瞑想は起こってくる物事を、正しく観て、正しく受け止め、正しく行動するために必要な、体と心と生活の清めだといっても良い。生きていると私達の身辺にはさまざまな出来事が起ってくる。その時、私達は正しいと思って間違ったことをしてしまったり、無駄なこと、余計なことをしてしまったりする。なぜそうなるかといえば洞察力が足りないからである。また、各人の潜在意識下に染みついたさまざまな癖が感情や思考に影響して、私達が物事を正しく観て、正しく受け止め、正しく行動することを妨げている。
私達は先ず潜在意識下に根付いている自己特有の癖を知らなくてはならない。全ての人間は個性別である。過去の人間を探してみても、未来の人間を探してみても、現在の自分と同じ人はいない。なぜかというと、それぞれの潜在意識下に蓄積されている汚れ・癖が各自違うからである。この癖のことをインド哲学でカルマという。カルマという考え方はヒンドゥー教のヴェーダンタ哲学にもジャイナ教にもあり、初期仏教にもあった。
私達は生きている限り生活しなくてはならない。生活の中で食べなければならない、住まいを整えなければならない、結婚して家族を養い子供を教育しなければならない。その上で安全に生きなければならない。そのような生活を通して考え行動するので、同じことを繰り返しているうちに潜在意識下に、受け止めること反応することの癖が身に着いてしまう。
人間だけでなく全ての生きものは生きたくて生きているのであり死を恐れている。全ての生きものに感覚があり感覚の本質は苦楽であり、それに伴う感情の好き嫌いである。物質でなく普遍的なもの、死にもしなければ生まれもしない、変化もしないアートマンに、苦楽がインプットされると命となって生きものになる。人間の命に苦楽の感覚がインプットされている。苦楽が命を守っているから、この苦楽の感覚は制御することが極めて難しく、私達は苦楽の感覚に支配されているといってもよい。この苦楽に操られて私達は思考し行動し、その行動によって様々な汚れを命に引き寄せている。その汚れがカルマといわれるものである。生きている限り汚れ、つまりカルマの流入は止まらない。潜在意識下へのカルマの流入を極力減らしたい、蓄積したカルマを減らしたいということで出家思想が起こり仏陀もマハーヴィーラも出家になった。
世俗的な生き方には必ず苦楽が一体になっている。苦を離れて楽はなく、楽を求めれば必ず苦がついてまわる。苦は嫌だと逃げれば無気力・怠け者となって楽も得られない。大楽を求めるならば困難な苦しみを覚悟しなければならない。世俗的には苦楽一如である。お金や不動産、骨董品など欲深く沢山所有すれば楽しいけれど、持つことでそれを管理したり世話しなければならない苦労が必ず付きまとう。結婚して家族を持てば楽しみと苦労が付きまとう。ペットを飼うことで癒しや慰め、無条件の愛の喜びを感じるが、飼い主は従者になり、ペットは王様将軍様になる。大いなる喜びは大いなる苦しみと一対になっているのが人間社会の出来事である。苦を離れて、楽だけの本当の喜びだけになるには、モークシャになるしかないのかもしれない。
カルマは潜在意識下に根付いている汚れであるが心の癖といっても良い。受け止め方の癖であり、考え方の癖であり行動の癖である。私達の思考と行動を操っているのはその癖である。怒りっぽい人は怒りっぽいし、嫉妬深い人は嫉妬心が強く根付いている。解っちゃいるけどやめられないのは根付いた癖に支配されているからである。このネガティブな感情と思考の癖による支配を解いて賢者は無限の自由になることを求めた。それが生き物たちの最終目的地でありモークシャ、ニルバーナ、カイバリヤと呼ばれている。私達は目的地に向けて長い長い輪廻転生の旅の途上にある。旅路の終着点はカルマが完全に無くなってアートマンが純粋になった状態である。その時、人は内なる神と合一する。個我の夢から覚めて、真我となる。真我になり、汚れがないので純粋な無であり空である。これをアカルマと言いモークシャという。目的地はローソクの炎を吹き消すように消えてなくなる虚無の場では決してない。そこは、歓喜法悦に満たされた無限の自由と愛の場である。
癖つまりカルマのことが理解できないと体と心と生活を清める本当の瞑想は出来ない。カルマによって汚染され癖づいた心のことをはからい心という。はからい心は自分は肉体だとしか認識できない無知から起こる。自分の存在を物質的な肉体だけとしか思えない心が利己主義、自己中心、自己本位のエゴを生んでいる。人間社会を良くないものにしている根本原因の一つがこのエゴ的心であり、自己に責任をみない依頼心であるといえる。個人の心からエゴ的心と依頼心を取り除くには因果律を理解し、輪廻転生と解脱への旅路を知らなくてはならない。物質的な物の見方しか出来ないから本当の意味での正しい、間違いの識別が出来ず洞察力が持てないのである。その状態を迷いといい無知という。
自分が今どこにいるのか解らない目的地がどこなのかが解らないその状態を迷っているという。そして迷っていて現在地も目的地も見いだせない辿る道筋も見えないことを無知という。ほとんどの人間は無知で迷っていると言っても過言でない。目的地を明確に理解していて現在地も把握している、旅する道筋も解っている人が賢者であり瞑想の教師である。
賢者は智慧を持っている。モークシャに至る道筋を理解し地図を持っている。その地図が瞑想のテクニックであり実践である。
瞑想をすることで内側の自分と云う存在が何かと解り、外側の自分を取り巻く世界が解ってくる。因果律の仕組みや輪廻転生、物質的な物と非物質なものにたいする智慧がインスピレーションとして瞑想者にやってくる。
賢者は過去・現在・未来という時空を超えた洞察力をもっている。その洞察力は無差別であり、損得を超越している。お金の使い方や生き方がアートマンに直結した生き方になっている。
賢者はいま現在の恩恵は過去の行為の徳・善行がもたらしているのであり、現在受けている困難・苦痛によって過去の行為が清められていると解っている。今、善いというのは過去が悪くなっているのであり、今悪いというのは過去が善くなっているのである。このように善悪苦楽は時空を超えて一如なのである。これが無差別心である。未来を良くしたかったら幸せになりたかったら今、未来に向けて貯金するしかない。全ての物事は原因があり環境と条件が整うと起ってくる。これが自然であり宇宙の真実であり因果律という。因果律を完全にコントロール下に置きアートマンをアカルマにすること、それが瞑想行法というテクニックと実践である。テクニックと実践は道を歩くことであり、環境と条件を整えることである。やがて、することつまりテクニックと実践を超えて、起ることが自然に立ち現れる。それが本当の瞑想であり、瞑想の果てにすべての条件が整った時に最後に起ることがモークシャである。
春に桜が満開になるように環境と条件が整えばそれは自然に起こる。全ての物事が起るためには環境と条件を整えてやればよい。そうすればどんなことも起こる。それ以外に幸せになる道はない。病も悩みも生死も苦楽も癖も汚れも感情も心も肉体も本来存在していないものである。我々はないものを在ると錯覚している。錯覚から目覚めなければならない。無知と迷いから目覚めなければならない。目覚めて純粋なるアートマン(ドラヴィア・アートマン)に直結する生き方をしなければならない。魂(アートマン)を中心にした生き方が目覚めた生き方であり洞察力がある生き方である。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2020/10/27からの転載です)