どのように現象世界を認識するか、どのように本当の自分を認識するのか
『この世の中にあるもの全ては、単独では存在することが出来ない。全てのものは相対的な関係と御縁によって存在できるのである。』と見抜いたのは、他ならぬゴータマ・ブッダである。仏陀はまた、『天上天下唯我独尊』と唱語し、人間の本性は一人一人が全て、神のような尊い価値ある存在なのであると教えた。この二つが、極めて重要な考え方・思想であると私は気づいた。しかし今でも私は、身体の病苦や物事が思い通りに進まないなど、心の悩みに引っかかって、自己の本当の尊さを見失いがちである。
狂った世界と国家指導者
今、世界中で起こっている経済・社会情勢のことを考えてみよう。これが、まともな人間社会とは到底思えないと感じている人も多いだろう。自己中心的な思考と欺瞞と強欲の極みと思われるのがロシアによるウクライナ侵攻であり、差別と恐怖と憎しみの連鎖がイスラエルによるパレスチナに対する殲滅戦である。
世界の国々を見回せば、自国優先で他国はどうなってもよい、とのエゴイズム的な傾向が強まっている。大国は強大な武力で国際法を無視し、近隣の弱小国を脅迫したり、嘘のことをあたかも本当のように既成事実化し、力ずくで資源や領土を奪おうとしている。
アメリカのトランプ政権はパリ協定を離脱して、地球温暖化危機を嘘だと云って欺瞞に満ちている。北朝鮮の独裁体制も漫画のような話なのに、実際に今、現代に起こっていることである。
タイと国境を接するミャンマーの無法地帯、中国人マフィアが大規模な特殊詐欺組織を作って、多国籍の外国人を1万人以上、強制労働させていた。なぜ、この様な不正、不義が次から次に起こってくるのであろうか。
物質文明が発達して、私達は便利で快適な暮らしができるようになった。しかし半面、便利なものがもたらす危険性や人間の欲望の増大と自分さへ良ければよいというエゴの心も増大している。生成AIがもたらす利便性の裏に潜む、極めて有害な一面も見落とすことは出来ない。
なぜ人類社会は狂ったのか
この様な世界情勢を顧みるに、何かが狂っているとしか思いようがない。人間には生存欲と自己拡大欲、自由欲がある。私達の内部深くに、今よりもっと愉しく、もっと楽に、もっと快適に、もっと安心して暮らしたいとの根本欲が、好き嫌い・苦楽の感覚として魂に結びついてしまっている。
その、もっと、もっと、と云う願望と欲望を仏教では渇愛又は無明と云う。好き嫌い・苦楽の感覚は怒りの根源でもある。ジャイナ教哲学ではカルマであるが、中でも怒り、エゴ、傲慢さ、欺瞞、強欲はカシャーイに相当する。
それらの欲望は人類社会を発展させる原動力になっているが、一人一人の人間の中にある自己中心的なエゴ、自分さえよければ他はどうなっても良い、と考える人が多くなったので、人類社会に不幸と危険が増大しているのではないかと思う。
自分をどうみるか、世界をどう見るか
華厳経の中に『重々無尽事々無礙の法界』と云う考え方がある。世界中の全ての存在は人間だけでなく、お互いに全ての存在を原因として、御縁として欠かすことができない結び付きによって存在している。つまり世界中の全ての物事を因縁的に含んでいるから存在出来るのである。
このことを言葉を替えれば一即一切、我即全宇宙、自己不異他、他即自己、自他不二である。世界を変えようと思ってもなかなか変わらない。ではどうすれば良いのか。自分を変えれば良い。自分を善い方向に変える人が増えれば増えるほど世界は善くなるだろう。自他一如だから。
その大前提が自分を正しく認識し、世界を正しく認識することにある。世界中の人間が自分を正しく見ていない、世界を正しく見ることができていないから戦争や苦しみが無くならないのだと思う。
一粒の米 奇跡の地球、宇宙の始まりまで縁が繋がっている
私は今までに自分を正しく見る事についてはジャイナ教の魂の哲学として、幾度となく語ってきた。自分を正しく認識するには、物質的な事と非物質的なことが理解できないと、正しい認識は得られない。本当の私はアートマンである。アートマンは非部質のものである。非物質だから探しても見つからない。見つからないから無いのかと云えば、そうではない。
非物質だから不変であり、生滅しないのである。清くも無く、汚れてもいない・究極の清らかさ・畢竟の浄、と言われるものがアートマンであり、私たち生き物の魂は『畢竟の浄』なのである。畢竟の浄にカルマである汚れがついて、輪廻する生存になっている。正しい認識が無ければ正しい見解は生まれない。
今回は世界の正しい認識の仕方について少し話してみよう。目の前に茶碗いっぱいに盛られた御飯がある。その御飯によって私は生きることができる。一粒の米が私の所に来るまで、どれだけの御縁が有ったのだろう。
家内が米を買った店の人がいる。店までトラックで運んだ運転士さんがいる。トラックが無ければ店に米を運ぶことは出来なかった。そこに、トラックを作った大勢の人が御縁として関与している。トラック一つ一つの部品を作った人々、その背後にある無数の人々。ガソリンが無ければトラックは動かない。そのガソリンを採掘した人々、精製した人々、海上を運ぶためのタンカー、タンカーを作るために関与した人々、ガソリンを貯蔵するタンクに関わった人々もいる。米を流通させている業者、生産者。用水路を引き、田圃を開いた過去の人々、ご先祖様。品種改良に努力した先人達。肥料を与えたならば、その肥料を作ったり運んだ無数の人々。耕作道具や機械を作った無数の人々。
土が無ければ、水が無ければ、地球そのものが無ければ、月が無ければ、太陽が無ければ、宇宙そのものが無ければ、一粒の米だって存在できないのである。
それらは全て御縁である。この様に考えれば、私と云う存在は、無限の過去から現在に続く、無限の御縁の連鎖の行きつく先に、無常の存在として存在していることが理解できるだろう。全世界によって、私と云う存在が支えられていることが解るだろう。さすれば感謝という気持ちしか起こり得ないはずだ。自分だけよければよい、他人はどうなってもよいなどとの考えは起こらないはずだ。
私が有るから世界がある、私が無ければ世界は無い。
世界があるから私がある、世界が無ければ私は無い。
我即全宇宙、宇宙我不二、宇宙我一如。
この様に現象世界を認識出来たなら、それが正しい認識だろう。正しい認識によって、自己と世界を正しく見ることができる。正しく見ることができれば、正しく行動ができるし、正しい生活となる。
正しく行動出来て、正しく生活できれば、やがて自分が自由に平和になるだろう。より多くの人が正しい認識を獲得して、行動と生活が正しくなれば、世界も正しくなって、争いごとが少なくなり平和が実現するだろう。人類の総和が人類社会を作っているのだか、大勢の人々が、変化して精神性が高まれば、狂った人類社会は是正されるに違いない。そのために私達は瞑想が必要なのである。私は世界平和の為に共に瞑想する仲間を増やしたいと願っている。
<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2025/3/27からの転載です)