コラム[生かされて生きている]

メディテーションとは皮膚よりも内側の内部深くに本当の自分を探求することである。人間は物質的な身体と非物質的な心や意識との結合によって存在している。私たちが生まれて生き続けることが出来るのは、身体内部に生命エネルギーが流れているからである。生命エネルギーは一つ一つの細胞に浸透して活力を与えている。生命エネルギーは呼吸と伴にあり、意識と伴にある。呼吸が止まれば生命エネルギーの流れは止まる。生命エネルギーの流れが止まると身体内部で生起していた感覚も止まる。感覚が止まれば意識は身体と伴にある必然性がなくなって身体から離れる。意識の本性は純粋性であり完全性である。

しかし私たちの個々の意識は過去の行為によって色が付き純粋でなくなっている。意識の性質である完全性と純粋性を求める衝動によって輪廻転生が起こる。私たちの身体や心は死によって滅するが、意識だけは生き通しである。長い時が流れて過ぎれば、意識は今とは全く違った場所で違ったもの(人間、生命)と結びついている。

生き物は身体外部から食物やエネルギーを身体内部に取り込み内部エネルギーに変換し、それを身体の維持や成長、活動のために使っている。その一連のエネルギー変換作用を統括するものが意識である。私たち人間は生きている間は身体内部に生命エネルギーが流れている。生命エネルギーが流れているから身体内部にさまざまな感覚が起こってくる。粗雑なものから微細なものまでさまざまな身体感覚は深いレベルのほとんど自覚できないレベルの意識によってキャッチされる。意識によって捉えられた感覚としての情報が神経系を通して瞬間瞬間脳に伝わっている。脳は感覚を感じて身体に適切な指示をする。空腹を感じれば食べ、疲れれば休み、眠たくなれば眠る。身体を守り命を継続させるために、時には心が悩み身体そのものが不調になって病気になることもある。病気や悩みは身体を継続させる働きとして起こってくるものだ。だから本来、悩みや病気は悪いものではなく原因があって起こっているだけである。私たちの生き方が間違っていると深いレベルの意識が教えてくれているのだと理解しなければならない。

脳は物質的な身体機能そのものであるが、中枢神経の中で機能して命の働きを統括しているのは非物質的な意識である。脳そのものの働きも深いレベルで意識が統括していると言える。物質的な脳の機能と非物質的な意識が結びついて命を守る働きとして感情が発生し、さまざまな心の働きが起こってくる。私たちの意識は誕生前からすでに色付いていて純粋でないから、感情も影響を受けて、さらに意思や行動にも影響を与えている。私たちが正しく生きようと思っても間違ったことをしてしまう原因は身体内部の深い意識レベルにある。意識の働きというものを想定しないと、脳の機能だけでは、なぜ我々は間違った選択をしてしまうか説明がつかない。

私たちの身体も心も、そしてこの世の森羅万象すべてが刻一刻、時間とともに変化している。すべては変化するエネルギーの流れである。二度と同じ川の流れの中に足を浸せないと同じように、私たちの身体も心も変化してしまうので、1秒前の私と今の私は違ったものだし、今の私と1秒後の私は違ったものである。1秒間に人間の小腸栄養吸収細胞は170万個生まれ変わり、24時間で1500億個ある小腸の栄養吸収細胞はすべて生まれ変わってしまう。身体内部は激しく一瞬一瞬変化している。身体と心を捉えようとしても変化してしまうので、そこに恒常的な私を見つけることはできない。

私とは観ている者、感じている主体であり、客体ではない。意識についた色や汚れは客体であるが意識そのものは主体である。主体的な意識が純粋性と完全性を取り戻した時、私たちは長い旅を終えて普遍的なものになる。普遍的になった意識はもう生き物に生まれることはない。それが解脱だと思う。

宇宙の草創期、宇宙全体に均一に広がった温度の中に、ほんの少しだけ温度差が起こった。その温度差によってプラスとマイナスの電磁気的な流れが起こった。その電磁気的な流れがあらゆる物質的なものを生み出す根本的な力となった。陰と陽、拡散と収縮、引き合う力と反発する力があらゆる場所に起こった。宇宙という物質変化の流れそのものが目に見えない宇宙の意識・カルマによって出現したというのがジャイナ教や仏教の基本的な宇宙観である。宇宙は神の創造によるものではなく、始めのない始めから、終わりのない終わりまでカルマによって輪廻しているというものだ。

今、なぜ自分はここに存在しているのかと問えば、原因と結果の法則が連綿と遠い過去まで続き宇宙の始めまで続いていることがわかる。宇宙の始めが始めでなく、もっと前まで繋がっていることもわかる。反発する力と引き合う力が姿形を変えてさまざまな場所で起こった。原因と条件の組み合わせによっていろいろなことが継続的におこった。偶然のように奇跡のように思える確率の低い出来事も、必ず由ってくる原因があるのである。しかし、宇宙が始まって以来、継続的に起こってきたことのどれか一つでも起こらなかったら今の自分は存在しなかった。星星を含めて森羅万象すべてのものは相互に関連しあって存在しているのであり、孤立して存在できるものなど何一つない。私たちは引き合う力と反発する力である無数無限の縁によって存在しているのである。私たちは存在していて存在させられている。生きていて生かされている。あなたが生まれたから私が生まれたのであり、私がいるからあなたがいるのである。私たちは全体として一つであり、生かされて生きているのである。

地球の周りに月がなかったと仮定してみよう。月がなければ地球の自転速度が早まると科学的に推察されている、月がブレーキの役割を果たし地球の自転が遅くなっている。もし月が地球の周りになければ、一日は8時間になる。潮の満ち引きも起こらない。地上は今よりも強い風が吹き、植物や動物が存在できても今の生き物と全く違った生き物の姿になるだろう。月を生み出した原因となったグレートインパクト、小惑星による地球との衝突がなかったら、地軸の傾きがなくなり、季節の変化が起こらなくなる。地球環境は厳しくて今ある地球上の生き物は全く別の形態になっている。

少なくとも私たちは太陽に感謝しなければならない。グレートインパクトが起こったことに感謝しなくてはならない。月の存在に感謝しなければならない。そしてすべすべてのご縁に感謝しなければならない。

「すべてのものと繋がっている、すべてのご縁によって生かされている。」と考えて、生きている瞬間瞬間にすべてがその思いで満たされればそれがサマージーである。宇宙があって私が存在できている。尊いご縁によって深くつながっている。私の身体を作っているすべての元素はかって宇宙のどこかで他物が使っていたものだ。宇宙の始めから在ったものと、そのものの形を変えたものの再利用である。私が呼吸している空気も地球上にかって存在した植物、動物、生き物、マハーヴィーラ、ブッダ達が呼吸に使った空気の再利用である。私達は好きな人の吐いた息だけでなく嫌いな人の吐いた息をも使っている。すべては循環して繋がっている。空気だけでなく私たちが飲む水もかって誰かが飲んで使ったものの分子を含んでいる。私たちは一人一人過去にも繋がり未来にも繋がり、同時に空間的に全方向に繋がっているのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

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