コラム[『シッダールタ』を読んで]

10年ぶりに岡田朝雄訳『シッダールタ』(2006年草思社刊)を再読した。今回、10年前には理解出来なかったこの小説の内容の濃さ、ストーリー構成の完璧さがよく解った。『シッダールタ』はヘルマン・ヘッセによって大正11年10月ヘッセ45歳の時に初版出版された。内容はゴータマ・ブッダの悟りとは別の悟りを開いた小説の主人公シッダールタの思索を通じて、真我とは何か、輪廻転生とは何か、瞑想とは何か、解脱とは何か、梵我一如とは何かなど、インド宗教哲学の精髄を語りきり、描ききり、説明しきっている。

私が30歳頃から今日まで40年間探求してきたインド哲学全般、そしてヨガや瞑想の奥義を、この小説ほどわかりやすく解き明かした著作を他に知らない。今や『シッダールタ』は私が今までに読んだ小説及び精神世界本の中で最も感動し、その哲学的内容の深さを高く評価するベストワンに位置づけるものとなった。

この小説を読みながらドイツ人のヘッセが45歳の年齢でなぜここまで深く仏教やインドの宗教思想を理解できたのだろうかとの疑問が起こった。このようにインド宗教思想を理解し洞察できるまでには相当の勉強と思索と体験が必要だったと思うが、それをヘッセはどのように行ったのだろう。ヘッセはキリスト教文化圏に生まれながら若い頃からインドや中国の宗教思想を探求し続けたようであるが、小説を書く動機としてヘッセ自身が梵我一如を体験したのかもしれない。

物語はバラモン教司祭の世襲後継者として育ったシッダールタがヴェーダーンタ哲学を習得しても心の渇きが癒されず、刎頚の友ゴーヴィンダとともに輪廻からの解脱を求めて沙門に出家するところからはじまる。岡田朝雄の翻訳は誠に素晴らしく一字一句無駄なく完璧な原文を美しい日本語に訳しきっている。

朗読すると、同じような表現がリズミカルに三度繰り返されるこの小説の、詩のような独特な文体を日本語で感じることができる。また文章を読んでいくと物語の情景が鮮やかにイメージとなって脳裏に浮かんでくる。出家の決心を、長らく自分を慈しみ育ててくれた父親に告げた時、父と子の心情が絵のように美しく描き出されていた。

この小説は登場人物が極めて少ない。まず一番目にあげられるのが主人公シッダールタを敬愛する幼馴染で、沙門修行を共にし、後にシッダールタと袂をわけてブッダの弟子になった親友のゴーヴィンダである。ゴーヴィンダはシッダールタの生涯全般に常に関わっていて、この小説の最初から最まで登場する脇役である。ゴーヴィンダは我々読者の視点であり、シッダールタがゴーヴィンダに語るのを通して我々はヘッセの思想を聞くこととなる。

遊女カマラーからシッダールタは性的快楽を通して、現実に生きることを学び、この世にあるものは全て良きものだということを学んだ。そして聖なるものと俗なるもの、賢いことと愚かなること、良いことと悪いことの対極を、経験を通して学んだ。聖から俗のどん底を体験することで、シッダールタは性格的欠点だった自惚れがなくなり謙虚になった。

河の渡し守ヴァースデーヴァは自然から真実を読み解くことができる、名も無い貧しい賢者である。老子の思想にも通じるヴァースデーヴァはシッダールタの本当の師匠であり、影になりシッダールタを見守り、究極の悟りに至るのを助ける。古代インドのシュラマナ系宗教では彼岸に渡して悟りに導く聖者をテールタンカラと言った。まさにヴァースデーヴァはテールタンカラ(渡し場を渡す人)であった。

登場人物ではないが、この小説で重要な役割を演じているのが「流れる河」である。流れる河はシッダールタにさまざまなことを話す。聞く耳をもったシッダールタに河はさまざまな真理、自然法則、宗教哲学を語る。河がシッダールタのもうひとりの師匠だった。シッダールタは河からさまざまなことを学んだ。仏教用語に山川草木悉皆成仏というのがあるが、その意味は自然を深く観察すると真理に到達するということである。河の流れを観察することで、シッダールタは過去現在未来がひとつにつながっていることがわかった。それは仏陀の無我とは別の、無時間という新しい悟りであった。時が実在しないという悟りによって、無常と永遠、苦悩と歓喜、善と悪の間に見える隔たりも一つの迷いであることに気づいた。「世界は不完全なものではない、徐々に完全なものになりつつあるのでもない、世界はあらゆる瞬間に完全だ。」ということがシッダールタにわかった。「罪人の中に、今そして今日、すでに未来の仏陀がいるのだ。あらゆる子供は自らの中にすでに老人を持ち、あらゆる乳飲み子は自らのうちに死をもっている。ずべての瀕死のものは自らのうちに永遠の生をもっている。」とわかった。この世のあらゆるものは相互に関連性を持ち、苦悩と歓喜の叫びとともに、河のように流れてすべてが一如につながっていることがわかった。12章に分けられた小説の最後の2章「オーム」とゴーヴィンダで語られる哲学的内容は圧巻であった。まさに悟りを開いた聖者にしか語れない内容を作者であるヘッセは私たちにわかりやすく示してくれる。最終章を読み終えたとき、私に深い感動が訪れた。

小説の序章「バラモンの子」ではヴェーダーンタ哲学が、2章ではジャイナ教を思わせる沙門の苦行や修行が語られ、3章ゴウタマでは仏陀と仏教哲学が語られる。シッダールタは教えによって学ぶことは出来ないとの考えから仏陀に帰依することなく、体験によって真実をつかもうと遍歴する。求めても得られない我が子への溺愛に苦しみ、故郷を、父母を捨てたことを悩んだ。

そして、シッダールタはついに完全なる悟りに達した。仏陀の悟りは自分を知ること、世界を苦と見て、もう生まれないこと輪廻転生からの解脱を理想として涅槃寂静を目指すものであった。一方、シッダールタの悟りは世界を知ること、世界を苦と見ないで、ありのまま真実として受け入れ、すべて良きもの善として解釈して他と融合し、自然法則と完全一体一如になったのである。

瞑想には内なる方向性と外なる方向性がある。外なる方向性の悟りは教えによっては学ぶことができず、生活を通して体験によって掴むことしかできないのである。ヘッセはこの小説で外なる方向性の完全なる悟り、梵我一如、聖愛を語った。全く素晴らしい小説としか言いようがない。

この小説『シッダールタ』は読めば読むほど味わい深い。私は小説を深く味わうためにインド宗教哲学の幅広い理解が欠かせないと思う。インド宗教哲学の全般を理解するために宮元啓一著『インド人の考えたこと』(2008年、春秋社刊)を熟読されることを勧めます。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)

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