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コラム:仏陀はなぜ魂について説明しなかったのか

インドには古代から続く宗教的流れとして、バラモン系(アーリア文化系)の
流れと、シュラマナ系(土着的クシャトリヤ系)の流れがあった。バラモン系
宗教の修行の主たるものは苦行であり、シュラマナ系宗教の修行の主たるもの
が瞑想であった。そしてシュラマナ系の宗教の中に輪廻転生思想が伝わってい
た。BC8世紀後半、ウッダーラカ・アールニーなどの思想家の登場によりバラ
モン系宗教の流れとシュラマナ系宗教の流れに思想的な合流が起こった。苦行
と瞑想、自業自得と輪廻思想が結びついて、その後、インドに発生した宗教を
特徴付ける解脱思想が起こった。解脱思想が広まることで出家が流行した。そ
のような時代背景があって、輪廻からの解脱を求めて、BC6~5世紀ごろ、ジ
ャイナ教の開祖マハーヴィーラと仏教の開祖ゴータマ・ブッダが登場した。

仏陀はマハーヴィーラと同じく、シュラマナ系の出家修行者であった。出家し
てから仏陀はアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人のも
とで瞑想修行をしたが、悟りは開けなかった。仏陀は瞑想修行を捨て、次に苦
行の道に入った。仏陀の苦行は断食行と止息行が中心だったと伝わっている。
しかしどんなに苦行をしても悟りは開けなかった。苦行を止めた後、仏陀は考
察瞑想を行って、徹底的に原因と結果の法則について考えた。仏陀以前のカル
マ論は原因があれば結果は必ず起こるというものであったが、仏陀は原因と結
果の間にある縁としての条件や環境が重要な因果律の要素であることを発見し
た。『いくら原因があっても環境や条件が整わない限り結果は起こらない。』
と従来のカルマ論を修正した。また従来の輪廻説では欲望が原因となって輪廻
が起こると考えられていたが、たんなる欲望ではなく、もっと深いところにあ
る人間としての根本的な生存欲にあることを発見した。この二点の新発見が従
来の宗教哲学になかったものであり、仏陀の悟りの核心だと考えられている。

仏陀は苦行は何の意味もないとして排除した。仏陀は 『人間として正しい生
き方はどうあるべきか』 について考察したときに、ジャイナ教のように魂を
強調してしまうと極端な非暴力、不殺生の考え方に陥り、人間としての現実生
活に合わなくなると考えた。ジャイナ教では全ての生き物に魂があり、皆生き
たいと思っているのだから、人間生活を脅かす害虫の命でさえ奪ってはならな
いとした。ジャイナ教哲学では植物にも魂があるのだから、農業は出来ない。
実ったコメや麦を刈り取ることも出来ないし、種籾は生きているのだから煮炊
きすることは出来ないことになる。雑草を抜くことも樹木を伐採することも出
来なくなる。輪廻の中の生き物は皆、魂を持っているという考え方だ。その考
えは真実かもしれない。しかしそうだとすれば非暴力を徹底して、自分が生き
るためには殺生を他にしてもらわなければならなくなる。そういう行為は卑怯
だという批判になる。だから、仏陀は「あまり魂、魂と言うなよ」との立場を
とったのだと思う。そして苦行を排して苦楽中道を提唱したのだと思う。

仏陀が魂についてあまり語らなかったので、「ミリンダ王の問」(紀元前2世
紀頃書かれた仏典、最初に無我説を説いた。)などの論調に見られるように、
後の世の仏教徒は仏陀ともあろう人が魂を語らなかったのだから、きっと仏
陀は魂はないと説いたのだろうと解釈して、仏教が無我説(魂は無い)になっ
てしまった。

仏陀は魂についてよく理解していたと思う。なぜなら、仏教の根本思想は因果
律の教えであり、輪廻転生からの解脱がその中心思想であるからだ。仏陀の悟
りは「縁起の法」として知られる。縁起の法とは原因と結果の法則であり、
「カルマによって輪廻転生が起こっている。」との思想はジャイナ教やヴェー
ダンタ哲学とほぼ共通のものである。

仏陀が魂について無記(言及を避ける)の立場をとったので、本来、非我(体
や心は私ではない)であったものが後の仏教徒に無我(魂は無い)と解釈され
てしまった。そこで、行為の結果を受ける輪廻の主体があいまいになって、仏
教が他からの論争攻撃の対象になってしまった。仏陀在世の時は仏陀は形而上
学的な論争は無駄だとして論争を避けることが出来たが、仏陀亡き後はその攻
撃に対して苦し紛れの理論武装をしなければならなくなった。そんな理由で、
仏教理論が複雑化し解りにくくなり、今に続く混乱のもとになったと私は推察
している。無我説では自業自得や因果応報の説明がつかないので、輪廻転生説
がなりたたなくなるからだ。

仏陀は現実主義者であり実用主義者だった。一方、マハーヴィーラ・ジナは極
端な苦行を通してカルマを根絶し悟りを開いた厳格主義者であり理想主義者だ
った。ジナは魂を重要視して決して他の命を奪ってはならないとした。ジャイ
ナ教は非暴力・不殺生、無所有・無執着を徹底することを悟りに至る最重要課
題にした。絶対非暴力だから、他の命を奪うことはない。他と争うこともない。
自分の命が奪われようと他の命を害することはない。それがジャイナ教の理想
主義である。ジャイナ教は宗教の名のもとに他の宗教と戦争したことのない唯
一の平和宗教といってよい。仏教にも非暴力の考えがあるが現実主義をとるの
で非徹底にならざるを得ない。ジャイナ教の無執着は無所有と同義語であり、
魂の清らかさに重点をおいて、物質的なものや肉体的レベルのもの、快楽原理
に従う世俗的なもの等の価値に執着するな、との教えのことである。人は家族
や財産や地位や名誉や知識など、自分のものだと思うものに、どうしても執着
しがちである。その執着を手放せ、つまり所有してはならないと戒律で厳しく
制限した。ジャイナ教は執着しない所有しないことで輪廻の原因となる欲望か
ら離れようとしたのである。

仏陀の無執着は無執着にも執着するなとの教えであって、ジャイナ教の無執着
とは少し意味が違う。仏陀は苦行を排して苦楽中道を立てた。中道とは世俗的
な安楽な道と苦行的な厳格さの中間、つまりいい加減にしたのである。中道と
は厳格な人から見ればハードルを下げた堕落に見える。

仏陀は当時の出家者の厳格さを排して、屋根のある建物の中で起居するように
なり、綺麗な衣を身にまとい、食事の接待を受けるようになった。従来の出家
者の常識であった厳格な戒律などに執着するな、こだわるな、とらわれてはな
らないと主張した。

仏陀のこのような革新的で実用的、現実的な思想が当時台頭してきた新しい都
市国家の裕福な商工業階級の人達に絶大な支持を受けて仏教教団が大きくなっ
ていったと考えられる。

ジャイナ教と仏教はシュラマナ系の父母を同じくする兄弟宗教である。基本的
な哲学もほとんど同じと言ってよい。一つだけ違うところがあるとすれば永遠
で不変で無限で偏在で純粋なる魂を認めるか認めないかである。仏教は現実主
義、実用主義だから、非物質的なものは認めていない。仏教の世界観は基本的
に物質世界のみのことである。物質世界では変化しないものは無いのだから非
物質であると定義されている魂は無いことになる。

ジャイナ教やヴェーダンタ哲学では非物質なものの特徴として、始まりもなけ
れば終わりもない。永遠に存在し不変である。何時でも何処にでもあって偏在
している。無限であって時間と空間に制約されない。時空を超えていて次元も
超えている。そして穢れなき純粋なものであると定義している。それが真我、
魂であるとしている。

仏陀が沙羅双樹のもとで涅槃に入られるとき、弟子たちは「仏陀入滅の後、私
たちはどのようにしたら良いのでしょうかと」と質問した。仏陀は答えて曰く
「これからは法灯明、自灯明あるいは法帰依、自帰依でいきなさい。」と最後
の教えを残された。「私は充分お前たちに教えてきた、もう教えることは何も
ない、私の教え【真実】を頼りに、他に頼ることなく自分で道を歩んでいきな
さい。」と言った。仏陀の法とは縁起の法のことである。つまり、「因果律の
教えが真実なのだから、そのことを生活の全ての羅針盤にして、全て自己責任
で生きていきなさい。」と教えたのである。それが仏教の核心的教えだと私は
考えている。自分が神であり、全ての人が神である要素を持っている。仏陀は
自己の内側に神聖をみて自業自得、全責任を自分に見なさいと教えているので
ある。

仏教のカルマ論(因果律の教え)とジャイナ教のカルマ論、ヴェーダンタ哲学
のカルマ論はそれぞれ少し違うところがあるけれど、要約すれば、ーーー【こ
の世の中に偶然は無く、原因と結果の法則に従って必然的に起こっている。
そして、今自分が存在していることの全て、受け取っていることの全ては過去
の自分が為した行為の結果によるものだ。だから自業自得であり全責任が自分
にあるのだ。】ーーーとの基本哲学は同じものである。

ヴェーダンタ哲学は創造神としての神を認めていた。マハヴィーラの時代の
ジャイナ教、初期仏教では創造神というものはなく宇宙はカルマによって始め
もない始めから、終わりのない終わりまでただ変化が継続しているのだと説い
ていた。BC2世紀の後半ごろ仏教がヒンドゥー教の影響を受けて大乗仏教が起
こった。同じころ、ジャイナ教でもジナ像が作られ神様の概念のようなものが
登場した。救い、救われといった他力救済の概念が起こったのである。

およそ2000年以上に亘って、仏教もジャイナ教もヒンドゥー教も互いに影
響しながらその教義を発展させていった。原点に帰っていろいろ考えないと、
宗教とは何か、なぜ瞑想が必要かなどのことは良く理解できないのである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/11月第74号からの転載です)

コラム:アカルマへの道・モークシャとサンミャク・ダルシャン 2017年3月20日(月) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演

今日はカルマから自由になる話をしたいと思います。ジャイナ教哲学では人間
にとって最高の理想状態になることをモークシャと言います。私たちはモーク
シャになることを目指すべきであり、そして、モークシャになる努力をすべき
です。モークシャになることはマハーヴィーラだけでなく偉大な教祖の示す道
でもあります。モークシャになることは印度哲学の最高の目標であり、仏教も
ジャイナ教もヴェーダンタも同じです。それら、どの哲学も人間にとって最高の
理想状態をモークシャといいます。モークシャになるには語るだけではだめで、
モークシャになるための訓練、修行を始めなければなりません。我々一人ひとり
がモークシャになることを最終目的とすべきです。

モークシャになるには3つの道があります。ずっと昔の古代の聖者の中には4
つの道を歩いた人もいます。しかし、一般的には3つの道を歩くことで実現され
ます。モークシャを目指すなら、それに値する人にならなければなりません。
解脱(モークシャ)するには、解脱するための資格が必要です。それには、まず
真実・本当のことと、嘘・間違いを見分けることが出来る力が必要です。

1.正見―正しいものの見方が必要です。偏見や妄想でないものの見方が必要で
す。知識によってものを見るのではなく、言葉を変えるなら開けた目で全てを
観ることです。

2.正しい知識―正しく観て 、正しく受け取ること(正知)です。

3.正しい行動―正しく学び、正しい訓練、修行をする必要があります。

正しく見、正しく知り、正しく行動するとはどういうことかというと:

正しく見るとは真実を信じられるということです。正しく見るとは物事を妄想を
抱かないで見ることをいいます。この世の中を正しく観るとはそういうことで、
この世の中を正しく観、そして我々自身を正しく観れば、我々は世の中を知るこ
とができるし、全てのことを理解できます。そして、私たちは世の中を理解し、
私たち自身を理解して、そのつながりを理解しようと努力することができます。
そこには迷いや妄想は生じて来ません。誤解も生まれて来ません。それをサンミ
ャク・ダルシャン(正しく観る)といいます。正しく観るとは真実を信じられる
ということです。

「サンミャク(Samyak)」 とは、正しいこと、真実、迷いがない悟りの状態
を表す言葉です。

「ダルシャン(Darshan)」とは、観ること、運命という意味もあります。

サンミャク・ダルシャンとは揺るぎもない、迷いもない状態のことで、正しい
見方、正しい生き方、正しい哲学のことをいいます。サンミャク・ダルシャン
は本当のことと、嘘のことを見分ける見方(知力)のことです。

何が正しくて何が正しくないかを見分けられるから、そこから全てが始まります。
まず、正しいものの見方は、本当の意味での明確な人間の目的を示してくれます。
そして、それは世界中の人間に共通していることです。それこそが人類が体験すべ
きことで、その方向が自分の修行、訓練の方向で、力を得る方向です。

世の中にはいろいろな悲惨なことや悪いことがありますが、その根底にあるもの
は何が正しくて何が間違っているかが解からないところにあります。もしサンミャ
ク・ダルシャンが自分の中に整ったと思ったら、次の6つのことについて自分自身
に問いかけてみてください。

1.魂は有る。

2.魂は永遠。魂は死なない。輪廻転生する。
魂は永遠でないという考え方や魂はないという考え方もあるが魂は永遠と信じ
られないと自分を律することが出来ないし、好き勝手に生きても構わないとい
う生き方になります。

3.魂はカルマに従っていて、カルマに拘束されています。

4.魂は為したことを受け取ります。
私たちは原因と結果の法則の中に生きています。何を考え、何を為したかで結
果が起ります。今このようにある自分は、全て自分自身に責任があります。善
因善果、悪因悪果。

5.魂はモークシャ(解脱)になれます。

6.モークシャの道を歩きたいと思っているか。
我々は全てのカルマを打ち砕き、解消してモークシャになることが出来ます。
それがモークシャへの道です。

以上6つのことを理解していれば正しいものの見方が出来ていると言えます。モー
クシャに至るには基本としてサンミャク・ダルシャン、正しいものの見方を持って
いることが必須で、6つのことを理解し信じていればその人をサンミャク・ダルシ
ャーニといいます。サンミャク・ダルシャーニとなることがモークシャに至る基本
で、建物でいえば基礎にあたります。

次にモークシャに至るには正しいマスター(導師)、正しいグル(教師)、正しい
宗教が必要です。

正しい指導者と真実の宗教によって我々は真のサンミャク・ダルシャーニになれま
す。

では正しいマスター、正しいグルとはどのような人でしょうか?

本当の智慧を授けてくれるマスターは完全に無執着です。好き嫌いが全然ない。
人間だけでなく、全ての生き物に対しても好き嫌いが全然ありません。全てを
平等に無差別に見ることが出来る人です。マスターは本当の智慧を授けてくれる
人ですが、グルはそれを人々に教えてくれる人です。

正しいグルとはどのような人でしょうか?

本当のグルは無所有を実践している人で、結婚していないし、お金を触りません。
貯金通帳も持っていないし、土地も家屋も財産もありません。自分のものを何も
持っていない人です。世俗生活から完全に離れた出家です。そのようなマスターや
グルを見つけることは大変難しいことであるがとても大切なことです。日本にい
なければ地球は狭いので旅をしてグルを探すのも善いでしょう。ジャイナ教では
出家と在家の支え合いシステムが出来ています。日本でもそのようなシステムを
作ることは可能でしょう。

間違ったマスターやグルを選んでしまったらどうなるでしょう。正しくないグル
についてしまうと人生を無駄にしてしまいます。そしてモークシャに至る正し
い道を歩くことが出来ません。だから、本当のマスターやグルを見つけるのに
注意深く慎重でなければなりません。

正しい宗教とは完全なる非暴力を実践するものです。どんなものにも生き物たち
にも暴力を加えないものです。
我々は生きていくために食、衣、住、仕事(活動するところ)の4つはどうしても
必要ですが、その必要なものに対してアヒンサー(非暴力)、サイグルタ(忍耐)、サンヤム(節度、制限、慎み深さ)が必要だと思います。それが正しい宗教の基本です。

正しいマスター、正しいグル、正しい宗教をもつことが本当の意味でのサンミャク・ダルシャーニであり、モークシャへの道の基本になります。修行しても努力してもサンミャク・ダルシャーニになっていなければ、得るものは少ないと思います。

サンミャク・ダルシャーニになると、恐れ、怒り、執着、混乱から離れられます。
多くの善くない習慣から離れられます。鬱や自殺から離れられます。サンミャク・
ダルシャーニになることで、多くの病気から私たちは守られます。

サンミャク・ダルシャーニになると、それがその人の行動に現れてきます。

1.シャムが出来るようになります。
シャムとはネガティブな気持ちをちゃんとコントロールできることをいいます。なので、ネガティブな感情はほとんど起こって来ません。

2.悟り(モークシャ)に対する強いあこがれを持っています。

3.全ての執着から離れることが出来ていて、完全なる無執着が実行できます。

4.慈悲の心が絶えることがありません。慈悲の心は全てのものに対してであり、
その心が自然に備わっています。

5.真実、真理を信じています。

だから、サンミャク・ダルシャーニは困難、否定的なこともポジティブに肯定的
に解決できます。どのような苦しい状態の時も気持ちは沈まないし、その困難を
突き抜けていくことが出来ます。本当の意味で真実を追求していけば薬物中毒
にはまるようなこともありません。サンミャク・ダルシャーニにならないとアカル
マになることはできません。

カルマから解放されることの障害になること、つまりサンミャク・ダルシャニー
の障害物は何でしょうか。

1.疑い
精神的なものに対して疑い深い人。人間の頭は常に疑いを作り出してい
ます。

2.間違ったことを期待してしまうこと
他力本願、資格がないのに救いを求めてしまうことです。

3.自分の修行に対する結果に疑いを持ってしまうこと。例えば、この方法でモークシャに至ることができるかと疑ってしまうことです。

4.人々に間違ったことを教えてしまうこと。

5.間違った信念を持ってしまうこと。

これらのことがモークシャへの道の障害となるのです。

<著:坂本知忠>
(協会メールマガジン2017/10月第74号からの転載です)

2019年2月スタート!プレクシャ・メディテーション 指導士養成講座 Lv.1

プレクシャ・メディテーションの指導者養成講座Lv.1の2019年春の日程が決定しましたので、ご案内いたします。

全13回(単発受講可) 木曜日19:00~20:30

第1回 2月14日
講義:瞑想とは何か どのように行うか
実習:カーヨウッサグ

第2回 2月21日
講義:カーヨウッサグの理論
実習:カーヨウッサグ

第3回 2月28日
講義:アンタール・ヤートラの理論
実習:アンタール・ヤートラ

第4回 3月7日
講義:ジャイナ教瞑想と仏教瞑想の相違点と類似点
実習:アンタール・ヤートラ

第5回 3月14日
講義:シュヴァーサ・プレクシャの理論
実習:シュヴァーサ・プレクシャ

*3月21日祭日、3月28日、4月4日 講師、海外旅行のため休講

第6回 4月11日
講義:呼吸法とプラーナヤーマについて
実習:プラーナ・サンチャラニー・ムドラ

第7回 4月18日
講義:マントラを唱える意味
実習:スマブリッテイ・シュヴァーサ・プレクシャ

第8回 4月25日
講義;身体の宗教哲学的意味
実習:シャリーラ・プレクシャ

*5月2日はゴールデンウイークの休講

第9回 5月9日
講義:肉体、電磁気体、カルマ体、魂について
実習:シャリーラ・プレクシャ

第10回 5月16日
講義:8つの主要なケンドラについて
実習:ジョーテイ・ケンドラ・プレクシャ

第11回 5月23日
講義:4ステップ瞑想の組み合わせ時間配分について
実習:4ステップ瞑想

*5月30日  只見にて合宿のため休講

第12回 6月6日
特別瞑想 1.5時間連続瞑想(マントラメディテーションと4ステップ瞑想)

第13回 6月13日
特別瞑想  内容未定

受講料:2000円/回

場所:池袋駅西口・平舎Hiraya
(住所:豊島区西池袋5-12-3)

問い合わせ先:坂本知忠
TEL:090-8844-4009
E-mail:japan@preksha.com

講師:坂本知忠

日本プレクシャ・ディヤーナ協会会長
福島県重文民家・叶津番所オーナー
プレクシャ・メディテーション研修のため
渡印12回
2015年プレクシャ・アウオード受賞

著書:
「ジャイナ教の瞑想法」
「勝利者の瞑想法」
「坐禅の源流印度へ」他

コラム:2017年3月19日(日) 東京・沖ヨガスタジオ サマニー・サンマッテイ・プラギャ師講演「ジャイナ教のカルマ論と輪廻転生」

ジャイナ教のカルマ論はヴェーダーンタ哲学や仏教とは少し違っている。ジャ
イナ教でカルマのことを考える理論では5つの事柄を中心に考えている。その
5つのこととは:

1.魂
2.カルマ的な要素
3.バイブレーション
4.物質的カルマの解放
5.魂が純粋になった状態

カルマの理解の基本は魂(輪廻の主体となる魂つまりジーバ)について知るこ
とが大切である。魂が無ければカルマは無い。宗教によっては魂はないと考え
る宗教もある。ある宗教哲学では宇宙の5大要素が集まった時、魂が出来て、
肉体が死ぬと5大要素はバラバラになって魂は消滅すると説くものもある。
ジャイナ教の魂はそのように消滅する物ではなく、永遠のものである。永遠
なる魂がベースになってそこにカルマが付いたときジーバと呼ばれる。宗教
によっては魂は無いという考え方がある。仏陀は魂を語らず説明しなかった。
ジャイナ教では魂は説明できるという立場をとっている。魂とカルマが結び
ついたとき、その魂をジーバと呼ぶ。ジーバとは輪廻の中にある魂のことで
ある。

魂のことをアートマンともいう。魂(アートマン)は一つのことであるが、
二つの性質側面がある。それはドラビア・アートマンとパーヴァ・アート
マンである。
ドラビア・アートマンは基本的な魂のことで、まったく純粋な魂のことで
ある。
パーヴァ・アートマンはカルマ体によって影響を受けた魂をそのように呼ん
でいる。愛とか怒りとか感情や意識によって作り出された汚れのようなもの
が魂に付着している。魂の中にいろいろ感情的なものの凝りとか、活動した
ことの結果によるものとかが付着している、それらを含めてパーヴァ・アー
トマンと呼ぶ。
基本的な純粋な魂ドラビア・アートマンは永遠。輪廻の中にある汚れた魂パー
ヴァ・アートマンも永遠なものである。パーヴァ・アートマンはそれぞれ違う
体に宿りながら輪廻の中を動いている。

カルマもアートマンと同じように二つに考えることができる。
ドラビア・カルマは宇宙全体に広がっていて、ずっと私たちの魂にくっつい
てくる素材のカルマである。宇宙のどこにでもある。ここにもある。あそこ
にもある。しかし我々には見ることは出来ない。意識的なものではなく、生
きているものではなく、物質のようなものだが我々には見ることができない、
宇宙全体に満ちている原材料のようなものである。ドラビア・カルマの中に
は色、匂い、味、触覚が含まれている。それは、肉体的なものに関係する。
本当のカルマとは言えないがカルマの素材になっている、生き物ではない
物質である。パーヴァ・カルマはカルマによって実った結果をいう。

(注:物質は魂に付着して、その下降性ゆえに魂を身体のうちに押しとどめ
、魂の本来の特徴である上昇性が発揮できないようにしている。
渡辺研二「ジャイナ教p171」)

アートマンにカルマが結びつくとバイブレーションが生ずる。私たち人間、
生き物はカルマとアートマンを持っているから、魂は四六時中いつも、寝
ている時もバイブレーションを起こしている。
バイブレーションが起こることで、色々なものを引き寄せている。しかし
通常意識ではこのバイブレーションは感じることはできない。魂にカルマ
が付くことで二つが一つになり波動が起こり、その波動によってさまざま
なものを引き付ける力が生まれる。波動によって宇宙に漂っている、充満
している小さな粒々、カルマのもととなるドラビア・カルマを引き付けて
いる。ちょうど、磁石が砂鉄を引き付けるように。魂はドラビア・カルマ
を全方向から、魂に一番近いところからより沢山、受け取っている。思考
だけでも宇宙からカルマを引き寄せている。肉体はスカスカである。その
スカスカの空間に物質を引き付けている。

なぜ、魂が縛られてしまっているのか。それは、カルマがあるから。では
カルマは何によって縛られてしまうのか。それは迷いによってである。
なぜカルマを引き寄せてしまうのか。マーハーヴィーラはゴータマに話
した。それには二つ理由があって、一つは無知と行為によっておこるのだ。
もう一つは執着と精神的な誤解、妄想、混乱によっておこると説いた。
また、プロマーダとカシャーイも身(行動)、口(言葉)、意(意識、
マインド)によってカルマを引き寄せている。引き寄せられたものがま
た、新しいカルマを引き寄せている。

1.プロマーダ (Pramaad)
惑わすもの(迷い、妄想、誘惑)。永遠なる喜びでなく、一時的な快楽を本当のものと思ってしまうこと。魂(スピリチュアル)なことでなく、肉体的な喜びの迷い。肉体は永遠でなく、魂は永遠。

2.カシャーイ(Kasaay)
もう一つの惑わすもの。4つの情欲のこと。
1、怒り・アンガー 2、慢心・エゴ
3、強欲、貪り・グリード 4、偽り、虚偽、騙す・デシード

カシャーイすなわち情欲がなくなれば、物質は付着する可能性が少なくなる。

カルマによって我々の行動は違ったものとなる。いろいろな人の違い、個性
別はカルマによって起こる。アートマン(魂)の性質は、生まれることも死
ぬこともないというもの。永遠の智慧と永遠の理解と永遠の至福が備わって
いる。魂は苦しみがない。魂は形がない。魂に高いとか低いとかはない。皆
同じである。
そして、魂の奥には永遠の力が備わっている。その力は私たちの魂が持って
いる自然のものである。もとからあるものである。しかし、我々はそれをな
かなか信じられないし、感じることは出来ない。なぜなら、我々の知識は極
めて限られたものであるからだ。例えれば、それは大海の中の一滴の水でし
かない。我々は極めて少ない知識しか持っていない。
それぞれの知識は又、違っている。知識を沢山持っている人もいれば、持っ
ていない人もいる。知識の理解度も人それぞれ違う。ある人はすぐ理解でき
るし、ある人はなかなか理解できない。我々の苦しみも違う。沢山苦しむ人
もいる。そうでない人もいる。我々の呼吸もみな違う。社会的に高い地位に
ある人も、低い地位にある人もいる。我々は生まれたり死んだりする肉体を
持っているので限られた時間しか持っていない。魂は永遠なのに、なぜ私た
ちはこんなに限られた生き方をしているのか?この違いはどこに原因がある
のか? それがカルマというもので、カルマがそれを生じさせている。

ジャイナ教の8カルマ
1.ギャーナ・ヴァラニーヤ・カルマ
知識障害や知識の容量に関係している。魂の持つ知の能力、理解力を覆い隠してしまう。

2.ダルシャナ・ヴァラニーヤ・カルマ
信仰障害。魂に備わる見(信仰)の能力を覆い隠してしまう。

3.ヴェーダニーヤ・カルマ
感受の障害。

4.モーハニーヤ・カルマ
迷妄によって執着心を生じさせる。信仰と行為を惑わすカルマ。

以上4つのカルマは善くないカルマで、善くない結果を生じさせる。

以下の4つのカルマは善いことをすれば善くなり、悪いことをすれば悪くな
る。

5.アーユシュ・カルマ
寿命に関係している。

6.ナーマ・カルマ
身体上の相違をもたらすカルマ。男女に生まれる違い。健康に恵まれる恵まれない。肉体的な不調和、美醜。尊敬される、されない。

7.ゴートラ・カルマ

社会的なステータスに関係している。生まれる家柄の上下貴賤を決定する。

8.アンターラヤ・カルマ
内部障害に関係している。目的に到達できることの困難度に関係している。ある人は目標達成が簡単であるが、ある人にとっては大変困難である。

我々は悪いカルマに気づき、カルマに縛られないようにしなければならない。
ジャイナ教では苦行者は苦行の実修によってカルマが結果を作る前に原因を
除去できるとしている。

カルマ体にカルマ(物質)が結びつくとカシャーイ(4つの情欲)が生まれ
る。そのカシャーイがもとになってアドバシャーイ(感情)的動きを作って
いる。

魂はバイブレーション波動のようなものを起こしている。周波数が高い極め
て微細なものである。カルマ体からアドバシャーイまではとても微細なもの
である。バイブレーションはレーシャの領域に来ると、色がつけられている
わけではないが、我々が色として知覚できるレヴェル(段階)となる。ここ
からは色が力になっていく、色の力が我々に影響する。肉体的にホルモンが
出る。ホルモンが脳の機能に影響し科学物質が生成される。頭に浮かんだこ
とで行動する。そのプロセスが逆に内側に影響する。魂から外へのプロセス
と逆の外から魂へのプロセスがある。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/9月第72号からの転載です)

コラム:火とは何か

火とは何かについてアヌプレクシャした。火について考察するとき私の脳裏に
まっさきに思い浮かぶのは焚火である。今の若い世代や私の孫たちは焚火の経
験が少ないか全くないといってよい。また、どのように薪を燃やすのか、その
技術を知らない。私は若いころ、北関東から東北北部の白神山地まで未知なる
渓谷を求めて沢登りに熱中した時期がある。道のない山を渓谷伝いに登るとき、
渓畔での野宿の友は焚火であった。山での焚火は調理のための燃料であり、体
を温めるための暖房であったが、それ以上に心の安心や暗闇を照らし、友との
語らいを引きだしてくれる媒体であった。薪を刈るための山道具として私は秋
田県角館の喜一鍛冶に特別注文の鉈を作らせたほど、渓流歩きと焚火の達人に
なった。

南アルプス北部の白岩岳に8月に登った時のこと、滝もない登りやすい門口沢
を登り予定より早く白岩岳に登頂し、前小屋沢に下った。登行記録のなかった
前小屋沢は、登りの時の門口沢とは全く違って険しい谷だった。下山途中で不
運にも雨になった。我々3人は誰も雨を予期していなかったので雨具を持って
いなかった。雨に打たれて全身びしょ濡れになった。雨に打たれているので下
山を急いだが夕暮れ時、どうにもならない大きく高い滝に遭遇した。無理して
滝を下降して滑落したら命にかかわる。3人で協議して滝の落ち口の安全な場
所でビバーグすることにした。我々は日帰りでベースキャンプまで降りてくる
予定だったので食料も持参していなかった。ひもじく、寒さに震えながらの長
い一夜を過ごした。遭難一歩手前の夏の夜が明けた。幸い雨が止み流木を集め
て焚火を盛大に起こし、濡れた衣服を乾かした。雨具や食料は持っていなかっ
たが、マッチと鉈だけはサブザックに入れていた。地図を焚きつけにして、火
を起こした。この時の焚火のありがたかったこと、一生の思い出である。

火を扱えるようになって人類はほんとうの意味で人類になれたのではないかと
私は思う。火は暗闇を照らす明かりであり、食物を食べやすくする煮炊きの燃
料であり、寒さから暖をとったり、獣から身を守るありがたいものとなった。
ホモサピエンスの登場以前、今から40~50万年以前、原人の時代から人類
はすでに日常的に焚火としての火を使っていた。

火を巧みに扱えるようになって初めて人類は文明を持つ余裕ができたと言える。
石炭や石油などの化石燃料が広く使われるようになる以前、人類史の長い間、
人間が火を作るための燃料は主に薪と炭であった。火は調理、照明、暖房、合
図として使われてきた。焚火で調理する方法として土器や金属器がなかったと
きには調理する物を串にさす、木の葉に包む、焼石を使う方法がとられた。火
を使うことが出来るようになって、食べることが困難だった豆や穀物、芋など
多くのものが食用可能となり農業が起こる礎となった。火を通すことで肉に付
着している寄生虫や病原菌を熱消毒できる利便性も得られた。

さらに火を扱うことに上達して土器が焼けるようになり、陶器や磁気まで焼け
るようになった。火が使えることで銅と錫を混ぜて青銅器をつくれるようにも
なった。文明とは火を上手に扱える技術のことだといえる。照明器具として菜
種油や魚油を燃やす行燈やランプが作り出され、化石燃料を安価に大量に扱え
るようになって、蒸気機関から自動車、航空機まで作れるようになった。さら
に現代ではエネルギー源として原子力や燃料電池、風力発電や太陽光まで火の
カテゴリーとして扱えるようになり、文明は加速度的に進歩発展している。

火という言葉の定義づけは、「熱と光を出す現象のこと」といえる。科学的に
は、「物質の燃焼に伴って発生する現象のこと」である。燃焼とは物質の急激
な酸化である。火が燃えるとき熱や光とともに様々な化学物質が生成される。
炎は煙が熱と光を持った状態になった気体の示す一形態である。それを科学的
にいうと、気体がイオン化してプラズマを生じている状態という。

火は大地の重力や引力、大気の対流や、湿度などとも関係している。ろうそく
の炎は炎心と内炎と外炎によって構成されている。最も明るいのは内炎である。
内炎では炭素(すす)が多く含まれていて不完全燃焼を起こしている。最も熱
いのは外炎で酸素と最も多く接している。ろうそくの炎の先端では1000℃
になっている。地球では火は地球独特の火の燃え方をしている。他の惑星では
火は違った燃え方をするだろう。宇宙船内部など無重力状態では対流が起きな
いので炎は球形になってしまうという。そして、完全燃焼するために青くなる
らしい。丸く燃える炎はゆっくり動かさないと消えてしまうらしい、丸く燃え
る炎の周りに発生した二酸化炭素が炎を包み込み酸素を遮断してしまうからで
ある。

火が燃え続けるには適正な温度と燃料と酸素の継続的な供給が必要となる。火
を消すにはその条件を奪えばよい。調理には炎が小さくて長くゆっくり燃える
小さな火が都合よい。燃えても炎が小さい炭はその点で使いやすく、灰をかけ
るなどの方法で燃料を長持ちさせることもできる。

火は人間に多大な恩恵を与えてくれる半面、時には大きな災いをもたらす。不
注意から家屋が火災で焼け、時には燃え広がって大火となり多くの家屋を焼き
尽くす。第二次世界大戦時、日本の主だった都会はB29による焼夷弾攻撃をう
け焼け野原となった。広島や長崎に落とされた原爆も人為的な火の大災害であ
る。火は善悪の両面がある。優しさと恐ろしさの両面を備えている不動明王の
ようだ。不動明王は体から火炎を放射した御姿をしている。それは究極的な火
の神像である。私の家の床の間には代々、慈覚大師が版木を彫って制作された
下総御瀧山の不動明王像の掛け軸が掛けられている。光背の炎は人間の血液で
彩色したものである。私はずっとこの掛け軸を見て育った。今でも毎日それを
見ている。

火は熱であり、光であり、エネルギーである。その根源、生まれたところは宇
宙の誕生とおなじ所である。今から138億年前、空間もなく、光も電波も物
質もなく、時間もない、点もないところにビックバンが起こった。天文学用語
でいう特異点から急激な膨張する動きを伴って宇宙は生まれた。なぜ急激な膨
張、天文学用語のインフレーションが起こったか?それは宇宙全体が急に加熱
された結果、急激に膨張が起こったのである。その熱は真の真空から現在の真
空に相転移することで想像を絶する高温が発生した。それが宇宙の誕生ビック
バンである。全ての元素やエネルギーや物質や星々や生物や火や水や風や地球
や我々一人ひとりの出発点がその特異点、ビックバンにある。

光も熱も火も、地球も大地も樹木も我々自身も、宇宙空間の膨張と共に時間が
始まり、時間の経過で継続する変化が起こり、その変化の中で最初の相転移の
熱が形を変えて今、このように違った形で違った場所に存在しているのである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/4月第70号からの転載です)

コラム:自分が自分の主人公になる

全ての人間が望んでいることは幸福になることである。幸福とは何だろうか?

幸福とは無限の愛に満たされることである。沢山の人を愛し、沢山の人から愛
されることである。そして、全てのものと一体になり、宇宙と合一することで
あると言える。幸福とはまた、自由自在を獲得することであり、全知全能を得
ることだと言える。自由自在で全知全能、そして無限の愛に満たされた状態に、
肉体をもって生きながら達成した聖者をジャイナ教ではアラハンという。アラ
ハンになることが我々人間に生まれた目的・目標なので、アラハンというマン
トラを唱えるのである。アラハンとは人間としての最高の状態であり、それを
達成した聖者は死んだ後、魂だけになってモークシャの世界に入り、二度と生
き物に生まれることはない。

モークシャの世界に入り輪廻の環から外れた純粋なる魂をシッダという。アラ
ハンのマントラを繰り返して唱えていくと、言葉の意味とかくありたいとの意
識が結び付いて潜在意識化する。潜在意識化した願いや思いはある種の周波数
をその人の周囲に放射するように働き始める。するとその周波数に応じて宇宙
空間にある目に見えない、音に聞こえないレベルのエネルギーが引き寄せられ
て、目に見えるものが形づくられ現れてくるのである。

私たちの潜在意識と強い思いは常に結果を出そうと周囲に周波数を出し続けて
いる。問題はどのような周波数を自分が放出しているかである。周波数に呼応
して条件が整えば、善いことも悪いことも、どんなことでも結果として起こり
うる。人間が自由に生きようとして自由に生きられない、誰かにコントロール
されているかのように感じるのは、潜在意識の働きを知らないからである。私
たちの背後で私たちを操っているものは偶然なる運命でもなければ、気まぐれ
な神の仕業でもない。私たちを操っているものはカルマと呼ばれる潜在意識で
ある。これをコントロールしない限り、自分で自分の医者になることもできな
ければ、自分が自分の主人公になることもできない。

ヨガの修行と訓練と方法は自己をいかにコントロールするかである。瞑想法が
ヨガに含まれているのはカルマのコントロールが最も大事だからである。

私たちの潜在意識下には善いものと悪いものを結果として引起こす、原因とし
てのカルマがごちゃごちゃと蓄積されている。原因は条件・環境が整うと結果
として現れてくる。自己の人生に善いことも悪いことも起こってくるのは、善
い原因と悪い原因が潜在意識下にあるからである。悪いことが自分に起きたと
き、悪いことだけが起きたのではない。善いことも同時に起きたのである。善
悪一如。つまり、悪いことが起こったということは、過去の行為の原因として
の悪いカルマが消滅したのである。結果が起こった時、過去の悪い原因は消滅
した、つまり過去が善くなったのである。原因が起こって消滅したので二度と
全く同様な結果は起こらない。同じように善いことが起こった時、善いことだ
けが起こったのではない、悪いことが同時に起こったのである。善いことが起
こったときは善い原因が消滅している。二度と全く同じ善いことはもう起こら
ない。貯金を使って減らしているようなものだ。幸せになりたかったら、未来
に貯金することである。今という一瞬に、悪いことを為さず善いことだけをす
る。いつもそのように意識し行動すれば、やがて悪い原因は出てい行って無く
なるか、変質するから潜在意識は善い原因だけになってしまう。善い原因だけ
になれば、善いことしか起こらなくなる。それが、最高の幸せと喜びの心の状
態、プラサード状態である。

善いこととは何か、それが般若心経などで言われている波羅蜜である。仏教で
は六波羅蜜という。波羅蜜とは本当の幸福に至る方法のことであり、六通りの
方法がある。どれか一つでも徹底して行えば、悟りにいたるという方法である。
私は六通り全部することが、自分が自分の主人公になる道だと思っている。六
波羅蜜とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若(智慧)の六種をいう。布施
波羅蜜とは他に親切にすることである。自分が持っていて他が持っていないも
の(体力、能力、知識技、技術、お金)を他に分かち与えることである。あら
ゆる社会奉仕救済行は布施である。持戒とは言行一致で行動し約束は必ず守る
ことである。忍辱とは忍耐のことで怒りの心を堪え忍ぶことである。精進とは
努力することそして努力を継続することである。一枚一枚日々の紙の積み重ね
が年月を重ねると分厚い積層になるように努力することといえる。禅定は瞑想
することを意味するのでなく、反省を意味する。後悔や悩みは感情であって反
省ではない。反省は原因と結果を分析することである。般若波羅蜜は優れた人
格を形成しようと努めることである。それには、因縁果の法則を知り、正しく
行動することである。また、今現在に最善を尽くすことでもある。般若の意味
は智慧ということであり、正しい生き方をするということでもある。

私たちの人生はカルマの鎖に縛られている。完全なる自由・モークシャへの道
のりは果てしなく長い。モークシャに入ることが難しくとも、私たちは幸福に
なることはできる。自分のカルマに気づき、カルマをコントロールすることが
その第一歩である。ジャイナ教も仏教も同じ教えであり『諸悪莫作、諸善奉行』
という。全ての悪いことを為さず、善いことだけをするということだ。それが
カルマを無くす道であり、心と魂を清らかにする方法であり、自分が自分の主
人公になる方法である。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/2月第69号からの転載です)

ご案内「インドツアー報告会&忘年会」

皆さま

今年も早いもので、師走も目の前に迫ってまいりました。

プレクシャ・インドツアーは大変充実した旅だったようです。

今年最後の西池袋のプレクシャクラスでは、坂本先生の瞑想クラス、合宿、インドツアーでご縁のあった方々と合同で忘年会をおこないます。

瞑想クラスとインドツアー報告会&忘年会の2部制とし、いつもより早めに瞑想クラスを行いますが、報告会と忘年会だけのご参加もOKですので、お時間にご都合のつくほうをお選びください。

なお、2部の会場はそのまま瞑想会場のHiraya・平舎で行います。

日程:12月20日(木)

時間:
18:00~19:00 瞑想 特別講座 参加費1000円
19:00~21:00 インドツアー報告会&忘年会

(インド・ベジお弁当 1000円~1500円程度、飲み物は各自持ち寄りでご持参ください。ソフトドリンクorアルコールなんでもOK)

1年を振り返りつつ、インドツアーのお話を伺ったり、親交を深めましょう。

ご参加をご希望の方は、担当:伊東真知子(machiko@kej.biglobe.ne.j)へ12月15日(土)までにご連絡をください。

皆様のご参加をお待ちしております。

日本プレクシャ・ディヤーナ協会のHPをリニューアルしました!

日本プレクシャ・ディヤーナ協会のHPをリニューアルしました!

今後順次過去のブログを新HPへ移行してまいります。

過去のブログを閲覧されたい方はこちらよりご覧ください。

コラム:虫たちのこと

プレクシャ・メディテーションの終わりに、「自分の内側に真実を探しましょう。
そして全ての生きもの達と仲良くしましょう。」と毎回唱えている。全ての生き
ものには当然害虫も含まれる。果たして私は害虫と仲良く出来るのか考えてみた。

家内も子供たちもあまり虫が好きでない。嫌いなので見ることも触ることも嫌が
る。私の家族は、子供が好きなカブトムシやトンボもあまり好きではないらしい。
私は子供のころから虫に親しんでいるのでどんな虫でも特に嫌いではない。ヤン
マやカブトムシ、玉虫、カミキリムシ、トノサマバッタなどは子供のころ良く捕
まえて遊んだので好きな虫である。子供のころ稲田でイナゴの大群をみた思い出
がある。沢山捕まえたイナゴをどうしたか覚えていないが佃煮にして食べたのか
もしれない。

小学生のころ夏の終わりに、ある日突然、家の周りに無数の赤とんぼが飛び回っ
ていた。母親に針に糸を通してもらって虫網で捕まえた赤とんぼを針糸に刺して、
赤とんぼのレイを作ったことがある。なんて残酷なと今の若者は思うだろう。私
が子供だった頃はおもちゃがない時代だったから、遊びも自分で工夫しなければ
ならなかった、虫たちは良い遊び相手だったのである。虫にしてみれば人間の子
供は天敵だっただろう。

昆虫と虫は厳密には違う。昆虫の定義は動物界に属し節足動物門、昆虫網に分類
される。節足動物門とは外骨格、つまり鎧のような固い外皮でその中に筋肉が詰
まっているものをいう。エビやカニやダンゴ虫のようなものを思い浮かべればよ
い。それに対し、脊椎動物は部分部分の中心に骨が通っていて、その周りに筋肉
がついているので、体のつくりが全く違う。昆虫は大まかに頭部と胸部と腹部で
体が出来ている。頭部は食べ物をとるための機能が集まっている。そこには目(
複眼と単眼)があり、触覚があり、咀嚼のための口や吸引器が付いている。胸部
は三節になっていて、そこに1対ずつ計6本の脚がある。腹部は10節に分かれて
いて、消化器や生殖、産卵、排泄の機能が詰まっている。昆虫の胸部には2対の
翅があって99パーセントの昆虫は飛ぶことができる。飛べない昆虫は少数派であ
る。また、昆虫の80パーセント以上が変態する。変態とは幼虫から繭の時期を
経て全く異なる成虫となる。完全変態(卵・幼虫・繭・成虫)繭(蛹)にならず
に成虫になるものを不完全変態という。蝉やトンボ、カメムシなどは不完全変態
である。蜘蛛は脚が8本で頭部と胸部が一体化しているので昆虫ではない。ムカ
デは各節に1対ずつ数十の足があるので昆虫ではない。その他にダンゴ虫、ヤス
デ、ダニ、サソリが昆虫でない虫である。

私も昆虫に含まれない虫はあまり好きではない。昆虫も2、3匹と少なければ不
快ではないけど大群になるととても不快感が起こる。季節感がはっきりしていて、
自然環境が豊かな只見は当然昆虫が多い。只見で毎年、大量発生して暮らしに影
響を与えているものにメジロアブとカメムシがいる。カメムシは卵から幼虫にな
り蛹や繭にならずにそのまま成虫になる。カメムシは夏に成虫になり、秋の晴れ
た日に越冬のために大挙して人家に入ってくる。壁や網戸の隙間から侵入して、
さらに押入れの中、布団や毛布などの隙間に潜り込む。本を取り出そうとすると
本棚の奥に数十匹のカメムシが身を寄せ合って潜んでいることもある。そのまま
にしておいても害を及ぼすことはないのだけれど、触ると臭いので、許せなくて
つい外へ掃きだしてしまう。カメムシは10月中旬ごろ人家に入り、越冬して5月
の中旬温かく晴れた日に戸外に飛び出していく生態をもっている。体力を使い切
って越冬できなかったものはカラカラに乾燥してミイラになって、ちょっと触れ
るだけで粉々になる。カメムシは危険を感じるととても臭い体液を放出する。カ
メムシの体液がちょっとでもかかると食べ物はまずくなってとても食べられたも
のではない。メジロアブは8月の中旬に水のきれいな渓流に大量に出現して、人
間をこまらせる。里にも出てきて噛みつかれるととても痛い。昆虫にたいして完
全なる非暴力を実践するなら、やはり、人間生活に多大な影響を及ぼす昆虫の生
息域に居住しないことである。また、害虫被害で困る農業にも従事しないことが
良いこととなる。魂の輪廻転生を信じるジャイナ教徒は何が何でも絶対に非暴力
を貫くことを義務づけられている。非暴力は不合理でも絶対的なものであり妥協
は全く許されず完全に履行されなければならないのである。昆虫を殺すことなど
もってのほか、いじめることすらしない。鳥インフルエンザに罹った鳥を全て殺
処分することなどジャイナ教徒には考えられないことなのだ。

昆虫は子孫を残すことだけが生きる目的である。そのために生まれて死ぬ。人間
のように脳が発達していないので、考えることなく、刺激と反応系が直接つなが
って行動している。体が小さいので重力の影響が少ないから、ハエなど敏捷なも
のや蚤などは跳躍能力に優れている。昆虫は生きている機械と言ってもよい存在
に思える。これから人間はさまざまな用途で昆虫型ロボットを作るに違いない。

カメムシを愛することが出来るようにと、いろいろ観察しているうちに、ふとあ
ることに気づいた。カメムシを上からよく見ると6角形の形に見える。そして昆
虫の脚が6脚だということが、バクテリア・ファージと呼ばれる細菌ウイルスの
姿に共通性があるのではないかと思った。

ウイルスは鉱物特有の結晶の側面があり、細胞がないので生物とはいいがたいが、
自己増殖するので一応生物としてみなされている。ウイルスの一種、バクテリア・
ファージは細菌に感染し菌体を溶かして増殖する。バクテリア・ファージは機械
的な6角形構造をしていて6脚の足がある。カメムシに良く似ている。カメムシ
は植物の栄養素をストローのような口で吸引しているが、バクテリア・ファージ
は脚のような尾部からRNAを細胞に注入する。侵入したRNA(リボ核酸)は細胞
内で自分のコピーをどんどん作り出す。作り出されたウイルスの構造物は外に飛
び出し、また別の細胞に侵入する。細菌ウイルスの6角形構造物は昆虫の外骨格
に極めて構造が似ているようにおもう。

ウイルスも昆虫も生きる目的は自分の遺伝子を存続させることだけである。ホモ
サピエンス・人類の歴史は16万年前からであるといわれる。人類は地上に?栄
し大都会を築き、今では地球は人類の惑星といった位置を占めているけれど、
地球が人類の惑星となったのはたかだか近、数百年に過ぎない。昆虫の出現は
4億年以上前のことである。植物が地上に進出した初期段階で昆虫が登場した
のだと思う。その時、宇宙空間から生命と鉱物の中間であるウイルスが胞子の
ように地上に降り注ぎ昆虫誕生に影響を及ぼしたのではないかと私は考えてい
る。鳥や翼竜よりもずっと以前、昆虫が地上の生き物として最初に空を飛行し
たのである。その飛行能力によって、広く生育域を拡大し、環境に適応して生
き残るために様々に工夫、進化した結果、今では1000万種以上に分化して
いる。たった一つの種である人類が滅亡しても地球はさまざまな昆虫の惑星で
あり続けるだろう。

日本のカメムシだけで55科に分類され1000種以上に上る。我々の遺伝子
をさかのぼれば昆虫からさらに先まで、魂の輪廻転生を遡れば昆虫として過ご
した時もあったのかもしれない。昆虫の生態を観察すれば、昆虫もかくありた
いと意志をもって生きていることは間違いない。カメムシの身になっていろい
ろ考えれば、仲間のような親しい感情が起こってくるのである。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2017/1月第68号からの転載です)

コラム:皮膚と触覚と意識について

人間は他から侵害されたくない境界を持っている。集団としての国は国境を設け、

小集団では砦や城に堀をめぐらし、町村境を設けて自らの権益を守ってきた。家
族として家を構え塀や外壁で外と内を区別している。生物の個体である自己と世
界の境界は樹皮や皮膚である。皮膚の内側が自己で外側が他物すなわち世界であ
る。人間は触覚、味覚、視覚、聴覚、嗅覚の五感によって外側の世界を探ってい
る。味覚、視覚、聴覚、嗅覚は特別につくられた特殊感覚器官と呼ぶべきもので、
舌、目、耳、鼻がその役割を担っている。触覚は皮膚表面だけでなく内臓諸器官
にもそのセンサー機能がある基本的な感覚神経である。舌、目、耳、鼻の感覚受
容器にも触覚が備わっていることに注目したい。

植物は舌、目、耳、鼻を持っていないが、触られたことがわかる触覚を持ってい
る。根や樹皮、葉に存在する特殊な感知器で光や温度、水の存在を感じることが
できる。植物は一感しか持っていないが、その一感が触覚であることは注目すべ
きところである。地球上に生息する全ての生き物(植物を含めて)には触覚が備
わっている。触覚が受け取っている感覚こそ自己が外界を知り、自己を守り、生
存し、子孫を残すための根源的な感覚なのだ。生まれて間もないころの人間の子
供を観察してみると、主に触覚で環境や世界を把握しようとしていることがわか
る。

人間でいえば、自己と世界の境界は皮膚である。皮膚の表面には外界(自己以外
のもの)を探るセンサー機能が備えられている。皮膚は触覚の感覚器の役割を担っ
ている。皮膚が感じることが出来る刺激は、触られている(触覚)、押される(
圧覚)、痛み(痛覚)、かゆみ(痒覚)、温かさ(温覚)、冷たさ(冷覚)の6
種の刺激である。それぞれを圧点、痛点、温点、冷点が対応している。皮膚表面
の触覚は重さ軽さ、温かさ冷たさ、固さ柔らかさ、ザラザラ・つるつるなどであ
り、これらの感覚は好き嫌いの感情を招来し、心に影響を与えている。例えば、
初対面の人を堅い椅子に座らせると相手は座らせた人を固い奴だとおもう。自動
車の販売デーラーは顧客を固い椅子に座らせると値引きされないで済む。

PRESSURE(圧)、TOUCH(触)、VIBRATION(振動)、TICKLE(くすぐったさ)な
どの感覚を生理学用語で機械的感覚という。機械的感覚の受容器は指先と口唇に
多数分布していて、上腕、大腿上部、背部には少ない。肌があう肌が合わないな
どというように、触覚は人間にとって究極のコミュニケーションの手段でもあり、
触ってみなければ解らないというように、美術品や骨董品など見た目の印象と実
際触れて感じたものでは違うことが多い。インターネットで画像だけ見て商品を
購入して失敗するのも実際手に取って触らなかったからだ。

人間の皮膚の総面積は約1.6平方メートルでおおよそ畳一畳分に相当する。皮膚の
表面には1平方センチメートルあたり触点が25個、痛点が100~200個、温点
が0~3個、冷点が6~23個分布している。全皮膚表面には200~300万の
痛点があり、侵略刺激を受けて反応する。皮膚や粘膜に分布する3万点の温点が温
度に反応している。触点や痛点などの下には各種の感覚受容器があって、それら
受容器はそれぞれ固有の刺激に反応するようになっている。受容器が受けた反応・
興奮は1次知覚神経によって伝達され脊髄を上行して視床で中継され頭頂葉の体性
感覚野に到達する。体性感覚野には体の各部についての情報を取り扱うもののほか
に触れる対象の特徴を取り出せるようなニューロンがある。それらは、硬いものに
触れたときのみ反応したり、ザラザラしたものに触れたときのみ反応するもの、角
のあるものに触れたときのみ反応するものがある。体性感覚野でこれらの情報が統
合されて能動的に獲得する感覚をもっている。

意識とは考えることであり感じることも含んでいる。心を意識と言い換えてもよ
い。知覚とは考えることではなく感じることである。感覚と知覚の違いは感覚が
観られる対象であり、知覚は観る主体者の意識的な心である。熱いものに触れた
とき皮膚の温度受容体が作動し、電気信号として神経を通じて脊髄に到達する。
その時パッと手を離す行為が脊髄反射として起こる。これが感覚である。このと
き脳によって知覚されたわけではない。知覚とは情報が大脳皮質の皮膚の感覚に
対応する場所にとどいて「熱いと」感じることをいう。知覚には脳による意識が
必要である。脳のない生物は植物であれ、ゾウリムシやクラゲ、ウニなどは感覚
機能は持っているが知覚機能をもっていない。熟睡しているときに、誰かに触ら
れても感覚機能は作動しているが知覚されているわけではない。知覚には脳によ
る意識の働きが必要である。睡眠は脳の働きの休眠状態なので、知覚することが
できなくなる。より良い瞑想は意識がはっきりしていなければならない。脳が感
じようとして鋭敏に働いていなければならない。

人間には特殊感覚器官である舌、目、耳、鼻の他に触覚として身体の内側と外側
からの刺激信号をとらえて、中枢神経系に伝える働きをもった受容器(感覚器)
が皮膚の表面だけでなく、身体の全ての組織に存在している。これらの感覚系を
生理学で体性・内臓感覚という。体性感覚は皮膚の表面で感じる感覚の他、皮下
の筋肉や腱、関節などの受容器が内部感覚(深部感覚)としても感じている。そ
れから胃、腸、肝臓、肺、心臓などの内臓は内臓感覚をもっている。

人間が生きているとは、「生体を成長させ維持し動かすために外部からエネルギ
ーを取り込み、呼吸が継続し血液が流れ、神経系を電磁気的な信号が途切れなく
伝わっていき、その流れによってさまざまな身体組織と臓器に感覚が起こってい
て、生起している感覚の粗雑なものから精妙なものまで、意識的なレヴェルから
無意識レヴェルまで」、中枢神経系がさまざまな身体感覚を感じとって、それに
対応して命を守るために、身体が健全に動くように、適切な指令を身体各部に発
信していることをいう。

粗雑な感覚から精妙な感覚まで、我々は瞬間瞬間に生起する全触覚情報の数千万
分の一しか知覚できていない。知覚できない情報は全て無意識情報になっている。
その無意識情報が潜在意識化して我々の思考や行動に莫大な影響を及ぼしている
のである。プレクシャ・メディテーションは知覚することが難しいレヴェルの精
妙な感覚を、訓練によって知覚できるようになることを目指している。その達成
によって我々は深いレヴェルの自己認識に到達する。

皮膚の表面は自己と世界の境界になっているので、自己防衛のための兵士がたく
さん存在する場所である。その兵士が触覚器である。皮膚はアンテナのようにセ
ンサーとして働き、とても鋭敏である。そのような鋭敏な皮膚表面に感じようと
する心を向けるとき、高い集中力によって見逃していた精妙な感覚を知覚するこ
とができる。最も高度なダラーナ(集中のテクニック)は身体内部の精妙な感覚
の知覚である。これをヴィパッサナーといい、プレクシャという。好き嫌い、良
い悪いの判断を手放してありのままに感じ観察することを意味する。

<著:坂本知忠>

(協会メールマガジン2016/12月第67号からの転載です)