コラム:美しき日本刀と非暴力

あるヨガの先生から質問された。「坂本先生は刀をどうおもいますか?」「実は夫の兄が刀剣収集が趣味で、先日、その方から夫に刀が送られてきて、お前も刀の趣味を持ってはどうかと勧められた。」というのである。彼女は刀に対して怖いもの、武器としてのイメージが強く、身近におきたくないらしい。その時私は「刀ほど美しいものはなく、絵画や陶器と同じく素晴らしい鉄の芸術品として鑑賞すべきものであり、決して武器ではない。」「刀は折り返し鍛錬されて火に熱し水に冷却し鍛え上げられたものであり、素材の玉鋼から不純物を取り除いて純粋な鉄の芸術として造られたものである。刀は気高い人格と魂を象徴するものである。」「日本刀にはそれを制作した刀匠が、刀が武器として使われることのないように、平和への祈りがマントラになって込められているのだ。」と答えた。

私の刀への憧れは、少年時代まで遡る。私は団塊の世代の先駆けとなる、昭和21年9月に千葉県東葛飾郡浦安町に生まれた。小学校2,3年生の時NHKラジオ放送で「笛吹童子」や「紅孔雀」などがラジオドラマとして放送されていた。ラジオから流れる主題歌「笛吹童子:ひゃらーり ひゃらりっこ ひゃりーこ ひゃられーど 誰が吹くのか 不思議な笛だ・・・・。紅孔雀:まだ見ぬ国に住むという 赤い翼の孔雀鳥 秘めし願いを知るという 秘めし宝を知るという」や物語に熱中した。その後、「笛吹童子」も「紅孔雀」も東映で映画化され、娯楽が少なかった時代、私はそんな時代劇映画の虜になった。中村錦之助、東千代之介、大友柳太朗、高千穂ひづる、月形龍之助等の映画スターのファンになったのもこの頃である。

この頃の子供たちの遊びと言えば、男の子ではメンコ、ビー玉、ベーゴマ、そしてチャンバラごっこであった。「俺は那智の小天狗だ。俺は浮寝丸だ。」などと言いなから手作りの木剣を振り回していた。隣の家の木の枝が木剣に恰好だったので、木剣を作りたいという気持ちが抑えられなくて、その枝を切って木剣を作り、隣のオヤジに大いに怒られた。隣のオヤジに怒られたけれど、悪ガキの知ちゃんは小刀を上手に使って、反りのある刀身は木を削り出し、柄の部分に樹皮を残した自慢の木剣を作った。

小学校低学年で時代劇の立ち回りや刀、侍に憧れた知ちゃんは中学校に入ると、剣道部に入部した。中学高校を一貫教育する私立中学校だったので、高校生の先輩から厳しい稽古をさせられた。

ヨガを始めた頃、自宅の近所に居合道を教える道場が出来た。道場主は私の父の小学校時代の同級生だった。榎本富夫先生が自宅に遊びに来て、先生から居合道の話を聞いたご縁で私はヨガと並んで居合の稽古を始めた。ヨガの稽古は三上光治先生について週1回だったが居合は週二回練習した。昭和57年居合道初段に合格した。私は初段に合格したら、稽古の刀を模擬刀から真剣に変えようと思っていた。

古い刀は従前の持ち主の念やネガテブなエネルギーが宿っていることもあるので、現代刀匠の作刀を求めた。その頃、名高かった岐阜県関の刀匠、藤原兼房、兼氏親子が合作で作ったものを実際手に持ち振ってみたところ、長さと手になじむバランスの良さが気に入って、それを買い求めた。真剣身とは良く言ったもので、真剣を使うようになって模擬刀で練習している時とは全く違って真剣身になった。

「関の兼房」は私の愛刀となりその後の5年間、あらゆる刀の使い方に練習を重ねた。1984年春(昭和59年)居合道の2段になっていた。静岡県三島市の沖ヨガ修道場には沖正弘先生がおられて世界中から参加者が集まり「ライフ・エンカウンター・セミナー」が行われた。大勢の外国人の前で、ビール瓶に刺し立てた2メートルほどの篠竹を、瓶を倒さずに「関の兼房」で切り払い、それから、皆が静まり返って見守る中、居合の型を演舞した。1987年(昭和62年)私は居合道の4段になっていた。沖先生が亡き後、私は成瀬雅春先生からもヨガを習っていた。その年、成瀬ヨガの10周年記念祭が品川区の体育館で行われたとき、私は壇上で連続早抜き居合を演舞した。私はこの頃、あらゆる手の内で刀を使えるようになっていた。

1988年沖ヨ修道場主催の第2回プレクシャ・メディテーション研修旅行でインドへ行った。国際親善と日本文化や武道を紹介する目的で私は日本から羽織袴と模擬刀を持っていった。交流会の機会に私は居合の演舞をした。それを見ていたジェイン・ヴィシュバ・バーラティの道場長メータ師から居合はバイオレンスだといわれた。私はそのことを日本に帰って深く考えた。型を演舞しているといっても、一つ一つの型で実際に人を切っているようにイメージする。イメージが強烈すぎて実際に人を切っているような気がすることがあった。相手の血潮が吹き出すイメージが起こることもあった。練習したあとで、その日の練習のイメージで30人から40人の人を殺してしまったと感じる日もあった。瞑想の世界ではイメージしたことは実際に起こったことといえる。そう考えたときに私は居合が出来なくなった。そして現代の居合が実践的でなく、室内だけの型の演舞だけに終始していることに物足りなさを感じたからでもある。非暴力と日本人としてのアイデンティテイ・武士道精神文化の整合性がとれなくなってしまったのである。

居合道から離れてしまったが、私は今も日本刀が好きである。ウィキペディアによれば「日本刀とは日本固有の鍛冶製法によって作られた刀類の総称である。それは平安時代末に出現し、反りがあり片刃の刀剣をさす。」世界史的に見ても日本刀はユニークなものであり、日本人の物づくりと芸術、文化、精神性を象徴したものと言える。日本刀は外装(拵え)とは別に刀身自体が美しい鉄の美術品である。その姿、形は極限まで機能を追求した結果、一切の無駄がなく美しい。刀の外装である刀身を納める鞘、防御のための鍔、手持ちを良くするための柄、その他刀の外装に使われる部品(ハバキ、目貫、頭)の一つ一つがいにしえの職人が丹精込めてつくった美術品として美しい。

私は室町時代の「備州長船住盛光」と江戸時代初期の「陸奥大掾三善長道」を美術的にも価値ある外装付きで所持している。数百年を経て全く錆びずよく手入れされたこの刀を見るとき、刀が日本人とは何かと語り始めるのを聴くことができる。

先ごろ、東中野の沖ヨガスタジオで「知心流」の宗家を継ぐ大野雅司師の武術演舞を見た。それはかって、私が求めていた実践的な刀操法であった。大野師は真剣を抜くと同時に峯返しした。抜刀と峰打ちが一体になった技である。手の内が理想的に柔らかくなければすることが出来ない技である。戦わずして勝つことが居合であるが、たとえ刀を抜いたとしても相手を殺さないで屈服させる。これが抜き峰打ちである。それはまさに非暴力の居合であった。私はそこに到達できないで居合から離れた。若い頃に「知心流」に出会っていればもう少し居合を続けることが出来たのかもしれない。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2016/3月第60号からの転載です)

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