コラム[オンライン瞑想と師資相承]

新型コロナウイルス感染対策で密閉、密集、密接を避けるために大勢での集会や会合が出来なくなった。自宅謹慎を要請されているため、退屈で時間を持て余したり、運動不足に悩む人も多い。また、人と人との接触を断たれた孤独な高齢者の痴呆が進行しているなどの問題も起こっている。

このような状況下、インターネット動画サイトには有名無名のアスリート達によって沢山の身体エキササイズの投稿がなされている。ヨガのインストラクターによるエキササイズ動画も多い。

大勢が同席する会議が出来ないので、ムーブなどによるテレビ会議も急速に一般化した。学習塾などもオンライン授業が普及した。瞑想クラスをオンライン授業で行う試みもなされている。オンライン婚活やオンライン葬儀まで登場してきたのには、ここまで来たかと驚くばかりである。オンライン飲み会が行われるのだから、オンライン風俗もあるのかもしれない。

情報機器をつかって今までできなかった画像をともなう夢のような相互通信が可能になってきた。私のような高齢世代の者には只々付いていくのがやっとで、スマートホンさえ上手に使いこなせないでいる。

オンライン授業といってもやはり実際の授業には到底かなわないと私は思う。なぜなら、相対的な空間が遠く離れて隔絶しているからである。空間が隔絶しているとその場の雰囲気や人や場のエナジーが伝わらないからである。映画やCDによる音楽にもそういう問題はある。実体験や実演には遠く及ばない。例えドローン撮影による別視点の高質画像であっても、作られたものと実際体験する風景では雲泥の差がある。画像は2次元であるが、実際の風景は3次元で立体的である。気温も匂いも身体的な疲労感も画像では伝えることは出来ない。温泉旅館が源泉掛け流しの画像をネットのユーチュブに流していた。コロナウイルス騒ぎで温泉旅行も出来ないからせめて画像だけでも楽しんでリラックスしてくださいという趣旨なのだろう。コロナウイルス拡散非常事態宣言が解除されたら、温泉に是非来てくださいという宣伝メッセージが込められていると思った。

オンライン瞑想も補助的にあるいは本物の代替として使うならとても良い便利なものである。予告編として上手に宣伝として使うなら効果は高いと思う。しかし瞑想の高度な技法を30分程度にまとめ解説し実技も入れるとなると、伝えることは限界があり困難になる。せっかくの宝物が、猫に小判、豚に真珠となりかねない。他流派の瞑想実践者に、その瞑想技法の評価が低い方に誤解される恐れもある。便利な代替機器が身の回りに沢山存在する現代であるが、代替機器はあくまで代替であり、リアリティに乏しいのだと理解しておくべきだと思う。本当の智慧、すなわち解ったということは、知ること学ぶことではない、肉体を通してリアルな体験して掴むことであると私は信じている。

古来、ヨガや瞑想の伝授は師資相承であった。師匠が弟子の修行の進み具合に応じて適時適切に指導したのである。このことをウパニシャッドという。ウパニシャッドは弟子が師匠のそばに座ることを意味する。師資相承を思うとき、まっさきに私の脳裏に浮かぶのはミラレパの物語である。

今から1000年ほど前のチベットに偉大なる瞑想ヨガ行者・ミラレパがいた。ミラレパの生家は裕福な地主の家だった。ミラレパが7歳の時に父親が亡くなり、父の遺産は父方の叔父と叔母にだましとられてしまった。遺されたミラレパと妹と母親は貧困に苦しんだ。叔父と叔母に騙された母親の憎しみは激しく、母親はミラレパに「黒魔術を修行して、仇をとってくれ。」と旅費とグルへの貢物を持たせて旅立たせた。

ミラレパはクルンのラマのもとで強力な破壊の術と死をもたらすマントラの伝授を受けた。この術を使ってミラレパは憎い叔父、叔母の長男の結婚式披露宴に集まった人を、叔父と叔母を除いて長男と嫁を含む35人を殺害した。次にキョルポのラマ・トギャルのもとでミラレパは雹の嵐を起こす術を習得し、収穫近い豊作の大麦畑に雹をふらせて作物を台無しにしてしまった。こうしてミラレパは自分たちに味方しなかった無慈悲な村人たちへの復讐も成し遂げたのである。

雹の嵐を起こす術を授けたラマ・トギャルはミラレパに「お前は復讐を成し遂げたが同時に巨大な黒いカルマを積んでしまった。」「このカルマを浄化するために仏教の教えを学んだほうが善い。それがお前と私の来世の助けになるだろう。」と言って、ニンマ派のラマ・ロントンの所に向かわせた。

ラマ・ロントンのところでの修業はミラレパに成果が上がらなかった。ラマ・ロントンはミラレパをインドで修行を積んできたとされるマルパのもとで修行するようにと推薦してくれた。マルパはインドの高名なヨガ行者ナローパの弟子であった。

マルパは直観力によって霊的な繋がりのある大事な弟子が自分を訪ねてくることを知っていた。マルパはミラレパが黒いカルマを沢山抱え込んでいることを知って、このカルマを消滅させるには並大抵の方法では出来ないと考えた。

カルマを解消させるために無理難題を押し付け、何度もミラレパを絶望の淵に追いやった。どんなに、ミラレパが瞑想の伝授を求めても、カルマの解消を優先してマルパは教えを与えなかった。

ミラレパの最初の難題はマルパの息子の為に丸い家を作ることだった。「これを完成させたら瞑想を教える。」とマルパは言った。途中まで出来るとマルパは「考えが変わった。」とミラレパに言って、「建築に使った石は全部元あった所に戻せ。」と命じた。次に半月形の家を作るように命じた。半月形の家も半ばまで出来ると、「この家は善くないから壊すように。」とミラレパに命じた。マルパはその時酔っていたのだと釈明し、今度は密教行者にふさわしい三角形の家を建てるようにミラレパに命じた。

三角形の家が3分の1ほど出来上がった時、再びマルパがやってきて「誰がこんな家を建てろと言った。もし、わしがお前にそんなことを言ったとしたら、わしはまともではなかったはずだ。」とミラレパに言い、今度は九層建ての四角い塔を建てるように命じた。何としてでも教えを授かりたいと苦悩するミラレパの背中は労働によって傷だらけとなり、傷は化膿して痛々しい姿になっていた。

四角い塔が完成しないうち、ミラレパは他の人がマルパから教えを授かるときに、こっそり紛れ込んで教えを授かろうとした。その時マルパから酷く怒られて絶望のどん底につきおとされた。

それを見かねたマルパの妻であるタクメマは、マルパの一番弟子であるラマ・ンゴクパに主人に変わってミラレパに法を授けるように頼んだ。法を授けられたミラレパはいくら瞑想しても効果が現れなかった。ンゴクパのもとに師匠のマルパから「邪悪な人間であるミラレパを師匠のもとへ戻すように」と手紙が来た。師匠のもとに戻されたミラレパは、師匠から無視され続けた。絶望のあまりミラレパが自殺を考えていた時、マルパの息子の成人のお祝いが催されることになった。その時、ついに教えを授ける時がやってきた。祝いの席の主賓はミラレパであり、ミラレパにマルパから灌頂がおこなわれた。

マルパは言った「私の息子、お前に初めて会った時から、私にはお前が特別な弟子だと解っていた。お前に建てさせた家は四大元素と四種の仏陀の行為を象徴している。あの苦行のおかげで、お前の障害になっていたものは全て消えた。さぁ行って孤独な瞑想行に入るのだ。」

その後、ミラレパは各地の洞窟で孤独な瞑想を続けた。食べ物が無くなった時、イラクサで命を繋いだ。イラクサだけしか食べなかったのでやせ衰えた身体の皮膚の色も緑色になったと伝記では伝わっている。ミラレパは深い瞑想によって自分の体をどんなものにでも思いのままに変化できるように感じた。ミラレパは鷲になって実際に空を飛ぶことが出来るようになった。

ミラレパの物語はダイジェスト的にまとめるのは困難である。ここに書いた話はミラレパの物語のほんの一部にすぎない。伝記の内容はもっともっとエピソードが豊富で面白い。是非、皆さんに伝記を読んでもらいたい。

ここで私がミラレパの物語を持ち出したのは、「瞑想法の伝授というものは安易に伝えてはいけないのかもしれない。」と言いたかったからである。弟子に悟りへの渇望があって、条件が整ったときに師匠が慎重に師資相承で教えるべきものであるというのが伝統的な立場なのである。

別の考え方として、現代は情報が広く開示されている時代である。「原爆や水爆の作り方は盗まれると大変なことが起る可能性があるが。モークシャに至る方法が盗まれても人類に何の危害も与えない。モークシャに至る方法が広まれば世の中が平和になる。日本からプレクシャ・メディテーションを学びにインドに来られた皆さんは、しっかり学んでいって日本にプレクシャ・メディテーションを広げてほしい。」とムニ・ジャイ・クマール師は言われている。

私はクラスで実際に瞑想を教えるということを通じて、『学びにくる受講生から逆に教わっているのだ。』という立場、スタイルをとっている。インターネットを上手に使いこなすことが出来るプレクシャ仲間の皆さんは、オンライン瞑想によってプレクシャ・メディテーションを広げる活動に積極的に取り組んでほしい。そして、私が説くリアリテイ重視も参考にして、瞑想法を上手に伝える工夫をしてほしい。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2020/6/30からの転載です)

 

コラム[自己防御の砦]

インド西部、グジャラート州・パリタナと云う町にシャトルンジャヤ山がある。シャトルンジャヤとは勝利の扉と云う意味で、山の頂上稜線に城塞都市のようなジャイナ教山岳寺院群がある。イスラム教の侵攻に対してジャイナ教徒が防御するために山岳寺院を造ったと云われている。非暴力・他と争わないジャイナ教徒が砦を作って武器で敵と戦うことはないが、亀が甲羅の中に首をすくめるように、ヤドカリが貝殻の中に閉じこもるように無抵抗非暴力の防御線にすることを目的に造られたのかもしれない。私はここの地球離れした異星に建てられているような不思議な外観の寺院建築群に魅せられて、1989年、2000年と2回訪れている。

防御とは何か。

今も昔も人類社会に争いが絶えない。商業活動や経済活動は見方を変えればライバルとの競争、戦争である。ライバルとの争いに敗れれば企業は立ちいかなくなり個人は生活の為の基盤を失いかねない。経済活動では今、勝者であっても何時、敗者になるかわからないので人の心は不安で一杯になる。

近年の日本経済は繁栄の頂上に登ってしまったのではないか、後はいかに上手に下山するかという理論と方法を考えなければならない時期にきているのではないかと思う。だが今でも、もっともっと便利に快適にと商品開発や経済活動にライバルと鎬を削ることが止められない。世界中で不況感が高まりライバルとの競争も激しさを増している。激しい社会情勢の変化に合わせて、一生懸命努力して新製品を開発しても、不況による少ない需要の奪い合いで利益も出ない。あくせくした気持ちで、長時間奴隷のように働きライバルと争っているのが今の人間社会ではないのか。人間社会の中に天国も地獄も修羅界もある。

怠けることが出来ない修羅界のような争いの社会に嫌気がさして、解脱の境地に救いを求め南伝仏教やジャイナ教に出家しても、それは社会からの逃避ではないのか?出家集団は怠けもの集団ではないのか?との疑問が起こる。全ての人が出家して修羅界から逃避できるわけではない。出家が少数であればその人たちを大多数の人で支えることはできる。私は先進諸国の人と発展途上国の大多数の人類は修羅界に陥っているのではないかとおもっている。仏陀は争いを止めよと両手を胸の横で前方に掲げられた。ジナは非暴力・不殺生を第1の戒律とした。それでも人類は争うことを止めず今なお嫉妬、悲しみ、怒り、不安、絶望で苦しんでいる。

どうしたら俗生活を続けながら、修羅界から遠ざかれるか、敵の攻撃から身を守ることができるか、それにはむさぼり心を止めることであると思う。自然に与えられる以外のものは取らないということであり、他の人を陥れたり、騙したり恨みをかうようなことをしないことでもある。また足るるを知るということを実践し、むさぼり心にたいして塹壕を築くことである。他の人の価値観が自己中心的でむさぼり心に占められているようならそのような人とは争わないことである。少ない物を分かち合い、互いを尊重して譲り合えば調和に満ちた平和な人間界、地上天国ができると思う。

ブータン王国の価値観はグローバル化したアメリカ式自由貿易主義、自由競争経済主義ではない所に価値観を置いている。それは足るるを知るという幸せ感である。ブータンのように物質的豊かさでなく、足るるを知る所に本当の人類社会の平和があるような気がしてならない。努力することと怠けることの調和の中に人間らしい幸福な生活があるような気がしてならない。沖正弘先生は瞑想を中心とした出家主義の怠け心は許されないとし、冥想を中心とした全力投球の積極的な生き方である沖道ヨガを提唱した。私は日常生活を通じてプレクシャ・メディテーションと沖道ヨガの実践が修羅界からの離脱、争いから身を守る自己防御の砦であると思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/12/25からの転載です)

 

コラム[魂の休息・サマイク]

 生きている私たちの肉体内部にさまざまな感覚が生起している。その感覚が生命維持に最も重要な役割を果たしている。感覚神経を伝わる情報を中枢神経が受け取り、それに対して内分泌系や運動神経系に適切な指令を出すことで生命を維持している。感覚神経を通してもたらされる感覚と中枢神経が出す指令のやり取りが、肉体が生きていることの根本現象なのである。肉体に起る感覚は肉体だけでなく、肉体レヴェルのさらに内側にある電磁気体(テジャス体)、更にもっと深い潜在意識である原因体(カルマ体)から影響を受けている。カルマ体からの指令こそ最重要な行動指令なのである。そのために、私たちはカルマ体(汚染されたアートマン)を知る必要がある。カルマ体がどうなっているかを知り、コントロールし、浄化しなければ真の意味での健康も幸福も平和も自由もない。それがジャイナ教哲学の核心になっている。

 外部からの刺激が身体内部に入った時、身体内部に苦楽の感覚、好き嫌いの感情が起ってくる。気分が善いか、気分が悪いかの感覚が私たち生き物の支配者である。私たちは感覚に支配されコントロールされていると言っても過言ではない。起ってくる感覚の制御は難しいので、感覚によって起る感情が動機付けになって、私たちは行動せざるを得なくなる。生きているとは五感を通して感覚を引き入れていることであるし、その感覚がもとになって行為・行動を起こし、様々な原因物質を引き寄せ、私たちの個性となるある種の汚染(思考や行動の癖)を引き寄せている。

 日常生活の中で私たちは様々な活動・行動・行為を行っている。私たちは生きるために生活の為になにがしかの行為をしなければならない。食べること、排泄すること、眠ること、考えること、話すこと、歩き移動すること、仕事をしてお金を得ること。そのお金で家族を養い、子供を教育し、住まいを整え、生活に必要なものを購入している。そうした行為のほとんどが肉体維持の活動である。

 そのように行為している時、私たちは無意識のうちにネガティブなもの(アートマンを汚染するカルマ)を集める活動をしている。その活動のほとんどが肉体の為にはなっているが、アートマンの為になっていないし、心にとって大きなストレスになっている。そのことに気づいた先人はなるべく活動しない、行為をしない道を選んだ。

 南インド・バンガルールの近くにあるジャイナ教の聖地シュラバナベルゴラには二つの花崗岩の岩山がある。高い方のヴィンデヤギリの頂上に、10世紀後半、ジャイナ教信徒が花崗岩を削り出した高さ18mのバーフバリの立像が立っている。バーフバリは無行為を実践するために12か月を何もしないで只、一か所に立ち続けた。同じ場所にずっと立ち続けたので、両足にはつる草が絡みつき、足元には蟻塚が出来たと伝わっている。

 バーフバリは世俗的な全ての行為を捨て去って只、立ちつくした。何も行為しないことで善悪両方のカルマの流入を防ぎ、立ち尽くすという苦行を通してアートマンに付いたカルマの汚れを払ったのである。これが真の意味の断捨離であり、決して昨今の身の回りを片付け、不要物を捨て去る意味とは全く違う。アートマンに付いたカルマを浄化すること、そして新しいカルマを流入させないこと、それによって人間はモークシャという理想状態になれる。それが、今もジャイナ教徒の目指す理想であり生き方になっている。

 出家することで在家よりは世俗的な行為が少なくなり、新しいカルマを流入させることが少なくなる。それが出家する意味であり目的なのだ。日本の多くの僧侶のように出家しても自分の肉体のためだけに世俗的な行為をしているのは出家と云わない。

 私たち俗人は世俗的な生活を余儀なくされる。世俗的な生活の大部分は自分の肉体の維持や快適さの為に行動している。世俗的行動ではカルマの流入を防ぐことは出来ず新しいカルマをどんどん作っている。決して魂(アートマン)のためにはならないし、心にとって多くのストレスになっている。だから我々俗人はさまざまなストレス解消法が必要になってくる。テレビを見たり、人が多く集まる場所やイベントに出かけたり、野山など自然の中に出かけたり、旅をしたり、音楽を聞いたり、動物と戯れたりしている。一般的なストレス解消法が真のストレス解消にはならず、別の新しいストレスになっていることに気づいていない。

 体が疲れて寝たとしても頭の中に不安や心配事が起ってきて、ぐちゃぐちゃといろいろ考えて新しいストレスを生んでいることもある。食事中もべちゃべちゃ話したり、他のことを考えていて、食事を楽しまないで集中していないことが多い。このようなことの継続が心にストレスを与えていくのである。そして、新しいカルマを作っているのである。

 そのようなストレスから解放されて真の意味の休息が私たちに必要なのである。その方法がサマイクであり魂の休息と言われている。サマイクは古代から伝わるジャイナ教の修行法の一つである。

 サマニー・サンマテイ・プラギヤさんからサマイクについての話を聞いた。サマイクの中では仕事や家族など友人関係や日常的生活の全てから自分を切り離し、ある一つの行為に集中し没頭する。サマイクの時間は48分間と決められていて、それより長い時間あるいは短い時間はサマイクと言わず、サンバラーという。サンバラーは新しく流入するカルマの防止という意味がある。

 48分間のサマイクの中でやって良いとされる行為は瞑想すること、マントラのチャンテング、讃歌を歌うこと、聖典を読むことの4つのことだけである。

 サマイクをしている時は明日の心配もしなければ、先のことを計画することもしない。家族や友達のことも考えない。サマイク以外の行為は一切しないようにする。聖典を読むときにはそのことだけに集中する。一つのことに集中することでそれが休息になる。サマイクの集中の中で体を休め、心を休め、そして、はじめて魂を休めることが出来る。サマイク以外の休息は休息に見えて真の休息にならない。サマイクは今現在を浄化することと同義語である。今と云う時間を通して過去と未来まで浄化することが出来る。

 サマイクをするというのはアートマンの浄化であり、善いカルマを積んでいることになる。良いカルマを積んだかどうかは目で見ることは出来ないが、心の奥底で真の平和や静けさとして感じられる。サマイクをすることで今生でも善いことが起る。サマイクによって計り知れない力と恩恵が与えられるが、サマイクの間は完全なる非暴力でなければならない。水や火などに対しても、空気中の微生物に対しても影響を与えないようにしなければならない。

 現代は問題の多い時代であるから、一週間に一度でも良いからサマイクを行うと善い。それは皮膚から細胞に至るまでの休息になるし、魂の休息になる。今生というものを出来るだけ純粋にする方法でもある。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2020/8/14からの転載です)

 

コラム[あなたは何処に行きたいですか?]

私達が一番意識しなければならない自己認識は自分のカルマに気付き、カルマを自己コントロール下に置くことである。自分を知ることは難しい。潜在意識下にある夢や願いや希望を知ることは、本当の自分に出会うまでにしなければならない道程である。

ブッダはカルマを行為であると云った。

「生きるものは、おのれが行為のたくわえを持ち、その行為を受け継ぎ、その行為から生まれ、その行為に縛られる。行為は拠り所である。行為が卑しければ、生きざまが卑しくなり、行為が立派なら、生きざまも立派になる。私達は自分がいったい何をしているかに気付き、本当に行きたい所へいくための正しい行動をとらなければならない。」(ウイリアム・ハート著『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』春秋社)

あなたは何処へ行きたいのですか? 私は何処へ行きたいのだろう?
あなたの次の人生はどんな人生ですか? 私は何処に生まれるのだろう?

自分の歩む道が解っても、実際に歩かなければ、目的地(行きたい所)に辿り着かない。千里の道も一歩から、知識でなく実践である。目的地を明確に設定し、辿る道筋を知って実際に歩く者だけが行きたい所に到達できる。

おおぜいの人が目的地を見いだせないで、行きたい所が解らなくて、暗い夜道を迷っている。『勝利者の瞑想法』で迷える人に目的地とそこまでの道筋(地図)を示したつもりでいる。プレクシャ・メディテーションは知識ではなく実践である。実践することによって、迷いが無くなり、自分に自信がもて、行きたい所へ確実に道を歩いている実感がもてるでしょう。

人類の99%以上の人が暗闇で迷っている。迷っている人が迷っている事さえ気付いていない。人間ていったいなんだろう?皆さんはそんな疑問が起こりませんか?

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2011/6/20からの転載です)

コラム「勝利者の瞑想法」一覧

*各コラム名を押して頂くと、リンクが設定してある場合は、各コラムへ遷移します*

コラム:プレクシャ讃歌の魅力
コラム:あなたは何処に行きたいですか?
コラム:自殺を無くす道
コラム:瞑想をする、瞑想が起こる
コラム:生 カルマ 死 カルマ 生
コラム:所有と無所有
コラム:自己防御の砦
コラム:静と動
コラム:アヒンサー(非暴力主義)
コラム:活用する喜び
コラム:ジャイナ教僧侶がしているマスクの意味
コラム:動きを止める、動きが止まる
コラム:雰囲気と人格
コラム:エコ的生活は新しい非暴力運動です
コラム:非対立主義について
コラム:なぜ瞑想したくない、出来ない、解らないのか
コラム:カルマを無くす瞑想
コラム:ジャイナ教と仏教は兄弟宗教
コラム:別れと出会い
コラム:来世不動産
コラム:資格
コラム:言葉(言霊)の力
コラム:純粋とは何か
コラム:忍耐と無執着
コラム:呼吸の奥義
コラム:食の非暴力 俗なる立場から
コラム:憎しみと愛
コラム:魂を観る瞑想
コラム:魂について
コラム:何もしない行為
コラム:植物に心は有るか
コラム:絶体絶命、崖っぷち、究極の選択・ 非暴力と義務どっち
コラム:水は偉大なる教師であり、尊崇すべき恩人である
コラム:地球温暖化の脅威
コラム:悟りとは
コラム:無常と空
コラム:自分の生活と幸福感を何と比較するのか
コラム:仏教の源流・ジャイナ教との類似
コラム:瞑想登山
コラム:沖ヨガ冥想行法とプレクシャ瞑想
コラム:瞑想における緊張と弛緩
コラム:沈思黙考「おかげさまで」
コラム:瞑想・二つの流れ
コラム:完全なるリラックス
コラム:利己心と依頼心
コラム:身体とは何か
コラム:空の思想とマントラ
コラム:自己コントロールの道
コラム:哲学論争
コラム:ラーナクプールのジャイナ教寺院
コラム:『シッダールタ』を読んで
コラム:生かされて生きている
コラム:美しき日本刀と非暴力
コラム:アンベードカルと仏教改宗
コラム:無限の自由とは
コラム:生命が病気を創る
コラム:カラーセラピー・色彩療法
コラム:日本文化の精髄・露天風呂
コラム:カルマヨギ・二宮金次郎
コラム:皮膚と触覚と意識について
コラム:虫たちのこと
コラム:自分が自分の主人公になる
コラム:火とは何か
コラム:2017年3月19日(日) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演「ジャイナ教のカルマ論と輪廻転生」
コラム:アカルマへの道・モークシャとサンミャク・ダルシャン 2017年3月20日(月) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演
コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか
コラム:アートマン 魂 本当の自己とは何か
コラム:欲望とは何か
コラム:私のヴァーサナー
コラム:自分で自分の医者になる・無病の道
コラム:四つの身体と霊的色彩光
コラム:肉体はリサイクル品
コラム:人類のカルマ・人類存亡の瀬戸際
コラム:2018年インド瞑想研修の旅 印象記 その1 ラドヌーン編
コラム:2018年インド瞑想研修の旅 印象記 その2 聖地アルナチャラ編
コラム:南インドの聖なる篝火の山・アルナチャラ その1
コラム:魂の休息・サマイク
コラム:「迷い」と「無知」
コラム:徹底的に考える智慧の瞑想
コラム:限状態
コラム:洗脳と世界の分断
コラム:平等心と無差別
コラム:清らかな心
コラム病気の宗教哲学的な受け止め方

コラム[「迷い」と「無知」]



 瞑想は起こってくる物事を、正しく観て、正しく受け止め、正しく行動するために必要な、体と心と生活の清めだといっても良い。生きていると私達の身辺にはさまざまな出来事が起ってくる。その時、私達は正しいと思って間違ったことをしてしまったり、無駄なこと、余計なことをしてしまったりする。なぜそうなるかといえば洞察力が足りないからである。また、各人の潜在意識下に染みついたさまざまな癖が感情や思考に影響して、私達が物事を正しく観て、正しく受け止め、正しく行動することを妨げている。

 私達は先ず潜在意識下に根付いている自己特有の癖を知らなくてはならない。全ての人間は個性別である。過去の人間を探してみても、未来の人間を探してみても、現在の自分と同じ人はいない。なぜかというと、それぞれの潜在意識下に蓄積されている汚れ・癖が各自違うからである。この癖のことをインド哲学でカルマという。カルマという考え方はヒンドゥー教のヴェーダンタ哲学にもジャイナ教にもあり、初期仏教にもあった。

 私達は生きている限り生活しなくてはならない。生活の中で食べなければならない、住まいを整えなければならない、結婚して家族を養い子供を教育しなければならない。その上で安全に生きなければならない。そのような生活を通して考え行動するので、同じことを繰り返しているうちに潜在意識下に、受け止めること反応することの癖が身に着いてしまう。

 人間だけでなく全ての生きものは生きたくて生きているのであり死を恐れている。全ての生きものに感覚があり感覚の本質は苦楽であり、それに伴う感情の好き嫌いである。物質でなく普遍的なもの、死にもしなければ生まれもしない、変化もしないアートマンに、苦楽がインプットされると命となって生きものになる。人間の命に苦楽の感覚がインプットされている。苦楽が命を守っているから、この苦楽の感覚は制御することが極めて難しく、私達は苦楽の感覚に支配されているといってもよい。この苦楽に操られて私達は思考し行動し、その行動によって様々な汚れを命に引き寄せている。その汚れがカルマといわれるものである。生きている限り汚れ、つまりカルマの流入は止まらない。潜在意識下へのカルマの流入を極力減らしたい、蓄積したカルマを減らしたいということで出家思想が起こり仏陀もマハーヴィーラも出家になった。

 世俗的な生き方には必ず苦楽が一体になっている。苦を離れて楽はなく、楽を求めれば必ず苦がついてまわる。苦は嫌だと逃げれば無気力・怠け者となって楽も得られない。大楽を求めるならば困難な苦しみを覚悟しなければならない。世俗的には苦楽一如である。お金や不動産、骨董品など欲深く沢山所有すれば楽しいけれど、持つことでそれを管理したり世話しなければならない苦労が必ず付きまとう。結婚して家族を持てば楽しみと苦労が付きまとう。ペットを飼うことで癒しや慰め、無条件の愛の喜びを感じるが、飼い主は従者になり、ペットは王様将軍様になる。大いなる喜びは大いなる苦しみと一対になっているのが人間社会の出来事である。苦を離れて、楽だけの本当の喜びだけになるには、モークシャになるしかないのかもしれない。

 カルマは潜在意識下に根付いている汚れであるが心の癖といっても良い。受け止め方の癖であり、考え方の癖であり行動の癖である。私達の思考と行動を操っているのはその癖である。怒りっぽい人は怒りっぽいし、嫉妬深い人は嫉妬心が強く根付いている。解っちゃいるけどやめられないのは根付いた癖に支配されているからである。このネガティブな感情と思考の癖による支配を解いて賢者は無限の自由になることを求めた。それが生き物たちの最終目的地でありモークシャ、ニルバーナ、カイバリヤと呼ばれている。私達は目的地に向けて長い長い輪廻転生の旅の途上にある。旅路の終着点はカルマが完全に無くなってアートマンが純粋になった状態である。その時、人は内なる神と合一する。個我の夢から覚めて、真我となる。真我になり、汚れがないので純粋な無であり空である。これをアカルマと言いモークシャという。目的地はローソクの炎を吹き消すように消えてなくなる虚無の場では決してない。そこは、歓喜法悦に満たされた無限の自由と愛の場である。

 癖つまりカルマのことが理解できないと体と心と生活を清める本当の瞑想は出来ない。カルマによって汚染され癖づいた心のことをはからい心という。はからい心は自分は肉体だとしか認識できない無知から起こる。自分の存在を物質的な肉体だけとしか思えない心が利己主義、自己中心、自己本位のエゴを生んでいる。人間社会を良くないものにしている根本原因の一つがこのエゴ的心であり、自己に責任をみない依頼心であるといえる。個人の心からエゴ的心と依頼心を取り除くには因果律を理解し、輪廻転生と解脱への旅路を知らなくてはならない。物質的な物の見方しか出来ないから本当の意味での正しい、間違いの識別が出来ず洞察力が持てないのである。その状態を迷いといい無知という。

 自分が今どこにいるのか解らない目的地がどこなのかが解らないその状態を迷っているという。そして迷っていて現在地も目的地も見いだせない辿る道筋も見えないことを無知という。ほとんどの人間は無知で迷っていると言っても過言でない。目的地を明確に理解していて現在地も把握している、旅する道筋も解っている人が賢者であり瞑想の教師である。

 賢者は智慧を持っている。モークシャに至る道筋を理解し地図を持っている。その地図が瞑想のテクニックであり実践である。

 瞑想をすることで内側の自分と云う存在が何かと解り、外側の自分を取り巻く世界が解ってくる。因果律の仕組みや輪廻転生、物質的な物と非物質なものにたいする智慧がインスピレーションとして瞑想者にやってくる。

 賢者は過去・現在・未来という時空を超えた洞察力をもっている。その洞察力は無差別であり、損得を超越している。お金の使い方や生き方がアートマンに直結した生き方になっている。

 賢者はいま現在の恩恵は過去の行為の徳・善行がもたらしているのであり、現在受けている困難・苦痛によって過去の行為が清められていると解っている。今、善いというのは過去が悪くなっているのであり、今悪いというのは過去が善くなっているのである。このように善悪苦楽は時空を超えて一如なのである。これが無差別心である。未来を良くしたかったら幸せになりたかったら今、未来に向けて貯金するしかない。全ての物事は原因があり環境と条件が整うと起ってくる。これが自然であり宇宙の真実であり因果律という。因果律を完全にコントロール下に置きアートマンをアカルマにすること、それが瞑想行法というテクニックと実践である。テクニックと実践は道を歩くことであり、環境と条件を整えることである。やがて、することつまりテクニックと実践を超えて、起ることが自然に立ち現れる。それが本当の瞑想であり、瞑想の果てにすべての条件が整った時に最後に起ることがモークシャである。

 春に桜が満開になるように環境と条件が整えばそれは自然に起こる。全ての物事が起るためには環境と条件を整えてやればよい。そうすればどんなことも起こる。それ以外に幸せになる道はない。病も悩みも生死も苦楽も癖も汚れも感情も心も肉体も本来存在していないものである。我々はないものを在ると錯覚している。錯覚から目覚めなければならない。無知と迷いから目覚めなければならない。目覚めて純粋なるアートマン(ドラヴィア・アートマン)に直結する生き方をしなければならない。魂(アートマン)を中心にした生き方が目覚めた生き方であり洞察力がある生き方である。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2020/10/27からの転載です)

コラム[利己心と依頼心]



人類社会が混乱し争いが絶えない根本の要因は、人間の心の奥に巣食っている自己中心的なエゴの心と他者への依頼心である。この心を正し、取り除いていかないと個人として幸福になれないし、社会に平和が訪れることもないだろう。宗教が必要とされる理由は、その二つの心から起こる問題を取り除くためである。

世界中にある宗教の根本教義を要約すると、宇宙は神によって創られたものであるという創造神を認める立場と、宇宙は神によって作られたものではなく始めもなく終わりもなくただ無限の変化を繰り返しているに過ぎないという立場の二つに分類できる。創造神を認める立場の主な宗教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。一方、創造神を認めない立場が仏教やジャイナ教である。ただし、後世の変容した仏教やヒンドゥー教には創造神を認める立場もある。

創造神を認めると神様が人間の人生をコントロールしていると考えるようになる。それに対して、創造神を認めない立場の人間は神様にコントロールされているのではなく、自分の為した行為に支配されていると考える。自分の行った行為は潜在意識下の深いレベルに蓄えられていて、それが人間をコントロールしていると考えた。それが自業自得、自己責任、因果律の考え方、教えである。

創造神を認める立場の人は人間的に成長するために、そして神に救われる為には、他に対する奉仕、社会救済活動が必要と考えた。自分が他を救うことによって神様からの救い、恩寵を受けることができると考えた。神による救いと救われを理想とし、他に対する思いやりの心を育むことと愛の実践を重視した。この立場はエゴの心を取り除き自己中心的になることを防ぐ利点があるが、ともすると依頼心を育て他に依存するようになってしまう。責任を自己に見ないで他に転嫁する考えを育む。訴訟事案の多い社会となる弊害がある。良いことをすれば神に救われるが、悪いことをすれば地獄に落ちて劫火に焼かれると勧善懲悪を教える。近年の日本人の考え方から責任感が希薄になってきたのは、創造神を認める欧米文化の影響が強くなって来ているのではないかと私は考えている。

ジャイナ教や初期仏教は解脱(輪廻転生からの離脱)を理想として、輪廻転生の元である原因と結果の法則を断ち切ることを理想とした。今、自己に起こっていることの全ての原因は自己にあるとして、他を助けること、他から助けてもらうことに力点を置かなかった。このような考えはともすると他を突き放し、自己中心的になりやすく傲慢になってしまう欠点がある。良いところは、自分のことは自分でするという自主独立の精神が養われ、強い責任感を持ち、責任を他に転嫁しない考え方を育む点である。しかし社会的弱者に対して突き放した冷たい社会になる恐れがある。原因と結果の法則、魂の輪廻転生を説いて悪を為さないように教える。

社会救済を主とする活動は、自己を皮膚の外側に拡大していく方向性を持つ。人類救済のために菩薩行、愛の実践を行う。地上天国の創造を目標にし、神に救いを求める祈り、他を助けるための救いがその方法である。自己拡散的なこの方法を通して今まで自分でないと思っていたものが自分となる。他人が自分となり、動物や植物が自分になり、他物が自分になり、地球が自分になり、ついには宇宙が自分になる。

自己救済を目的にした修行は、自己の皮膚の内側に集中していく求心的方向性を持つ。解脱のために瞑想を通して徹底的な自己観察を行う。自己観察によって今まで自分だと思っていたものが自分でないと解る。体は自分ではない。心は自分ではない。怒りや悲しみ等の感情も自分ではない。悩みや癖や反応も自分ではないと解る。自分ではないものを取り除いていって最後に本当の自分が残る。不純物が混ざり合った金鉱石を精錬し純金にするように、不純物で汚染された水を清らかにして純水を作るように、魂の本質は純魂というべき純粋なものである。

世界中の宗教は大まかにどちらに重点をおいていかによって二つのいずれかのカテゴリーに分類できるので、今自分が学んでいるスピリチュアルな学びはどちらに属しているのか常に念頭に置いておかなければならない。そのことが分かっていないとスピリチュアルな学びが混乱して何がなんだかわからなくなる。創造神を信奉する宗教は神の偉大さを強調するために壮大な寺院を必要とした。バラモン教の時代には大寺院を必要としなかったが、ヒンズー教化すると壮大な寺院が建てられた。仏教も救いの概念が入って大乗化すると大寺院が立てられるようになった。ジャイナ教も祈りや救いが入ると壮大な寺院が建てられた。偶像崇拝する心に祈りと救いの概念が入る。初期仏教や初期ジャイナ教には救い救われの哲学は乏しく自力修行と自己責任が強調される教えであった。ジャイナ教のマハーマントラは救いを祈るものではなく、悟りを開いた先人に対する敬慕と感謝の想いを言葉に出している。

私は一般に言われている自己救済を目的にしたメディテーションを「瞑想」というのに対して、自己拡大していく社会救済的な活動を「冥想」と呼びたい。本当の瞑想とは、「瞑想」と「冥想」を合わせたものである。沖正弘先生は創造神を認める宗教と創造神を認めない宗教を統合してその全ての修行を総合的に行うことを冥想行法と表現された。パタンジャリのヨガ8段階に不足している社会救済的な面、愛や祈り救いの行法を加えてヨガの10段階を構成した。総合ヨガの10段階には冥想行法という段階はない。一般にメディテーションと言われている段階は統一行法(ダラーナ)と禅定行法(ディヤーナ)に相当する。ヨガの10段階全ての行法を含む意味合いを持つ冥想行法の中で最も重要なものは統一行法、禅定行法であると言っている。

沖先生の提唱されたヨガは総合ヨガであり、生活ヨガ、求道ヨガ、冥想ヨガである。そしてそれらを実践することが「生きている宗教」である沖ヨガ、沖道である。創造神を認める宗教と創造神を認めない宗教を統合し、その欠点を利点に変え、日常生活の中で実践していくとした宗教哲学である。

身体の動的訓練が素晴らしい沖ヨガと霊性の静的訓練が素晴らしいプレクシャ・メディテーションが融合したら、人類史上最高の身心訓練法になるのではないかと常々思っている。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/3/31からの転載です)

コラム[徹底的に考える智慧の瞑想]



 般若心経の冒頭は、観自在菩薩が般若波羅蜜多を 修行して、全ての物事は『空』なんだよ、との悟りに達した。との説明から始まる。空というのは、全てのものの存在は、自分自身を含めて、それ自身が自己完結的に独立して存在することはできない。ものごとは相対的に成り立っているのであり、様々な原因、環境、条件がなければ成り立たないとする哲学である。般若心経は空の説明であるが、諸行無常ということの補足説明でもある。空を説き無常を説明し執着するなと教えているのである。

 プレクシャ・メディテーションに出会い、その技法の一つアヌ・プレクシャを学んだ時、アヌ・プレクシャこそ失われた古代の瞑想法『般若波羅蜜多の修行法』なのだと解った。

 波羅蜜多というのはサンスクリット語でパーラミータという。意味は物事を徹底的に行うと云うことである。般若とはパーンニャであり意味は智慧の瞑想ということで、物事を客観的に論理的に理性的に考えることを意味する。

 シャカムニ仏陀の悟りは無思考型の瞑想ではなく、考える瞑想であったと伝わっている。仏陀は何を考えたのか。ブッタは因果律、原因と結果の法則を考えたのである。仏陀以前の哲学では原因があれば必ず結果が起ると考えていたが、仏陀は原因だけでは結果は起こらない、結果が起るためには環境や条件として『縁』が必要なのだと考えた。それが仏陀の悟りなのである。

 瞑想と云うのは一つには考えることを止めて、感じる心になりきることを意味する。心は働きであり機能であるが、その機能は二つに分けて説明できる。一つは企画することと思考することである。もう一つが知覚すること感じることである。知覚すること、無思考型の瞑想が本来の瞑想であるが、一つのものごとを一生懸命考えれば、それは瞑想になる。それが智慧の瞑想であり仏陀を悟りに導いた瞑想である。

 アヌ・プレクシャには二通りの方法がある。一つは本当のこと・真実とは何かと考えることである。この方法を沈思黙考と言い、考える瞑想である。もう一つが繰り返し、繰り返し自己暗示の善い言葉を潜在意識にしみ込ませることである。目的は共にアートマンを純粋にすること、潜在意識下に根付いた悪癖を取り除くこと、心と生活の清めを目指している。私たちは潜在意識下に根付いた癖によって思考や行動が支配されている。その支配の縛りを解くには、私たち自身が潜在意識をコントロールしなくてはならない。その方法がアヌ・プレクシャなのである。アヌ・プレクシャによって自分が自分の主人公になれる。

 アヌ・プレクシャは潜在意識の汚れ・カルマを無くす基礎的な方法であり、恐れや怒りの感情を少なくし心の状態を平和にする方法である。心の自由と平和の先にアカルマ(無業)になったモークシャ(解脱)がある。目的地に向けて道を歩くように、モークシャへの道を歩くことはアヌ・プレクシャを実践することを意味する。

 真実について考える・沈思黙考をする場合、何について考えるか、先ず考察しなければならないことは、諸行無常について徹底的に考え理解を深めることである。無常が解ると何事にも執着できない、何も所有することが出来ないと解る。無所有と無執着が解ると強欲がなくなり、欲望が減少する。欲望が減少すれば苦楽の感覚からの支配が少なくなる。他との争いが少なくなって、恐怖心が無くなる。恐怖が無くなって心が平和になる。心の平和がモークシャに続く道である。

 無常が解ると因果律や輪廻転生、アートマンに付いた汚れであるカルマが理解できるようになる。因果律やカルマ、輪廻転生が解ってくると、変化するものと変化しないものの理解が生じ、洞察力を得ることが出来る。洞察力が得られれば時空を超えたものの見方が出来るようになる。物事を時空を超えて観ることが出来れば自他の差別心が完全に消えて真の友好が得られる。友好な心の状態によって恐怖が無くなる。

 また、無常が解れば忍耐することができる。カルマが解れば忍耐できる。忍耐できればアヒンサー、非暴力と不殺生ができる。非暴力と不殺生の実践で悪いカルマが減少する。そして心が平和になる。

 無常やカルマ、因果律、輪廻転生、真実の自己、無執着、不都合なことの忍耐などは沈思黙考で対応し、無所有、無執着、非暴力、不殺生、あらゆる生き物との友好、恐怖心の克服、忍耐力の涵養、病気の克服、肉体の健康などは自己暗示の言葉の繰り返しが適している。

 全ての宗教が教える自己啓発の修行が、アヌ・プレクシャで出来る。プレクシャ・メディテーションの六通りの瞑想法にアヌ・プレクシャを加えることで、全体が上手に組み合わされた瞑想法システムとなっているのである。

 般若心経の最後の部分はマントラについての解説です。このマントラは偉大なるマントラである。叡智のマントラである。これ以上ないマントラである。世に比類なきマントラである。全ての苦しみを除くマントラである。それは真実で疑いのないことである。このマントラによっても智慧の瞑想と同じ悟りが開ける。そのマントラは次のようなものである。

ガテー  ガテー  パーラ  ・  ガテー  パーラ ・ サンガテー  ボーディ  スヴァーハー

歩こう歩こう悟りの道を  悟りの世界を目指そう  解脱に幸あれ   (坂本知忠の意訳)

 善い言葉やマントラを繰り返し唱えて潜在意識を変革する方法がアヌ・プレクの自己暗示法であるが、般若心経の最後の部分はこの自己暗示法を説いているのである。従来の般若心経の解説本はほとんどこの最後の部分の解説を省いている。中には最後の部分は付け足し部分であるから本来要らないものだとしている学者もいる。

 私はプレクシャ・メディテーションのアヌ・プレクシャを学んで般若心経の本当の意味がよく解った。そして、大乗仏教がどのようなものなのかの根本的な理解が得られたのである。ジャイナ教と仏教が本当に兄弟宗教なのだということも深く理解できたのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2021/1/5からの転載です)

コラム[自己コントロールの道]

ヨガとは何かとの定義は、ヨガの実践者がそれぞれの立場でいろいろな捉え方をしているので一様ではない。ある人はヨガとは結ぶことであると定義する。何と結ぶか「心と体を結び、自分と他を結び、神と自分を結ぶ」ことと定義する。また、ある人はヨガとは「本当の自分を求めての自己探求である」と定義する。ヨガとは何かを最初に定義した古代インドの文献『カータカ・ウパニシャッド』は「五つの感覚器官が、思考(意・マナス)とともにその活動を静止し、意識(覚・ブッデイ)も全く動かなくなったとき、人々は、これを至上の境地という。このように、諸器官を堅く抑制することを、人々はヨガとみなす」としている。ヨガ・スートラでは「心の働きを死滅させるのがヨガである」と説く。

沖ヨガではヨガの10段階を総合的に、生活を通して実践することを冥想行法と呼び、冥想行法だけがヨガの実践法と説いている。ヨガをどのように定義づけようとも、その目指すところは究極の幸福である。私たちが目指すところは南伝仏教の理想としているような、吹き消して無に帰し命が消滅してなくなることではないと思う。私たちは苦の消滅ではなく歓喜法悦に満たされる状態を求めているのだと思う。私はヨガとは「究極の幸福を得る自己コントロールの道」だと定義したい。

では、何をどう自己コントロールすれば良いのだろうか。

身体のコントロールなのか、心のコントロールなのか、呼吸のコントロールなのか、感情のコントロールなのか、一体何をコントロールすればよいのだろうか。

私たちが存在しているということは過去にも存在していたのであり、未来にも存在するのである。だとすれば今に集中し、今、なすべきことに最善を尽くすことだと思う。未来を良くするための自己コントロール、それがヨガだと私は考える。身体や心は瞬間、瞬間、変化するものであり、現れては消えてゆく幻のような存在である。時間の流れとともに変化してしまうので実体はなく、身体や心はそのような観点から無であるといえる。しかし、一方で内的な深いレベルで子供の頃からほとんど変わらない自己があることに私は気づいている。時間の流れの中でほとんど変らない自己、ユニークで個性的な自己、それがカルマの束縛を受けた真我に近い自己である。その霊的な自己をコントロールをすることが何より大切だと思う。ほとんど変らない自己があるから私達は良いことをなして悪いことをなさないようにしているのだ。

宇宙始まって以来、個々の存在は無数の体験と行為を積みかさねてきた。そうした時間の流れの中で原因となった行為の結果を受けて今の自己がある。その受けた結果としての今ある自己が、今、自己に起こっていることをどのように受け止め、反応し、行動したかが新たな原因となる。私たちが生きているとは、常に考え、選択し、行為しているということである。

今、まさに時空を越えた過去の原因が、条件と環境が整い自分の周りにあらゆる現象として起きている。私は自由ということを今まで誤解していた。自由とは業の束縛から離れること、アカルマ(無業)になることだと思っていた。完全なる自由とは確かに業の束縛から離れることかもしれない。それは、遥か彼方の目的地である。自由とは自己に現れて、押し寄せてくるあらゆる現象の中からの選択であり、それに伴う行為であると思う。それが霊的な自己コントロールである。私たちが生きているとき、さまざまな局面で、二者択一や選択を迫られる。そのときに何を基準にして選択するのか、身体や心の喜びか、それと
も未来に受け継ぐ霊的原因かである。未来に続く霊的な自己が受け継いでいくもの、それを生き方の判断、選択基準とする。それが自由への道であり真の意味の自由ということだ。何をしても良いというのが自由ではない。悪い原因を作らないということが自由ということである。

自分の身の回りに起こっている全てのことは必然であり、原因無くして起こることはありえない。外なる神様が気まぐれに処罰を与えるような偶然のことではないのだ、天網恢恢粗にして漏らさずの真意は自業自得、因果応報、善因善果・悪因悪果という意味である。そうでなければ道理に合わない。どんなことをしても死ねば帳消し、ご破算になるのであれば、悪事の限りを尽くすような権力者にとってこんな都合の良いことはない。

私たちが死んであの世に持っていけるもの、次の生で受け取れるもの、それは過去と現世でなした行為の原因だけである。現世での身体も、お金や財産も、家も、家族も、集めた美術品も、地位や名誉も持っていくことはできない。自分が未来に持っていけるもの、それは、原因としての行為、未顕現の結果である。何をしたかという原因だけが自己相続できるものである。

自分を助けるものも、自分を損なうものも自分自身であって、自己をコントロールしている外なる神のようなものは存在しない。賞罰は神が与えるものではない。賞罰は自己が自ら相続するものである。神様が助けてくれる、神様が恩寵を与えてくれると思うから、悪業を正当化するような考えが起こって、自爆テロ等の悪業が絶えないのである。

私たちにとって近未来の解脱は無理であっても、幸福な未来を創り出すことはできる。それが、真の意味の自己コントロール法で今に生きることである。今に生きるとは、今の自己に結果として起こっていることに対して選択を間違えないように正しく行為することであり、なすべき時になすべきことを間違えないようにすることである。

生き通しの人生を考え理解しないと、正しく感じ、正しく思い、正しく考え、正しく行うことはできない。来世や輪廻転生を信じなければ、心の平安や幸福など望むすべはないだろう。生き通しの人生という倫理哲学が人類社会に共有価値観として定着しない限り、世界に平和が訪れないだろう。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2015/10/25からの転載です)

コラム[極限状態]

 スマホやパソコンで何でも出来る大変便利な時代になった。通貨という数字さえ持っていれば、食べ物も衣類も住まいも安全もインターネットで居ながらにして通信機器の画面を見て手に入れることができる。50年前には考えられなかったことが日常になり、当たり前の生活になった。

 生活が便利で安易になった半面、私たちの生活はリアリテイを失い、バーチャル化している。私達は皮膚感覚(触覚)を使うことが少なくなり、視覚感覚に頼ることが多くなった。また、肉体を通しての濃厚な体験が少なくなって、目覚めていて眠っているような人生になりつつあるのかもしれない。

 そのような私達が今、何かの事情で絶海の無人島に漂着してしまった。あるいは人里から数百キロ離れたシベリアのタイガの中に投げ出されてしまった。他の人間と接触できない環境や理由で、孤独に生きていかなければならなくなったとき、私達は知恵を絞って生き抜くことができるであろうか?スマホもパソコンも役に立たない、水も食物も雨露しのぐ住まいのための資材も手に入らない極限の状態である。そんな地獄のような極限状態を希望を失わず生き抜いた日本人がいた。

 八丈島の南290キロのところに鳥島という火山島がある。直径2.9キロ程の小さな島である。鳥島は海底火山の頂上部だけが海面から突き出た島で、周囲をぐるりと断崖絶壁に囲まれているので船で近寄ることもできない険しい島である。木は一本も生育しておらず、茅のような草ばかりの島である。この島に江戸時代、たびたび漂流船が流れ着いた。その漂流者たちのサバイバル術と奇跡の帰国までの物語は感動と涙なくして読むことはできない。

 有名なのは井伏鱒二の小説『ジョン万次郎漂流記』であるが、彼ら5人の漂流は幸運にも近くを通りかかったアメリカの捕鯨船に救助されたので5か月間で済んだ。それは天保12年(1841年)万次郎15歳の時だった。万次郎はその後、アメリカで見聞を広め英会話に熟達して、幕末の歴史上の人物になった。

 ジョン万次郎らが漂着、救出された時を遡る56年前、天明5年(1785年)土佐の長平他3名が鳥島に漂着した。彼らは島に群がっていたアホウドリを捕まえて食料とした。火打石を持っていなかったので火食できず、アホウドリの生肉と干し肉を主食とした。また磯で貝を拾い、魚を釣って食料とした。彼らの住居は先人の漂流者が使った洞窟だった。鳥島には長平達以前にもたびたび遭難者が漂着していた。運よく帰国できた者がいたが病気になって島に歿した人も多かった。
長平の仲間3人は漂流から2年経たないうちに次々に病死して、長平一人きりになってしまった。

 鳥島は今も度々噴火を繰り返す活火山であり、流れる川もなければ湧き水も無かった。漂流者たちは一番、水に困った。穴を掘り石灰で固めて雨水を貯めて命をつないだ。鳥島の環境は例えるなら地獄の燃え盛る火の山であり、針の山であった。一人きりになった長平は仲間の死を弔い、遺言を伝える使命があり、何としても生国に帰還しようと思った。自分が生きるか死ぬかの瀬戸際にあっても、生きていることに感謝し、不幸な境遇を積極的に捉えて、創意工夫をこらし生きぬこうとしたのである。

 長平が一人っきりになって1年半ほどたったある日、天明8年1月29日(1788年)大坂の備前屋亀次郎が荷物運搬のため、肥前の船主からチャーターした船の乗組員11人が鳥島に漂着した。長平は彼らと合流したことで孤独から救われた。さらにその2年後、寛政2年(1790年)日向の国志布志の船一艘6人が鳥島に流れ着いた。彼らは本船を捨て小舟で上陸したが、小舟は荒波に翻弄されて座礁し粉々になってしまった。わずかに回収できたものは道具類や船材の一部だけだった。6人が加わったことで漂流者は合計18人になった。

 天明8年から5年の間に大阪船から2人、志布志船から2人の死者が出た。残った者14人は座して死を待つより船を造って島から脱出しようと決心した。運よく生き残ったものの中に鍛冶や船大工の経験者がいた。志布志船から回収した鋸や斧、キリやノミなどもあった。前の漂流者が洞窟に残した船釘もあった。彼らは90センチ程の船の模型を作り、必要とする木材の大きさや数量などを計算した。島のどこを探しても船を造るような木は生えていなかった。彼らは神仏に祈って島に流れ着く流木を集めた。運よく船底になる大きなクスの木の板材が流れ着いた。いざ造船作業にとりかかってみると、やはり道具が足りなかった。彼らはふいごを造って船釘を溶かし、斧の頭を打鉄代わりに使って金槌や釘抜を造った。古い鉄の錨を海岸から引き上げ不足していた船釘を造った。5年の歳月を費やして船は完成した。島の中腹の造船場から船を海岸までおろす道造りが困難を極めた。忍耐と創意工夫で船を海に降ろし、ついに帰国の日を迎えた。

 彼らは島を去るにあたって、後に続く漂流者のために鍋、火打石、道具類、ふいご、船の模型を箱に収め、漂着から脱出までの経緯の書置きを、後に続く漂流者のために洞窟に残した。彼らはまた、仲間や無縁仏の骨を集めて船で持ち帰った。遺骨は八丈島の宗福寺に埋葬されたという。

 鳥島をたって5日後。彼ら14人は寛政9年6月13日、青ヶ島にたどり着いた。鳥島での漂流生活は土佐の長平:12年4か月、大阪船の9人:9年5か月、志布志船の4人:7年5か月であった。

 長平らの漂流物語は吉村昭によって小説になった。新潮社1876年刊『漂流』である。

 どんに過酷な境遇に投げ出されたとしても創意工夫努力する力、それが真の丹田力である。丹田力は肉体の力ではなく精神的な力である。その力は机上の学問や知識ではない深い経験によって生まれてくるのだと思う。その人の人生は経験するためにある。だとすれば、生活体験の仮想現実化が進むことは精神的レヴェルの発達において善いこととは言えない。近年、鬱や適応性障害、潔癖症など軽微な精神疾患をもつ若者が増えているのも、このような生活のイージーさと仮想現実化が影響しているのかもしれない。

 私は若いころからの登山の趣味や海外旅行を通じてリアルな体験を沢山してきた。好んで辺境の国々を旅し、様々な場所や環境の中で寝てきた。国内では雪山で遭難しかかって雪洞に寝たこともある。雨でずぶ濡れになって、南アルプスの大きな滝の落ち口でビバーグしたこともある。山の中で一人で野宿したことも沢山あるし、廃屋や山のお堂、洞窟に寝たこともある。数軒しかない山奥の農家に泊めていただいたことも十指にあまる。テントや山小屋に寝たことも数多い。17回に及ぶインドの旅では南京虫が出るような安宿からマハラジャの宮殿をホテルにしたものまでいろいろ宿泊経験した。若かったころ秩父鉄道の終着駅のトイレに寝たこともあれば、会津の山村の共同浴場の脱衣場に寝たこともある。関東、甲信越、東北の温泉宿に泊まった経験は数百件になる。同世代で私のようにバラエティーに富んだ所に寝た体験を持つ人はきわめて少ないとおもう。高齢になった今でも私は風変わりなところで寝たいと思っている。何処でも、どんな状況でも寝ることができる適応性を身に着けることは、私の趣味のようなものになっている。

 今回の人生における私にとってのリアルな体験とは、仕事や家庭の事情で引っ越し出来なかった自宅から離れて、さまざまな場所に寝ることだったような気がする。鳥島の漂流者達、グァム島の横井庄一、ルバング島の小野田少尉、第二次世界大戦の生き残り、シベリア抑留帰還者達などの極限状態の体験には到底及ばないものの、平和な時代にさまざまな場所に寝るという私の工夫はリアリテイある生き方の実践だったように思う。その道程で私はヨガと瞑想に出会った。瞑想はバーチャルなものではなく、時間の無駄遣いでもなく、人間がしなければならない最重要課題であり、真の深い体験を伴うものなのである。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2021/5/31からの転載です)