催していますが、これも多くの人に広めるためであり、その試みです。オンライン講座用のプラットフォームを構築できれば、ネット環境さえあればどこにいても学びあえます。いつなんどき我が家も引っ越すかもしれないですしね。私もいいオジサンですし、今後出てくるかもしれない若手に何か良いものを提供したいですし。インドのプレクシャインターナショナルはその点力を入れていて進んでいるようですし、そこは大いに見習っています。

オンライン講座用のテキスト作りが今や私の月間の大きな仕事となっていますが、これもプラットフォームづくりの一環です。また、プレクシャ瞑想の研究にもなっています。毎日ジャイナ教哲学と格闘し(=理解実践できていない自分自身と格闘し)触れあう、これも集中的な学びになっています。こうしてテキスト作りや研究に集中できるのは、いつも講座に参加し講座を待ってくださっている方のお陰です。いつもありがとうございます!

SNSでの発信を続けているうちに、インドの方が色々と情報を送ってくださるようになりました。ジャイナ教のことやインドの祭典や観光地、遺産のこと、イギリスの大学でジャイナ教のことが取り上げられていることや、おすすめのジャイナ教研究者のことなど、ありがたい限りです。今年プレクシャ瞑想の研修でインドに行った女子お2人からはプレクシャ瞑想に関する本をお土産でいただきました。早速活用させていただいています。ありがとうございます!

良いものを丁寧に作っていきたいという自分の信条は子供のころから変わらないようです。時間はかかりますが、いずれ良いものをお返しできればと思っています。

(2023年4月137号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 指導士・福元朗

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【フェスティーナー・レンテー】
「リラ~ックス・リラ~ックス・リラ~ックス。。。ぜんぜんリラックスしないじゃん」

これまでほとんど言ってきませんでしたが、これがカヨーッツアルグ(自己暗示による身体の完全リラクゼーション)をやったときの初めの感想でした。私にとってカヨーッツアルグという技法はず~っととても難解な技法で、「あ、リラックスしてきたなぁ~」と感じられるようになってきたのは、実は最近になってのことです、ってことをここに懺悔いたします。プレークシャー瞑想を教える立場にいながら大変お恥ずかしいのですが。。。

学生の頃に精神的に病んだのがきっかけでヨガや瞑想の道に入りましたが、ヨガや瞑想の道に入る前には心理学や心理療法の本を読み漁っていたのもあって、自己暗示を使った心理療法の自律訓練法なんかも試したことがありました。当時は八幡洋氏の『立ち直るための心理療法』(ちくま新書)を繰り返し読んでは試していました。お察しの通り、まったく効果というか反応はなく、その他の本にも自律訓練法はよく出てきていましたがスルーするようになりました。

その昔、私のヨガクラスから開脚のポーズが消えた時期がありました。これもお恥ずかしいのですが、開脚の練習が楽しくて調子に乗って脚を痛めてしまったのです。そういうことで私のクラスから一時期開脚のポーズが消えていたわけですが、約1年後に再登場することとなります。しかも痛める前よりも脚は開くし腰は立つし前屈も深くなってるしと、いいことずくめ!約1年間開脚のポーズを封印していましたが、その間に取り組んでいたこと(ポーズだけではない)が私を総合的に高めてくれたのだと理解しています。

さて、お話が飛び飛びになりましたが、何が言いたいのかというと、一見遠回りに見えるかもしれないけれど、できるだけ総合的に取り組んでいくと、上手くいかなかったことが上手くいくようになったり想像以上に進歩・進化していったりするんじゃないかなぁということです。(欲望のまま手あたり次第やっていけばいいってのとはちょっと違うかなとは思いますが)

ご存じの通りプレークシャー瞑想は基本的に7つの段階というか技法があり(マントラメディテーションを入れると8つ)、単独でも取り組めますが、やはりチャイタニヤケーンドラ・プレークシャーあたりからは毛色というかレベルが違ってくるところに『段階』を感じます。ですが、わからないなりにもまんべんなく技法に触れたり、ある時には一つの技法に没頭したり、それに付随する哲学を学んだり、それらを日常で適用・応用したりするプロセスで、その人にとってのペースや順序で進歩・進化していくのだと今では感じています。とりあえず続けて進めてみる。

プレークシャー瞑想のサブコンポーネントにはヨガのポーズや呼吸法なども含まれていて、プレークシャー瞑想は総合的なパッケージとして構成されているのがわかります。学びを進めていくと、プレークシャー瞑想が安心して安全に取り組めるのはこの総合性に起因しているというのがうかがえます。特に哲学はものの見方やとらえ方を変容してくれるので、たとえわからなくてもとりあえず触れておくことがものすごく重要かと。

幸いにも再び投稿の機会をいただいたのでこれまでをあらためて振り返ってきましたが、「やっぱり続けるもんだなぁ~」とつくづく感じる今日この頃です。

「フェスティーナー・レンテー」、20年以上前の18歳の時に出会ったこの言葉。時には忘れることもありますが大切にしている言葉のひとつです。せっかちだけどマイペースで探求していきたい自分にはぴったりのこのラテン語は「ゆっくり急げ」という意味です。

(2023年10月143号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 指導士・福元朗

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この原稿が発行されている頃には、プレークシャー瞑想ティーチャーズトレーニングLv.2 by Preksha Internationalが終了している頃かと思います。ヒョイッとインドへうかがえない状況の私にとって、海外の方々と一緒に学びあえるのは大変ありがたい機会です。オンラインのお陰です。そんなティーチャーズトレーニングで出会った言葉の中で印象的だったものをご紹介いたします。響きがとてもよかったです。あわせてそれに伴って最近感じていることもつらつらと(←とりとめないですが、どうぞお付き合い願います。面白くなかったらスルーして次の記事を読んでください)。

इमम् शरीरं अनित्यम् ।

Q1.何と読むでしょうか?
Q2.何という意味でしょうか?
Q3.そもそも何語でしょうか?

A1.「イマン シャリーラン アニッチャㇺ」
A2.この 体は 永遠ではない。
A3.プラークリット語

日本語にしてしまえば「あぁ、そうだよね。。。」となりますかね。

プラークリット語は、格式高く聖なる言葉であるサンスクリット語に対して、日常で使用していた俗語だそうです。

「無常についてのアヌプレークシャー」の実習の時に「イマン シャリーラン アニッチャㇺ」を繰り返し唱えました。以来、私も寝る前に唱えています。

ヨガにも言えることですが、プレークシャー瞑想では目的地をハッキリと提示し、そこに至るための道具というか乗り物もキチンと用意してくれています。

「目的地は純粋な魂です。身体と魂が別である境地ですからね。つきましては、カーヨーッツァルガをやってシュワーサ・プレークシャーをやって…くださいね。ただし、好き嫌いを交えずにやることですよ!」

という具合に。ズバリ提示しています。各技法の前に唱えるサンカルパスートラ(決心の言葉)もそうですよね。いつも目的地をハッキリと定めます。今回のこの記事の目的地は何なの?と聞かれると言葉に詰まってしまいますが。。。スミマセン、思い付き、感じていることの羅列です。

最近頻繁に感じているのは、「自分って試されているよなぁ」ということです。提示されている目的地やその道のり、そこを歩むための乗り物である各技法について「自分でやってみて明らかにしていく」からです。至極当然なのですが、その「当たり前」について、あらためて色々と感じさせられています。さらに試されていると感じる理由があります。

ティーチャーズトレーニングでは「信じることが大切」というのをよく耳にしますが、妄信はいけないし、疑念をもつのも真実を歪めます。科学の実験と同じ心構えです。推論すら良くないかもしれないです。「好き嫌いを交えず」というのがとにかくミソですよね。自分の持っている信念や哲学などはとりあえず諦めて取り組むのが最大のポイントということ。諦めてまっさらにして、技法を通じて明らかにしていく作業です。バクティ(「ささげる」)という言葉がありますが、プレークシャー瞑想を通じて「バクティって、『好き嫌いを交えずに』ってことなのかなぁ」というのを強く感じます。意志や感情を介さずに「ささげる」みたいな。。。やはり「好き嫌いを交えずに」というのが私にとって試されていると強く感じるところなのです。「とりあえずやって」と言われて「はい、やってみます」と妄信せずかつ何の疑念も持たずやるのは案外難しく、色々と試されている感じがします。なんというか、自分自身と取引をしないでやるっていうんですかね。。。このあたりを強く感じるようになったのは、自分に内在している「好き嫌い」がちょっと表面化してきたのでしょうかね。溜まっていたやつが。。。それならちょっとは進歩したかも。

身体が永遠ではないのは明らかです。私も日々オッサン化が進み、できることが増えていっている一方で、できなくなってきていることもたくさんあります。日々変化しています。やっぱり永遠ではないです。プレークシャー瞑想をやっている私にとって、『「体は永遠ではない」ことを悟る』という目的地はとりあえず明らかだし、それが苦の消滅につながるだろうから、日常でこの目的地を念頭に置いて「この体は永遠ではない→諸行無常である→だから執着できない…」というのを明らかにできればなぁと思います。いやいや、それも諦めることですよね!諦めることで明らかになっていくんですよね。最後に、アーチャーリヤ・マハープラギャ師著の ”Preksha Meditation trainer’s book” にある言葉より。今回のティーチャーズトレーニングを通じてあらためて読み直してみました。直訳です。

प्रेक्षाध्यान का आदि बिन्दु है कायोत्सर्ग
プレークシャーディㇶヤーン カー アーディ ビンドゥ ハェ カーヨーッツァルガ
(プレークシャー瞑想のスタート地点はカーヨーッツァルガです)

और
アォル
(そして)

अंतिम बिन्दु है कायोत्सर्ग ।
アンティㇺ ビンドゥ ハェ カーヨーッツァルガ。
(ゴール地点はカーヨーッツァルガです。) 

(2024年8月153号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 指導士・福元朗

プレクシャな生活(日本プレクシャ・ディヤーナ協会 準指導士・深野晶子)

「自分が自分の医者になる」という魅力的なコピーに惹かれ、プレクシャメディテーションを受講し2年が経ちました。

以前は肉体の健康ばかりに囚われていましたが、今は、精神性の健康について気づくことができ、視点が変わったように思います。

身体の癖は鏡をみると気づくけど、心の癖は鏡では気づけない、カルマを次に持ち越さない!

プレクシャメディテーションは色々教えてくれました。

「大事なことは学校で教えてくれないんだよ」と先生がおっしゃったのが印象的で、振り返れば、哲学的なことは実際学校で教わったことはありませんでした。覚えてないだけかもしれませんが・・。

インドの生活では当たり前に宗教哲学があり、こどものころから、出家するとか、しないとか家庭の話題としてあがることがあまりにも日本との人生観の違いが衝撃的でした。

宗教というと、悪い側面ばかりが報道され、何かタブー感が漂う日本社会。

せめて子育て中にプレクシャメディテーションに出会えたことに感謝し、我が家のこどもとの会話に少しでもにじみ出るようになればと思います。

今年から娘が小学生。今の小学校がどんな授業をしているのか、新な視点で注目していこうと思います。

(2023年2月136号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 準指導士・深野晶子

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秋に風邪をこじらせ肺炎になってしまいました。
以前は入院する病気でしたが、今は薬と通院で治る病気になり、医学の進歩はありがたい限りです。
さて、さっきまで普通に生活していたものが、医者から肺炎の診断が下ると、急に病人になってしまい、気持ちまで病んできます。

そんな時に手が伸びたのが沖先生の本でした。
「病はチャンス」「健康だから病気になる」等々、病気に対する前向きな言葉のおかげで、肺炎をチャンスととらえ、瞑想をしたり、アサナをしたりして過ごしました。もちろん呼吸は苦しい。でも毎日していると、今日はここまでできるようになったと呼吸の違いがはっきりとわかり、呼吸のありがたさが身に沁みました。

瞑想をするために動かないのではなく、動けないから瞑想をする、ということになってしまいましたが、このまま習慣になればそれも良しかと思います。ヨガの教えがあったおかげで前向きに過ごせ、治癒したわけですが、振り返れば、普段から自分を観ていなかった反省点。

どこかでただの風邪と肺炎まで進行してしまった分岐点があり、自分を観ていなかったため、見逃していたのです。もちろん、体力的なことだけでなく、精神的な面でも観るということ。瞑想中だけが内観の時間ではなく、普段の生活から「観る」を心がけてこそ、形だけではなく、瞑想を生活に活かすことを心がけたいと思いました。

(2023年12月145号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 準指導士・深野晶子

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瞑想状態とはどんなものか、今だに辿り着けず道半ばです。千里の道も一歩よりと、最近気づいたことは身体の中に静けさを取り戻す感覚でした。頭のおしゃべりが止まればいいわけではなく、身体のざわざわ感もノイズなんだな、と気づいたのです。

よくわかるのがアサナを重ねることにより、身体の静けさを取り戻すことができます。
捻じりから戻った時、前屈から起き上がった時、強度の高いアサナのキープから開放した時、等々。
この体験からも、アサナが瞑想の準備であることは間違いありません。

食のコントロールでも体感できます。時々無塩菜食を行いますが、これも身体のざわざわ感がなくなります。
修行者が菜食なのも、非暴力の意味だけではないのでしょう。

日々の生活の中でも味わえる瞬間があり、それは食事でした。
調理の方が陰陽を理解し、適切な方法で調理したものを頂く機会がありました。
味はもちろん美味しいのですが、身体が静まりかえったという感覚もありました。

もちろん、技術だけではなく、調理する方の精神というものもあるでしょう。
食べる環境、相手など外部環境の影響もあるのかもしれません。

自分の状態もありますが、食べるものの身体に与える影響は栄養学の観点ではなくあるんだな、と思いました。日々の食事は作る側も、食べる側も、意識をもって行うことの大切さを確認した次第です。

心の静けさを取り戻す機会は、食だけなく、日常にも見つけられるよう、日々観察したいと思います。

(2024年6月151号メルマガからの転載)
日本プレクシャ・ディヤーナ協会 準指導士・深野晶子

 

コラム:エコ的生活は新しい非暴力運動です

日本近海の海水温が近年上昇してきていて、それが原因で、筑波の大竜巻や近年の集中豪雨、猛暑などが引き起こされているという。まさに地球温暖化を実感として感じざるを得ない昨今である。地球温暖化の要因は大気中の二酸化炭素やメタンの増加によるものであるが、元を質せば世界の人口増加と経済活動に行きつく。人間は、誰でも安全に快適に豊かに幸福に生きたいと願っている。その願いである欲望が行き過ぎて、逆に安全性や快適性が脅かされはじめているのが地球温暖化問題であり、原発問題である。

また私達人間はある意味で動物である。動物として観た場合、自然から離れた不自然な生き方は許されないように出来ている。現代先進諸国の人々の生活は快適ではあるが不自然生活そのものであり、よほど上手に不便さと折り合いをつけていかないと、心身が不調になる。自殺者の増加や鬱、アレルギー体質の問題なども現代人の不自然生活に起因していることが多いのではないかと私は考えている。もっと生の自然に接しなければ、真の意味の健康に達しないと云うのが私の考えだ。焚火の煙を吸い、蚊、蜂、アブ、ブヨ等の虫達に予防接種の注射を打ってもらったほうが良いと考えている。快適ばかりを追い求めて行くと、心身の適応性が失調してしまうのだ。

便利や快適さをどのレベルに置くことが人間の真の幸福に繋がるのかを今私は模索している。自分だけの幸せでなく、他の人々にとっても、未来の子孫に対しても、地球上の他の生き物達に対しても、責任ある行動と生き方は何か、そして幸せな暮らしとは何かを考え始めた。不便や不快を良い事、楽しい事と積極的に解釈できれば、今問題になっている人間としての正しい生き方は何かの解決策が見いだせるのかもしれない。

自分たちの暮らしが幸せであるかないかを論ずる時、比較する対象が必要となる。只見に住んでいる人は只見と首都圏との生活を比較して苦楽や幸不幸を論じている。つまり視野が狭いのである。只見とマダガスカルやミャンマーの田舎と比べたり、明治時代の只見の暮らしと、現代の暮らしを比べて論じることをしない。もし、そのような視点に立てば、いかに只見の暮らしが豊かで快適で便利で幸福感に満ち満ちているかがわかる。

江戸時代の只見と現代の只見の暮らしぶりを比較してみる。雪に閉ざされる冬の条件は同じである。今ある便利なものとして車、電気、照明、システムキッチン、灯油ストーブ、電気炬燵、羽毛布団など快適な寝具、快適な衣服、ゴム長靴、テレビ、パソコン、携帯電話、宅配便、スーパーマーケット、豊富な食料、学校、役所、その他沢山ある。年貢の重税はなく、補助金を貰える。江戸時代の人が蘇ったらビックリするだろう。

山村や離島で暮らしていた多くの人がより良い快適さ、便利さ、幸福さ、自由さ、やりたい仕事を求めてこの50年間に都会に移住していった。今では、山村や離島は過疎化し、集落が消滅し、先祖が永永として築き上げてきた耕地が荒廃してきている。日本人の悪いカルマ(過剰な贅沢)が積みあがっているのではないかと思ってしまう。いまや、新しい価値観を創造して、新しい幸福観にめざめなければならない時代に入ったのではないかと思っている。

地球温暖化防止の生き方は江戸時代に戻るのではなく、私は昭和30年代の暮らしに戻る事だと考える。現代文明は大量生産大量廃棄でやりすぎだ。昭和30年代の暮らしに戻れば原発を全廃してもエネルギーは足りるだろう。経済優先の政治を止めて、国民の幸福優先の政治に転換すべきと考える。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2012/7/25からの転載です)

坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-プレクシャ・ヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス-ヨガ:股関節周りの柔軟性、讃歌:アラハトバンダナ、講義:非暴力について、瞑想:シャリーラ・プレクシャ 黄金の骨格瞑想

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

2024年クラスから、プレクシャヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス、として開催してまいります。

内容)
ヨガ:股関節周りの柔軟性
讃歌:アラハトバンダナ
講義:非暴力について
実習:シャリーラ・プレクシャ 黄金の骨格瞑想

日時:2024年2月4日(日)10-12時(開場:9時半)

会場:茗荷谷中央大学キャンパス2階(住所:大塚1丁目4番地)
*丸の内線茗荷谷駅前の春日通りを左に行くと、新設の中央大学茗荷谷キャンパスがあり、その2階になります。中央大学正面入り口の手前左側に階段、右側にエレベーターがあります。お間違いのないようご注意ください。

会場参加受講料:2000円
アーカイブ動画視聴:1000円
*アーカイブ動画視聴の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

講師:伊東真知子(指導ランク:講師)*ヨガ担当*

日本プレクシャ・ディヤーナ協会 役員
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印5回(2019年3月時点)
1980年沖ヨガ入門
1982年ヨガ指導開始
2008年プレクシャ・メディテーション指導開始
月2回神保町区民館にてヨガと瞑想クラス開催


講師:坂本知忠(指導ランク:教師)*讃歌、講義、瞑想担当*

 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。 

コラム:所有と無所有

私は人間の幸せというのは、その人が所有している物の、質と量であるとずっと思っていた。お金は無いよりあった方が良いし、お金が沢山あるということは少ないより自由度が高いのだと思っていた。お金がもっと沢山あればさらにもっといろいろな可能性が出てくると考えるが、今まで自分がしたいと思ったことのほとんどをする事が出来て、お金に困った経験はあまりない。若いころ漠然と欲しいと思っていたものはいつの間にか、ほとんど実現されて手元にある。今、自分の身の回りを改めて見回してみると、あまりにも沢山の物を所有していることが解る。

親から相続した屋敷は広大だ。庭の手入れだけでも多大の労力と経費が掛かる。自宅以外に奥会津の只見町には自分の夢を追いかけた結果、5軒の建物を所有している。この維持費もばかにならない。只見に所有している平坦な土地も数千坪にのぼる。それらは無駄だといえば確かに無駄である。煩わしいことでもある。瞑想センターを中心とした理想郷作りが自分の夢や願いであるから、なんでこんなに馬鹿な事をしているのかと思いつつ、多大な労力を費やして現在も実際にしていることである。

若いころから読書が好きだったので私の蔵書は甚大な量になっている。その蔵書を只見と自宅に分けて置いている。本はなかなか捨てることが出来ないので今も増えていく一方である。研究の過程で集めた水晶も把握出来ていないほどの量になる。刀剣や油絵などの骨とう品も数多く持っている。それらの物は全て過去の私がイメージし引き寄せた物なのだ。カルマが引き寄せたと云ってもよい。なんと欲深い人間なのだろうと改めて自分を客観視している。

私たちは普段、好きなもの素敵な物に取り囲まれて暮らしたらどんなに幸せだろうと考える。素敵な家族、素敵な家と庭、素敵な別荘、車、美術・骨とう品、宝石等々を追い求めて日々努力している。それが一般的な幸せの価値観だ。それを俗生活という。一方、所有を手放し出来るだけシンプルに気軽に生きていこうと云うのが出家生活である。典型的な出家の姿をいまに留めているのがジャイナ教の出家僧である。日本の僧侶のほとんどは所有の生き方なので、出家でなく俗生活者だ。現代の出家とはホームレスの人達かもしれない。彼らは生活保護を受けているのではなく自己責任で自由に生きているからだ。

私は年齢と共に所有物が増えて、今ではそれらの管理に煩わしささえ感じている。自己保存本能と自己拡大本能が人間を物の所有に向かわせる。物をいろいろ所有してもそれによって、心の平和や幸福、自由が達成できないことがわかる。だから偉大なる仏陀やジナは所有から無所有への道を歩み始めたのである。方丈記の鴨長明のように越後の良寛さんのように、ジャイナ教の出家僧のように無一物になれたらどんなに心が休まり平和だろうかと思うことがある。所有物を必要最小限に整理していく事がやましたひでこさんの提唱する断捨離整理術である。いらないものを手放し、心を軽く、住環境を清らかにする方法だ。究極的な断捨離がジャイナ教の出家僧だ。ジャイナ教の出家僧は本当に何も持っていない。私には出家生活は無理だったので沖先生が云われた半俗半聖の生き方を目指して今日までやってきた。バランスのとれた生き方をすると云うのが今回の私の人生のテーマである。俗生活の中で聖・俗のバランスを取る生き方を心掛けてきたつもりだ。

集まったものは何時か宇宙空間に散逸していく。宇宙空間に働いている力は陰と陽、プラスとマイナス、収縮と拡散である。所有することは陽であり、プラスであり収縮である。無所有、捨てること、手放すことはその反対のことだ。所有、無所有に良い悪いは無い。悪いのは執着である。持っていても持っていない心であればそれは無所有である。全て物は縁があって預かっているのだと思う心が捨てている心(捨の心)である。所有物を自分の為だけに使えばそれは所有になり、他の人の為に役立つように使えば無所有になる。全てのものは縁あって帰去来している。手元の物が離れる時期が来て、離れていこうとする時それに執着するから苦しみがやってくるのだ。無執着と無所有が同義語なのはそういう意味から理解出来る。私は今、自分が預かっているものをどの様に縁ある人に手渡していこうかと考える年になった。物の集合離散は考えても仕方がない事かも知れない。なぜなら縁起していることだから。しかし、出来るだけ大勢の人の役に立つように手放していきたいと思っている。また、ふさわしい人に引き継いでもらいたいと思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/11/25からの転載です)

坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-プレクシャ・ヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス-今月の講義:ジャイナ教哲学(アースラヴァ、サンヴァラ、ニルジャーラ)、今月の瞑想:レーシャ・ディヤーナ(2024バージョン)

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

2024年クラスから、プレクシャヨガ/讃歌(マントラ)/講義/瞑想すべて体験できる1DAYクラス、として開催してまいります。

内容)
講義:ジャイナ教哲学(アースラヴァ、サンヴァラ、ニルジャーラ)
瞑想:レーシャ・ディヤーナ(2024バージョン)

日時:2024年1月14日(日)10-12時(開場:9時半)

会場:茗荷谷中央大学キャンパス2階(住所:大塚1丁目4番地)
*丸の内線茗荷谷駅前の春日通りを左に行くと、新設の中央大学茗荷谷キャンパスがあり、その2階になります。中央大学正面入り口の手前左側に階段、右側にエレベーターがあります。お間違いのないようご注意ください。

会場参加受講料:2000円
アーカイブ動画視聴:1000円
*アーカイブ動画視聴の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

講師:坂本知忠(指導ランク:教師)

 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み
*リンク先へ移行できない方は「問合先」まで氏名、携帯電話をご明記の上、お申込みください。 

コラム:仏教の源流・ジャイナ教との類似

何事も一部分のみを見ているだけでは本当のことは解らない。物事を広く深く観察して考察することが瞑想である。時間と空間を拡大して考察し、さらにそのことが起こってきた背景までも考察する。すると、疑念が解け、理路整然となって本当のことがスッキリ腑落ちする。

河口だけ見ていても川の本当の姿は解らない。川の中流や源流をも見なければならない。さらに川を理解するためには、地球の自転や海について理解し、大気の流れや雲、雨、水の性質、どうして水が多量に地球に存在しているかなどを考察する必要がある。

同じように、広く深く考察することで、私達日本人が仏教と思っている概念のほとんどは仏教であって仏教ではないことが解る。日本の仏教は広い意味での仏教のカテゴリーに包括されるかもしれないが、その実態はゴータマ・ブッダ(仏陀)が説いた仏教とは程遠いものだ。また、初期仏教を正しく継承していると言われているテーラワーダ仏教でさえ疑わしく思えることがある。

仏教の草創期、仏教の源流、つまり仏陀が生きていた時代から没後百年ぐらいまでの初期仏教がどのようなものであったかが解らないと、私たちは後世の人の創作を仏陀が説いた教えであると間違って受け容れてしまうことになる。

幸い私は仏陀と同時代から今日までインドに続いているジャイナ教を通して初期仏教との共通点や相違点を探って来たので、初期仏教がどのようなものであったか、又、ジャイナ教やヒンドウ教との比較の中で宗教とは何かがとても良く理解出来るようになった。日本仏教についても格段に理解が進んで本質的な事が良く解るようになった。

古来、インドにはバラモン教の流れと、シュラマナ系宗教の流れがあった。バラモン教はアーリヤ人の奉ずる宗教で本来寺院を持たなかった。バラモン教の伝統の中に自業自得の哲学があった。一方、シュラマナ系は土着的なインド先住民の奉ずる宗教で輪廻転生がその哲学の中にあった。紀元前八世紀ごろ、この二つの宗教哲学、自業自得と輪廻転生が出会い解脱思想が起こった。この解脱思想こそインドに起こった宗教の根幹をなしている。

解脱思想の流行でバラモン系からもシュラマナ系からも沢山の出家者が現れた。世俗の生活では解脱出来ないというのがその理由だった。世捨て人となって、世俗的なことを何もなさないことを理想とした。出家は家庭を持たず、仕事も持たず、食事の支度もせず、屋根の下に寝ず、ボロをまとい、中には素っ裸になった者もいた。

輪廻転生の原因であるところのカルマを根絶するために苦行と瞑想することが修行の中心だった。

こうしたなか、紀元前5、6世紀頃、シュラマナ系修行者の中からマハーヴィーラとゴータマ仏陀が現れた。マハーヴィーラは苦行(断食行)と瞑想を通じて解脱した。一方仏陀は瞑想しても苦行しても解脱に至らなかったので、修行法にどこか欠陥があるのではと思い因果律(カルマの法則)について徹底的に考察した。そして従来考えられていた因果律の欠陥を発見しそれを教えの基本とした。それがブッダの教え、根本仏教である。

マハーヴィーラグループもゴータマグループも哲学的に大きな差異はなかった。仏陀は理想主義者ではなく、現実主義者だった。現実主義者である仏陀は悟りを開いてから、在家信者からの寄進や布施に対して理想主義的な出家者のようにこだわりを持たなかった。

食事の接待を受けるようになり、常に綺麗な衣を纏うようになり、屋根のある大きな建物にも寝起きするようになった。その頃、発達し始めた都市国家の担い手、有力な商人がこぞってジャイナ教や仏陀等の自由思想家達に帰依したが、仏陀の教えがより多くの人々の心を捉えたのだと思う。仏陀が生きていた時代、ジャイナ教徒からは弟子のサーリープッタが仏教教団の代表のように思われていた。サーリープッタは仏陀に帰依する前、サンジャヤ(注:六師外道の一人、鰻論法で知られる懐疑論・不可知論者。シャーリプッタは仏陀が因果律を説くと聞き兄弟弟子のモンガラナーと共にサンジャヤの下を去り仏陀の弟子になった)の弟子であったので、経験的な事実に基づかない宗教哲学理論を師のサンジャヤと同じようにのらりくらりとした掴みどころのない戦法で否定したと思われる。ブッダも恐らく同じような考えを持っていた。それが十難無記である。十難無記の中に魂が有るか無いかの問題があった。

仏陀は魂が有るとも無いとも云わなかったのが真相だと思えてならない。なぜならその頃の出家修行者の間では魂があるのは当たり前の考え方であり、自業自得の因果律と輪廻転生の哲学、輪廻からの解脱とそのために出家するということは広く受け入れられた考え方だった。仏陀もマハーヴィーラも言っているように、出家しなければ解脱できないというのがその当時の共通した考え方だった。出家主義は今もジャイナ教や南伝仏教に生きている。

バラモン教は仏教とジャイナ教の影響を受けて、紀元前3世紀頃、その当時有ったインドの民間信仰を何でも採り入れて、インドのなんでもあり宗教に変化したが、その基本的な教えはベーダンタ哲学である。ベーダンタの修行体系、ジャイナ教の修行体系、初期仏教の修行体系はいずれも、出家を中心にしてカルマの根絶、輪廻転生からの解脱に取り組むものである。その方法は多少の相違はあっても瞑想と苦行(タパス)であった。仏陀は極端な苦行は無意味としたが、苦行は悟りや解脱に必要なものとして位置づけていた。共通項として他律を廃し自律を重んじた。

ヒンドウ教にあっても、修行とは自分で自分を助け救う悟りの希求だった。要約すると、自業自得で汚れた魂を清らかにする道、カルマを無くす方法が修行であり、その哲学がインドで生まれた宗教であり、輪廻転生からの解脱がその目的である。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2014/8/27からの転載です)

坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-レーシャ・デイヤーナ②-

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容)
講義・実習:レーシャ・デイヤーナ②
*伊東真知子先生による瞑想のための身体ほぐしのためのプレクシャヨガを30分行います

日時:2023年12月3日(日)10-12時(開場:9時半)

会場:最寄り駅は茗荷谷駅となります。場所の詳細はお申込者様へご連絡させて頂きます。

会場参加受講料:2000円
オンライン参加受講料:1000円
*オンライン参加の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

講師:坂本知忠(指導ランク:教師)
 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

講師:伊東真知子(指導ランク:講師)

日本プレクシャ・ディヤーナ協会 役員
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印5回(2019年3月時点)
1980年沖ヨガ入門
1982年ヨガ指導開始
2008年プレクシャ・メディテーション指導開始
月2回神保町区民館にてヨガと瞑想クラス開催

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

申込先:こちらお申込み

坂本知忠先生から学ぶプレクシャ・メディテーション-レーシャ・デイヤーナ-

プレクシャ・メディテーションは、今から約2600年前、ブッダの時代からインドに伝わる古代瞑想法を、やはり仏教と同じ時代から存在し受け継がれている古代宗教ジャイナ教(テーラパンタ派)の前最高指導者であるアチャーリヤ・マハープラギャ師が、最新科学の知見を採り入れて現代的に再構成した古くて新しい瞑想法です。

理論面、実践面ともに、細かく体系的に構築されている瞑想法であるため、説明が平易で、初心者でも簡単にはじめられる内容になっています。

理論的には非常に深遠な内容を含んでいますので、他の瞑想やヨガに通じた人、親しんでいる人にも大いに参考になります。

内容)
講義・実習:レーシャ・デイヤーナ

日時:2023年11月12日(日)10-12時(開場:9時半)

会場:神保町区民館 2階洋室B(住所:東京都千代田区神田神保町2-40)
*リノリュームの床で座布団等はありません。ヨガマット、持ち運び用の簡易座布団など各自ご持参ください。

会場参加受講料:2000円
オンライン参加受講料:1000円
*オンライン参加の場合、クラス終了後1週間以内に、クラス動画を共有させて頂きます

講師:坂本知忠(指導ランク:教師)
 
日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
水晶瞑想両方研究所主宰
ヨガ瞑想指導歴35年以上
プレクシャ・メディテーション研修のため渡印13回
2015年プレクシャ・アウオード受賞
著書:「白神山地」「虹のクリスタル・ワーク」「ジャイナ教の瞑想法」「勝利者の瞑想法」「坐禅の源流印度へ」「自分で自分の医者になる」他

問合先:日本プレクシャ・ディヤーナ協会(japan@preksha.com)

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コラム:生 カルマ 死 カルマ 生

ありとあらゆる物が自分のカルマと縁によって、やって来て次の瞬間去って行く。

まるで流れる川の中に立っているようだ。
その流れはまさに宇宙のエネルギーそのものだ。
体の外側も流れている。
体の内側も流れている。
それは高速の流れだ。

動いている身体をもって、僕は動いている世界に飛び込んで行く。
生きている世界は僕が立ち止まっても、押し寄せてくる。
それが生と云うものだ。

今日一日、いろいろな物や出来事が、僕の所へ引き寄せられ押し寄せて来て、超スピードで去って行った。

死とは自分の中の流れが止まって、別次元の止まっている外界を、意識だけが流れて行く状態だ。その時、世界は押し寄せて来ない。意識が動くので世界が動いているように想えるのだ。

純化できていない意識はやがてある特定の振動を持ったエネルギー(音、匂い、光、色彩)に強く引きつけられる。

鮭が故郷の川の水を知っているように、自分を思い出し、帰るべき世界、生まれるべき所に強く惹きつけられる。

そして人間は生まれてくるのだ。

純化出来ていない意識はどうしても成し遂げたい願を持っている。
それが良いカルマ仏性だ。

仏性発現を阻害するものが悪いカルマだ。

陰陽二つのエネルギーが人間の潜在意識から放射される。
一つの人生で遭遇するあらゆる出来事の源泉はそこにある。

カルマに対する洞察、カルマのコントロール、アカルマへの道が全ての人間の遠い旅路なのだ。

プレクシャ・ディヤーナはその旅の道しるべであり、地図でもある。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/10/25からの転載です)